人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

日々の風から アドヴェントの日々

日々の風から アドヴェントの日々

 

 

教会堂のクランツに立つ赤いキャンドルの四本目が点火されて、待降の思いはいよいよ高まっていきます。キャンドルサービス礼拝はふつうは24日ですが、我が教会は近年23日の休日に行っています。その日の方が集まる人が多いんではないかと、そんな願いからです。24日の教会ももちろんありますから、ぜひこの機会に教会でクリスマスのひと時を過ごしていただきたいと祈っています。

 

昨日の日曜日には教会では礼拝の他に二つのクリスマスの集いがありました。午後はキッズ・クリスマス会です。あらかじめ地域にチラシを配布して、子どもたちに呼びかけました。

果たしてどのくらいの人数が集まってくれるでしょうか。プレゼントや楽しいプログラムを用意しますが、昨今はなかなか子どもを呼ぶのは困難です。教会学校に奉仕する兄姉は四苦八苦しています。私は高齢になりましたので、その奉仕からは解放されています。

 

礼拝前の30分、いつもの時間に、私の担当する成人科クラスのクリスマス会をしました。毎年のことですが、学びは前半だけにして、後半はミニお茶会をしながら、今年一年のクラスへの感想を分かち合いました。すでに20年になりますので、「継続は力なり」とは思いつつもマンネリになっていないか、また、リーダーの立場にいる者として「裸の王様」になっていないか、あるいは「老害」をまき散らしてはいないかと、絶えず揺れる心を抱きながら自己吟味してはいますが、さて、真実のほどはわかりません。メンバーの兄姉が、口々に、学びが自身の信仰生活のプラスになっていることを具体的に語られたので、今年もまた私への励ましメッセージだと額面通りに受け取って、新たな決意で新年から進んでいきたいと思います。

 

礼拝後はすぐに23日キャンドルサービス礼拝と、25日クリスマス礼拝での特別賛美練習があり、聖歌隊の一員として加わりました。奉仕の数が少なくなったとはいえ、アドヴェントの日々は多忙です。今年は高齢者数名が病や老いのために入院したり施設に入居したりしてともに相集ってクリスマスをお祝いできなくなっています。寂しい限りです。23日の午後は例年のように近くの老人施設へクリスマスの賛美をもって慰問に出かけます。これにも参加するつもりでいます。今の私にはできることがこの上ない感謝です。

 

 

 

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日々の風から 師走の風を受け入れて

日々の風から 師走の風を受け入れて

 

 

10月末に上五島の旅に参加して、五体五感で吸収した見聞や感動をせっせとブログに綴ってきました。いつもより多くの方々がお訪ねくださり、発信する大きな励ましと力をいただきました。そのあと、ブログ記事をもとにして、レター版「希望の風」を編集し、ネットを見ない友人知人に送ったりして、今もそのさなかですが、12月もすでに半ばになってしまいました。しかし私の中では四季のうちで貴重な「秋」を逃がしてしまったような無念さが残っています。とはいえ、あれだけ濃密な「旅世界」を味わったのですから、それ以上は欲というものでしょう。感謝して、12月半ばの師走の風を受け入れ、2016年の残りの日々の一日、一日を噛みしめ踏みしめて歩んでいきたいと思います。すでに教会の内外では、クリスマスの諸行事が始まっています。小さな奉仕を携えて、精一杯参加していきます。

 

 

 

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その13 最終日

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その13 最終日

 

 

 

                           大釜で炊かれた鯛めし

 

夕食時のこと

二日目の夕食は前日に勝る大ごちそうでした。なんと伊勢海老のお刺身が加わったのです。調理を終えた伊勢海老の姿がお座敷の入り口に勇ましく飾られて、私たちを迎えてくれました。こんなお食事は生涯に一度でしょう。前日は旅のお世話役として奮闘されている副団長K兄の司会で20名全員が自己紹介をしました。二日目、最後のうたげでは名司会者として定評のあるN兄がほどよいスピードで「今回の旅で一番強く心に残っていること」を一人一人に振りました。もちろん旅は明日も続くのですが、この時点まででも話したいこと聞きたいことは山のようにあります。それを皆さんお一人ひとりが手際よくコンパクトにまとめて話されました。その新鮮な感想は、まるで生きのいいお刺身のようで、胃の府ではなく、心の奥深くにとどまりました。食事のメニューも皆さんの感想も記したいのは山々ですが、いつか後日に譲ります。

 

部屋友のこと

今回の2泊は学院創立時から今日まで25年間、変わらない友情でお交わりを続けているS姉と同室になりました。年齢も同い年。主にあって双子姉妹のようです。学院の大きな旅、イスラエル旅行、バッバ・ルターのドイツの旅もいっしょでした。いつも早朝の祈り、就寝前の祈りをともにしてきました。今回も同じスタイルです。プライベートな課題を出し合って祈りました。過去には同じデボーションテキストを使ったり、それそれで聖書個所を出し合ったりしましたが、今回は覚えている聖書個所をいっしょに暗唱しました。「主の祈り」、「使徒信条」は毎回ですが、それに「詩篇第1篇、23篇、103篇の一部、121篇」も加えました。親しき友と朝に夕に祈りあえることも、旅の大きな恵みです。

 

 

3日目最終日は帰路になります。教会見学は車窓から「桐教会」を眺めただけです。民宿「えび屋」前からバスに乗り込んで奈良尾港、そこからジェットホイルで長崎港、今度は一般のバスで長崎空港、そして羽田です。宿を8時に出発して羽田到着は夕方5時過ぎです。一昨日たどった道を逆に行くことになります。この旅はざっと往路一日、復路一日の道のりです。それだけ遠方なのです。めったに来られるところではありません。めったにどころか、確実に、二度とないでしょう。切ない思いがこみ上げてきます。

 

忘れがたき方々

三日目のバスガイドさんはかわいらしくたくましい女性でした。奈良尾港までのわずか90分、五島の海の飛び魚のように元気いっぱいにしゃべり続けてくださいました。忘れがたい女性です。「えび屋」の女将と次代の「女将」の2代の女性たちの姿も思い浮かびます。目鼻立ちのはっきりした五島肌の美女たちでした。お二人は道路まで出てきて、いつまでもいつまでも手を振りお辞儀をしておられました。ほとんど二度と客となることはないのに、精一杯、礼を尽くしてくださいました。

 

それにしても昨日一日中ともに歩いてくださった80歳の「巡礼ガイドM氏」に会えなくて、一抹の寂しさを感じました。氏のお人柄、そうでなく、風雪を経た信仰からにじみ出る渋い柔らかい温かい光が、私たち旅人をじわっと包み込んでくださっていたと、思えてならないのです。M氏は、迫害の凄惨な場面を決して声高に語りませんでした。この島全体に浸み込んでいる血やうめき声をことさらに掘り起こすようなことはしませんでした。そうした殉教者の悲しみや苦しみを、M氏が黙って一身に背負っているように見えました。M氏の血にはご両親、さらに隠れキリシタンであったであろうご先祖の方々のご苦労と祈りが流れていると想像しました。

 

信仰の証人

長崎空港で、チャプレンF師によって解団式が行われました。ひとまずここで解散という意味です。F師は、羽田の団結式の時に、「へブル書12章」を用いて、今回の旅の目的の一つは「信仰の証人」に会いに行くのだと言われました。その通りに、私も多くの歴史上の信仰の証人に会いました。書けませんでしたが、あの長崎西坂の丘で処刑された26聖人の一人は五島の出身者でした。「ヨハネ五島」と言い、彼を記念する像を2か所の教会で見ました。

 

しかし今回、出会った「信仰の証人」は過去の人ばかりではありませんでした。M氏を初め浜串教会の祈祷会の方々や江袋教会の鐘楼の下の老女性たちは「生きた信仰の証人」なのです。上五島の教会群は、隠れキリシタンゆかりの場所に建てられました。そのうちの29もの教会が今も信仰に生きているのです。私たちは、単に、止まった歴史、切り取った歴史、書き留められた歴史の「足跡を辿る旅」をしているのではなく、今も生きている教会とその証人に出会ったのだと思い当たりました。心が強く揺さぶられ、目の開かれる思いがしました。神のダイナミックなドラマは終わったのではなく、連続して今に至っているです。さらに、神は、進行する「神の大河ドラマ・信仰の証人」に、私たち一人ひとりをも巻き込んでおられるのだと強く教えられました。

 

『私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか』

                           へブル12・1

 

 

羽田へ帰る雲間から、夕日を浴びる富士山がはるか眼下にかすんで見えました。

 

0月末から書き始めました旅日記はひとまず終了です。

かなり根を詰めた感が残っております。ホッとした思いもあります。

思いがけなくおおくの方々がお訪ねくださって驚いています。

そして、心から感謝申し上げます。

 

これをもとに、ペーパーで「希望の風」を編集中です。

ネットを使わない友人、知人のためです。

 

12月はすでにアドベンド第2週目。

皆様の上にイエス・キリストの真理の光があふれますように。

 

 

 

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その12 江袋教会→仲知教会→「えび屋」で宿泊

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その12 江袋教会→仲知教会→「えび屋」で宿泊

 

 

 

 

 

 

江袋教会 火災で再建される

上五島は十字架の形をしていると聞いたことがあります。それに見立てると残す二つの教会は縦の上へ上へと行きます。地図では北方向です。開通したばかりの「青砂ケ浦トンネル」997mを潜ります。このトンネルは島内で一番長いトンネルだそうです。32号線からその後、218号線に入ります。

 

9番目の教会は「江袋教会」

教会ははるかに東シナ海を見下ろす急斜面の中腹に海に向かって建っています。1882年(明治15年に)にパリ外国宣教会のブレル神父の指導で建設された、木造瓦葺き平屋建ての教会です。しかし惜しくも2007年に漏電によって全焼してしまいますが、それまでは五島で最古木造教会でした。火災後は、元の位置に復元することになり、焼け残った一部の建材を利用し、また全国からの支援を受けて2010年に完成しました。一目で新しい建物だとわかりました。一見、教会ではなく、日本家屋のようですが一歩堂内の入ると赤や黄色の美しいステンドグラスが輝いていて、やはりここは神をほめたたえる教会堂なのだと納得させられました。

 

急な階段を一歩ずつ上って左手に回ると海が大きく開け、教会の正面に出ました。と、数人の老女性たちが玄関わきの石に腰を下ろしていました。私たちの見学後に始まる祈祷会に出席するためでした。社交満点のM姉がすぐに話しかけました。女性たちは私たちよりもっと年上に見えましたので、階段はさぞきついだろうと思いました。みなさん一様に深く刻まれた皺深いお顔でしたが、こぼれるような生き生きした笑みにいっぺんに魅せられました。お顔の皺は荒い潮風のせいばかりでなく、絶えない笑い皺かとも思いました。女性たちは合図の鐘楼の鐘が鳴るのを待っているのだそうです。鐘の音に誘われて会堂に入っていくとは、なんと豊かな信仰生活でしょう。祈祷会が毎日なのか今日がちょうど祈りの日であったのかわかりませんが、いつもの時間にいつものように祈りをささげる生きた信仰がここにもあるのだと知り、主をあがめました。すぐに昨日の福見教会での祈祷会を思い出しました。

 

10番目は仲知教会・煉瓦造り・ステンドグラス(聖書場面)

 

218号線をさらに島の北端に向かって進むと、「仲知教会」です。よくぞこんなところまで教会を建てたものだと深く感動しますが、実際はこの先の北方にまだ教会があるのです。

 

現在の教会は三代目で、1978年(昭和53年)に建立されました。この地域に住む大部分がカトリック信者で、信者達の多額の献金と労働奉仕により造られました。仲知小・中学校の生徒も全員が信者。そのため学校行事は教会の行事を考慮することなしには組むことができないほどだそうです。なんとうらやましいことでしょう。

 

教会の外見は教会らしくなく、お役所のように見えますが、堂内は別世界でした。聖書の場面が描かれた14枚のステンドグラスがあふれんばかりにはめ込まれていました。イエス様が弟子たちと漁をする場面では、当時、信者の中心として建設に関わった住民も登場しているそうです。

 

教会を後にするとすでに5時近くになっていました。この日の見学はすべて終了です。ここからまっしぐらに南下するのです。北の果てから南の果てまでと言っても大げさではないほどです。もちろん最後に若松大橋を再び渡ります。そして、神部港に面する「えび屋」さんに帰るのです。今夜、もう一泊します。ドライバーさんに訊ねますと、約90分、ノンストップだそうです。折しも東シナ海には夕日が沈むところでした。

 

 

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その11 観光センター→冷水(れいすい)教会→青砂ケ浦教会 

 

今日からいよいよ12月、年の瀬に入りました。

教会暦では11月27日から待降節(アドベント)に入り、

今週は第一週です。

イエス・キリストのご降誕を覚え、25日のクリスマス礼拝に向かって、

いっそう「みことば」と「賛美」と「祈り」を愛して、

恵みの時を過ごしたいと願っています。

 

 

 

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その11 観光センター→冷水(れいすい)教会→青砂ケ浦教会 

 

どこからともなく、しかしいっせいに?あがったのは、お土産を買えるところに行きたいとの切望の声!団長さんから「巡礼ガイドM氏」へ伝えられ、時間のカギを握るドライバーさんに届きました。その結果、わずかだけど「観光センター」に寄っていただけることになりました。車内はにわかに色めき立ちガラリと空気が変わったのです。そう思ったのは私だけかも……。何しろ旅人の4分の3は女性なのですから。センターの場所は頭ケ島を引き返して、昼食をいただいた「扇寿」の近くです。店内には五島の特産品が自信に満ちて行儀よくど並んでいました。海産物はもちろんですが、有名なのは「五島手延べうどん」、「椿油」、「上五島の塩」、「飛魚(あご)製品」、「かんころ餅」などです。多量になると重い物が多いのです。目移りしている間に時間が過ぎてしまいました。さらに残念なことに買い物に心奪われ、一度も周囲にレンズを向けず仕舞いでした。

 

バスは再び国道384号を西に走り、まもなく奈摩湾に向かう県道170号線を右折して北上します。奈摩湾を挟んで対面するように西側に冷水教会、東側に青砂ケ浦教会が建っています。肉眼で見えるわけではないのですが、仲の良い姉妹同士のようです。まず西側の冷や水教会へ向かいました。

 

 

 

冷水教会・木造で白い建物

冷水教会は1907年(明治40年)5月献堂式が行われました。設計施工は長崎県下に数多くの教会を残した郷土出身の鉄川与助です。当時27歳、独立して初めて自ら設計施工した教会であり、歴史的な価値は大きいそうです。教会の入り口にトンガリ帽子のような尖塔がありました。木造の白と尖塔や屋根の褐色のコントラストがすっきりしていてスマートな雰囲気を作っていました。

 

今回、一つ一つの教会では必ず靴を脱いで内部を見学しました。ガイド氏は柱や天井までその教会の特徴をこまごまと説明してくださいましたが、ここに記すことは敢えてしませんでした。私たちの旅は教会の建築や構造を学ぶのが第一ではなく、迫害を耐えてそこに教会を建てた先人たちの苦難と信仰を知ることであり、形に表れない部分を心に感じて刻むことです。それに、堂内を写すことは禁じられていました。また、私は教会の外であっても、キリスト像、マリヤ像などは写しませんでした。それは私個人の信仰の有ようによるものです。

 

青砂ケ浦教会・煉瓦作り・国指定の重要文化財

 

 

 

 

 

 

次に奈摩湾を挟んで向かい合う青砂ケ浦教会へ急ぎました。もと来た道を引き返し、県道170号を湾に沿って左折、まもなく県道32号に入って北上します。教会は奈摩湾の中腹を見下ろすように正面を対岸の冷水教会に向けて建っています。1856(安政3年)、浦上三番崩れの殉教者である浦上の帳方(潜伏キリシタンの信仰組織の指導者の頭)吉蔵はこの付近に隠れていて捕まったそうです。1878年(明治11年)年ごろには初代教会堂があったといわれます。その後1919年(明治43年)に献堂され国の重要文化財にも指定されている現聖堂は3代目の聖堂です。設計施行は鉄川与助氏。外壁の煉瓦は信徒が総出で運びあげたたそうです。

 

「巡礼ガイドM氏」はここで思いを込めたように、自分の父と母も教会作りに参加し、煉瓦を運んだのだと話されました。びっくりしました。目の前の外壁のどこかにその煉瓦がはめ込まれているのです。それは80歳のM氏がいくつの時だったのでしょうか。数十年の歳月を飛び越えて、今、ここでその作業が行われているような気がして身の引き締まる思いがしました。

 

 

この旅行記もあと2回ほどの予定です。ご愛読を感謝します。

 

 

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上五島のカトリック教会群を巡る旅 その10 昼食「扇寿」→頭ケ島天主堂

上五島のカトリック教会群を巡る旅 その10

 

 

昼食「扇寿」→頭ケ島天主堂

さて、待望の昼食「扇寿」へ急ぎます。予定時間を超えています。東シナ海に面する有川港ちかくです。お店に滑り込みますと、店内はたいへんな混みようです。評判のお店なのでしょう。予約席へ着くと、すでに名物五島うどんのお鍋がたぎっていました。地獄炊きうどんというのだそうです。うどんはほとんど食べ放題、それに生きのいいネタの握り鮨でした。

 

頭ケ島天主堂・石造りのロマネスク様式

 

 

 

 

 

午後一番の見学教会は頭ケ島教会です。この午後は5つの教会を巡ります。国道384号は昼食をいただいた「扇寿」のある有川港あたりで終わり、その後は県道62号に変わって、頭ケ島に入ります。頭ケ島は新上五島町の北東部、五島列島の最東端に当たり、現在は橋で結ばれていますが幕末まで無人島でした。1859年(安政6年)に、鯛ノ浦のキリシタンが迫害を逃れて住みつきました。

 

教会は明治3年、ドミンゴ松次郎が、長崎でプチジャン師の教えを受けて島に帰り、住家を青年伝導士養成所とし、仮聖堂を置いたのが始まりです。1887年(明治20年)最初の教会を建設しましたが、1910年(明治43年)大崎八重神父のもとに鉄川与助の設計、施行によって松次郎の屋敷跡に、島で産出する石材を使って総石造りの聖堂の建設に着手、7年余の歳月をかけて大正(1917年)大正6年に、ロマネスク様式の石造り天主堂が完成しました。その間には島の信者による資金集めや労働奉仕など献身的な努力があったそうです。2001年には国から重要文化財に指定されました。教会には常駐の主任司祭はおられず、カトリック鯛ノ浦教会の巡回教会となっているそうです。教会近くの浜辺には、キリシタンの墓地が今も残されています。

 

周辺を歩いているときはあまり気にならないのですが、眼下に広がる五島灘の海を見、また特に地図で確かめると、島は今にも教会もろとも海にこぼれ落ちそうに見えるのです。島民はわずか17名とか。しかしこんな小さな島に1981年(昭和56年)には東部の山を切り開いて上五島空港が建設され、開港にあわせて頭ヶ島大橋が架けられて、本土ともいえる中通島と結ばれたのです。交通の便が良くなったことで一躍脚光を浴び、島を訪れる観光客も増加したそうですが、残念ながら現在空港は閉鎖されています。頭ケ島大橋は300メートルのアーチ橋です。橋の色は赤です。海の深い青と山々の緑と赤い橋はみごとなコントラストを生み出し、旅人の胸を躍らせます。これもドミンゴ松次郎を筆頭に、先人信徒たちの苦闘が生んだ思わぬ遺産ではないかと思いました。

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その9 大曽教会→鯛の浦教会

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その9 大曽教会→鯛の浦教会

 

 

 

 

 

 

 

見学の時間ですが、教会から次の教会までおよそ15分、見学時間は20分程度です。道路はアップダウン、急カーブの連続ですから走行距離は短いと思われます。教会も、ヨーロッパの大聖堂のような規模はなく、素朴な「村の教会」ですから、短時間で見学できます。もちろん、じっくり立ち止まり、座り込めば、もっともっと長く鑑賞できますが、団体行動ですから分刻みの予定が立てられています。しかし、私たち一行は、息せき切って歩き回ることもなく、思い思いにスマホをかざしカメラを向けて楽しみました。ただし、教会はほとんど高台にあるので急な階段を上り下りするのはたいへんに骨が折れました。

 

大曽教会・濃淡の赤煉瓦の教会・上五島で一番美しい教会

「大曽教会」はさらに国道384号を北上した青方湾を見降ろす丘の上に建っていました。上五島で一番美しいと言われる教会です。この教会の壁面は色の違う赤煉瓦で積み上げられ芸術性と重厚さを感じました。正面には八角形のドームを戴いた鐘塔が高くそびえていました。はじめの教会は禁教令が廃止された明治6年から間もなくの1979年(明治12年)に木造で建てられましたが、現在のものは1916年(大正5年)に、長崎県下に数多くの教会建築を残した郷土出身の鉄川与肋が設計施工して建てたものです。11年もの年月をかけたそうです。美しいカーブの半円アーチの窓の花柄ステンドグラスは西独製とか。鮮やかに輝いていました。

 

午前中最後の見学になるのは鯛の浦教会です。時刻は11時20分を過ぎています。正午に昼食会場の「扇寿」に到着できるかと、心は早やひそかにランチに向かっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鯛ノ浦教会・煉瓦作りの旧聖堂は資料館

北上を続けた国道384号線を右へ、つまり東へ行き、途中から県道22号線を南下すると鯛ノ浦教会です。この教会は旧会堂は資料館になり、現在はその前方に建てた新会堂を使っています。この集落の人々は外海の出津から移住してきたキリシタンの子孫に起源をもち、五島崩れの迫害を受けています。1871年(明治3年)には「鯛之浦の六人斬り」呼ばれる残忍な出来事がありました。胎児を含む2家族6人が有川村の郷士に殺害されたのです。さすがに下手人の郷士四人は入牢、引き回しのうえ切腹を命ぜられました。

 

「巡礼ガイドM氏」はずっと淡々と穏やかな口調で説明され、個々の凄惨な迫害の場面はあまり語りませんでした。しかし、この時は声を高くして語られました。バスが現場近くの集落の中をゆっくりと進んでいるときでした。村は人影こそありませんでしたが沿道の畑はよく耕され、作物が青々と葉を広げ、平和そのもののようです。そんなおぞましい殺戮があったとはとても考えられません。しかし現実のことなのです。しかもたかだか150年ほど前、元号は明治なのです。

 

「歴史は読むのではなく、見るものである」、「歴史を知るとはその場に立つこと以外にない」と言われた堀田善衛氏の言葉を思い出し、粛然とさせられました。

 

初めての聖堂は1903年(明治36年)のことです。潮風による破損が激しかったために、1979年(昭和54年)年に現在の聖堂が建てられました。旧会堂には旧浦上天主堂の被爆煉瓦を用いた鐘塔があります。その他は木造です。そのコントラストに深い味わい感じました。新しい聖堂建設には一世帯80万円を献金したそうです。捧げる信仰のたくましさと美しさを胸に刻みました。

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その8 若松大橋→中ノ浦教会

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その8 若松大橋→中ノ浦教会

 

 

 

 

 

 

キリシタン洞窟―ハリノメンドの荒海から脱出した私たちは、若松港で下船し、待っていた貸し切りバスに乗り込みました。もちろん「巡礼ガイドM氏」も今日一日はいっしょです。

今日一日で8つの教会を巡ります。午前中に3つ、昼食ののち、5つです。ちなみに教会名を挙げてみます。中ノ浦教会→大曽教会→鯛の浦教会→(昼食)→頭ケ島天主堂→冷水教会→青砂ケ浦教会→江袋教会→仲知教会です。これらの教会は今もミサや祈祷会などが行われ、活動している教会です。このうち、頭(かしら)ケ島天主堂と青砂ケ浦教会は国の重要文化財に指定されています。

 

若松港を出発したバスは国道169号から「若松大橋」を渡ります。若松島と上五島の中通島とを結ぶ全長522メートルのライトグレーの橋です。開通は平成3年(1993年) 。この架橋により「離島の離島」という若松島の悪条件が改善されたそうです。周囲は西海国立公園に指定され、橋の両側にすばらしい眺望が広がります。それにしても長い間橋がなかったことで、人々は想像を超えた多くの不自由を強いられてきたのだと思いました。バスは

国道384号を北上して「中ノ浦教会」に向かいました。

 

中ノ浦教会は美しい白亜の木造教会です。大正14年に建てられ、静かな中の浦に面していて、潮が満ちているときは入江の水面に鏡のように教会と背後の山が映るそうで、「水鏡の教会」と呼ばれているそうです。私たちは目にすることはできませんでした。正面の屋根の上には赤い帽子をかぶせたような鐘塔がそびえていて、とても優雅な姿でした。聖堂内はどこの教会も影禁止ですから目に刻むだけですが、島のシンボル樹木である「椿」をモチーフした装飾がたくさん使われていて明るく優しい雰囲気を作っていました。しかし椿は花弁が5枚あるはずですが正確な4枚になっているので十字架を表しているのではないかともいわれるそうです。

 

この地区のしん信者たちは寛政年間に外海の黒崎から移住してきたキリシタンです。近くにある桐古里が伝道師ガスパル下村与作の出身地ということで、五島崩れ(キリシタン弾圧)では信者たちへの迫害がはげしい地区のひとつだったそうです。

 

この教会では島内の6つの教会が持ち回りで開催するクリスマスコンサートが行われます。その時は信者の方ばかりでなく一般の方々も参加され、時には数百名にもなるそうです。

 

朝8時に「えび屋」さんを出発して、まもなく10時です。わずか2時間しか経っていませんが旅の袋はすでに満杯。たくさん見聞したような心持です。ときどきパラパラと雨が降り出したと思うとすぐにやんでしまい、海岸特有の現象かしらと思いました。

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その7 ハリノメンドについての一考

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その7

ハリノメンドについての一考

 

「キリシタン洞窟」ハリノメンドという珍しい言葉に引っかかっています。特に「ハリノメンド」です。この地にキリスト教を伝えた宣教師のお国の言葉か、あるいはラテン語かと思ったりしました。それが五島の方言で「針の穴」と分かった時、頭の中で動くものがありました。「メンド」とは「穴」という意味になります。「めど」が浮かびました。「めど」とは、≪めどがつく≫とか≪めどが立たない≫など、いまでも使われている言葉です。「めど」とは、めざすところ、めあて、大体の見当、目標の意だと辞書にあります。この時の「めど」は「目処、目途」と書きます。「穴」から来ていると思います。

 

ところで、母の故郷は千葉県の東端、犬吠埼の灯台で知られている近くの漁村です。そこに戦後疎開していたことがありますが、土地の人たちが「あな」を「めど」と呼んでいたのです。「メンド」とまでは言わないけれど「めど」記憶にあるのです。茨城県のことばにもあるそうです。

 

なぜこんなことを考えるのかと言えば、「五島」の言葉が、流れ流れて千葉や茨城に渡ったのだと思うからです。今だけでなく昔も人々は決して一つの地域にとどまり続けていたわけではないと思います。特に漁師たちは漁をしながら自由自在に海を渡ります。嵐に遭って見知らぬ国に漂着しそこに住みついた話などはよく聞くことです。母の里で、この地の人たちの祖先は和歌山から来たと聞いたことがあります。

 

話は飛びますが、今年の読書で大きな刺激を受けた『みんな彗星をみていた』の中に、作者の星野博美さんは、自分は東京人だけれど、祖父母は千葉の内房の人で、その人たちの祖先は和歌山だと、証例を挙げて書いています。千葉県には内房にも外房にも和歌山の人たちが入っているのです。その和歌山の人たちもたぶんどこからか移住してきたのでしょう。直接に五島の人たちでなくても、巡り巡って「メンド」という言葉もわたってきたのだと思います。壮大な海のロマンです。いや、そんな甘いものではなく、実際は命がけの出来事があったに違いありません。

 

そもそも五島の祖先は大陸から漂流した人々が住みついたとあります。人間同士のことです、瞬く間に言葉を交わし合い、暮らしに溶け込み、当然、結婚もあり、新しい子孫たちが増えていきます。それは、今も大昔も少しも変ってはいないのです。

 

話が大きく飛びますが、日本人は単一民族だなどどうして言えるでしょう。私たち一人ひとり、小さく言えば家族一族であっても、肌が白くて鼻の高い人、丸顔で浅黒く丸い鼻の人がいます。北方系かな、南方系かななどと考えることもあります。ふと、自分は何者ぞなどとも思います。世界は一つなのだ、人間は一体なのだと強く思います。

 

「ハリノメンド」が私を壮大な人間物語へと連れて行ってくれました。人間物語の上には「神様のストーリー」があることは言うまでもありません。

 

 

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その6 キリシタン洞窟 ハリノメンドへ

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その6

キリシタン洞窟 ハリノメンドへ

 

 

 

 

 

 

 

 

昨夜の夕食はお魚づくめ、それも獲れたてのものばかりでした。なにしろえび屋さんは「神部港」という小さな漁港に面しているのです。港にはボートより少し大きめの漁船が停泊していました。朝食もお魚づくめ。しかしゆっくりいただいている暇もなく、外に飛び出しました。連泊なので大きな荷物は置いていけます。これはなにより感謝です。

 

この朝、最初にキリシタン洞窟へ行きます。海上タクシーで行くとかねてから聞いていましたが想像がつきませんでした。「洞窟」、「海上タクシー」とう聞きなれない言葉に好奇心とスリルを掻き立てられました。「洞窟は」海の中の離れ小島にあり、そこへ船で渡って見学することだとわかりました。宿のすぐ前の港にはすでに船が待っていました。20名全員が乗れるのですからちょっとした遊覧船です。船体は黄色、船の名前は「あやかぜ7」と言います。ドキドキ、わくわくしながら乗り込みました。

 

今日こそ「巡礼ガイド」氏がおられました。Mさんと言って、自己紹介によれば80歳、代々のキリスト者だそうです。この島で暮らしてきた方らしく、潮風や太陽のしみ込んだ健康そうな肌をしておられ、小柄ながら体力もおありのようでたくましさがにじみ出ていました。語り口調は歯切れよく明快でしたが、物静かですぐに親しみを感じました。

 

船は小さいせいかエンジンの音と振動は相当なものでした。海面との距離も近く、船体にぶつかる波しぶきが直接飛んでくるような気がしました。ところが、ところがです。Mさんが「南風が強くなると波が高くなり島に近づけないのです。どうやら今日はそのようです」と説明され、瞬く間に驚くような大波が立ってきました。

 

神部港のあたりと同じ海とは思えないような、別世界に来たような、大荒れの海です。だんだん激しさを増してきます。座席の背の手すりにしがみついて身を縮めました。Mさんは「今日は島に渡れないかもしれません」としっかり立ったまま言われます。船は今にも倒れんばかりです。「木の葉のように揺れる」どころではありません。波に叩き潰されそうです。ジェットコースターのようなアップダウンもあります。悲鳴、うめき声が出てきます。

 

船酔いするなと思いました。おなかに力を入れ、全身にも力を入れ、少しでも揺れの衝撃がを減らそうと努めました。Mさんは船頭さんを「島きっての名船長さん」だと太鼓判を押されました。おそらくこのあたりの様子は自分の家のように知り尽くしておられるのだろうと信頼感はありましたが、船体をひっくり返すような大波の攻撃にはなすすべもなくひたすら身をこわばらせて、主よ、主よとつぶやきながら歯を食いしばっているばかりでした。

 

洞窟が見えてきました。

 

 

 

「ハリノメンド」とは五島の方言で「針の穴」の意だそうです。遠くから見ると洞窟がまるで針の穴のように見えるためでしょう。実際、黒々とした岩肌の真ん中に穴が開いているのが見えました。「巡礼ガイド」M氏の説明によりますと、

 

明治元年、五島のキリシタン探索は、ますます厳しさを加え、 五島崩れ といわれる最後のキリシタン弾圧の嵐が吹き荒れました。この弾圧の嵐は、若松周辺でもそれぞれの集落で起きました。そのような中で里ノ浦地区のキリシタン達は迫害を避けてこの洞窟に隠れました。洞窟は奥行50m、高さ5m、幅5mT字型で、入り口はかなり広い海蝕台場の背後にある岸壁の裏側にあって、海岸からは見えないので、隠れ場には適していました。里ノ浦の山下与之助、山下久八、下本仙之助らは話し合って、当分の間の生活用具や物資を持ってひそかにこの洞窟に隠れました。しかし、ある朝、朝食を炊く煙を、沖を通る漁船に見つけられてしまいました。さっそく役人たちが乗り込んできて捕らえられ厳しい拷問にかけられました。この時以来キリシタンワンド(湾処)洞窟と呼ぶようなりました。昭和42年、苦しみに耐えて信仰を守り抜いてきた先人達をしのび、窟の入口に高さ4mの十字架と3.6mのキリスト像が建てられました。毎年11月には近くの土井ノ浦教会の信者100人ほどが集まって祈りを捧げています。

 

私たちは島には上陸こそできませんでしたが、船長さんは荒波の上に船が浮かぶように最高のテクニックを駆使してくださり、波の合間を縫って窓を開けてくださいました。私はよろよろと立ち上がってカメラを向けましたが、出来栄えがよくありませんでしたので、後日、Y姉から拝借し、使わせていただきました。

 

下船した時は命拾いしたような気がしました。みな一様に安堵の笑みを浮かべ、怖かったと口々に言い合い、少しも動じないMガイド氏と、何よりも船長さんに深々と頭を下げて感謝しました。ふと、ガリラヤ湖で突然の嵐に遭った弟子たちを思い出しました。彼らは慌てふためきおじ惑い、艫のほうで眠っていたイエス様に苦情を言ったのでした。体の方は多少胸がむかむかしましが次第に収まり事なきを得ました。しかし一日分のエネルギーをすっかり使い果たしたような消耗を感じました。

 

 

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