人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

日々の風から 別離の悲しみを凌ぐ再会の希望
 昨日の前夜式から一夜明けて今日は告別式です。東京地方の朝は最低気温2度なにがしで、かなり厳しい寒気でしたが、空は透明度高く澄み渡り、風は弱く、日差しは強い、上々の天気となりました。

 棺の前に立つと、昨日にまして深いところから悲しみがこみ上げてきます。思えば彼女とは38年もの間、ほとんど毎週日曜ごとに顔を合わせ、会話してきたのです。この関係はただごとではありません。実の親子、きょうだいでもこうまで密にはなれないでしょう。お互いの心が強い絆で結ばれるのは当然かもしれません。そしてその分、別れが辛いのです。しかし葬儀社の方々は手際よく事を進めていきます。棺に蓋がされ、斎場行の車に案内され、またたく間に愛する彼女は小さな箱に収められてしまいました。

 ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、もう会えないのだ。互いに名を呼び交わすことはないのだ。ともに手を取り合って祈りあうことはないのだ。声を合わせて讃美歌を歌うことはないのだ…。足下が揺れて、崩れてしまいそうな喪失感に襲われました。
 
  その間、一貫して牧師は聖書の信仰を説き続けます。死は終りではない。新しいいのちへの旅立ちです、彼女は一足先に天の御国に帰り、イエス・キリストの懐で憩うているのです、やがて私たちもそこに行き、彼女と再会するのです。御国には地上のような苦しみも悩みも嘆きも涙もありません。そこで永遠に住まうのですと。
 
 そうだ、再会があるのだ。再び会えるのだ。二度と別離はないのだ。いただいている信仰が力強く働きだして、別離の悲しみを凌駕し、変わって再会の明るい希望が輝き出しました。私たちは、涙の目の奥に宿る希望の光を確認し合い、うなずき合いました。
  足下から、いのちを孕んだ希望の風が束になって吹き上げてくるのを感じました。

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日々の風から 大きな別離
 今年、私の教会では3つの葬儀がありました。今日の前夜式の主役は12月24日に誕生して12月13日に83年の生涯を走りきった美しき信仰の友です。私の母と似た年代でしたから、よく、お母さん、お母さんと呼んで親しいおつきあいをしてきました。ですから、私にとっては格別に大きな別離なのです。
 
彼女は40代半ばでクリスチャンになりました。38年前のことです。3人のお子さんを抱え、ご主人やお年寄りのいるご家庭で、ただ一人信仰を持つことは並大抵のことではなかったと思います。忍耐強い方でした。しかし歯を食いしばってというような悲壮感は見られず、むしろ楽天的でした。イエス・キリストに自分の人生も家族も夫もいっさい委ね、神に期待しながら、しなやかに、静かに歩んでいました。
 
よく祈り、よく聖書を読む方でした。よくいっしょに祈りました。私にとっては最高の祈りの友でした。

  明日は告別式。一日、彼女の地上での最後の時をともにすごそうと思います。 
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季節の風・りんごに寄せて その2
 りんごがおいしい。赤りんご紅玉は言うまでもないが、ジョナゴールドもいい。いちばん長い期間安心して楽しめるのはなんと言ってもふじであろう。王林はにおいがよいので時々欲しくなる。安いりんごは煮てデザートにする。白ワイン、レモン汁、お砂糖でじっくりと煮る。それにはシナモンは欠かせない。

 種類はさておき、りんごですぐ思い出すのは、ニュートンに万有引力発見のインスピレーションを与えた劇的できごとである。りんごには何の意図もなかった。ただ落ちたのだ。ひとえにニュートンが偉大なのだ。りんごにとっては思いがけない名誉だったにちがいない。

 トルストイの童話『くつやのマルチン』にもりんごが登場する。一人の少年がりんご売りのおばあさんのかごからりんごを盗んでしまう。マルチンは捕まえれてひどく叱られている少年をかばって、代金を払って助けてあげる。雪景色の白と赤いリンゴのコントラストが物語に生彩を加えている。トルストイはさすがだと感心してしまう。
 ウイリアム・テルが息子の頭上に乗せられたりんごを射落とすくだりには、ハラハラドキドキさせられたものだ。白雪姫には、毒りんごとして使われたが、りんごにとっては不本意なことだったろう。
 
人類の始祖アダムとエバが楽園エデンの園を追放されたのは、エバが禁断の木の実を食べてしまったことによるとは、聖書を読んだことのない人もよく知っている。ところがこの木の実をりんごと思っている人がいた。エバはりんごを取って食べたのだというのである。聖書は木の実と言うだけで、それが何であるか具体的には示していない。それがいつの間にかりんごになってしまうのはなぜだろう。木になっていて、いかにもおいしそうに見えるものと言えば、すぐりんごが浮かぶからだろうか。それほどに、りんごは世界中どこにでもある実に平凡な果物なのだ。それでいてだれにでも好まれ、よく食卓に乗るからであろう。

 近年、町の小さなスーパーにも世界各地のフルーツが賑々しく並んでいる。しかしそこにりんごの姿がなかったら何と寂しく物足りないことだろう。平凡だが、なくてならないもの、あるだけで人に安心感を与えるもの、それがりんごの存在だろう。

 りんごはなにも言わないけれど、多くのメッセージを発信してくれる。生き方にヒントを与えてくれる。りんごの周辺にはそこはかとなく希望の風がそよいでいる。

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日々の風から
 11日からは教会カレンダーではアドベント(待降節)第3週に入ります。会堂の前方に位置する講壇(牧師が説教する場所)の脇の机上に設置されたクリスマスクランツに、三本目のキャンドルが加えられ、先週、先々週のとともに点火されました。リース

今日の説教題は『ヨセフの信仰と神さまの愛』です。
ヨセフとはイエス・キリストの育ての父です。母がマリヤだとはあまりにも有名ですが、父の名がヨセフとは知らない人も多いでしょう。男尊女卑の色濃い人類の歴史に逆らうように、マリヤは聖母として特別な地位を得て賞賛されますが、彼の影は薄いのです。マリヤと同じくヨセフをも聖父としなければ不公平というものでしょう。神さまはイエス・キリストの地上の親としてマリヤだけでなくヨセフをも選んだのですから。

説教では、このヨセフがいかに深い愛と信仰に満ちた人であったか、彼の役割はだれもがたやすくできるものではないこと、さらにヨセフにもいや増して、神さまは無限大の愛で私たちを愛し赦し、しかも、いつまでもともにいてくださるお方であると語られました。

ヨセフはマリヤに比べると聖書の中でも登場する場面が少ない、地味で渋い脇役です。マリヤはイエス・キリストが十字架にかけられたその場所に居合わせましたし、お墓にも行きましたし、復活したイエス・キリストにも会っています。でもヨセフはキリスト降誕のあたりに顔を見せるだけで、その後の消息についてはなにも記されていません。後ろ姿さえ見えません。説教を聞いているうちに、ヨセフへの理解が深まっていきました。

同性として、ついマリヤに視線を向けることが多いのですが、片側からだけしか見ていなかったと反省しました。人間理解についても、主観や感情や自分だけの感性やセンスに偏っていることが多い、しかもそれに気づかないで得々としているのではないだろうかと、心の底をさぐられました。神さま理解も自分流が多いのはないかと。

そんな不完全な私のそばで、イエス・キリストは『わたしはいつまでも…ともにいる』と力と愛に満ちて宣言してくださっているのです。これが希望でなくて何でしょう。クリスマスのヒーローであるイエス・キリストは希望の風とともに降誕なさったまことの神さまだと改めて信仰を立て直しました。

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季節の風から・りんごに寄せて その1
 今、りんごがいかにもおいしい。秋になって果物がいっせいに店頭を飾り出し、どれもこれも味覚を刺激してくるが、りんごに再会するのを特に心待ちにしている。りんごはリンゴ、林檎と三通りの表記を持つ。みかんに次いで生産量が多いと辞書は報じる。種類の多さはみかんを越えるだろう。毎年、新しい名を付けられたりんごが生まれる。研究者と生産従事者の汗の結晶なのだろう。それぞれに個性があっておいしい。
 
 りんごはその食べ方にかじると言う表現が使われる。丸ごとかじる、皮ごとかじるなどとは懐かしい言い方だ。しかし今はあまり使われない。代わりに、りんごを一かけ、あるいは一切れ食べたと言う。一切れとは大きくて四分の一だろう。八分の一かもしれない。そうだ、昨今、りんごは大きくなったのだ。とても丸ごとは食べられない。りんごは大きく立派になってしまった。
 
 紅玉が好きである。紅玉は他の新種に比べて大きさではかなわない。昔ながらの姿かたちをしている。それがまたなんとも素朴で可愛らしいではないか。
 紅玉は酸っぱすぎて、堅すぎて…と避けられるらしい。その酸味と堅さがいい。それこそが紅玉の身上と言える。もう一つ紅玉が他をしのぐのは紅色だろう。あの深紅に惹きつけられる。小さい子どもがりんごを描くと真っ赤に塗る。赤いりんごとは、紅玉に源を発するのではないか。アップルパイは紅玉でなくてはならない。他にもケーキに使うのは紅玉だ。ジャムだって紅玉がいい。
  
 りんごが赤くなると医者が青くなる、ということわざがあると聞いた。また、毎日リンゴを一個ずつ食べ続けて心臓病がなおったと聞いたことがある。健康にいいと言うことだろう。離乳食によくりんごを摺りおろしてたべさせたものだ。
  
 終戦直後、一時、東京から漁村へ避難したことがあった。幼児の私には潮風が強すぎたのであろう、たちまち両頬が真っ赤になった。近所の悪童たちに、やーい、リンゴ、リンゴと囃された。懐かしい思い出である。甘酸っぱい思い出である。りんごの話題はつきない。日本だけでなく、世界中にりんごのドラマがある。ひとまず筆を置きます。

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日々の風から 早朝に祈る人々
 7日水曜日は早朝に開かれているお祈りの集まりに出席しました。会場は隣りの区にある教会の一室ですが、その教会だけの活動ではなく、全国組織の一つの集いです。年に一、二回、声がかかって証しに行きます。クリスチャンはイエス・キリストの福音を証しする使命に生きる者ですから、オファーがあれば喜んで馳せ参じます。まだ夜が明けきらず、寒気もきつかったのですが、心も体もふだん味わえないような新鮮ないのちで満たされるのを感じました。
 
 今回は、新約聖書の一節『神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです』を引用しながら、人生のドラマを通して体験したイエス・キリストの愛と導きを具体的に語りました。

 それが終わるとみんなでお祈りをします。黒板に祈りの項目が書かれています。この朝は、私の教会と牧師、教会員のためにまず祈りがささげられました。また、底辺に生きる人々のため、現在、緊迫した世界情勢のただ中にいる人々のために祈りました。
 
 その後に、朝食をいただきます。それがこのお祈り会の特色の一つです。一人の年配の婦人が前日から泊まり込んで準備をなさるのです。イエス様のためですからと、いつもにこにこと、朝食とは思えないほどの品数を揃えてくださいます。500円の会費ではとてもまかなえないでしょう。おそらく労力だけではなく財もささげてのご奉仕でしょう。
 出席者は多くはありません。杖をついている方もおられます。白髪の男女が目立ちます。みなさんはお若いときから今日までずっと祈りの火を燃やし続けてこられたのです。
 
 おおかたの人がまだまだベッドの中にいるとき、このような一握りの人々が祈りの手を挙げて人類の悲惨な現状を祷告し、平和と幸福を祈り続けているのです。日本中、世界中で、クリスチャンたちは人目につかない時と場所で、熱い愛の祈りをささげています。愛の神はこうした祈りに必ず答えられるでしょう。
 祈りには希望の朝風がそよいでいます。

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日々の風から 旧友を天に送る
 大切な友が天に帰りました。
 前夜式(一般ではお通夜にあたります)に参列しました。式場は彼が所属している教会のチャペル、司式者は何十年と彼を愛し導いてこられた当教会の牧師先生です。

 彼とは聖書学院の同期で、いっしょに入学し、同じ教室で、しかも偶然隣りどおしになって、以来、卒業まで机を並べました。その時すでに古稀に近い年齢でしたが、その後もちっとも変わらず、清潔感の漂う、モダンで洒脱、なかなかスマートな紳士でした。
 
 彼は苛烈な戦争体験を持っておられ、ジャングルの中をさまよっている内に米軍に見つけられて捕虜収容所に収容され、まもなく解放されて帰国できたそうです。収容所内でそれまでの栄養失調が改善され、太って帰ってきたと、笑いながら話されました。どんなに辛いことでも楽しいことにしてしまう術を心得ている方でした。悲劇を楽劇に変えられるユーモアとウイットを持ち合わせておられ、なによりもキリストへの熱い信仰を持っておられ、日本の男性としては珍しい方だなあと、尊敬していました。

 尊敬を越えて感動させられたことは、病弱な奥様を30年も介護され、学院の卒業式には車いすの奥様と列席したことでした。麗しい夫婦愛を目の当たりにして、私たちはうーんと、声もなく、目をうるうるさせるばかりでした。3年前に奥様の召天を見届け、書道家であった奥様の遺作展もりっぱになさり、それから、奥様を追って行かれたのでした。何と美しい生涯でしょう。
 
 式では、メサイヤの中のソロが歌われ、悲しみの中ではありましたが、一瞬天の窓が大きく開かれ、御国の風が吹き込んできたような、生命力を感じました。クリスチャンは、死後も神とともに永遠に生きるという死生観を持っています。ですから、悲しみの中にも期待があります。希望の風がそよいでいるのがクリスチャンの死であり、葬儀です。
 
 写真の彼は、見慣れたジャケットを着込み、これも見慣れた笑顔を向けていました。豊かな出会いと別れさらに天国での再会を与えてくださった神に感謝しながら、少し遠距離だったけれど、参列できてよかったと、重ねて感謝しました。

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日々の風から
 待降節2週目の12月4日は、友人の牧会する教会へ招かれ、礼拝で聖書のお話をしました。天気予報は今冬いちばんの寒さとか。多少北西へ向かう地域なので今冬初めてロングコートを着込みました。念のため携帯傘も忍ばせました。

 中年時代にそろって聖書学院を出られた友人ご夫妻は、近年、長年のお仕事を潔く整理して教会運営と宣教の働きに専心しはじめました。すばらしい生き方だなあとまず、その志に感動します。まだ決して大きな群れではありませんが、ここを神の家、教会として集ってくる方々をハート全開で歓迎し、キリストの福音を伝えています。教会のお父さん、お母さん役に徹するご夫妻の姿は美そのものです。

 とは言え、神に仕え、人に仕えるとは、生やさしいものではないでしょう。ただの信念や理想主義や一時の熱心だけではとてもできないことです。時間も経済も家庭も、つまり人生そのもの、自分のいのちを注ぎ込んでいるのです。いったい、ここまでご夫妻を駆り立てる原動力はなんだろうと、単純な疑問が生まれてきます。

 察しますに、ご夫妻には過去に確かな神との出会いがあったのです。人生の暴風の最中で、神に出会い、助けられ、救われて、今日があるのでしょう。キリストの圧倒的な愛を実体験したのでしょう。神から無代価で受けたこのプレゼントを、今度は他の人にぜひとも贈りたいと願ったのでしょう。356日昼夜を問わず、キリストの愛を配達するサンタクロースに志願したのでしょう。
ちなみに私は『救いは神からの贈り物』という主題で語りました。
 
 クリスマスとは、神が私たちに、イエス・キリストというとてつもないプレゼントを気前よく無償供与された出来事です。

 
 帰途は霙まがいの冷たい雨が落ち始めましたが、不思議に寒さを感じませんでした。教会の交わりからいただいたホットな愛の風が私を温めていたのです。

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日々の風から
 所属する教会のクリスマス行事がはじまりました。いつも皮切りは婦人クリスマス会です。12月最初の土曜日と決まっています。現役主婦、かつての主婦だけでなく、シングルの方もメンバーです。はじめに礼拝をささげ、その後は持ち寄りのパーティーをします。
 
礼拝では、今回は外部から一人の講師をお招きして貴重なお話を伺いました。三十代の女性ですが、かねてからの志を貫いて、来春エチオピアに渡るそうです。飢餓を救済する国際的な組織から派遣されていきます。現地の状況をスクリーンに映しながら語ってくださいました。世界の飢餓についてはメディアもよく報道していますが、実際にみてきた方が目の前に立って語られると、はるかに強く心打たれます。世界の飢えの現状は、1分間に17人(うち12人が子ども)、1日に2万5000人、1年間では1000万人の人が飢えのために生命を失っているとのことです。身震いするほどの数字です。
 
講師の女性は聖書のことばに迫られて決意をしました。
『世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう』。
神の呼びかけに素直に勇敢に従っていく姿に感動し、尊敬の念を抱きました。 
 
彼女のまねはとうていできないけれど、その働きが実り豊かなものになりますようにと、一同で神さまに熱い祈りをささげ、お財布を開いて支援に参加しました。持ち寄りのご馳走の一部は、入院中の教会員や介護の家族へと届けられました。こうした愛の行為の中にいると、心のなかに暖かい熱いものがあふれてきて、穏やかなやさしい思いになります。

クリスマスの主人公イエス・キリストは『あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい』と言われ、ご自分のいのちさえ惜しみなく与えてくださいました。クリスマスには愛に満ちた希望の風が勢いよく吹いています。

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日々の風から
 2005年のlast month 12月に入りました。12月のもう一つの名は師走といい、ふだん落ちついている先生まで走る多忙な月だからと、よくその由来を聞きます。先生でもなく、貧乏暇なしとばかり、いつもあたふたとしている私などはなおさらなのは当然なのかもしれません。でも、どこかで、忙しがって喜んでいる気がしないでもありません。
 
しかし本当のところ、12月は師走ではなく、クリスチャン走る月と言い換えたいと思うのです。教会は12月25日だけが特別の日ではありません。24日の燭火礼拝はもちろんのこと、子どもクリスマス会、ジュニアクリスマス会、青年クリスマス会、壮年クリスマス会、婦人クリスマス会、クリスマスコンサートなどなど、一つの教会だけでも5指をこえる特別なプログラムがあります。その他教会外のたくさんのキリスト教団体がクリスマスの行事をします。それらに参加したり、お手伝いしたりで、走り回ることになるのです。
 
そして、それがうれしいのです。楽しいのです。おなじみの讃美歌を口ずさみながら、12月は心弾む月なのです。12月には希望の風が軽やかな音を立てて生き生きとそよいでいます。神の御子、イエス・キリストが私ごときをまで救うために、降誕されたからです。

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