人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

日々の風から 梅雨はどこへ行ったやら

日々の風から 梅雨はどこへ行ったやら

 

私の記憶にある梅雨は、何日何日も雨が降り続き、

すべてが湿っぽくなり黴臭くなり、布巾などは煮沸消毒したものだった。

蒸し暑い日もあるが時に肌寒い日もあり、小さなストーブは片づけられなかった。

近年はそうした時期はすっかり影を潜め、

ゲリラ豪雨とか集中豪雨などと物騒な名前のもとに荒々しい現象が起こりその被害も驚異的になった。

本来の梅雨はどこへ行ってしまったのでしょう。

 

だれもが何かが狂っていると感じている。

その原因は人間の側にあるとこれもかすかに感じている。

単なる自然現象ではないとわかってきている。

世界中が一致協力すれば遅ればせながらではあるが何かできると、そう考えている人たちもいる。

世界に大国だと自負する立派な国のリーダーの皆さん、

どうかかけがえのない地球のため、そこに住む同じ人間のため、愛のわざに励んでください。

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日々の風から 断捨離後遺症 

日々の風から 断捨離後遺症 

 

断捨離完了などと大げさな勝利宣言をしてしまって今さらであるが、前後左右、アップダウンする情けないわが心境を隠すのはフェアーでないと思い恥をさらします。

 

実は、私の断捨離は「捨」の他に部屋の模様替えも含めて部屋そのものも替える大掛かりな改革、革命ともいえるものであった。おなじ小さな一軒の家の中ではあるが常住する「わたしの部屋」を替えたのである。これがまた一大決心なのであった。思うところがあってそうした。

 

最初は小さな断捨離であったが日ごとに規模が大きくなった。今の内なら大抵のところは自力でできると、若い者たちが出払った日中に、ひとりでせっせと汗を流した。ところが汗といっしょに涙も流したのである。今だから言えるが、大声で泣きながらゴミにした。

そんな自分をバカみたいと笑う自分がいるのだが、感情というものは理屈には絶対に屈しない。

 

「捨」とはわずか一文字にすぎないがほんとのところ「捨」なんてないのだ。自分の生きた確かな跡であり、その時は「いのち」でもあったものだ。それを捨てるとは、自分の人生を消していくことに他ならない。片手をもぎ取り、片足を切る、そんな思いになった。私が無くなっていく、私が消えていく、死ぬような思いになった。

 

なんどか大波にさらわれてアップアップしたが、次第に感情は収まってきて理屈が勝つようになってきた。かつては大事であり必要であったが、今、今日を生きるために不要であれば、「捨」でいいのだ。明日のことはあまり深刻に考えなくてもいい。「明日は明日自ら思い煩わん」とイエス様も言われた。そういうことからも断捨離は「己を捨てて我に従え」の実践編、応用編として腑に落ち納得できてくる。

 

時々揺れ戻しが来る。余震のようなものであろうか。後遺症と言ったが、後々まで残る負を引きずるものではない。それはわかっている。

 

みことばの励ましをいただいた。

『ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろの物を忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです』ピリピ3章13、14節

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日々の風から 断捨離完了宣言

日々の風から 断捨離完了宣言

友人からいただいたジャカランダ

 

一年の後半期に入り、スタート地点にシャキッと立とうとしている。日常はまったく代り映えしないのだが、せめて心持ちだけでもそうした心境に向けたい。体力、体調は梅雨の時期もあってシャキッとなどとは程遠く、立つにも座るにも掛け声の連発ではあるのだが。

 

この一両日は一大イベントである「都議選劇場」にすっかり釘づけにされてしまった。特に開票の夜は途中経過もすっかり観戦し、就寝がいつもより大幅に遅れてしまった。テレビの前に座り込んだのはトランプ氏がトップに就いた時以来である。思えば、若いころから政治には無関心で、無責任な国民、都民、区民であったが、昨今、多少でも関心を持つようになったのはネットの力に影響されてのことだと思う。手軽にみられるからだ。パソコンは一日中ほとんど開いているからついつい見てしまう。しかしネット記事、ネットニュースはテレビ以上に選択や判別力が問われるそうだから気を付けたいと思う。

 

今日のテーマの「わたしの断捨離」であるが、ほぼ完了である!

だいぶ時間がかかったが、かなり徹底したと我ながら思う。要するに「捨」以外の何物でもない。

今や私は身一つになった。

もともと大したものはないのだがますます無くなった。

あまりにも身軽になったせいか、わずか一陣の風でも空中に舞い飛んでしまいそうである。

 

しかし、である。老いたとはいえ神の創造のわざである私が有る。物としての私が存在し、私の中には肉の目には見えないが神の霊が宿っている。聖霊がおられる。愛の神が住んでおられる。「日ごとの必要を備えてくださる」神がともにいてくださる。これで十分ではないか。これ以上なにが欲しいというのか。「原点」を心に刻もう。すっきりシャキッとしてまずは真夏の希望の風に吹かれたい。

 

 

 

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日々の風から  今年半年を生かされて

日々の風から  今年半年を生かされて

 

6月30日は半年後の12月31日と対になる大きな節目の日である。若い時は今のように大きな感慨は持たなかったように思うが、この年になると、過ぎた半年がとても貴重でしかもいとおしい。そして、ともかく半年を何とかクリヤーできたことは、神によって生かされたこそであると、本心からしみじみと思い、頭を深く垂れて感謝せずにはいられない。

 

生きるも死ぬるも、いのちは創造主である神様の御手の内にあり御心によるのだからと、理屈と信仰では理解しているが、いざ、今日一日、明日一日と、目の前の現実に直面すれば、正直なところ大過なく過ごせることが願いであり祈りである。そしてこれこそが最大の恵みでありあわれみである。もちろん、無理に求めはしないが思わぬ嵐に遭うことは無きにしも非ず、その時はまた助けぬしなる神様に解決を祈り求めるだろうが、その時はその時のこと、今、2017年6月30日を閉じるにあたって、ここまでのあわれみと恵みを心から感謝せずにはいられない。

 

この半年、あるいは昨今、大過なく過ごすことができなかった愛する友人たちの苦悩へと思いを馳せる。加齢によるのだろうか、脊椎損傷や圧迫骨折で激しい痛みと体の不自由を強いられている友には限りなく同情する。膝の痛みが続いてついに手術した友が早く以前のように自転車に乗りたいともがいている。突然膠原病と診断され、ステロイド投与のためにお月さまのように真ん丸の赤い顔をしてベッドから離れられない友がいる。幼なじみであるが持病があってずっと独身を通してこられたが、ついに一人暮らしが困難になり、ホームに移った友がいる。かなり遠方なのでめったに訪ねられない。ようやく先日会いに行った。元気にしていたのでほっとしたが、帰り際の玄関先で、抱きついてきた。頬に大粒の涙が流れたのを、まさかここで泣くとはと、言葉もなかった。道々も、帰宅してから、就寝してからも、大粒の涙が忘れられず、切ない思いは今も消えない。

 

明日から今年の後半が始まる。あと半年、何があるかわからないが、神の御手の中にいることを日々実感しながら、神の御前で、平安に、思い煩うことなく、生まれたばかりの赤子のように神を信頼し、慕い、喜び、楽しみ、賛美して、一日一日を精一杯、神のくださるいのちを巧みに用いて生かされていきたい。

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日々の風から 試みの逆風 

日々の風から 試みの逆風 

 

旅の記事を書き続けているうちに6月が終わりそうです。本来ならあと一回締めくくりをしようと思っていたのですが、突然ブログに入れなくなり、だいぶ日数が過ぎてしまいました。

 

問い合わせると一日ほどで回答メールが来るのですが、その通りにしてもちっとも解決には至らず、なんども繰り返して、本日ようやく入れました。私の単純なミスだったのです。

 

ミスに気付かせてくださったのは神様に違いないのです。気がつかなかったら何度でも質問メールをし続けて、あちらも困り果てたでしょう。すぐに解決した旨知らせまして、あちらからもよかったと返信が来て、一件落着と相成りました。一時は、もうこのままブログから引退しようと思ったほどです。しかし、また書いていきたいと気を取り直したところです。

 

希望の風は試みの逆風には弱く、じきにあきらめ風に倒されそうなります。今夜はしっかり祈って、新鮮な希望の風をいただき、6月のみそかを迎えたいと願います。

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日々の風から 断捨離中の思わぬ展開

日々の風から 断捨離中の思わぬ展開

 

一大決心をして「断捨離」を初めて早やくも一か月が過ぎた。順調に進んでいる、そのように言い切っていいと思う。断捨離と言っても、中心は「捨」である。ちなみに「断」とは不要なものを入れないの意だそうだ。この年まで生きてきた習いから、不要なものを簡単に買ったり引き受けたりはしないようになっている。いわゆる衝動買いなどからも解放されている。第一、経済力もないから。努めて「エコ」に生きるようになっている。

また「離」とは、物への執着から離れることだそうだが、これはたぶん「断」と「捨」の両方に影響してくると思う。執着がなくなれば「断」はたやすい。また、今あるものを「捨」できないのは、強い執着があるからだろう。

 

なんといっても中心は「捨」である。この場合は不要な品物を捨てることである。しかし「捨」とはむごい言葉である。捨てるという言葉にはいいイメージはない。暗く悲しい響きがある。捨て子、捨て犬、捨て猫、家庭を捨てる、妻を捨てる、夫を捨てる、恋人を捨てる、故郷を捨てる、仕事を捨てる、世を捨てる、信念を捨てるなどなど山のようにあるだろう。捨てるとは、破ることであり、壊すことである。もちろん、捨ててから向かう方向によっては「希望の捨」があるだろう。

 

「断捨離」の「捨」は新しく生きるための生活革命、改革の一つの手段にちがいない。捨の持つマイナスイメージを越えて、明日に向かう「希望の風」を呼ぶ「捨」でありたい。例えば、一つの物を捨てるについて、手に取ってそのまま座り込み、まつわる過去を思い出し、つい涙を流し、ああ、捨てられないとまたも度に場所に戻してしまう、この繰り返しでは前にすすめない。「捨」は心でするものだ。強い気持ちが要る。思い出のあるもの、思い入れのあるものを捨てるのは、まるで自分を捨て、自分がなくなってしまうような気になる。むなしくなり寂しくなる。「捨」には感情をかき乱す魔の力が潜んでいる。初心が見えなくなってしまう。「捨」に勝利するためには強い意志が要るのだ。まさに戦いである。それも自分との戦いなのだ。様々な思いを模索しながら、自分なりの、独断かもしれないが、頭の仲も心も整理整頓しながらの「断捨離」に励んでいる。

 

「捨」の部分で、時間を取られているのは「本」である。何十年も前からの手放せないものがかなりある。しかし、もういい、そんな思いもある。これから先、ふと開きたくなることもあるかもしれないが、子供や孫はおそらくないだろう。あまりにも古い。ほしかったらネットできれいな中古本でも買うだろう。今やそんな時代である。私自身が昨今は読みたい本はネットで買う。こざっぱりとクリーニングされた本が安価で買える。それらを考え併せて思い切って処分した。

 

ところが忘れていた数冊の本に再会して、心動かされ読み始めている。かつて読み込んだしるしのたくさんの付箋が貼られていてびっくり、こんなことをしていた自分がいたなんてと、懐かしい限りである。一冊は「フランス歴史の旅」(朝日選書 田辺保著)である。すっかり忘れてしまっていた。昨年の夏以来、遅まきながら堀田善衛に出会い、ずっと読み続けていた。主にスペインが舞台であった。当然フランスも出てくる。改めてフランスの歴史を見たくなっていたところであった。読み終わると同じ著者の本が読みたくなり「フランス 心の旅」を取り寄せた。たぶんこのまま田辺保とフランスへの読書の旅は続くはずだ。「断捨離」は思わぬ展開になった。私は「捨」の中から新しい読書の旅路を見つけた。このところせっせとその旅路を急いでいる。

 

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日々の風から 母の日に

日々の風から 母の日に

 

我が教会では月に一回礼拝後に婦人の集いを設けている。「婦人会」と称している。昨今、婦人という言葉に神経質になり、「女性会」と改称している教会もあると聞く。私も本当はそちらに賛成だが、急に声高に叫んでも当惑させるだけではないかと現状をみすえつつ、「婦人会」で甘んじている。この婦人会は実によく働く。《教会の主婦群》である。

 

食事作りや衛生美化など奉仕が主であるが、月一回の「婦人会」は交わりと祈りの場である。長年にわたって女性二人がペアーでその月の会を主催する。メンバーは未婚の若い女性を除く教会の女性全員である。全員と言っても昨今は超高齢の姉妹たちは参加しなくなったので十数名である。

 

今月は年に一度ぐらいの割で回ってくる担当月になった。相棒の姉妹は50代のキャリアウーマン。うちの会社はブラック企業と言いながらも高い地位に就いてバリバリと働いておられる。姉妹と相談してプログラムを作った。メインは「我が母を語る」とした。折から世は《母の日》で盛り上がっている。赤いカ―ネーションをあしらった案内文書を配って呼びかけた。午後だからティータイム付きである。

 

テーブルを囲んで話が始まった。メンバーの中には子供のいない姉妹たちもおられる。しかし、生みの母のいない人は一人もいない。その意味では公平な話題であると思う。最初に85歳の老女性が「やさしい母でした」と一言だけ語られた。息子、娘、孫もおられ、お耳がだいぶ遠くなられたが静かにはっきりそう言われた。私はそれだけで胸が熱くなってしまった。次の姉妹は70代半ば。「私は若いころ反抗的で母につらく当たったが、母は何も言わずいつも大きく受け止めてくれた」と語った。私は同じ地域なのでお母上を存じ上げていたから、姉妹のいうことに間違いはないと頷きながら聞き入った。

 

全員のお話を記すことはできないが、総じて知ったこと感じたことは、皆さん一人一人が母の生き方を胸に秘めそれに倣いたいと思っていること、ある時の母のひとことが忘れられず、その言葉に励まされ、実行したいと願っている、などなどであった。人の前であるから100%実像を語っているとは思わないし、美化していることもあるだろうが、強い母が嫌だったとか、どうも性格的に合わなかったなど率直な話も出た。

 

「我が母を語る」とはほんの数分で済むことではない。たぶん会が終わってから、みなさんの思い出の袋はさらに大きく口を広げ、家で、子どもたちにその続きをしたかもしれない。

 

私はちょうど「断捨離中」で古いアルバムを広げたばかりなので、娘家族に父や母の写真を見せていくつかのエピソードを披露した。母にはひ孫にあたる私の孫たちは、この家から母を天に送ったので記憶の底に留まっていることもあるらしかった。ほんのひと時ではあっても話題を共有できたことは、私はもちろん彼らにも心温まるものがあったにちがいない。古いアルバムの役目は済んだ。もうこれでよい、さらに縮小し処分することにしよう。

 

 

 

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日々の風から 70歳代のひとつの現実

日々の風から 70歳代のひとつの現実

 

 

17歳、セブンティーン、Seventeenは青春真っ盛りの象徴であろう。おなじセブンに係るがセブンティー、Seventy、70歳代はどうであろうか。老年真っ盛りではないだろうか。私を含めて親しき友はまさに70代を生きている。私は自分の周辺の方々しか知らないが、皆さんほとんど一日として家に居ることはない活動家である。それぞれに今までの歩みの中から自分だけのスペシャルな働きや活動場所を持っておられる。老親をケアーしながらの主婦であれ、配偶者との二人暮らしであれ、単身者であれ、「一人の個」として自立しておられる。見習うことの多い友垣である。

 

17歳前後も話題は多いが70代も、出来事、それも危険な事件が頻発する。今、私の耳に盛んに届くのは70代「喜怒哀楽たより」である。うれしいことにしろ、困った問題にしろおもわず身を乗り出して聴き、受け止め、場合によっては手を出し足を出すこともある。とはいうもののこちらも70代、限界のある状況下にいる。まさに「ともに喜び、ともに泣く」の最前線なのだ。

 

最近ではあまり出番のない家の電話が鳴り、いつもはメールの友の声が聞こえた。

月末には会うことにしている近県の友である。

 

「わたしね、困ったことになったの。脚立に乗って高いところのお掃除をしていたの。降り際に、ステップを踏み外してひっくり返って、右手首の上を骨折してしまったの。お医者様はギブスよりも手術したほうがいいと言われるので、明日入院して手術になってしまったわ。3か月は安静にしているようにと言い渡されてしまった、遠出はダメですって。そんなわけで久しぶりに皆さんとお会いするのを楽しみにしていたけど、しかたないわ。ごめんなさね。メールも左手が慣れるまで無理かもしれない」

 

愕然とした。この友に限って「骨折」は近づかず、逃げていくだろうとさえ思っていたのだ。友はいつもには似合わず、自分の愚かさを責める理由を挙げ、悔いておられた。また、先のことを案じ、活動を縮小しなければなど、自分自身に言い聞かせるように語られた。じっと聞いていた。

 

友は多少トーンダウンしていたが、いつものように明快で歯切れのよい落ち着いた話しぶりであった。

 

話に耳を傾けているうちに、友は療養の期間を過ぎれば、軌道修正をした賢い方法を見つけ、自分の賜物を生かしていっそう質の高い活動をされるにちがいないと確信し、早くも安心した。一日も早く回復されることを祈り続け、秋になったら、闘病談をたっぷり聞かせていただこうと思った。

 

ところでただいま「断捨離中」であるが、私も脚立に乗り降りして、重い箱を上げ下ろししている。まだまだこのくらいは大丈夫、若い者の世話にはならずともできる、心の中はそんなツッパリでいっぱいなのだ。しかし、友を思うと、手が出ない、足が出ない。どうしましょう。

 

 

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日々の風から もう一つのブログ【聖書の緑風】ニュース

日々の風から もう一つのブログ【聖書の緑風】ニュース

 

GW中に整理したことを記します。

 

 

私のもう一つのブログ【聖書の緑風】に掲載してきた『利根川の風・日本の女医第一号・荻野仁子の生涯を追って』が終了しました。

これは小さいながら「本」として発行し、友人知人たちに読んでいただいたものですが、

直接「本」を手に出来ない方や、さらに一人でも多くの方々に読んでいただきたくて掲載しました。

最後に取材した各地の写真をアップしました。

 

もし、直接「本」をご所望の方がおられましたらお声をかけてください。

また、私の活動組織である日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のホームページ内のメールからご連絡ください。ペンクラブのURLは http://jcp.daa.jp です。

 

次回からは昨年末に、これも小さな「本」にした『サムエル記を愛して』を発信するよていです。

聖書のサムエル記第一、第二の各一章ずつを考察したもので、

エッセーとでもいえるスタイルあり、内容です。

こちらもご連絡いただければお送りします。

 

少し前の『ただいま断捨離実践中』はまさに苛烈な実戦のさなかです。

果たして勝利宣言ができるでしょうか。

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日々の風から 今年はスペシャルGW!

日々の風から 今年はスペシャルGW!

 

8月の夏休み、年末年始の休暇と並んで日本の三大大型連休ともいえるゴールデン・ウイークの時期となり、このところ日本中が湧きかえっている。折から季節は最高の初夏である。日ごろお忙しいパパ、ママ、子どもたち(小学生までか)にとっては待ちに待った休暇であろう。もちろん例外は山のようにあり、絵に描いたようにはいかない。それも少なからず承知しているつもりだが、海に山に温泉に海外にテーマパークに、行ける時は行ったらいい。無責任であるが、老女としては大いにお勧めしたい。その代わり、私はじっとしている。本心からであるが、この時期こそ、一年中が大型連休の高齢者は一歩も二歩も下がっていたい。席を譲ろう。いつも譲られるばかりが能ではない。そのかわりGWが終わったら、ちょっとにんまりしてやおら腰を上げ、外に出ることにしよう。

 

ところが、思いがけない誘いが来て、ふわっと腰が上がってしまった。近くの錦糸町トリフォニーホールでの「メサイヤコンサート」のチケットがひざ元に舞い落ちてきたのである。薫風の粋な計らいか。「メサイヤ」はほとんど一年中、CDやユーチューブで聴きまくっている。しかし生の演奏会はめったに行っていない。ほんとに久しぶりである。心が弾んだ。

 

全席自由のせいか開場30分前に就いた時はすでに4人一列で長蛇の人であった。あっという間に満席状態。こんなにも「メサイヤ」を愛する人がいるのかと驚いた。それでも友人と私は中央より少し前のほぼ真ん中に着席できた。指揮者、音楽監督の三澤洋史氏のプレトークに早くも魅了され、それから延々3時間弱、救世主物語ど真ん中に引き込まれた。

 

歌詞は英語であるが横断幕のように字幕が流れたのはよかった。歌詞はほとんどが「聖書」の言葉である。こんなに大勢の人に福音の結晶ともいえる箇所の「みことば」が大きな文字で読まれるのだ。そのことに感動し感謝した。「メサイヤ」はまさに音楽による伝道メッセージではないか。思えば1741年ダブリンでの初演以来今日まで270年余りの間に、この作品はどれほど多くの人々の信仰心を掻き立て、与え、高めたことだろう。隣席の友人にはどのように響いたのだろうか。友人曰く「ヘンデルの曲って、やさしくてドラマチックで親しみやすわね」。それだけ?。神様の不思議にお任せしよう。ヘンデルだって当初はここまで自分の作品が広く愛され演奏されるなど考えもしなかったろう。まして、神のために役立っているなど思いもしなかったであろう。

 

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