聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その14

  • 2009.02.27 Friday
  • 11:28

第11段 カーフ

この段は119篇のクライマックスではないだろうか。一番好きな個所である。好きというのは適切な言い方ではない。一番親しみを感ずると言い換えたほうがいい。詩人が置かれている状況に似たものを見、その心中に共鳴するからだ。こうして詩人の祈りは私自身の祈りとなる。

 

119:81 私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。

私はあなたのみことばを待ち望んでいます。

 厳しく苦しい状況が続く時、戦っても問題の山の高さは変わらずどうにもならない時、心も体もすり減ってぼろぼろに感じる時、信仰者は一心に神に近づいていく。残された道は神様にしかないからだ。魂が一心に主に向く時、主を慕う熱い思いが込み上げてくる。主を、みことばを、求めて狂おしいほどである。

 

 119:82 私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。

  「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と言っています。

 魂の渇仰を知ってくださり、満たしてくださるのは神様だけ。詩人は主からくる慰めを切望している。一時も早く主の臨在とみ声を聞きたいのだ。主と語りたいのだ。

 

 119:83 たとい私は煙の中の皮袋のようになっても、あなたのおきてを忘れません。

 皮袋とは水やぶどう酒を保存する容器である。煙の中の皮袋とは、古くなって、使われなくなって、台所のかまどの上にでも吊るされているものを指すのだろう。もう容器としての役には立たなくなり、やがて忘れられて廃品になるようなあわれな有様でも、詩人は主の御前に最後の力を振り絞るように声をからしてあなたを忘れないと告白している。

この信頼と信仰の力には驚嘆する。

 

119:84 あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。

  あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。

 自分のこの世での生はいつまでなのか。先が見えているように思われる時がある。その限界を感じるときがある。焦りを覚える時もある。現状が膠着し希望が見えない時は特にそう思う。そして、あの事件はどうなるのだ、生きている間に自分を苦しめてきた人たちの結末を見たいものだとおもう。主は必ず正しいさばきをして決着をつけてくださるお方だ。自分の生涯の終わりと敵の裁きの時を尋ねずにはいられない。

 

 119:85 高ぶる者は私のために穴を掘りました。

  彼らはあなたのみおしえに従わないのです。

 詩人は抑えていた心を開けて、自分を迫害し痛めつけ、高慢にふるまう者たちの仕打ちを率直に主に訴えている。彼らは滅ぼそうと穴を掘ったのだと。彼らは神の教えには従わない不信仰な不埒な者たちだと訴えている。主にこのように祈るのは決して人の悪口を言っているのではない。愚痴を言っているのではないとおもう。彼らのしていることは単に私へのことだけではなく、主を軽視、無視しているのだ、不従順であり不信仰なのだといっている。神に訴えるのはひとつの信仰表現ではないだろうか。

 

119:86 あなたの仰せはことごとく真実です。

  彼らは偽りごとをもって私を迫害しています。どうか私を助けてください。

神のみことばこそ唯一絶対の真実である。詩人は大胆に告白する。迫害者は嘘を言っている。嘘で固めて暴力をふるってくる。それがわかっていながら、戦うすべをもっていない。いや、あえて戦いたくはない。それよりも主に助けていただきたい。主の助けが一番である。詩人はそう確信して、主にSOSを発信している。

 

 119:87 彼らはこの地上で私を滅ぼしてしまいそうです。

  しかしこの私は、あなたの戒めを捨てませんでした。

 嘘で固めて迫害し、陥れようとする。じっとしていては勝つ当てはない。このままでは命まで奪われてしまうだろう。危機的状況である。立ちあがって正義の剣で反撃したい。もしかしたら勝てるかもしれない。そうした衝動に駆られる時がある。しかし詩人は忍耐する。どんなときも主の戒めを忘れて、自分流に走ろうとは思わないのだ。その忍耐は尊いが、剣を抜くよりも強く激しい意志力がいる。信仰がいる。主への信頼が必要だ。

 

 119:88 あなたの恵みによって、私を生かしてください。

  私はあなたの御口のさとしを守ります。

  ひとえに私が生きていられるのは主の恵みである。主の恵みがなかったら悪者に命を奪われ滅ぼされてしまうだろう。これからもただただ主の恵みによって生かされたい。そして、なにがあろうとも起ころうとも主に従い通すと、詩人は最後の決意を告白している。

 あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。

みことばを慕って絶え入るばかりです。

 

冒頭のフレーズが最後にも聞こえてくる。

 

 

 

聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その13

  • 2009.02.07 Saturday
  • 13:19
第10段 ヨード

119:73 あなたの御手が私を造り、私を形造りました。
 どうか私に、悟りを与えてください。
 私があなたの仰せを学ぶようにしてください。

 自分で自分がどうにもならない時がある。こんな私ではないはずだ。習慣も性格も感情も意志も、わたしの思い通りになってくれない。変わりたいと願い、できるだけ努力してみるが効果があってもいっときだけ。思わぬ横風に吹かれると、以前の自分が大きな顔をあらわにしてくる。いつもいつもこんな経験をしている。もう、降参である。神様の御前に助けを求めるほかはない。私を造られたのはあなたでしたよね。私に対して全責任を取って下さるお方はあなたのほかにはおられません。私に悟りを与えて、もっとみこころを深く鋭く知り、それが私の血肉となり、造られた者にふさわしくなりたいのです。詩人はそういっているのではないだろうか。私にも切実なことである。

119:74 あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。
 私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。
 たとえ稚拙な歩みでも、まごころから主を求め、主に従っている姿は、わかる人にはわかるものだ。うわべはつくろえるし、欺くこともできる。しかし、メッキはメッキである。純金は純金である。本物が本物を喜ぶのである。私の心を心底わかってくれる、まことの信仰者と密なる理解と交わりを持ちたいものだ。主にある深い友情で結ばれたいものだ。
 
119:75 主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、
 あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。
 あの災難も、あの病苦も、あの誤解も中傷も、主が深いみこころから敢えて私に与えられたものだとわかるとき、いよいよ主の義が際立って見えてきて、ひれ伏さずにはいられない。主の義と愛の前に立ち向かうことなどできない。主は正しいお方。
119:76 どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、
 あなたの恵みが私の慰めとなりますように。
 この傷心をいやし慰めることができるのは主の恵みのみ。主は私をオンリー・ワンとしてご覧くださり、私だけの約束のみことばを備え、それを成就してくださる。

119:77 私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。
あなたのみおしえが私の喜びだからです。
 主以外の力や考えで自分を支えようとは思わない。私を生かすのは主だけ、主のあわれみだけだ。私の喜びのすべては主を慕うこと、主の愛を信じること。

119:78 どうか高ぶる者どもが、恥を見ますように。
 彼らは偽りごとをもって私を曲げたからです。
 しかし私は、あなたの戒めに思いを潜めます。
 こちら側には落ち度はないつもり、それどころか己を殺して立ててきたはずなのに、思いもかけないウソ偽りで曲解や誤解されることがある。何と辛いことだろう。そんなときは弁解しても無駄である。通じないから。ますます攻撃は激しくなる。主の真実に期待して口を閉ざし祈るほかはない。いつか主がすべてを明らかにしてくださることを待ち続けるばかりである。そんな日々がある。

119:79 あなたを恐れる人々と、
 あなたのさとしを知る者たちが、私のところに帰りますように。
 あんなに一つ心で主を愛していたのに、気がついたら自分だけ取り残され、悪者にされてしまっている。そのことが往々にして起きる。悲しい限りである。また、かつての日々のように何のわだかまりもなく、微笑みを交わしながら主をほめたたえたい。詩人は切々と祈らずにはいられないのだ。

119:80 どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。
 それは、私が恥を見ることのないためです。
 自分の罪咎は気付かないことが多い。主のみ前にどんなにへりくだっても、悔い改めてもこれで十分ということはない。全きものとして受け入れてくださるのは神様だけ。十字架の力で義としてくださる神様だけである。神様によって完全に清めていただきたい。清い者と認めていただきたい。全き者と承認していただきたい。そうでなかったらどうして救われていると、胸を張って言えるだろう。
 ≪汝、我が前を歩みて 全かれ≫とアブラハムに言われた主は、私にとっても主でる。

聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その11

  • 2008.11.08 Saturday
  • 22:24
第8段 ヘース
119:57  主は私の受ける分です。 私は、あなたのことばを守ると申しました。

受ける分とは、聞き慣れない表現であるが、宝、財産、地所などと置き換えると理解できる。詩篇16篇5節にもある。文語訳で『主は我が嗣業、我が杯に受くべき分』とある。
主こそ私の宝、私の財産、私の地所、受け継いだもの、私のいのち、つまり私にとって最も大切で価値あるもの、私のすべてだと、詩人は断言する。《あなたのことばを守る》とは、あなたがわたしのすべてです、わたしはあなたを愛しますとの告白とも聞こえる。
詩人のように脇目もふらずに一筋に主を愛し、慕う者でありたい。

119:58 私は心を尽くして、あなたに請い求めます。
 どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください。

あなたは私のすべてですから、あなた以外に私が心を寄せることはないのですから、あなたの愛で私をあわれんでくださいとは、これも切々たる求愛ではないだろうか。
119:59 私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。

日々の歩みを振り返ると、心の隙に不信仰や誘惑の風が吹きこむのを感じる。気づいたらすぐ主を思い出し、主のほうに歩みを切りかえる。その転換が決め手ではないだろうか。

119:60 私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。

主の道から外れそうなことがわかったら、即刻、ぐずぐずしないで、まっしぐらに主の方へ駆けより、みことばの中へ飛び込んでいくのである。そこには敗北はない。

119:61 悪者の綱が私に巻き付きましたが、私は、あなたのみおしえを忘れませんでした。

罪は絡みついてくる。振り払っても振り払っても巻き付いてくる。魔の手から逃れる唯一の方法は、みことばを思い出すこと、主に向くことではなだろうか。祈ることではないだろうか。そこに勝利がある。

119:62 真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します。

真夜中に起きて、とは、なんと麗しい行為だろう。
苦悩による睡眠障害で目が覚め、うめきつつ祈ることもあるが、そうした切迫した理由でなく、夜の静寂の中で、主を思い巡らし、御業の一つ一つに感謝するとは、何と豊かな時だろう。これこそ至福の時にちがいない。

119:63 私は、あなたを恐れるすべての者と、あなたの戒めを守る者とのともがらです。

信仰には仲間がある。信仰の友がある。一人で神様にしがみついているのではない。神様と二人きりの親しい交わりは例えようもないが、信仰者は自分一人ではないのだ。詩人の心は大きく広がっていく。信仰者の集まりが教会である。ともに主を崇めることこそ最も豊かであり、また、主の喜ばれることなのだ。
『天にますます、我らの父よ』を思い出す。神様は私の父だけではなく、我らの父なのである。

119:64 主よ。地はあなたの恵みに満ちています。あなたのおきてを私に教えてください。

信仰の友を思い出すと、さらに心は広がって、神の創造された天地宇宙万物を思い、そこにまで主の恵みが満ちていることを知る。神の恵みは大きくて計り知れない。知らないことがまだまだたくさんあるにちがいない。もっともっと主を深く知るのだ、求めていくのだ、と詩人の魂は主を慕い求めていく。渇仰という言葉を思い出す。また『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は飽き足りるからです』を思い出す。

詩人の思いに、祈りに、引き込まれていきます。我が祈りとしての詩篇119篇です。

聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その10

  • 2008.10.10 Friday
  • 09:19
殉教公園内

詩篇119篇から

第7段 ザイン(49節〜56節)悩みの時の慰め
119:49 どうか、あなたのしもべへのみことばを
 思い出してください。
 あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。


苦境に陥ったときや絡みついてくる失望や悲憤で悲鳴を上げたくなるとき、何をおいても神の膝下に駆け込むことが出来るのはクリスチャンの特権であろう。そこで主のみことばを聴きさえすれば、胸のつかえが下りるのだ。以前からいただいているみことばをもう一度与えてくださいと祈らずにはいられない。《思い出してください》とは《思い出させてください》とも言えるのではないだろうか。。

119:50 これこそ悩みのときの私の慰め。
 まことに、みことばは私を生かします。

119篇のなかでも特に有名な箇所である。多くの人が実感を持ってこの節を祈り歌い上げている。詩人は悩み苦しみながらも、ふっとこの賛歌が口をついて出たのだ。誰に慰められるよりも、みことばこそ最高の慰めである。《これこそ》に真実があふれている。慰めを感じたとき、生きる力が湧いてくる。みことば、すなわちイエス・キリストの永遠の愛といのちが傷を癒やし、たましいを慰め、険しい道を登る杖となる。

119:51 高ぶる者どもは、ひどく私をあざけりました。
 しかし私は、あなたのみおしえからそれませんでした。

キリスト者の道は決して平らではない。信仰者であるための特別の苦しみがある。信仰をあざ笑い、攻撃してくる者は多い。神を冒涜する声さえ聞かねばならない。愛する主が辱められるのは自分が苛められる以上に心痛むものだ。でも、詩人は一時の激情に負けることはなかった。心に蓄えているみことばを静かに汲み上げて耐えることが出来たのだ。
みおしえからそれなかった勝利の喜びはいかばかりだろう。

119:52 主よ。私は、あなたのとこしえからの定めを思い出し、
 慰めを得ました。

前節に続いての詩であろうか。《みおしえ》は、天地創造以前から存在している確かな約束であり愛である。雄大な天地、月、星を見るだけでも、主のみわざに感嘆し、心が広がっていく。まして、御子イエス・キリストの十字架による贖いのみわざを思うとき、慰められないことはない。
 
119:53 あなたのみおしえを捨てる悪者どものために、
 激しい怒りが私を捕らえます。
私を蔑み攻撃する者への怒りではない。この貴い救いを意に介さず平然と捨てる者への怒りは大きいものだ。神はわずか一人でも滅びるのを見逃すことができないのだ。独り子を給うほどに世を愛しておられる神なのだから。

119:54 あなたのおきては、私の旅の家では、
 私の歌となりました。

人生は旅である、とは誰もが当たり前に口にする。ちょっと感傷めかして。この世からあの世へまでの旅と言うことだろうか。あの世とはどこか、死後の世界のことか。そこはどんなところか。はっきり確信をもって、しかも喜びと希望を持って答えられる人は希有であろう。

詩人は行くところを知っている。神がおられる御国である。そこへ行くことが生きることの最大の目的である。だからこの世は旅なのである。父の家にたどり着くまでの、旅路であり、この世の家は旅の家なのだ。旅の家で、また道中は悲嘆の道ではない。《重き荷を背負うて遠き道を行く》あえぎの旅ではない。みことばを楽しみ喜び、力とし杖として行く旅である。みことばは単に教えられ聴かされた教えでない。もう私自身のもの、私の血肉に溶けこんでいるも、私の歌になっている。なんと幸いなことよ。
詩人の心境をそっくりそのまま自分のものとして、私の旅を進み、私の旅の家に住まいたい。

119:55 主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し、
また、あなたのみおしえを守っています。

詩篇一篇が思い出される。『まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ』
また、夜とは心が暗くなるときかもしれない。その時、すぐに旅の歌となっているみことばを思い出し、主イエス・キリストの愛を思い出して、平安と満ち足れる喜びに浸りたいものである。

119:56 これこそ、私のものです。
私があなたのいましめを守っているからです。

いまや我が旅の歌こそ、私のもの。これこそが、これだけが、私のもの。いましめを守り、みことばを愛し、みことばとともに歩む人生しかない。そう言いきりたい。

聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その8

  • 2008.08.25 Monday
  • 09:59
酷暑には勝てませんでした。しばらく中断していましたが、涼風に励まされて、学ぶ思いに導かれました。

秋立つや 心も立ちて 聖書(ふみ)ひらく    (愚作)


第4段落 ヘー (続き)
119:36 私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。

前節の35節では、詩人は神様のみことばに従って生きることを喜んでいると告白している。その心と魂は神への愛で満ち満ちていたはずだ。しかし、人は移ろいやすいものだ、小さな事にも動揺し、たった今確信を持って右と言っていても、次の瞬間には左だと言いかねない。詩人の前には神様への純情を迷わせる何かが起こったのだろう。だが詩人は敏感に悪の臭いを嗅ぎ取ったのだ、すぐに《不正な利得》に靡いていかないようにと祈っている。罪は冒さないに越したことはない。敵の襲来を察知したら、さっと祈りの城に身を潜めることだ。

119:37 むなしいものを見ないように私の目をそらせ、
あなたの道に私を生かしてください。

前節で《不正な利得に傾かないようにしてください》と祈った詩人は祈りによって傾きかけた心を立て直したのだろう。幸い危機を脱しが、彼はそこで留まらず、さらに確かな支えを祈る。《むなしいもの》に視線を馳せ、じっと見詰めてしまわないように、そうした状況が起こったらすぐに目をそらさせてくださいと。転ばぬ先の杖を求めている。危機管理を主に願っている。主の守りがなかったら《むなしいもの》と知りつつも、心傾けてしまうことがあるものだ。

119:38 あなたのことばを、あなたのしもべに果たし、あなたを恐れるようにしてください。

心を尽くして主を信頼し従う者への恵みは大きなものだと、神様はつねづね約束しておられる。そのおことばとおりになさってくださり、ますます神を第一に敬い畏れかしこむように、あなたの力で導いてくださいと詩人は嘆願する。自力では人は神を恐れることはできないのだ。信仰は神からいただくものだ。そして、祈り求める者には神は惜しみなく与えてくださる。求めなさい、そうすれば与えられますとあるように。

119:39 私が恐れているそしりを取り去ってください。
あなたのさばきはすぐれて良いからです。
絶対的に義である神様のみまえで、恥ずかしい思いや不面目な思いをしたくないと、詩人は自分の内面を見つつ訴える。

119:40 このとおり、私は、あなたの戒めを慕っています。
どうかあなたの義によって、私を生かしてください。

私は弱く、醜くく、不誠実だけど、神様を慕う思いはこれこの通り嘘偽りはないのです。できることなら、はらわたを取り出してご覧いただきたいほどです。誇るものはなにもありません。ただ神様の義だけが盾なのです、拠り所なのですと、捧げきっている詩人の心情が伝わってくる。地には汝のほか我が慕うものなし、が浮かんでくる。

聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その7

  • 2008.07.03 Thursday
  • 12:40
第4段落 ヘー その1

119:33 主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。
そうすれば、私はそれを終わりまで守りましょう。

教えられたことを生涯通して守りましょうとは、なかなかの意気込みである。三日坊主とは世の習い。今日、堅く決心したこともほどなくできなくなる。気力の持続ができない。今日は魅力的に見えたこと、自分にとって有益だと思ったことも、明日にはそんなに思えなくなる。飽きてしまうこともある。マンネリに陥ることもある。時間の刃に耐えられないのだ。

詩人は身を低くして教えを乞うているように思える。一時の思いこみではなく、終りまでという言葉に真実味が感じられる。過去に教えから外れて痛い目にあったのかもしれない。傷口のうずきの中で、悔い改め、今度こそ終りまで従います、従がわざるを得ない心境なのだろう。自己放棄、完全服従の信仰に導かれたのだろう。

終りまで守りましょうと、一時の虚勢ではなく、心底みことばを愛し神様を信頼する人生でありたい。賛美歌「主よ 終りまで 仕えまつらん」が口をつく。『死に至るまで忠実であれ』とのみ声が聞こえる。

119:34 私に悟りを与えてください。
私はあなたのみおしえを守り、心を尽くしてそれを守ります。

詩人の魂はまっしぐらに神に向かっている。心を尽くして守ると、再び固い決意を表明する。赤々と燃える純真な信仰が見えるようだ。

119:35 私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。
私はその道を喜んでいますから。

神様に従うことが何にもまさって楽しくうれしい。心からの喜びでなければ終りまで、心を尽くして守れるものではない。楽しいこと、うれしいことなら、何をおいても進んでできる。義務や律法ではできない。

詩人は体験したのだ。神の道を踏み行く喜びを。踏み行くとは、ひとあし、ひとあし、一歩一歩の歩みを思わせる。飛ぶが如くではない、疾走でもない。もしかしたら、その道は石ころだらけかもしれない。時に泥沼があるのかもしれない。それでも、うれしいから歩めるのだ。

『主をおのれの喜びとせよ。主が成し遂げてくださる』とは心に刻む愛唱の一句である。
(続く)

聖書の風から  詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その6 

  • 2008.06.25 Wednesday
  • 11:16
第4段落 だーレス 後半

119:28 私のたましいは悲しみのために涙を流しています。
 みことばのとおりに私を堅くささえてください。

詩人はなぜ泣いているのだろう。数節前には、わたしのたましいはちりに伏しています、とあるが、同じ厳しい状況が続いているのだろうか。

思わぬ出来事が起こったとき、涙はすぐには出てこない。パニックに陥ってしまう。そのあとは後波打つ感情に翻弄される。事の種類にもよるが、涙はそのあとではないだろうか。涙とともに悲しみの波がひたひたと押しよせる。悲しみは簡単には去らない。時が経ってもこみ上げてきて涙する。

事を聞きつけて、身近な人たちが直接に手を出し足を出し口を出し、体を動かして愛を示してくれる。しかし、それは長くは続かないものだ。悲しみが色濃く姿を現すのだその後だ。自力で涙を吹き払い悲しみの雲海から脱出するのは容易ではない。そのときこそ、神様の出番である。信仰の本領が発揮されるときである。

インマヌエルの主はだれがいなくてもそばにいてくださる。生きたみことばで、生かしてくださる。涙をぬぐい悲しみから立ち上がらせてくださる。主の名を呼びさせすれば、俊敏に答えてくださる。詩人はそこにたどり着いたのだろう。このお方に信頼すれば堅く立てると悟ったのだろう。

119:29 私から偽りの道を取り除いてください。
あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください。

自分の判断で最善と思い、人も応援してくれた道も、期待はずれだったり、失敗に気づくことがある。そうした回り道はもうたくさんだ。偽りの道を選択することがないように、また、心の奥に二心がないようにと祈るばかりである。願うことはただ一つ、正しい識別力、判断力をいただいて、御心にかなった道を歩みたいのだ。神様のおしえのとおりにできますように。

119:30 私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。

詩人は祈って確信を得たのだろう、確かにこれが主の道だと。偽りの道でなく、真実の道を選択できたのだ。無私になって神様の方法を考えるとき、それができるのだ。

119:31 私は、あなたのさとしを堅く守ります。
主よ。どうか私をはずかしめないでください。

あんな失敗はもうしたくない。しっかりあなたに従っていきますから、み前に顔を赤らめ悔い改めの涙を流さずに済みますように、自分のたましいの前にも臍をかむ思いをしなくてすみますように。さらには世の人たちから嘲られ蔑まれることがないように、守ってください。詩人はいっそう身を屈めて祈らずにはいられないのだ。

119:32 私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。

みことばに真実に従うときに、たましいに解放が与えられる。不必要な思い煩いが消され、肩に食い込む重荷も主にゆだねるので、重量に倒されることはない。心の壁のあちこちに引っかかっていたあのこと、このことも小さく見えてくる。心を広くしてくださるとは、実感あふれる表現だ。

広くなった道だから、おずおずと歩むのではなく、軽やかにランニング、走ることができる。信仰によって大きな苦難を克服した勝利の歌といえる。

聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その5

  • 2008.06.23 Monday
  • 22:43

第4段落 だーレス 前半

119:25 私のたましいは、ちりに打ち伏しています。
 あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。

たましいがちりに伏すとは、なにか大きな試練に遭遇して絶望のどん底にいるか、または事が思ったように進まず、深い挫折感に打ちのめされているときの心境ではないだろうか。

だれもが遭遇することだろうが、人生には、こんなはずではなかったと周章狼狽あるいは失望落胆することが多々ある。そんな時、襲ってくるのは強い孤独感だ。だれかに聞いてもらいたい思いと、だれにも会いたくない、話したくない、だれがわかってくれるものかと自暴自棄になり、自分の殻に閉じこもってしまうこともある。それがエスカレートして、過食症や拒食症あるいは鬱病になることもある。

救いがたい状況の中で、神様を呼ぶことができたらどんなにさいわいだろう。
詩人は、こんな無様な私ですが、どうか助け導いて、恵みのご計画の中でもう一度新しく生かしてくださいと神様にすがりついている。その率直さがなんともしなやかで初々しい。

119:26 私は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。
どうか、あなたのおきてを私に教えてください。

神様に助けを求めるとき、一方的に自分の窮状を訴え、欲求を突きつけるような祈りをしがちである。神様は願いを叶える便利な機械ではないと、よく聞く。神様は私たち以上に人間的である、熱い心と品格をお持ちだ。聞く耳をお持ちなのだ。
《私の道を申し上げた》とは、私の現状や今ここに至るまでの歩みを包み隠さず縷々とお話しすることだ。 聞く耳をお持ちのお方は、適切な答えのできる口もお持ちだ。神様は無視はなさらない。聞いて答えてくださるのだ。

いままで自分流でやってきたがうまくいかなかった。それがよくよくわかった。だから間違いのない神様のやり方を教えてくださいと身を屈める。早くからそうすればいいのだが、人は、真に自分に絶望しないかぎり神様に降伏しないものだ。

119:27 あなたの戒めの道を私に悟らせてください。
私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。

神様の深いみこころは、小手先でわかるものではない。聖霊の働きによって初めて悟ることができる。聖霊が自由に自分の内に働くためには、神様のみ前に時を忘れて静まり、一つ一つの恵みや約束をにれはむことではないか。
続きます。

聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その4

  • 2008.06.18 Wednesday
  • 14:42
ばらロゴス

長い長い詩篇119篇を考えつづけます。

第3段落 ギメル

119:17 あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください。

神様が豊かに扱ってくださらなければ人は一日として生きていけない。荒々しくされたらたちどころに息絶えてしまうだろう。人はまことに弱いのだ。生かされて初めてみことばを愛し守ることができる。いや、みことばを愛するためには、暖かなみふところに抱かれ生かされなければならない。詩人はそれをよく知っていたのだ。

119:18 私の目を開いてください。
私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。
 
神様の深遠な愛と知恵は生まれながらに罪の目を持った人間にはどんなにあがいても悟ることはできない。どんな学者も瞑想者も哲学者も理解できるものではない。まして、無知なる私に何がわかるのか。神御自らが目を開いてくださらなければ不可能なのだ。人間側としては、ひれ伏して、まず我が目を開き給えと祈るのみである。目が開かれさえすれば、神様の豊かな恵みの世界を知ることができる。見ることができる。味わうことができる。人にも伝えることができる。鍵は主が目を開いてくださること。

119:19 私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。
 
半世紀以上も人間稼業をしてきてつくづく思うのは、人は旅人、人生という果てしない、しかもはかない街道を行く旅人だということだ。世に旅は道連れとある。愛する家族は最大最高の道連れだ。親しき友と楽しく行くこともある。しかし究極的には一人旅をしているのだ。だが、一人旅とはいかにも寂しくい悲しい言葉ではないか。
人生は 重き荷を 背負うて 遠き道を 行くがごとし
英雄ですらこのように結論した。
しかし、詩人はまことの同伴者を見いだしている。神がともに歩いてくださるなら、ともに生きてくださるなら、ひとりぼっちだって怖くはない、さびしくはないと知っている。だからこそ、いつもご自身を明らかに示して導いてくださいと祈らざるを得ないのだ。神様は祈りに答えてくださり、永遠にはなれない頼もしい同伴者となってくださる。

119:20 私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。

神様がともにいてくださる、私がどのように弱く小さな者であっても、受け入れてくださる。そう信じるとき神様を怖がることはなくなる。神様のなさることはいつも正しいと安心していられる。

119:21 あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、のろわるべき者をお叱りになります。
神様を認めず従わない傲慢な者は叱られても仕方がない。自分こそ知者だと思いあがってもそれは独りよがりであり、その人には真の平安も喜びもないであろう。
119:22 どうか、私から、そしりとさげすみとを取り去ってください。
 私はあなたのさとしを守っているからです。

時として、思わぬ火の粉が降りかかってくることがある。神様を信じていると言うだけでつまはじきにされることもある。そうした不本意な屈辱からはできるだけ避けたいものだ。
神様のお守りを祈らずにはいられない。

119:23 たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合ってもあなたのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます。

神様を信ずる者は、どういうわけか世の中の力のある人たちから敵視される。歴史上には迫害の嵐に遭遇した信徒たちの記録が至るところにある。苦しめられたりいじめられたりすることは、どんなに信仰があったとしても辛く悲しいことだ。しかし、そうしたときはますます神様を慕い、神様の道を粛々と進んでいきたい。

119:24 まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。

神様が私の相談相手とは実感あふれる表現だ。だれが助けてくれなくても恐れることはない。だれも頼りにならなくても悲しむことはない。神様は最高の相談相手なのだ。どんな相談にも真剣にのってくださる。しかも適切なアドバイスをしてくださり、自ら解決に乗り出してくださる。神様に相談に行くとき、まるで親しいお方を訪ねるように心が弾み喜びが生まれる。神様の家の敷居は決して高くない。(続きます)

聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その3

  • 2008.06.02 Monday
  • 22:16

119:11 あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。

イエス・キリストを救い主としている者は、故意に、意図して、神様に背くことはしない。イエスさまを悲しませるようなことはしたくないのが本心である。でも、罪を冒さずに一日を終えることはない。イエスさまのひとみに浮かぶ涙にハッとすることもある。
一方、あるとき、みことばが強く迫ってきて、悪に走り出しそうな手足が施錠されるのを感ずることがある。みことばは財産である。何を蓄えなくても、心の銀行にみことばの大口口座を持ちたいものだ。

119:12 主よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。

イエス・キリストを尋ね求めて彼を見いだし、その麗しさを知るようになると、感動のあまり賛辞がほとばしり出て、賛美せずにはいられない。さらにもっと深く知り満たされたいとの祈りに導かれていく。

119:13 私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます。

イエス・キリストの恵み深さを味わい知るとき、このよき知らせを愛する人たちに伝えずにはいられない。子どもたちに、親たちに、はらからに、友垣にと思いは広がっていく。
イエス・キリストは『全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい』と命じた。その命に従って《ことごとく語り告げます》と言い切りたいものだ。

119:14 私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。

宝物を楽しむとは、うらやましい境遇である。だれも持っていないような珍しくて高価な物を所有し、それを使ったり、眺めたりしできるのは、何と幸いであろう。詩人は神様の
さとしをどんな宝より楽しんでいるというのである。神のさとし(定め)だから、甘い言葉ばかりではないだろう。ときに鋭く胸を刺されることもあるだろう。それでも、楽しいというのである。そこには神様への大きな信頼と愛があるからではないか。詩人と神様との間には深い絆があるのだ。

119:15 私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。

思いを潜めるとは、集中して深く掘り下げ思い巡らすことだろうか。新共同訳では、心を砕くと訳している。詩人は脇目もふらず真っ直ぐに、神様の示す生き方、備えてくださる道に視線を注ぐと告白している。私の目とは私の心とイコールといえる。つまり心の目である。さらには心そのものだ。心を神に向け、そこにじっととどまることだ。すぐに脇見をし、気を散らして落ち着きのない心持ちを、深く反省する。

119:16 私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。

あなたを喜びます。あなたを忘れませんと、詩人は何度でもくどいように愛を告白し続ける。愛しているから言わざるを得ないのだ。言ったそばからまた言いたいのだ。神様への信仰をこのように捕え表現できるとはなんとすばらしいことだろう。まるで恋人同士のような関係ではないか。詩人の神は観念の神ではない。慕わしく麗しいお方なのだ。

(続きます)

PR

calendar

S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    
<< June 2020 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

recommend

recommend

美しき姉妹たち
美しき姉妹たち (JUGEMレビュー »)
三浦 喜代子
最新本です。
ぜひお読みください。

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM