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旅の風から 宮古島の旅その5 見たこと聞いたことその4 終り
旅の風から 宮古島の旅その5 見たこと聞いたことその4 終り
最後の一日をどう過ごそうかと相談の末、宮古島にある有名な3つの大橋の残りの2つを制覇しようと決まりました。一つは北の池間大橋、もう一つは反対方向の真南に架かる来間大橋です。ホテルは直線で見るとちょうど島のまんなか、パイナガマビーチのあたりです。バスでの移動は不可ですからまた観光タクシーを使うほかはありません。予算もありますが、二度と来ないだろうから、思い切ってタクシーで走ろうとそれも即決しました。
フロントへ駆け込みました。ふと、思い出して、昨日のドライバーさんにお願いしたいと思い、ちょうどタクシー会社と運転手さんのお名前を憶えていたので、できればその方にと頼みました。ダメもとで。ところがです。なんと、実現したのです。彼氏はちょうど、観光船がホテルのそばの平良港に寄港する日なので、波止場にいたのです。船の乗客でタクシーを使う人たちを待っていたそうですが、予約ではなかったようで、すぐに来てくださいました。2時間で、北と南の両方に行けるということで、私たちは大喜び、感謝しつつ、車に乗り込みました。慣れた?車、慣れたドライバーさんに案内していただけるのです。大きな安心感がありました。彼は池間大橋の架かる池間島の方でした。島の風習など、道々語ってくださいました。とても書ききれませんし、旅から一か月も経つと忘れていることが多いのに驚きます。
宮古島と言えば台風の通過道、どのように被害対策をしているのか訊きました。家を見てくださいと。そういえば、平屋あるいは二階家ですが、まるでコンクリートの塊のように四角な白い家が並んでいました。どの家も同じようでした。あれでは暴風に体当たりされてもびくともしないはずです。みな無防備ではないのです。最大限、その地に適した方法で防備しているのだと大いに納得しました。それでも、この秋、関東では台風15号、19号のために想定外の被害に遭いました。それはもう不可抗力というものでしょう。
池間大橋は1425mで1992年に開通した、3つの橋の中で最初の橋だそうです。前日の伊良部大橋に比べれば3分の一ですが、南国の明るいブルーの海を見下ろす気分はたとえようもありません。池間島はちょうど年に一度の祭りがおこなわれているそうで、そのあたりに近づいてくれました。琉球王朝時代からの伝統行事「ミャークヅツ」という祭りで、旧暦9月に3日間行われるそうです。島には元(ムトゥ)という血縁集団が形成されていて、その一員に認められるのは55歳以上の男性で、大変名誉なことのようです。運転手さんは「成人式」と言いましたが、若者ではなく、成熟した中年男性の様でした。祭りと言ってもいわゆる神社のような建物はなく、島独特の四角いコンクリートの建造物がいくつか並んでいました。その中で何か儀式があるらしいのです。ここでなければ聞けない歴史と生活の一部を知って、これが旅の風なのだと心に深く吸い込みました。
また橋を渡って宮古島に戻り、一路南の来間島目指しました。ホテルの前を素通りして南進です。ほどなく来間大橋を渡りました。1690m、1995年3月に開通したそうです。 島の入り口にお土産物の車や小さな小屋があるだけ。運転手さんは島内を巡ることはしませんでした。観光スポットがないのかもしれません。すぐ近くの展望台へ上りました。ここからの景観もまた海、海、海、空、空、空ばかりですが、都会ではいくら歩いても乗っても見られない絶景です。100年分は見た思いがし、もう、生涯、どこの海も見なくてもいい、これで十分と、心から満足し喜びに浸りました。
二日間、わずか2時間ずつでしたが、お世話になった運転手さんと、思わず握手のお別れをして、愛車に乗り込む彼をさらに手を振って見送りました。はかない出会いとはいえ、これからも宮古島の旅を思い出すたびに、彼は必ずセットで現れるに違いないのです。前日のバスの運転手さんとともに、この島に生き、島を支える強力な活力の一翼を見た気がして、人間の存在を貴くまぶしく思ったことです。神様はご自身の息を吹き込まれ、それで人は生きるものになったとの創造の原点を思います。
午後はホテルの近くの「パイナガマビーチ」の白砂に足の乗せ、二人で無言のままじっと沖を見つめました。いや、海も空も凝視はしていませんでした。頭も心も体さえも空っぽになって、時間も無視して静かなひと時を過ごしました。あるかなしかの海風に溶け込んでしまいそうで、たぶん、様々なストレスがかき消えていったと思います。日頃、過重な働きをしている友人には、まさにいのちの洗濯の時だったのではと思ったことです。友人はこんなにりラックした旅をしたことはないと、大満足の様でした。旅とは何か、漂泊の旅人芭蕉はどのように考えていたのか、旅の達人に思いを馳せました。
あれから一か月、現実の暦は早くも12月をしきりに指さし、 何かを訴えています。 旅物語はここでひとまず終了。 これからもきっと思い出すことが多いと思います。 2019.11.26 Tuesday 14:27
旅の風から 宮古島の旅その4 見たこと聞いたことその3
旅の風から 宮古島の旅その4 見たこと聞いたことその3
翌日朝9時に、ホテルのフロントに観光タクシーの運転手さんが来られました。2時間の観光をお願いしてありました。まず3540mの伊良部大橋を渡りたい、伊良部島の北端の白鳥岬にも行きたいと、観光案内書を開きながらお願いしました。運転手さんは心得たもので、島全体を海岸に沿って周り、名所のビーチ数か所で下車し、浜を歩いたり海に入ったりして、2時間でホテルまでたどり着けるようにプランを立ててくださいました。お天気は上々、気温は28度。蒸し暑さはなく、夏の帽子で十分な気候でした。
伊良部島は、生活圏は宮古島の西岸と向き合う、東部の一地域だけでそこは路線バスが通っていますが、島内一周などはないそうです。車窓から見る限り、海岸線の景勝地を除いてはどこもサトウキビ畑だけ、ひどくそっけなく荒涼としています。昨今は野菜や果物も作られるようになったそうですが、一昔前は、お米をはじめ食料などすべての生活用品は沖縄から買い求めたそうです。田んぼなどは全く見かけません。
サトウキビは沖縄が琉球であった時代は強制的に栽培させられました。薩摩藩の琉球の扱いは苛酷で、島民はまるで奴隷であったと、昨今読んでいる幕末時代の本にあります。サトウキビの一本一本まで監視され、違反すると極刑に処せられたのです。かつての悲惨な歴史を知ってか知らずか、海は明るく凪ぎ、観光客は波打ち際ではしゃいでいます。私は黒糖の塊をほおばりながらも、口に残る苦み渋みにこの島の過去の呻きを感じました。
伊良部島の子どものように下地島が繋がっていますが、橋はありません。どこかに境界はあるのでしょうが。西側に飛行場がありました。途中に、似つかわしくない建設中の立派な集合住宅群が見えてきました。ひどく違和感を覚え訊きますと、自衛隊500人が新たに駐屯するために建てられているそうです。国はそんなことをせっせとしているのだと、急に現実の厳しい場面を見せられ、重いものを感じました。
さすがプロの運転手さんだけあって時間内にすべてを案内してくださいました。いや、30分ほどオーバーしていましたが、サービスですと笑顔で走っていきました。お人柄か、島民の心か、温かいものが伝わってきました。
午後は、相棒の要求で、温泉施設に行くことになりました。そここそ、バスで往復しようと、フロントで時刻表をもらい、往復を確かめて出かけました。宮古島の南の海に面している場所でした。ところがこの往復に、泣きだしたいようなことがありました。温泉施設に一番近いバス停で下車したとき、運転手さんに帰りのバスのことを聞きますと、自分がまた来ることになっているとのこと。乗客は私たちだけだったので、道々ついつい話しかけ、また彼も質問以外のことをたくさん話してくれましたので、帰りもこの方なら安心と、必ず乗りますからお願いしますと言って、温泉へ行きました。ところがです、泣きたいとこの一つが起こりました。施設はすぐそばにあるものと思って下車したのですが、とんでもないことでした。路線バスは生活バスらしく、観光客の温泉施設直行ではなかったのです。方向は間違っていないはずなのに行けども行けどもありません。尋ねようにも人影もありません。人家もありません。これが夜だったらと、ぞっとしました。
ほんの数分で着くと思っていたのに、小一時間は歩いたでしょうか、短気な私は怒りさえこみ上げましたがやっと堪えて、ようやく小さな施設につきました。案内書ではかなり豪華な施設のように出ていましたが、感覚がづれていたのでした。またあのバス停まで戻る事を考えると温泉も上の空、友人は悠々と楽しんでいましたが。
友人を促して早め早めに帰り支度です。思いついて、施設のフロントで、バス停までタクシーをお願いしました。わたしは二度と歩けない、歩けるものではないと固く心に決めました。それに夕方が迫っていました。さっき降りたバス停の反対側にバス停がありました。ホッとして、しばらくバスを待つことにしました。薄暗い道路の片隅で、私たちはじっと立ち尽くしました。ホントにバスは来るのだろうかと、それさえ疑うような心細い心境になりました。
やがて、バスがやってきました。みれば行きの懐かしい運転手さんの顔が見えました。彼はここが終点で、バスはぐるりと向きを変えるが、もう乗りなさいと言ってくださり、私たちはバスに駆け上りました。結局最後まで二人だけでした。バスは中心街に入って道路も広くなり、車も多くなり、都会感覚を味わってホッとしました。
ところがまた困ったことになりました。このバスは、出発したときの平良港に行くのではなく、中心街で終わりとのこと。そんなところで降ろされては、ホテルまでタクシーを探さねばなりません。私たちの困り果てた様子を見た運転手さんが、いったんこのバスは車庫へ戻るが、改めて平良港発で、もう一回仕事がある、このバスに乗ったままで待っていてくれれば、車庫で手続きをして、ホテルのそばの平良港に行くからと言ってくださったのです。
信じられないようなこの幸運に、私たちはひたすら感謝して、運転手さんのご厚意に甘えました。うれし泣きの涙がにじみました。朝の観光タクシー運転手さんと言い、このバスの運転手さんといい、気持ちのいい方々を備えてくださったと、主のあわれみに感謝しました。
道々彼が語ったことをまとめます。50代ごろの方とお見受けしました。 若いころは九州の熊本で働いていたが島に帰ってきた。昼はバスの運転手をしているが、夜は、代行と言って、レンタカーを借りた観光客が飲食して運転できないときの代わりをする。組織があって登録しておくとたいていしごとがある。夜遅くまで働く。朝は、牛の面倒を見る。(牛とはびっくりしたのですが)種牛を育てている。今5頭いるが、一年半ほど育てて売る。まとまったお金が入る。この種牛は、神戸に行けば神戸牛になり、三重に行けば松坂牛になるそうです。珍しい話に驚いてしまいました。働けるうちにどんどん働いておきたい。夢は?と訊きますと、マンションのオーナーになることだと即座にはっきり言いました。しかし今、太りすぎで医者から注意され、減量に励んでいるとのことでした。夢を目指して3つもの仕事に精一杯励んでいる彼に、人間としての尊厳を見、旅の貴重な出会いに心が熱くなりました。 2019.11.18 Monday 22:31
旅の風から 宮古島の旅その3 見たこと聞いたことその2
旅の風から 宮古島の旅その3 見たこと聞いたことその2
宮古空港の観光案内所に寄ると、分厚いパンフレットを何冊も渡され、それだけで、ああ、ここは観光地なんだと実感させられ、それなら話のタネにと、観光スポット、カメラスポットに目を走らせました。ホテルのフロントでも同じような案内書を何冊も渡され、混乱しそうでした。
今回の旅で、一つだけして行ってみたい場所がありました。友人が言うには、最近、宮古島と西の伊良部島を結んで伊良部大橋ができたので、ぜひそれを渡ってみたいとのこと。それを聞いたとき私の心が大きく動き、行く気になったのです。真っ青な海の真ん中を3450mもの橋が架かっているとのことです。ちょっと想像しただけでもワクワクしてきました。
歩けるのだろうか、行きは歩いても帰りまでは歩けない、じゃ、バスがあるかしらと、すぐにフロントに駆けつけました。ところが、ところが、島の交通事情がありありと分かってきたのです。橋はもちろん歩けない。バスは?。あるにはあるが、帰りは適当な時間にはないと。結局、わかったことは、バスは島民の生活圏、病院や学校、役所だけを廻るだけで観光のことは全く考えていないのでした。それなら?。観光タクシーがかなり充実して、一時間、2時間、3時間のコースがあって、行きたいところを廻っていただくこと、これしかないのでした。個人旅行はそうしたものかもしれません。覚悟を決めて、さっそく翌日の朝、9時から2時間、伊良部大橋を渡って伊良部島の有名スポットを廻っていただくことにしました。ホテルからホテルまでということで。
そのあとは、観光案内書を片手に、ホテルの近くを歩き、南国の夕暮れを楽しみ、道路沿いの食堂に入って夕食となりました。半分心配しながら客となったのですが、どうしてどうしてさすが四方海の小島です。お魚のおいしかったこと!特にお鮨が。それも安かったこと!すっかりうれしくなり、島の印象も大きくアップしました。
ホテルの窓越しには平良港(ひらら)が見えます。少し沖合に大きな観光船が停泊していました。聞くところによると、昨今、こうしたクルーズの観光船が立ち寄り、朝、乗客を降ろして、夜遅く、島内に散ったお客が帰るの待って出港するそうです。そもそもその下船した乗客たちが島中を巡って観光あるいは買い物をするのです。週に3回ほど寄港するそうで、町はにわかにこの人々のニーズに合わせ、あるいは商売するために様変わりをしているとのこと。大型の店舗や食堂などが新しく作られていました。中国人、台湾人が多いそうです。
これは、観光タクシーのドライバーさんが語ってくれたものです。島は観光ブームでホテルやマンションが大規模に建ち始めています。昨日まで見る影もなかったサトウキビ畑が、一夜にして億を超える高値で売られているそうです。運転手さんはちょっとうらやましそうでした。 2019.11.13 Wednesday 11:32
旅の風から 宮古島の旅その2 見たこと聞いたこと その1
旅の風から 宮古島の旅その2 見たこと聞いたこと その1
宮古島が近ごろ観光ブームでマスコミに頻繁に取り上げられていることを、帰ってきてから聞きました。私たちは流行の地に旅したわけです。友人と私はもっぱら海を見て静かに過ごそうと、それだけを目的に行ったのです。私はひま人ですが、現役の友人は現場から遠く離れ、心身が空っぽになるほど海と空を眺めていたいとのことでしたので、それなら私も同じ、そこで意気投合し、立ち上がりました。
友人がネットから飛行機とホテルを予約しただけで全くの個人旅行です。島についての知識も持たず、無計画でした。同じ日本だから、何があっても言葉は通じる、スマホも使える、訊きたいことはホテルのフロントで教えてもらえるだろうと、安心がありました。
しかしです、最初から気になったことがありました。予約したはいいけど、飛行機の便のナンバーや発着時刻の状況などを知らせる紙一枚ないのです。ペーパーを見る事が出来ないのです。友人にメールすると、スマホから画面が送られてくるのみ、家の者にも画面で知らせるのみ。私としては何とも不安が漂います。そうした時代になったのだと自分にしっかり言い聞かせて、関係書類一枚もなく羽田に向かったのです。
空港内でも、友人はスマホを機械にかざしながら進んで行き、荷物を預けるのもすべて、スマホひとつです。ますます心細くなってしまいます。念願のペーパーのチケットを手にしたのはどの段階だったか、そこでようやくホッとしました。
計画を立てる時に私は、あまりにも早い早朝の出発と、深夜の到着は避けてほしい、二度とない旅だろうから宿泊場所もできるだけ小ぎれいなところをと注文しました。若い友人はエコな旅に慣れているので当惑したようでした。空港でゆっくりモーニングをいただき、熱いコーヒーをすすり、直行便は取れなかったのですが、10時ごろ飛び立ち、沖縄の那覇で乗り換えて、3時にはホテルにチェックインできました。機内から少し冠雪した富士山を見下ろし、日に輝く雲海の中をところどころ通過し、大きな島、小さな島を楽しみながら宮古空港に降り立ちました。気温は東京とは10度も違い、日差しは真夏並み。さすがに南国でした。
2019.11.08 Friday 10:22
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