人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅その5 希望の聖母像と浜串教会、民宿えび屋へ

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その5

希望の聖母像と浜串教会、民宿えび屋へ

 

 

 

 

 

 

二つ目の教会、浜串教会に行く前に「希望の聖母像」を見に行きました。聞いていなかった場所ですが、教会が航海の安全と大漁を願って1954年に建立し1996年に建て替えたものだそうです。像は漁港の入口近く、五島灘に向かって突き出した岩場の先端に建っていました。像のそばに行くには岸壁を削って作られた曲がりくねった道を進むのです。道はところどころに波しぶきのためかぬかるんでおり、滑ったり転んだりしたら一大事ですので、おそるおそる一足一足慎重に歩きました。

 

辺りの岩場には波が轟音を立てて砕け散り、岩の裂け目めがけて生き物のように盛り上がって流れ込んでは引いていきます。柵にしがみつきながら見ていると吸い込まれそうで、ぞくぞくしました。聖母像にはライトはついていませんでしたが、船の上からは昼夜を分かたず見えて、漁師さんたちに大きな安心感を与えているのでしょう。プロテスタントの私たちにはこうした像には違和感があり手を合わせることはありませんが、心を鎮めながら、祈りの心で眺めてきました。

 

 

 

 

 

岩場の道を引き返してバス乗るとあっという間に浜串教会に着きました。おりしも祈祷会の最中だとのことでしたが、お許しを得て聖堂に入り、祈りの中に加えていただきました。迎えてくださった初老の女性が「今月はロザリオの祈りをしています」と教えてくださいました。ところで、「ロザリオの祈り」って、なんだろう。カトリックの集会についてはほとんど知識がありません。広々とした聖堂にはちらほらと信徒の方々が座っておられました。私たち20名も空いているベンチに座りました。前方で数名の子どもたちが大きな声で先導すると、会衆が祈りの言葉を唱えます。祈祷文の通りなでしょうか、しかし、聞き取れません。

 

しばらくすると日本語で祈っていることがわかり、じっと耳を澄ませました。聞き覚えのあることばに出会いました。主の祈りがあり、使徒信条があり、頌栄がありました。ところが、終わったかと思うとまた元に戻ります。それが延々と何回でも繰り返されるのです。いささか戸惑ってしまいました。時間がどんどん過ぎていくからです。宿に知らせてある時間があるからです。しかしそれは私たちの勝手な都合にすぎません。信徒の方々は熱心に時を忘れるようにして祈り続けました。私たちも最後まで参加しました。終わって、皆さんとお交わりをし、記念の集合写真も撮りました。聖堂内の撮影はここだけ許されました。

 

祈りを先導した子どもたちは最近洗礼を受けたそうです。びっくりしました。現に、伝道活動が行われ、実がなっているのです。教会は生きており、神は救霊の御業をなさっておられるのです。私たちは過去の歴史を見学に来たのでない、遺跡を見に来たのではない。今、正に生きている、活動している教会を訪ねているのだ、殉教者の血は無駄には流されなかったと改めて気づかされ、深い感動をおぼえて胸が熱くなりました。

 

浜串教会は外海地区から安住の地を求めて海を渡った信者が隠れ住んだ地域です。1899年、鯨捕獲の利益金で初代の教会が建立されましたが、その後老朽化したことから、1966年、海の近くに敷地を求め、現在地に新教会を建設しました。さらに教会から700m離れた港口に、先に見た「希望の聖母像」を建てました。

 

予定より小一時間遅れて、私たちは2日間お世話になる民宿「えび屋」に到着しました。

広間には夕食のお膳が並べられているところでした。

 

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅その4  五島のキリスト教史と最初の訪問、福見教会へ

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その4

五島のキリスト教史と最初の訪問、福見教会へ

 

 

 

 

 

 

今回の旅行の目的は『上五島のカトリック教会群を訪ねて』です。《カトリック教会群》です。有名な教会を一つ二つ見学するのではありません。上五島には今現在活動している教会が29もあるそうです。私たちはそのうちの10か所を巡ります。どうして、こんなに小さな島にそんなに多くの教会があるのでしょうか。そんな素朴な疑問が生まれます。

 

日本に初めてキリスト教を伝えたのは、ご存知の通り、スペイン人イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルです。彼は1549年に鹿児島に上陸し、翌年、平戸で宣教を開始します。ザビエルは2年ほど滞在して中国宣教に向かう途中で病のため亡くなります。その後、コスメ・デ・トーレスがザビエルの働きを継承します。そこへ合流したポルトガルの宣教師ルイス・デ・アルメイダが1566年に五島へ渡り、宣教活動をスタートします。これが五島とキリスト教の最初の出会いです。

 

五島の藩主宇久純尭(うくすみたか)はキリシタン大名になりますが、その後の秀吉、江戸幕府による禁教令のために五島の信仰は一掃されてしまいます。しかし一部の信徒たちは潜伏キリシタンになって隠れた確かです。1597年に秀吉の迫害によって長崎の西岡で殉教した26聖人の一人、聖ヨハネ五島は島の出身者です。

 

その後年月が経って江戸時代中期に、五島藩は大村藩領から開拓民を移住させます。1797年(寛政9年)、外海地方から108名が五島へ移住しましたが、ほとんどが潜伏キリシタンだったようで、五島におけるキリシタン信仰がひそかに復活しました。移住者が土地を与えられたことを知ると外海地方からは続々と3000人以上の人たちが渡ってきます。しかし、移住民たちは山間部の僻地や小さな入り江などに住んで小さな集落を作りました。潜伏キリシタンはこうした集落に隠れ住んで信仰を維持し、特に明治維新前後の激烈な迫害をたえました。

 

幕末の1865年、居留地長崎の大浦に建てられた天主堂に浦上の潜伏キリシタンがプチジャン神父に信仰を表明し、これ以降続々と長崎各地で多くのキリシタンが表に出てきます。ところが江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府は、「浦上四番崩れ」と呼ばれる過酷な弾圧を加えましTら。五島各地のキリシタンにも、長崎で指導を受けた信徒によってカトリックの教義が伝えられて、多くのキリシタンが信仰を明らかにしていきます。これに対して五島藩はキリシタンを捕え、「五島崩れ」と呼ばれる弾圧を繰り返しました。しかし政府は諸外国の圧力に屈し、1873年(明治6年)250年に及ぶキリスト教禁教令の高札を撤廃します。ここにようやく、キリスト教は晴れて日の当たる場所に出られるようになりました。

 

五島のキリシタン達は、キリスト教の信仰が認められると五島各地に次々と聖堂(教会堂)を建てていきました。教会は小規模のものが多いのですが、長崎にある日本最古のカトリック教会、国宝大浦天主堂建立直後に建てられて100年以上の年月を経ている建物もあり、その後建てられた新しい教会群とともに、今も五島のカトリック信徒たちが熱心に教会生活を続けています。今回の旅では、会堂で祈る方々の群れに加えていただくチャンスがありました。カトリック教会独特の祈りのスタイルをつぶさに体験し、考えらせられることが多々ありました。

 

最初の訪問、福見教会へ

ジェットホイルで下船した私たちはすぐに貸し切りバスに乗って最初の教会「福見教会」へと急ぎました。国道384号から右に折れ県道22号を10分ほど東に進むと五島灘に向かって立つ「福見教会」に着きました。教会は見上げるような階段を上ったところに建っていました。以後、多くの教会は岸壁のてっぺんか丘の頂上にあって、そのたびにため息をつくほどでした。

 

その代償のように眼下には青く深い海が広がって、塩の匂いを含んだ海風がそよいでいました。キリシタンたちは目を凝らしても見えない水平線のかなたの、福江島外海(そとめ)地区から、移住あるいは逃げてきて、ひっそりと集落を作ったそうです。教会の前にはどこも同じように統一された青地に白い文字で書かれた案内板がありました。またどこの教会にも鐘楼が建っていました。この教会の鐘は近くの「お告けのマリア修道会福見修道院」のシスター達が朝昼夕欠かさずに鳴らしているそうです。

 

≪教会と鐘の音≫は平和のシンボルとしてあこがれさえ掻き立てられますが、先輩キリスト者たちの血と涙とうめきの戦利品であることを忘れてはならないと心に銘じました。時刻は夕方5時になろうとしています。予定ではもう一つ、浜串教会へ行くことになっています。私たちは今度は急坂を下りてバスに乗り込みました。

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その3

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その3

 

 

 

わずか二泊三日とはいえ、今回は飛行機あり、船もありで、まさに空を飛び海を渡る大旅行です。五島列島は九州の最西端に位置し、東シナ海に浮かぶ大小140余りの島々の総称です。浮かぶとは妙な言い方でしょうが、地図をみても、実際に海路から眺めてもそう思えてしまいます。そのうち大きな島が5つあるので五島列島といい、その5つも大きく2グループに分けて、南の方を下五島、北の方を上五島と呼ぶそうです。2008年に福江島へ旅した時は、羽田から福岡空港、乗り換えて福江空港でした。国内線を乗り継いだことになり、すっかり忘れていましたが、この旅も大冒険でした。

 

上五島は主に若松島と中通島からなり、総面積は213㎢、人口は約2万人。そのうち四分の一はカトリック教徒です。四人の一人が信者とは驚きです。うらやましい限りです。面積と人口ですが、東京23区が621㎢、人口はなんと約1千万人。面積はわずか3倍なのに、人口は500倍です。東京はすさまじいばかりです。

 

24日初日は、羽田空港の集合が朝8時半です。4時起きで家を出られた方もおられました。朝食なしだったかもしれません。しかも「旅の栞」には昼食はあらかじめ各自用意、機内または長崎空港までのバス中でいただくようにとありました。旅とは食事一つ考えても非日常です。こうした緊張感がずっと続くのが旅というものなのかもしれません。人ごとのように言えるのは、なんといっても20人中、羽田には私が一番近いからです。炊き立てのご飯で朝食し、昼食のおにぎりを二つ作ってバッグに詰め込みました。そのおにぎりを私は機内でいただきました。折よく、サービスの飲み物の中に「あご出汁」のスープがあり、飛びついたわけです。ところが隣のS姉は、空港で買った、テレビで紹介していた○〇肉の高価なすき焼き弁当を広げました。これもまた旅の一興かも。姉妹は旅の楽しみ方を知っておられる、旅の達人です。その隣のK兄は長崎に着いたら買うと、我慢?しておられました。

 

「ソラシドエア」は初めてですが、こぎれいですてきな機内でした。

 

長崎空港はこじんまりとしており、すぐに迎えのバスのトライバーさんと会えました。貸し切りバスなので安心です。乗り込むとすぐに港へ走り出しました。まずは第一の関所であるフライトを無事通過、大型バスにゆったりと身を沈ませながら小さく一息つきました。

 

午後2時、定刻通り長崎港を出港したジェットホイル「ペガサス号」は、75分、滑るがごとく海面を走り、15:15に奈良尾港に到着しました。船につきものの揺れは少しもありませんでした。空は快晴、さすがに東京より南西方向のせいか暑い、のひとことです。日差しは強く、風はかなり湿度が高いと感じました。思わず、用心のために忍ばせてきた夏の帽子を取り出しました。

 

下船すると、今度は三日間お世話になるバスが待っていました。このバスこそ、旅の本命である教会群へと案内してくれる強力な足です。今回の旅行には都合で旅行社から派遣される添乗員がいません。しかし島内巡りにはドライバーの他に「巡礼ガイド」といって、ボランティアの方でしょうか、ガイドさんが付き添ってくださることになっています。バスは中型かと思っていましたがデラックスな大型です。二人掛けを一人で使っても十分な余裕です。それでも班ごとに手際よくつつましく着席しました。

 

ところが、ところがです、ハプニングです。どうしたことか「巡礼ガイド」さんがいません。一瞬、そんなバカなことが〜〜〜と顔がこわばりました。団長のH氏があわてて東京の旅行社まで電話しましたが、手違いで、明日からだそうです。これから2つの教会見学がまっている、大事なスタート地点です。

 

しかし私たちは大して気にしていません。2つの教会は確かにこの島の、しかも遠くないところに存在し、そこに確実に連れて行っていただけるはずです。そこにはおそらくいくつかの掲示板があって、概要はわかるでしょう、いちばん大事なことは実際に現地に立って自分の目で見ることですから、今日のところはそれで良しとしましょうとそれぞれに納得しました。急きょ団長のH氏がにわか「ガイド」を宣言し、車内は笑いにつつまれ、島特有のきついアップダウンの多い道を北上しました。国道384号です。最初の教会は福見教会と言います。

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その2

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その2

 

 

 

 

2008年に、五島列島の下五島と呼ばれる福江島へ渡りました。今回と同じように2泊3日でしたが、島へは初日の一泊だけ、もう一泊は雲仙に泊まり島原など殉教の跡をたどりました。そのときにH氏が、次回はぜひとも上五島へ行きたいと、力を込めて言っておられました。その声を記憶はしていましたが、8年後に実現するとは、正直のところ思っても願ってもいませんでした。しかしH氏はずっと祈っていたようです。今回は自ら団長を引き受け、旅行社と掛け合い、ふさわしい旅程が出来上がり公募に至りました。

 

私はこの春に北海道へ行ったこともあって、今度は九州に行きますとは、さすがに気が引け、なによりも自分自身との折り合いがつかず躊躇していました。しかし2008年以来の仲間たちが当然のごとくに次々に申し込み、私が行くのも当たり前に思っておられる様子、ついに手を挙げたのでした。なんだかいやいや行ったみたいで言い訳がましいのですが、そんな葛藤がありました。だれに反対されるのでもなく、大きな支障があるわけでもないのですが、しばらくうじうじとしていたのです。さて、心が決まればもう迷いは雲散霧消、もともと親しき友であるH氏からの要請もあっていつもの力強い旅友Aさんと雑務を担うことにもなりました。

 

今回の旅程は単純です。飛行機で羽田⇔長崎空港、ジェットホイルで長崎港⇔奈良尾港。島内は3日間貸し切りバスです。宿泊も一か所の連泊です。こうして文字にしてみると、ああ、そうなの、らくそうねと思われてしまいそうですが、旅にハプニングはつきもの、絵に描いた餅のようにはいかず、餅がのどに詰まるようなこともありました。

 

 

 

三日間の旅程を記してみます。

10月24日・月曜日、8時半羽田国内線乗り場集合→Fチャプレンによる団結式→フライト→長崎空港(12:30)→貸し切りバスで長崎港→ジェットホイルで奈良尾港(15:30)→貸し切りバスで福見教会→浜串教会→若松島神部港の前、民宿えび屋へ(18時)

 

10月25日・火曜日、8時えび屋発→徒歩で神部港→海上タクシーでキリシタン洞窟ハリノメンド→若松港→貸し切りバスに乗り換えて中ノ浦教会→大曽教会→鯛の浦教会→扇寿で昼食(12時)→頭ケ島天主堂→冷水教会→青砂ケ浦教会→江袋教会→仲知教会→えび屋(18時)宿泊

 

10月26日・水曜日、8時、えび屋発→若松大橋→車窓から桐教会→奈良尾港(10時発)→ジェットホイルで長崎港(11:10)→大波止から普通のバスで長崎空港へ(13時)

→ここで解団式、自由時間→15:25フライト→羽田空港17:05着。

 

3日間これ以上ない上天気だったのは感謝の一言に尽きます。旅は何と言っても晴れが最高です。高齢者ばかりの旅なので神はあわれんでくださったと、聖名をほめたたえました。

 

 

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上五島のカトリック教会群を巡る旅

上五島のカトリック教会群を巡る旅

 

24日月曜日から26日水曜日まで、念願の上五島カトリック教会群を訪ねる旅に参加してきました。所属するお茶の水聖書学院同窓会が一年をかけて企画主催したものです。20名の仲間たちといっしょでした。いつも年齢ばかりを話題にしますが、集約すると全員が70代です。三日間最高の上天気、さすがに五島は九州の先の東の海の中にあり、温かく湿った空気が流れ、東京とは3〜4度の差があって、一か月くらい前のような感じを受けました。長崎県に属し、長崎港から船に乗ります。

 

島の南から北まで、バスは曲がりくねった山道坂道を走り、私たちは、岬の先端や山のてっぺんに建つ教会目指して、急な階段を上がり下りして、歴史を訪ねつつ、誇り高くそびえる教会に、キリストのいのちを目の当たりにする時をいただきました。今日は予告編です。これからおいおいに旅日記を記していきたいと思います。

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旅の風から その6 北海道の旅 最終日は函館

旅の風から その6 北海道の旅 最終日は函館

 

 

 

 

 

 

瀬棚町滞在時間はわずかです。前日の午後4時半にバスを降り、翌日の午前11時半には帰途のバスに乗りました。見学のためだけに使った時間は前日が30分、翌日が2時間半です。こうしてきっちり計算してみるとたった3時間のために1000キロを超えてやってきたのです。ふと、在原業平の『〜〜〜はるばる来ぬる 旅をしぞおもう』が浮かび、胸に染み入るものがありました。

 

瀬棚⇔長万部は、現在はバスしかありませんが、友人が言われるにはかつては瀬棚線として鉄道があったそうです。鉄道の起点は国縫駅、昭和4年に開通し昭和62年に廃線になりました。バスはその代替なのです。もし、鉄道の瀬棚線に乗れていたら、旅情は倍加し、実際に涙があふれたのではないかと思いました。

 

瀬棚は登山に例えれば山頂です、それを極めて充分に感動を味わい、後はもと来た道を戻るだけ、しかも最後に寄るのは函館です。函館へはすでに来ている友もいれば、日ごろから耳に入ることも多く、まったくの未知の地ではありません。なにしろ瀬棚に行ってきたのですからこわいものなしです。『行きはよいよい 帰りはこわい』ではなく、『行きはおそるおそる 帰りはるんるん』です。長万部で函館本線を待つ85分も、プラスチックベンチも気にならないので我ながらあきれてしまいました。

 

函館でもゆっくりできるわけではありません。夕方、到着したその足で駅構内の観光案内所へ行き、夜景観光の準備をしました。函館山山頂まではバスで行くことにして乗車券を購入、かなり混んでいるとのことで、早めに行くことにしました。そのためにはホテルでゆっくりとディナーを楽しむことは断念、構内のレストランで大急ぎで夕食めいたものをお腹に詰め、ホテルに着くと、部屋に荷物を置くだけですぐに夜景観光に出かけました。まだまだ日は高く、夜の闇に包まれるまでにはだいぶ時間がありますが、さすがに函館です、外国人観光客も多くおられ、展望台はびっしりと人の山でした。

 

 

 

翌日は二か所だけ見学することに決めていましたので、バスに乗り込んで巡りました。一つは五稜郭、もう一つはトラピスチヌ修道院、こちらは女性の修道院です。五稜郭は明治維新最後の戦いの場所です。昨今、幕末の歴史に捕えられているのですが、今回は瀬棚の荻野吟子が主役ですから、幕末はひとまず秘めておくことにします。

 

 

 

 

 

修道院訪問は旅の締めくくりにふさわしいところだと、院内の庭を巡り歩きながら気が付きました。終始同行された神様は、私たちをここに導いてくださったのだと悟りました。入り口近くの「旅人の聖堂」に入り、明るくて清潔で穏やかな空気に包まれたベンチに腰を下ろして、皆、しばらくこうべを垂れました。旅の緊張や疲れがいつの間にか消えて、主を讃える喜びで満たされました。こうして二泊三日の老女たちの旅は、初めのハプニングは笑い草に変わり、次回の機会を願いつつ、一路東京へ向かう「はやぶさ26号」の人となりました。

 

 

 

北海道で出会った荻野吟子については、まだまだ時間をかけて咀嚼、熟成の時が必要です。

しばらくしたら、借り物ではない「私の荻野吟子」が生まれてくると期待しています。

 

 

 

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旅の風から その5 二日目 瀬棚町・荻野吟子の活動記録

旅の風から その5 二日目 せたな町・荻野吟子の活動記録

 

   民宿「マリン倶楽部」部屋のガラス戸越しに

 

 

 

 

瀬棚町目指して東京から1000キロ旅してきましたが、滞在はかりそめの一夜のみで午前11時半には再び長万部へUターンするべくバスに揺られることになります。宿では昨晩と同じように海の幸あふれる朝食が供されましたが、楽しむ暇もなく瀬棚町郷土館へ急がねばなりません。開館は10時。ところが総合支所に吟子女史の写真が掲げられているとのことで、まずそれを見に行くことにしました。そこから資料館です、できればもうひとつ、最近建てられたという開業跡地にも行きたいのです。これら3つはわりあい近い範囲にありますが、徒歩移動です。ごろごろとスーツケースを引きながら歩くのは老体には大きな負担です。それを見かねたのか、なんと感謝なことに、宿のご主人がバスの時間を見計らってバス停まで運びましょうと申し出てくださいました!私たちは目を丸くしてほんとですかと歓声をあげました。かくして5つの重荷を宿の玄関に置き去りにしたまま、バッグ一つで支所へと急ぎました。

 

写真があるのはお役所のどのあたりかと、おずおずと入りますと、オフィイスに入る一番手前の一番目につくところに、まるで私たちを出迎えるように額入りの吟子女史の写真が掲げられていました。若き日の写真です。どこでもゆかりの場所には必ずある、女医試験に合格した時の凛々しい半身像です。もっとも当時はこれ一枚撮影するのも簡単ではなかったでしょう。ずっと和装で過ごした吟子でしたが、この時ばかりは一大発奮したのでしょう、まるでこれから鹿鳴館のパーティーにでも出かけるような、青地に袖や衿から胸元を赤いモールでトリミングしたロングドレスを仕立てたのです。吟子女史の心意気が伝わってくるような一着です。もっとも写真はセピアがかったモノクロ一色で古びていましたが。

 

胸が熱くなるのを覚えながら、数分佇んだでしょうか。その間にいくつもの思いが浮かんだり消えたりしました。私は吟子女史に語りかけていました。

 

「あなたは、あの写真を撮った時と同じ新鮮で熱く清い志を秘めて北の国に来たのですね。世の人は、若い夫の後を慕って、その恋情だけでせっかく手に入れた名声を投げ捨てて追いかけてきたと悪しざまに言うかもしれないけど、私はそうは思いませんよ。確かに夫なる人を恋い慕ったのは事実でしょうが、それってまちがっるでしょうか。物笑いの種でしょうか。いのちを賭けて一人の人を愛するのは最も人間らしい美しいことだとおもいます。恋と呼ぶ愛であろうと、慈愛と呼ぶ愛であろうと、対象が夫であろうと、親であろうと、友人であろうと、果ては敵であろうと、人を自分のように愛すること、それ以上に、自分を捨てて愛すること、それこそ神が望まれる愛ではないでしょうか。

 

吟子さん、あなたは、その真実を固く握り、実行できる意志と信仰と愛を与えられていたのですね。こちらに来てからはいっそうその愛を発揮して、地域の人たちのために東奔西走されましたね。淑徳婦人会を組織して地域の婦人教育に取り組み、日曜学校を開設してキリストの愛を伝道しましたね、多忙な医療活動の傍らで。病人のためには雪の中を夜遅くまで往診され、そんな時、馬の轡を取って馬上のあなたを守ったのは最愛の夫であったとか。人は下男を連れていると思ったそうですね。人が何と言おうとあなたの魂はみことば一色に燃えていたのでしょう。『人 その友の為に己の命を損つる 此れより大いなる愛はなし』

 

私たちがこれから郷土館に行くのを知った若い男性の職員さんが、気を効かせてくださり、10時前にオープンしてくださるとのこと、私たちはここでも歓声をあげて、小走りに彼の後を追かけました。時間は刻々と進んでいますが予定通りです。館内では思い思いに吟子女史の遺品や写真に見入りました。吟子の聖書や愛読書や手帳などに惹かれました。よく書く人だったのです。そういえば本郷時代は、診療を終えると夜遅くまで聖書を書き写していたとか。みことばが自然体で心身に刻みこまれていったことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後のスポットはせたな町での医院開業の跡です。3メートルは優に超える木製の記念碑がすっきりと建っていました。簡単なものでしたが、せたな町の吟子への尊敬と愛着が伝わってきました。しかしこうした顕彰や賞賛の場所が造られたのは後世のことです。当時は吟子が日本初の女医であることさえだれも知らなかったのです。吟子は人に自分を吹聴するような人ではありませんでした。東京時代の名声などおくびにも出さず、黙々と持てる能力、経験を精一杯地域に役立つ形で使ったのだと思います。後年、東京女子医学校を創設した吉岡弥生は吟子のことを「輝ける埋没」と評して偉大な先駆者として称えています。また「名誉ある沈黙」とも言われました。

 

 

 

せたな町教育委員会発行のパンフレットの表紙には『荻野吟子 志方吟』と明記されていて、ハッとしました。確かに『志方 吟』なのです。北海道の吟子は『志方 吟』なのです。

私の中の荻野吟子像にその大事な一面をもっと加えなければと思い至りました。

 

さようなら せたな町 荻野吟子の町瀬棚町

 

                        長万部へ走るバスから

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旅の風から その4 せたな町の誇り 荻野吟子の存在

旅の風から その4 せたな町の誇り 荻野吟子の存在

 

 

 

はるばると旅してきたことを実感させてくれるのが時間の経過です。朝8:20分はやぶさ5号で東京駅を経ち、最後100分間のバス移動を経て、バス停「瀬棚」に降り立ったのは16時半でした。約8時間、歩いたり、立ったり、座ったり、揺られたことになります。

これだけのプロセスがありますと、ああ、やっと、やっと、ようやく、ついに辿り着いたのだと、喜びが吹き出し達成感に満たされます。思わず笑顔を見合わせて「ハレルヤ!感謝します」が飛び出しました。今夜の宿は港のすぐそばの民宿「マリン倶楽部」です。情報源はネット検索。すべてBBさんが手配してくださいました。この周辺に「荻野吟子」ゆかりの場所が集まっています。宿に入る前に、第一の見学スポット「顕彰の碑」に急ぎました。一番願っていた場所です。そこは吟子公園となっていて、小さな場所に吟子の顕彰碑のほかに吟子の立像、十字架の形にした石板に刻んだ抄記も併設されていました。つい昨年、公園として一つにまとめられたようです。埼玉県の妻沼俵瀬にも同じように吟子公園があり、顕彰碑がありますが、形がだいぶ違っていました。

 

和装の吟子胸像の背面には愛唱聖句「人、其の友の為に己の命を損るは、此れより大いなる愛はなし」(ヨハネ伝15章13節)を縦書きに刻んだ石板が掲げられ、土台から胸像と聖句板全体は分厚い石を積み上げた堅固な石造りの囲いで覆われていました。囲いの中央部分には十字架が細く長く刻まれていました。おそらくここは雪も積り風も強いので、それらから守るように造られているのでしょう。顕彰碑の前で写真を写し合い、しばらく佇みました。おりから日が沈む時刻なのか、もう一つの洋装の吟子像は黒々と力強く逆光の中に屹立していました。町の人々が少ない吟子の資料を寄せ集め、愛をこめて造園したのではないかと、その思いが伝わって来るようでした。

 

 

 

公園の一つ一つを目と心に焼き付けて、徒歩で10足らずの、お宿、民宿「マリン倶楽部」に到着しました。概観は洋風、二階建て和室7部屋の清潔感に富んだ建物でした。売りは瀬棚の海で取れた新鮮な魚介料理です。大いに期待していました。緯度が高いせいかなかなか日が暮れません。夕食前に吟子公園のそばの「温泉」に行きました。宿のご主人の車で往復です。8時間行軍の疲れが一度に解消しました。お部屋の窓から海と港が見え、船の姿もちらほらと垣間見えました。一階の食堂で、食べきれないほどの魚介料理をいただき、その後、二つのうちの一部屋に集まって、一人一人が証しをし、就寝時間オーバーの分かち合いが続きました。

 

 

 

 

 

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旅の風から その3 渡島半島をバスで横断

旅の風から その3 渡島半島をバスで横断

 

 

函館新北斗で新幹線を下車、函館本線特急スーパー北斗に乗り換えて約一時間、内浦湾沿いに走った列車は長万部で私たちを降ろすと札幌へ向かって走り去りました。その間、できるだけ車窓からの外の風景に目を凝らしました。列車はある箇所では入り江の縁を波打ち際すれすれに走ります。全くの自然の浜で、よく見かけるテトラポットも護岸の堤防もありません。もちろん人家も見かけません。大波が来たら列車に水しぶきがかかるような近さです。向きを変えたらそのまま海の中へ進めそうです。見たことのない風景に感動と言うより驚きと不安がよぎりました。この地域に津波はこないのでしょうか。無防備すぎるのではないかと、地震や津波などの災害アレルギーになって自分を発見したことです。もっともあとは原野の中を列車だけが走っているので、何が起こっても被害は少ないのかもしれません。

 

長万部駅の駅舎や駅前は在来線ならどこにもある風景です。時どき下車する信越線の磯部駅、中央本線の日野春駅によく似ていました。しかし、人影はまばら、駅前にはお土産店や食堂があるのではないかと期待していましたが、シャッターが閉まったり、開店していなかったりで、うら寂しさが漂っていました。バスを待つ70分、駅前のカフェで一息つけたらとの思いはむなしい夢と消えました。かろうじて構内の売店が開いていたので、長万部限定のソフトクリームに飛びついたことです。さっぱりとして美味しかったこと!!それに女5人の辞書に退屈と言う言葉はありません。プラスチックのベンチに身を寄せて、話の泉の枯れることはありませんでした。

 

函館バスの定期便は終点せたな町までの約70キロ、国道230号線をひた走ります。私たちだけの貸切バスのようです。途中、短区間の乗降客がちらほらいましたが、申し訳程度です。赤字路線の見本みたいではないかとついつい余計な心配をしますが、朝夕には学校の生徒たちが利用すると、運転手さんはゆうゆうとしていました。

 

走り出してまもなく国縫(くんぬい)という地名が道路標識に見えてきました。ドキンとしました。そこもまた、荻野吟子ゆかりの地なのです。拙著「利根川の風 荻野吟子の生涯」にはわずかしか書きませんでしたが、おそらく吟子が苦渋の涙を隠したまま往復した場所ではないかと思うのです。

 

荻野吟子は日本初の公認女医第一号の栄光に輝き、志も高く意気に燃えて本郷湯島三組町に「産婦人科荻野医院」を開業、玄関には足の踏み場もないほどの履物が並び患者が押し寄せ、大評判の女医さんでしたが、数年も経たないある時、志方之善という若き伝道者に出会い、同じキリスト信仰に燃えていたことから結婚、北海道にキリスト教の理想郷を建設するビジョンに賛同し、東京でのすべての医療、社会活動を捨てて、利別川流域の原野に入植していきます。そこは現在、今金町神丘と名がついていますが、当時は前人未到の原野でした。想像を絶する北の国の厳寒、自然との熾烈な戦いの中で、怪我人、病人、死人の続出する中で吟子は医療にフル回転するのですが、夫が信仰の違いから開拓に挫折します。

 

やがて彼は半島の東部にあたる国縫のマンガン鉱採掘に活路を見出そうと、妻吟子と、養女トミ、この子は志方の姉夫婦の遺児です。姉夫婦は開拓の犠牲になり子供を残して死んでしまうのです。吟子夫婦はトミを養女にして育てます。幼いトミを背負って今金から国縫に移住します。バス路で4,50キロはあるでしょうか、今でこそアスファルトのきれいな道を大型バスが走っていますが、当時は道があったのでしょうか、馬を使ったのでしょうか、そこを、落人のように辿る三人を、いや、吟子の胸中を推察すると、あわれを感じないではいられませんでした。にわか鉱夫志方になにができたでしょう、彼らは半年もたたないうちにもっと落ちぶれて再び今金に戻ります。吟子は開拓地から西に下った古くからのニシン漁の港町瀬棚で「荻野医院」を開設します。吟子はこの地でようやく本業に専念します。

 

私たちは、そのせたな町を目指しているのです。バスの道、国道230号線は舗装された立派な道ですが、原野の一本道だとありありとわかるように、両側は丈の高いくま笹がびっしりと覆っていました。さすがに今金辺りからはひろびろと眺望よく開け、なんと水田が青々と果てしなく広がっていました。北海道に田んぼとは、つい近年まで考えられなかったことでしょう。昨今は稲の品種改良、温暖化の影響もあって北海道のお米のおいしさは定評があります。しかし水田の底には、開拓民の血と汗と涙も浸みこんでいるでしょう。

 

 

 

 

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旅の風から その2 北の国へ 初めての北海道新幹線

旅の風から その2 北の国へ 初めての北海道新幹線

 

2泊3日の北海道の旅ですが、今回のメイン訪問地は久遠郡せたな町です。町にはたいへん失礼ですが決して有名な観光地ではありません。交通の便も良いとは言えません。函館と旭川間を走る函館本線の長万部で下車すると、せたな町までは一時間に一本のバスしかありません。国道230号線を東から西まで渡島半島を横断するのです。それでも私たちは時間のロスを覚悟で鉄道を選びました。ひとえに北海道新幹線の魅力に勝てなかったのです。

 

ところが、新幹線を選んだばっかりに、早々からハプニング続きでした。私たちの旅は手作りです。既成のツアー参加型ではありません。列車のチケット購入から宿泊先探し、予約、日程もすべて自分たちで決めていきます。もちろん有能なるBBさんがプランしてくださるのですが、時に検討し合って決めていきます。互いのコミュニケーションはメールだけ、ちなみに全員の携帯はガラケー、メールはCメール固守です。まずは列車のチケットと宿泊先の確保です。あらかじめ打ち合わせておいた列車とホテルをめいめいで手配するのです。

 

ハプニングの第一は、函館のホテルが満室で断られたことです。早々に躓きました。団体かあるいは外国の観光客に先を越されたかと驚いてしまいました。幸い、第二希望で全員が予約できました。ところがハプニングには続きがありました。指定した新幹線のチケットが往復とも満席で取れないのです。一か月前の発売日の朝一番のことです。全列車指定席で空席がないとは、それ列車が使えないことです。これには途方に暮れてしまいました。私はあらかじめ旅行会社に頼んでいましたが、その日の夕方になって、予定の列車が取れたと連絡をいただきました。友人たちからも同じ報が入ってきて、何とか取れたとのこと、そのかわり座席はバラバラで、車中の楽しみが少なくなりました。

 

ハプニングは第三と続きます。東京駅から新函館北斗まで、かっきり四時間二分、JR東日本が売りまくったキャッチフレーズの通りに列車はまことに快適に終点につきました。途中、車内を観察しますに、下車する人がいると必ず次の人が乗り込んできてそこに座し、決して一つも空席のままはありませんでした。コンピューター管理の威力でしょうか。さて、下車するとすぐに次の函館本線スーパー北斗に乗り換えて長万部まで行きます。乗り換え時間は10分です。新幹線から在来線に乗り換えるのは一仕事です。在来線までの様子がまったくわからないのでドキドキします。

 

下車した人たちの多くは海外旅行のような大きなスーツケースを曳いていました。その他の人たちも小さめのキャリーバッグです。8両の車両から大荷物の人たちが出口に殺到したのです。さすがに東京駅でも見られない風景です。しかもその人たちのほとんどが在来線めがけます。構内は真新しくてすてきですが、使い慣れていないのが明らかです。駅員さんたちが、です。

 

函館本線は札幌行と函館行になりますが、どうも同じひとつホームなのです。頭上のロープに洗濯物のようにひらひらと舞う小さなカードが目印です。しかしそんなものをゆっくり眺めている暇も場所もありません。私たちの列車はすでに目の前に停車しているらしいのですが、乗り込む車両の位置がわかりません。係員に訊きたくても見当たらず、そのうちに発車の合図、乗り込み口は人であふれています。皆さん車両番号を探しているのです。そのうちに女性の大声がしました。「とにかく乗り込んでください。中に入ってください」これは駅員ではありません、見かねた女性の声でした。私たち5人もバラバラになってしまいました。まるで終戦直後の風景のよう、あるいは昨今映像で見る難民のようだと思いました。

 

車内はごった返しています。前方に行きたい人、後方に行きたい人が右往左往です。列車はすでに走っています。それが、揺れる列車なのです。こんなに揺れる電車に乗ったことはありません。線路が悪いのか、列車が古いのか、とにかく立っていられないくらいです。しかし目指す場所へ行かねばなりません。通路は人であふれ、しかも大荷物。キャリーがぶつかり合い、身動きが出来ません。重いケースを抱きかかえる有様です。10分後の大沼公園でようやく着席できましたが、その10分間の長かったこと。とてもとてもたかが10分とは思えませんでした。しかし座してしまえば一瞬で眉間のしわも消え、笑顔がもどり、笑い声さえ出てきましたが、まさに一大冒険でした。ハプニングはこれで終わり、ではありません。またまた想定外が待っていました。(そんなわけで写真どころではありませんでした)

 

 

 

 

 

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