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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その8 若松大橋→中ノ浦教会

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その8 若松大橋→中ノ浦教会

 

 

 

 

 

 

キリシタン洞窟―ハリノメンドの荒海から脱出した私たちは、若松港で下船し、待っていた貸し切りバスに乗り込みました。もちろん「巡礼ガイドM氏」も今日一日はいっしょです。

今日一日で8つの教会を巡ります。午前中に3つ、昼食ののち、5つです。ちなみに教会名を挙げてみます。中ノ浦教会→大曽教会→鯛の浦教会→(昼食)→頭ケ島天主堂→冷水教会→青砂ケ浦教会→江袋教会→仲知教会です。これらの教会は今もミサや祈祷会などが行われ、活動している教会です。このうち、頭(かしら)ケ島天主堂と青砂ケ浦教会は国の重要文化財に指定されています。

 

若松港を出発したバスは国道169号から「若松大橋」を渡ります。若松島と上五島の中通島とを結ぶ全長522メートルのライトグレーの橋です。開通は平成3年(1993年) 。この架橋により「離島の離島」という若松島の悪条件が改善されたそうです。周囲は西海国立公園に指定され、橋の両側にすばらしい眺望が広がります。それにしても長い間橋がなかったことで、人々は想像を超えた多くの不自由を強いられてきたのだと思いました。バスは

国道384号を北上して「中ノ浦教会」に向かいました。

 

中ノ浦教会は美しい白亜の木造教会です。大正14年に建てられ、静かな中の浦に面していて、潮が満ちているときは入江の水面に鏡のように教会と背後の山が映るそうで、「水鏡の教会」と呼ばれているそうです。私たちは目にすることはできませんでした。正面の屋根の上には赤い帽子をかぶせたような鐘塔がそびえていて、とても優雅な姿でした。聖堂内はどこの教会も影禁止ですから目に刻むだけですが、島のシンボル樹木である「椿」をモチーフした装飾がたくさん使われていて明るく優しい雰囲気を作っていました。しかし椿は花弁が5枚あるはずですが正確な4枚になっているので十字架を表しているのではないかともいわれるそうです。

 

この地区のしん信者たちは寛政年間に外海の黒崎から移住してきたキリシタンです。近くにある桐古里が伝道師ガスパル下村与作の出身地ということで、五島崩れ(キリシタン弾圧)では信者たちへの迫害がはげしい地区のひとつだったそうです。

 

この教会では島内の6つの教会が持ち回りで開催するクリスマスコンサートが行われます。その時は信者の方ばかりでなく一般の方々も参加され、時には数百名にもなるそうです。

 

朝8時に「えび屋」さんを出発して、まもなく10時です。わずか2時間しか経っていませんが旅の袋はすでに満杯。たくさん見聞したような心持です。ときどきパラパラと雨が降り出したと思うとすぐにやんでしまい、海岸特有の現象かしらと思いました。


旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その7 ハリノメンドについての一考

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その7

ハリノメンドについての一考

 

「キリシタン洞窟」ハリノメンドという珍しい言葉に引っかかっています。特に「ハリノメンド」です。この地にキリスト教を伝えた宣教師のお国の言葉か、あるいはラテン語かと思ったりしました。それが五島の方言で「針の穴」と分かった時、頭の中で動くものがありました。「メンド」とは「穴」という意味になります。「めど」が浮かびました。「めど」とは、≪めどがつく≫とか≪めどが立たない≫など、いまでも使われている言葉です。「めど」とは、めざすところ、めあて、大体の見当、目標の意だと辞書にあります。この時の「めど」は「目処、目途」と書きます。「穴」から来ていると思います。

 

ところで、母の故郷は千葉県の東端、犬吠埼の灯台で知られている近くの漁村です。そこに戦後疎開していたことがありますが、土地の人たちが「あな」を「めど」と呼んでいたのです。「メンド」とまでは言わないけれど「めど」記憶にあるのです。茨城県のことばにもあるそうです。

 

なぜこんなことを考えるのかと言えば、「五島」の言葉が、流れ流れて千葉や茨城に渡ったのだと思うからです。今だけでなく昔も人々は決して一つの地域にとどまり続けていたわけではないと思います。特に漁師たちは漁をしながら自由自在に海を渡ります。嵐に遭って見知らぬ国に漂着しそこに住みついた話などはよく聞くことです。母の里で、この地の人たちの祖先は和歌山から来たと聞いたことがあります。

 

話は飛びますが、今年の読書で大きな刺激を受けた『みんな彗星をみていた』の中に、作者の星野博美さんは、自分は東京人だけれど、祖父母は千葉の内房の人で、その人たちの祖先は和歌山だと、証例を挙げて書いています。千葉県には内房にも外房にも和歌山の人たちが入っているのです。その和歌山の人たちもたぶんどこからか移住してきたのでしょう。直接に五島の人たちでなくても、巡り巡って「メンド」という言葉もわたってきたのだと思います。壮大な海のロマンです。いや、そんな甘いものではなく、実際は命がけの出来事があったに違いありません。

 

そもそも五島の祖先は大陸から漂流した人々が住みついたとあります。人間同士のことです、瞬く間に言葉を交わし合い、暮らしに溶け込み、当然、結婚もあり、新しい子孫たちが増えていきます。それは、今も大昔も少しも変ってはいないのです。

 

話が大きく飛びますが、日本人は単一民族だなどどうして言えるでしょう。私たち一人ひとり、小さく言えば家族一族であっても、肌が白くて鼻の高い人、丸顔で浅黒く丸い鼻の人がいます。北方系かな、南方系かななどと考えることもあります。ふと、自分は何者ぞなどとも思います。世界は一つなのだ、人間は一体なのだと強く思います。

 

「ハリノメンド」が私を壮大な人間物語へと連れて行ってくれました。人間物語の上には「神様のストーリー」があることは言うまでもありません。

 

 

 


旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その6 キリシタン洞窟 ハリノメンドへ

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その6

キリシタン洞窟 ハリノメンドへ

 

 

 

 

 

 

 

 

昨夜の夕食はお魚づくめ、それも獲れたてのものばかりでした。なにしろえび屋さんは「神部港」という小さな漁港に面しているのです。港にはボートより少し大きめの漁船が停泊していました。朝食もお魚づくめ。しかしゆっくりいただいている暇もなく、外に飛び出しました。連泊なので大きな荷物は置いていけます。これはなにより感謝です。

 

この朝、最初にキリシタン洞窟へ行きます。海上タクシーで行くとかねてから聞いていましたが想像がつきませんでした。「洞窟」、「海上タクシー」とう聞きなれない言葉に好奇心とスリルを掻き立てられました。「洞窟は」海の中の離れ小島にあり、そこへ船で渡って見学することだとわかりました。宿のすぐ前の港にはすでに船が待っていました。20名全員が乗れるのですからちょっとした遊覧船です。船体は黄色、船の名前は「あやかぜ7」と言います。ドキドキ、わくわくしながら乗り込みました。

 

今日こそ「巡礼ガイド」氏がおられました。Mさんと言って、自己紹介によれば80歳、代々のキリスト者だそうです。この島で暮らしてきた方らしく、潮風や太陽のしみ込んだ健康そうな肌をしておられ、小柄ながら体力もおありのようでたくましさがにじみ出ていました。語り口調は歯切れよく明快でしたが、物静かですぐに親しみを感じました。

 

船は小さいせいかエンジンの音と振動は相当なものでした。海面との距離も近く、船体にぶつかる波しぶきが直接飛んでくるような気がしました。ところが、ところがです。Mさんが「南風が強くなると波が高くなり島に近づけないのです。どうやら今日はそのようです」と説明され、瞬く間に驚くような大波が立ってきました。

 

神部港のあたりと同じ海とは思えないような、別世界に来たような、大荒れの海です。だんだん激しさを増してきます。座席の背の手すりにしがみついて身を縮めました。Mさんは「今日は島に渡れないかもしれません」としっかり立ったまま言われます。船は今にも倒れんばかりです。「木の葉のように揺れる」どころではありません。波に叩き潰されそうです。ジェットコースターのようなアップダウンもあります。悲鳴、うめき声が出てきます。

 

船酔いするなと思いました。おなかに力を入れ、全身にも力を入れ、少しでも揺れの衝撃がを減らそうと努めました。Mさんは船頭さんを「島きっての名船長さん」だと太鼓判を押されました。おそらくこのあたりの様子は自分の家のように知り尽くしておられるのだろうと信頼感はありましたが、船体をひっくり返すような大波の攻撃にはなすすべもなくひたすら身をこわばらせて、主よ、主よとつぶやきながら歯を食いしばっているばかりでした。

 

洞窟が見えてきました。

 

 

 

「ハリノメンド」とは五島の方言で「針の穴」の意だそうです。遠くから見ると洞窟がまるで針の穴のように見えるためでしょう。実際、黒々とした岩肌の真ん中に穴が開いているのが見えました。「巡礼ガイド」M氏の説明によりますと、

 

明治元年、五島のキリシタン探索は、ますます厳しさを加え、 五島崩れ といわれる最後のキリシタン弾圧の嵐が吹き荒れました。この弾圧の嵐は、若松周辺でもそれぞれの集落で起きました。そのような中で里ノ浦地区のキリシタン達は迫害を避けてこの洞窟に隠れました。洞窟は奥行50m、高さ5m、幅5mT字型で、入り口はかなり広い海蝕台場の背後にある岸壁の裏側にあって、海岸からは見えないので、隠れ場には適していました。里ノ浦の山下与之助、山下久八、下本仙之助らは話し合って、当分の間の生活用具や物資を持ってひそかにこの洞窟に隠れました。しかし、ある朝、朝食を炊く煙を、沖を通る漁船に見つけられてしまいました。さっそく役人たちが乗り込んできて捕らえられ厳しい拷問にかけられました。この時以来キリシタンワンド(湾処)洞窟と呼ぶようなりました。昭和42年、苦しみに耐えて信仰を守り抜いてきた先人達をしのび、窟の入口に高さ4mの十字架と3.6mのキリスト像が建てられました。毎年11月には近くの土井ノ浦教会の信者100人ほどが集まって祈りを捧げています。

 

私たちは島には上陸こそできませんでしたが、船長さんは荒波の上に船が浮かぶように最高のテクニックを駆使してくださり、波の合間を縫って窓を開けてくださいました。私はよろよろと立ち上がってカメラを向けましたが、出来栄えがよくありませんでしたので、後日、Y姉から拝借し、使わせていただきました。

 

下船した時は命拾いしたような気がしました。みな一様に安堵の笑みを浮かべ、怖かったと口々に言い合い、少しも動じないMガイド氏と、何よりも船長さんに深々と頭を下げて感謝しました。ふと、ガリラヤ湖で突然の嵐に遭った弟子たちを思い出しました。彼らは慌てふためきおじ惑い、艫のほうで眠っていたイエス様に苦情を言ったのでした。体の方は多少胸がむかむかしましが次第に収まり事なきを得ました。しかし一日分のエネルギーをすっかり使い果たしたような消耗を感じました。

 

 


旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅その5 希望の聖母像と浜串教会、民宿えび屋へ

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その5

希望の聖母像と浜串教会、民宿えび屋へ

 

 

 

 

 

 

二つ目の教会、浜串教会に行く前に「希望の聖母像」を見に行きました。聞いていなかった場所ですが、教会が航海の安全と大漁を願って1954年に建立し1996年に建て替えたものだそうです。像は漁港の入口近く、五島灘に向かって突き出した岩場の先端に建っていました。像のそばに行くには岸壁を削って作られた曲がりくねった道を進むのです。道はところどころに波しぶきのためかぬかるんでおり、滑ったり転んだりしたら一大事ですので、おそるおそる一足一足慎重に歩きました。

 

辺りの岩場には波が轟音を立てて砕け散り、岩の裂け目めがけて生き物のように盛り上がって流れ込んでは引いていきます。柵にしがみつきながら見ていると吸い込まれそうで、ぞくぞくしました。聖母像にはライトはついていませんでしたが、船の上からは昼夜を分かたず見えて、漁師さんたちに大きな安心感を与えているのでしょう。プロテスタントの私たちにはこうした像には違和感があり手を合わせることはありませんが、心を鎮めながら、祈りの心で眺めてきました。

 

 

 

 

 

岩場の道を引き返してバス乗るとあっという間に浜串教会に着きました。おりしも祈祷会の最中だとのことでしたが、お許しを得て聖堂に入り、祈りの中に加えていただきました。迎えてくださった初老の女性が「今月はロザリオの祈りをしています」と教えてくださいました。ところで、「ロザリオの祈り」って、なんだろう。カトリックの集会についてはほとんど知識がありません。広々とした聖堂にはちらほらと信徒の方々が座っておられました。私たち20名も空いているベンチに座りました。前方で数名の子どもたちが大きな声で先導すると、会衆が祈りの言葉を唱えます。祈祷文の通りなでしょうか、しかし、聞き取れません。

 

しばらくすると日本語で祈っていることがわかり、じっと耳を澄ませました。聞き覚えのあることばに出会いました。主の祈りがあり、使徒信条があり、頌栄がありました。ところが、終わったかと思うとまた元に戻ります。それが延々と何回でも繰り返されるのです。いささか戸惑ってしまいました。時間がどんどん過ぎていくからです。宿に知らせてある時間があるからです。しかしそれは私たちの勝手な都合にすぎません。信徒の方々は熱心に時を忘れるようにして祈り続けました。私たちも最後まで参加しました。終わって、皆さんとお交わりをし、記念の集合写真も撮りました。聖堂内の撮影はここだけ許されました。

 

祈りを先導した子どもたちは最近洗礼を受けたそうです。びっくりしました。現に、伝道活動が行われ、実がなっているのです。教会は生きており、神は救霊の御業をなさっておられるのです。私たちは過去の歴史を見学に来たのでない、遺跡を見に来たのではない。今、正に生きている、活動している教会を訪ねているのだ、殉教者の血は無駄には流されなかったと改めて気づかされ、深い感動をおぼえて胸が熱くなりました。

 

浜串教会は外海地区から安住の地を求めて海を渡った信者が隠れ住んだ地域です。1899年、鯨捕獲の利益金で初代の教会が建立されましたが、その後老朽化したことから、1966年、海の近くに敷地を求め、現在地に新教会を建設しました。さらに教会から700m離れた港口に、先に見た「希望の聖母像」を建てました。

 

予定より小一時間遅れて、私たちは2日間お世話になる民宿「えび屋」に到着しました。

広間には夕食のお膳が並べられているところでした。

 

 


旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅その4  五島のキリスト教史と最初の訪問、福見教会へ

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その4

五島のキリスト教史と最初の訪問、福見教会へ

 

 

 

 

 

 

今回の旅行の目的は『上五島のカトリック教会群を訪ねて』です。《カトリック教会群》です。有名な教会を一つ二つ見学するのではありません。上五島には今現在活動している教会が29もあるそうです。私たちはそのうちの10か所を巡ります。どうして、こんなに小さな島にそんなに多くの教会があるのでしょうか。そんな素朴な疑問が生まれます。

 

日本に初めてキリスト教を伝えたのは、ご存知の通り、スペイン人イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルです。彼は1549年に鹿児島に上陸し、翌年、平戸で宣教を開始します。ザビエルは2年ほど滞在して中国宣教に向かう途中で病のため亡くなります。その後、コスメ・デ・トーレスがザビエルの働きを継承します。そこへ合流したポルトガルの宣教師ルイス・デ・アルメイダが1566年に五島へ渡り、宣教活動をスタートします。これが五島とキリスト教の最初の出会いです。

 

五島の藩主宇久純尭(うくすみたか)はキリシタン大名になりますが、その後の秀吉、江戸幕府による禁教令のために五島の信仰は一掃されてしまいます。しかし一部の信徒たちは潜伏キリシタンになって隠れた確かです。1597年に秀吉の迫害によって長崎の西岡で殉教した26聖人の一人、聖ヨハネ五島は島の出身者です。

 

その後年月が経って江戸時代中期に、五島藩は大村藩領から開拓民を移住させます。1797年(寛政9年)、外海地方から108名が五島へ移住しましたが、ほとんどが潜伏キリシタンだったようで、五島におけるキリシタン信仰がひそかに復活しました。移住者が土地を与えられたことを知ると外海地方からは続々と3000人以上の人たちが渡ってきます。しかし、移住民たちは山間部の僻地や小さな入り江などに住んで小さな集落を作りました。潜伏キリシタンはこうした集落に隠れ住んで信仰を維持し、特に明治維新前後の激烈な迫害をたえました。

 

幕末の1865年、居留地長崎の大浦に建てられた天主堂に浦上の潜伏キリシタンがプチジャン神父に信仰を表明し、これ以降続々と長崎各地で多くのキリシタンが表に出てきます。ところが江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府は、「浦上四番崩れ」と呼ばれる過酷な弾圧を加えましTら。五島各地のキリシタンにも、長崎で指導を受けた信徒によってカトリックの教義が伝えられて、多くのキリシタンが信仰を明らかにしていきます。これに対して五島藩はキリシタンを捕え、「五島崩れ」と呼ばれる弾圧を繰り返しました。しかし政府は諸外国の圧力に屈し、1873年(明治6年)250年に及ぶキリスト教禁教令の高札を撤廃します。ここにようやく、キリスト教は晴れて日の当たる場所に出られるようになりました。

 

五島のキリシタン達は、キリスト教の信仰が認められると五島各地に次々と聖堂(教会堂)を建てていきました。教会は小規模のものが多いのですが、長崎にある日本最古のカトリック教会、国宝大浦天主堂建立直後に建てられて100年以上の年月を経ている建物もあり、その後建てられた新しい教会群とともに、今も五島のカトリック信徒たちが熱心に教会生活を続けています。今回の旅では、会堂で祈る方々の群れに加えていただくチャンスがありました。カトリック教会独特の祈りのスタイルをつぶさに体験し、考えらせられることが多々ありました。

 

最初の訪問、福見教会へ

ジェットホイルで下船した私たちはすぐに貸し切りバスに乗って最初の教会「福見教会」へと急ぎました。国道384号から右に折れ県道22号を10分ほど東に進むと五島灘に向かって立つ「福見教会」に着きました。教会は見上げるような階段を上ったところに建っていました。以後、多くの教会は岸壁のてっぺんか丘の頂上にあって、そのたびにため息をつくほどでした。

 

その代償のように眼下には青く深い海が広がって、塩の匂いを含んだ海風がそよいでいました。キリシタンたちは目を凝らしても見えない水平線のかなたの、福江島外海(そとめ)地区から、移住あるいは逃げてきて、ひっそりと集落を作ったそうです。教会の前にはどこも同じように統一された青地に白い文字で書かれた案内板がありました。またどこの教会にも鐘楼が建っていました。この教会の鐘は近くの「お告けのマリア修道会福見修道院」のシスター達が朝昼夕欠かさずに鳴らしているそうです。

 

≪教会と鐘の音≫は平和のシンボルとしてあこがれさえ掻き立てられますが、先輩キリスト者たちの血と涙とうめきの戦利品であることを忘れてはならないと心に銘じました。時刻は夕方5時になろうとしています。予定ではもう一つ、浜串教会へ行くことになっています。私たちは今度は急坂を下りてバスに乗り込みました。

 


旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その3

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その3

 

 

 

わずか二泊三日とはいえ、今回は飛行機あり、船もありで、まさに空を飛び海を渡る大旅行です。五島列島は九州の最西端に位置し、東シナ海に浮かぶ大小140余りの島々の総称です。浮かぶとは妙な言い方でしょうが、地図をみても、実際に海路から眺めてもそう思えてしまいます。そのうち大きな島が5つあるので五島列島といい、その5つも大きく2グループに分けて、南の方を下五島、北の方を上五島と呼ぶそうです。2008年に福江島へ旅した時は、羽田から福岡空港、乗り換えて福江空港でした。国内線を乗り継いだことになり、すっかり忘れていましたが、この旅も大冒険でした。

 

上五島は主に若松島と中通島からなり、総面積は213㎢、人口は約2万人。そのうち四分の一はカトリック教徒です。四人の一人が信者とは驚きです。うらやましい限りです。面積と人口ですが、東京23区が621㎢、人口はなんと約1千万人。面積はわずか3倍なのに、人口は500倍です。東京はすさまじいばかりです。

 

24日初日は、羽田空港の集合が朝8時半です。4時起きで家を出られた方もおられました。朝食なしだったかもしれません。しかも「旅の栞」には昼食はあらかじめ各自用意、機内または長崎空港までのバス中でいただくようにとありました。旅とは食事一つ考えても非日常です。こうした緊張感がずっと続くのが旅というものなのかもしれません。人ごとのように言えるのは、なんといっても20人中、羽田には私が一番近いからです。炊き立てのご飯で朝食し、昼食のおにぎりを二つ作ってバッグに詰め込みました。そのおにぎりを私は機内でいただきました。折よく、サービスの飲み物の中に「あご出汁」のスープがあり、飛びついたわけです。ところが隣のS姉は、空港で買った、テレビで紹介していた○〇肉の高価なすき焼き弁当を広げました。これもまた旅の一興かも。姉妹は旅の楽しみ方を知っておられる、旅の達人です。その隣のK兄は長崎に着いたら買うと、我慢?しておられました。

 

「ソラシドエア」は初めてですが、こぎれいですてきな機内でした。

 

長崎空港はこじんまりとしており、すぐに迎えのバスのトライバーさんと会えました。貸し切りバスなので安心です。乗り込むとすぐに港へ走り出しました。まずは第一の関所であるフライトを無事通過、大型バスにゆったりと身を沈ませながら小さく一息つきました。

 

午後2時、定刻通り長崎港を出港したジェットホイル「ペガサス号」は、75分、滑るがごとく海面を走り、15:15に奈良尾港に到着しました。船につきものの揺れは少しもありませんでした。空は快晴、さすがに東京より南西方向のせいか暑い、のひとことです。日差しは強く、風はかなり湿度が高いと感じました。思わず、用心のために忍ばせてきた夏の帽子を取り出しました。

 

下船すると、今度は三日間お世話になるバスが待っていました。このバスこそ、旅の本命である教会群へと案内してくれる強力な足です。今回の旅行には都合で旅行社から派遣される添乗員がいません。しかし島内巡りにはドライバーの他に「巡礼ガイド」といって、ボランティアの方でしょうか、ガイドさんが付き添ってくださることになっています。バスは中型かと思っていましたがデラックスな大型です。二人掛けを一人で使っても十分な余裕です。それでも班ごとに手際よくつつましく着席しました。

 

ところが、ところがです、ハプニングです。どうしたことか「巡礼ガイド」さんがいません。一瞬、そんなバカなことが〜〜〜と顔がこわばりました。団長のH氏があわてて東京の旅行社まで電話しましたが、手違いで、明日からだそうです。これから2つの教会見学がまっている、大事なスタート地点です。

 

しかし私たちは大して気にしていません。2つの教会は確かにこの島の、しかも遠くないところに存在し、そこに確実に連れて行っていただけるはずです。そこにはおそらくいくつかの掲示板があって、概要はわかるでしょう、いちばん大事なことは実際に現地に立って自分の目で見ることですから、今日のところはそれで良しとしましょうとそれぞれに納得しました。急きょ団長のH氏がにわか「ガイド」を宣言し、車内は笑いにつつまれ、島特有のきついアップダウンの多い道を北上しました。国道384号です。最初の教会は福見教会と言います。


旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その2

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その2

 

 

 

 

2008年に、五島列島の下五島と呼ばれる福江島へ渡りました。今回と同じように2泊3日でしたが、島へは初日の一泊だけ、もう一泊は雲仙に泊まり島原など殉教の跡をたどりました。そのときにH氏が、次回はぜひとも上五島へ行きたいと、力を込めて言っておられました。その声を記憶はしていましたが、8年後に実現するとは、正直のところ思っても願ってもいませんでした。しかしH氏はずっと祈っていたようです。今回は自ら団長を引き受け、旅行社と掛け合い、ふさわしい旅程が出来上がり公募に至りました。

 

私はこの春に北海道へ行ったこともあって、今度は九州に行きますとは、さすがに気が引け、なによりも自分自身との折り合いがつかず躊躇していました。しかし2008年以来の仲間たちが当然のごとくに次々に申し込み、私が行くのも当たり前に思っておられる様子、ついに手を挙げたのでした。なんだかいやいや行ったみたいで言い訳がましいのですが、そんな葛藤がありました。だれに反対されるのでもなく、大きな支障があるわけでもないのですが、しばらくうじうじとしていたのです。さて、心が決まればもう迷いは雲散霧消、もともと親しき友であるH氏からの要請もあっていつもの力強い旅友Aさんと雑務を担うことにもなりました。

 

今回の旅程は単純です。飛行機で羽田⇔長崎空港、ジェットホイルで長崎港⇔奈良尾港。島内は3日間貸し切りバスです。宿泊も一か所の連泊です。こうして文字にしてみると、ああ、そうなの、らくそうねと思われてしまいそうですが、旅にハプニングはつきもの、絵に描いた餅のようにはいかず、餅がのどに詰まるようなこともありました。

 

 

 

三日間の旅程を記してみます。

10月24日・月曜日、8時半羽田国内線乗り場集合→Fチャプレンによる団結式→フライト→長崎空港(12:30)→貸し切りバスで長崎港→ジェットホイルで奈良尾港(15:30)→貸し切りバスで福見教会→浜串教会→若松島神部港の前、民宿えび屋へ(18時)

 

10月25日・火曜日、8時えび屋発→徒歩で神部港→海上タクシーでキリシタン洞窟ハリノメンド→若松港→貸し切りバスに乗り換えて中ノ浦教会→大曽教会→鯛の浦教会→扇寿で昼食(12時)→頭ケ島天主堂→冷水教会→青砂ケ浦教会→江袋教会→仲知教会→えび屋(18時)宿泊

 

10月26日・水曜日、8時、えび屋発→若松大橋→車窓から桐教会→奈良尾港(10時発)→ジェットホイルで長崎港(11:10)→大波止から普通のバスで長崎空港へ(13時)

→ここで解団式、自由時間→15:25フライト→羽田空港17:05着。

 

3日間これ以上ない上天気だったのは感謝の一言に尽きます。旅は何と言っても晴れが最高です。高齢者ばかりの旅なので神はあわれんでくださったと、聖名をほめたたえました。

 

 


上五島のカトリック教会群を巡る旅

上五島のカトリック教会群を巡る旅

 

24日月曜日から26日水曜日まで、念願の上五島カトリック教会群を訪ねる旅に参加してきました。所属するお茶の水聖書学院同窓会が一年をかけて企画主催したものです。20名の仲間たちといっしょでした。いつも年齢ばかりを話題にしますが、集約すると全員が70代です。三日間最高の上天気、さすがに五島は九州の先の東の海の中にあり、温かく湿った空気が流れ、東京とは3〜4度の差があって、一か月くらい前のような感じを受けました。長崎県に属し、長崎港から船に乗ります。

 

島の南から北まで、バスは曲がりくねった山道坂道を走り、私たちは、岬の先端や山のてっぺんに建つ教会目指して、急な階段を上がり下りして、歴史を訪ねつつ、誇り高くそびえる教会に、キリストのいのちを目の当たりにする時をいただきました。今日は予告編です。これからおいおいに旅日記を記していきたいと思います。


心の風から 老親介護・老老介護

心の風から 老親介護・老老介護

 

私と同年齢の方々はすでに老親介護は終わっている。私は遅いほうだったが、それでも母を天に送ってすでに8年になる。人によって千差万別であるが、私の年齢になると介護される側である。問題なのは老老介護である。介護されても仕方のない方々が、幸い自分自身は今のところ元気ではあるものの、配偶者の介護をすることになってしまうことである。実際、私の友人知人でそんな苦境に立たされている方が何人もおられる。今では珍しくもない社会現象のひとつだが、実際は深刻である。深刻さを増しているのは、ずっと二人暮らしだった方々。同居する家族か、独身でもいいから同居の子どもがいる方々はその困難さが緩和されると思う。

 

ご主人を介護している方の方が多い。奥様のお世話をしておられる男性も存じている。ときにその内情を知ることがある。わりにオープンに話す方もおられる、こぼし話をするということである。一方で、固いガードを張り巡らし、弱音を吐かない人もおられる。それもこれもその人の生き方の姿勢の表れであるとおもう。良い悪いの問題ではない。ただ、外側から、あるいは人づてに、耳に入ることから、多くのことをあれこれ考えさせられる。

 

言葉選びが難しいが、介護するご本人の体力の限界が目に見えている、あるいは限界に達してしまう場合、もっと介護制度のお世話になればいいのにと、いちばんにそこに歯がゆさを感じてしまう。母の場合、介護制度がどんなにありがたかったか、身に染みている。申し訳ないほど便利に利用した。本人の使える保険点数の範囲内でケアマネさんと相談しながら、プログラムを立てていった。母の意志、私のスケジュールをミックスさせながら、日ごとに、時間ごとに、細かい表を作った。そしてその通りに進めた。感謝なことであった。

 

今は制度が目まぐるしく変わって、当時より不便、あるいは悪くなっていると聞く。費用の問題から使わない人もいると聞く。だから、一概に介護制度を利用したほうがいいとは言えないが、共倒れが目に見えている方にはお奨めしたいとおもってしまう。しかし総合してみるとこんな人が多い。

 

いつもそばにいてあげたい、自分のそばから、自分の家から出したくない、人に預けてまで楽するつもりはない。骨が折れてもつらくても、できるだけ頑張りたいというのである。この思いはどこから来るのだろうか。じっと考えるに、やはり最後に残るのは情であろう。愛情であろう。外側からはうかがい知ることのできない長年の絆、関係の深さがそうさせるのではないか。親を思う子の思い、夫を、妻を思う配偶者の思いは一つなのだろう、当事者の関係のただ中に、第三者はうかつには入れない。愚痴を聞かされるときは深くうなずいて聞き、じっとガードを固くして頑張っている人には、背後から祈っていくほかはない。ついに共倒れになった方々には駆け寄って行きたい。

 

 


日々の風から 図書館脇のパン屋さん

日々の風から 図書館脇のパン屋さん

 

秋のど真ん中にいるのを実感させてくれるこの1,2日。腰が上がって外出した。区内を走る循環ミニバスに乗る。このバスは都バスの走る幹線道路を避けて、いわば横町から横町を細かく走ってくれる。料金は100円。都バスの半額なのも人気の理由である。徒歩の足代わり、自転車代わりに使われている。昼間は杖を突いたりシルバーカーを押す高齢者が乗り降りしている。

 

図書館の脇に自家製のパン屋さんがある。焼きたてのパンがガラス張りの窓越しに初々しく並んでいる。そこを素通りできる人はいないと思う。まして食欲の秋!店内に入ってしまうのは誘惑に負けたことになるのだろうか。「御自由に」と、無料のコーヒーコーナーがある。簡単な座席もある。今はイートインというのだろうか。入れ代わり立ち代わりトレーにパンを乗せて無料のコーヒーで一息ついている人がいる。

 

図書館に来るたびに必ず買う、いつものパンを袋に入れてもらって、ついでに「ご自由にコーヒー」を紙カップに注いて座った。隣には赤ちゃんを抱きおんぶしたママがいた。専業主婦なのだろう。ドアーが開くと、ベビーカーを押すママが入ってきた。座席を見ている。たぶんこのママもここでひとりお昼をするつもりなのだろう。私は早々に席を立った。小さなパン屋さんに集まってくる小さな日常をほほえましく懐かしく拝見した。帰りのミニバスには乗客は私を含めて3人しかいなかった。貸し切り同様である。まるで大きなタクシーに乗っているようだ。なんと贅沢なことだろうと、申し訳ないような思いがした。

 

 

 

 



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