人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 遅々たるあゆみながら

日々の風から 遅々たるあゆみながら

 

 

また扇風機を使っている。今度は台風17号の影響によるのだろう。一週間前の3連休とこのたびの3連休は二回とも台風15号、17号の襲来で痛手を受けている。特に15号で大災害を受けた隣りの千葉県は、まだ停電しているところがあると聞く。せめてインフラだけは特急で復旧してほしい。

 

日に追いかけられ、日を追いかけて、いただいているいつくかの働きに係わっていかれるのは思えば幸いなこと、感謝の一言に尽きる。この土曜日は、所属する日本・クリスチャンペンクラブの隔月の例会がある。その集会の準備に追われている。小さな集いではあるが、礼拝の時があり、文章の書き方の学びや証しがあり、持ち寄った作品の合評会がある。参加者は、あらかじめ決められたテーマに沿った一文を持参する。原稿を互いに交換しあって読みながら、感想を述べあうのである。それを家に持ち帰って推敲し、あるいは添削してもらって、作品を貯めていく。ある時が来ると出版する。

 

そんな営みをもう、60年以上重ねてきた。最近では2年以上書き溜めた21名のミニ自分史を『百花繚乱』と題して出版できた。書店の店頭に並ぶことはあまりない。執筆者が伝道用に友人知人に配布する。10冊、20冊と手渡していく。このスピードの時代に、まことにささやかで、亀の歩みより遅い一足一足ではあるが、承知の上で歩んでいる。

 

書くこと、地道に作文に取り組むことが、世間の話題性を失いつつある現在ではあるが、老人ばかりの手慰みではないらしい。会も60年以上続くと高齢化は免れないが、不思議なことに、あかし文章を学びたい、エッセーや童話を書きたいという若い方々が絶えないのだ。人生の第一線の活動に一区切りつけた方々は、その足跡を書いてみたいと思うのは、自然な発想だと思える。そうした方々も扉をたたいてくださる。

 

書くことは人の営為のなかでも最も非日常なことだと、かの大作家はのたもうたが、言いえている。努力しなければ書く場に自分を持っていけない。課題が出されていなければプロでもない限り、自発自力はない。仲間がいて、宿題があるから書く。こうして私も課題に追われて絶え間なく書き続けている。土曜日に会員たちの作品に出会えるのが楽しみである。

 

季節の風から comments(0) -
日々の風から 一人で生きる

日々の風から 一人で生きる

 

15日の礼拝は「敬老記念歓迎礼拝」と名付けて、『孤独になる時どう対処するか』との説教題のもとに、説教があった。教会からはあらかじめ、友人知人、家族の高齢者向けに招待状が送られ、久しぶりに高齢の方々が来られていた。高齢者と孤独とは表裏のように切り離せない現象であろう。その対処方法を、牧師は聖書から語った。心に響き、残るものがあればと願い思う。説教をまとめてみる。

 

孤独になる原因には、人生の移行期や転機がある。仕事、学校などの環境の変化で孤独になることがあり、感じることがある。引き離されたり、拒否、攻撃を受けて孤独に陥ることがある。信じ、親しくしていた者たちに裏切られたり、攻撃されたりすることもあるがその時の孤独感は大きい。どんな人も大なり小なり経験のあることだ。

 

そうした孤独をどのように克服するのか。説教は、使徒パウロがローマの獄中で過ごした日々を例に挙げて進められた。今ある【孤独な時を、有効に用いる】ことが克服の一つの方法である。パウロは多くの同志からも離され、裏切られ、いつ処刑されるかもしれない極度の不安と危険のただ中にいた。しかし彼はいたずらに身の不運を嘆き、人を恨んではいなかった。友人に「本を持ってきてください」と頼んでいる。読書し、学びを続けているのである。

 

また、裏切ったり離れていった友のために祈っている。それは【傷を小さくする】ことに効果があった。恨んだり憎んだりすればするほど受けた傷は深くなり、孤独の闇も色濃くなる。彼らをゆるし、彼らがその責任を負わされることがないようにと、孤独の時間を祈りのために使っている。

 

また孤独解消の力ある方法は【神様の臨在を認める】ことである。友は離れて行っても神はパウロのそばにいてくださる。決して離れることはない。その認識はどんなに孤独を解消することだろうか。誰がいなくても、主がすぐそばにいてくださる、これこそ最強の対処方法である。

 

また【他の人の必要に焦点を合わせる】ことだと述べられる。獄中にあって直接に働きが出来なくても、福音が世界中に伝えられるようにと願い、希望をもって祈っている。そのために、熱心に手紙を書き送っている。そのパウロの手紙こそ、現在の「聖書」の中に多数収録されており、パウロの願いはかなえられているのだ。

 

現在、高齢化社会と呼ばれて、日本では65歳以上の人口が28%以上だという。高齢者はどうしたって社会や人の群れからは距離を置くことになる。つまり一人でいる事、孤独になる場合が多い。家族もなく、独居老人と呼ばれる方々も多い。その孤独さは苛酷である。昼はデイサービスに行き、あるいは施設に入所しても、孤独は避けられない。家族の中にいても、始終、現役の者たちと一緒にいられるとは限らない。つまり孤独なのである。

 

家族がいようがいまいが、人は究極的にはひとりであると思っている。寂しさや悲哀は感じるけど、人を頼ってもどうにもならない。頼られる人も限界のある人間なのだ。100%要望に応えられるはずがない。だから、一人であること、孤独を受け入れていくことだ。孤独な中にあっても、時を有効に用いていったら、嘆かずとも済むのではないか。

 

私も自分の状況を顧みるに、半分ばかり孤独な老女である。しかしかなり積極的に孤独な時間を有効に使っていると思う。パウロのように、切迫した危険にさらされているわけではないが、本を読むのは無上の楽しみだし、祈ってもいる、祈りに費やす時間は多い。なによりも、いつもともにいてくださる主を信じ、信頼している。この事実は貴重だし、感謝するばかりである。この恵みに及ぶものは何一つない。

 

もうひとつ感謝なことは、駄文に過ぎないがものを書いている。書く世界は広く深く何よりも楽しい。もう一つの別の生活エリヤがある気がする。そこに入り込むと、たくさんの知り合いがいる。歴史ものを調べ、書いていると、この地球上に生きたあらゆる人と知り合いになれる。フィクションを創作するときは、想像力が生み出した人たちと強く熱いきずなで結ばれる。

 

孤独をかこつ暇はないと、まさかそんなに強気な物言いはできないが、今、楽しんでしていることをできるだけ続けたい。

 

われはしゅにありて たのし

みまえにあゆみて たれり

ハレルヤ ハレルヤ

みまえにあゆみて たれり

(聖歌483)

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日々の風から 台風15号の奇襲

日々の風から 台風15号の奇襲

 

 

15号台風には発生当初から危機感を抱いていた。台風は避けて通れない夏の終わりの招かざる客だ。どうしたってやってくる。直接であろうと間接であろうと、日本列島がああした位置にいる以上、出会わないわけにはいかない。大変失礼なことだが直接出っくわさない場合は内心ほっとする。しかし今回は最悪の進路になるのではないかと、大いに気をもんだ。東京湾から上陸するのを恐れた。さえぎるもののない海上から、いきなり陸に上がる勢いはすさまじい。

 

かつて、その進路を通った台風でひどい被害を受けた思い出がよみがえってくるのだ。戦後間もなくの台風だった。私はまだ10歳にも満たなかった。家は瓦もまだ乗っていないバラックだった。近くの川も、今のような護岸はできていなかった。おそらく台風の勢いは15号ほどではなかったろうが、家はばらばらと倒れ、堤防が決壊して洪水になった。その時の風の唸り声、真夜中にはだしで水の中を避難した記憶がこびりついている。その後は台風のニュースが聞こえてくるたびに身を縮めた。15号はその時の台風と同じ進路を取った。

 

8日の夜から9日にかけて、15号の風は唸り続けた。今では木造ではなく鉄筋の家になり、おそらくびくともしないと思っている一方で、一睡もできなかった。昨今は風よりも浸水が気がかりである。堤防の決壊はないだろうが、短時間の豪雨で排水機能が追い付かず、道路が冠水しその水が低いところへ流れ込む。一階のトイレやお風呂場から水があふれることもある。いくつかの情報から、ポリ袋に水を満たして排水溝の上に置いて備えた。停電になることもあるので、明かりも用意した。幸い、どうにか無事に済んだが、花壇の草花が無残な目に遭った。

 

そのあと、成田空港の混乱や千葉県の大規模停電を知って心が痛んだ。千葉に住む知人宅も停電になり、困ったそうだ。冷蔵庫やエアコンが使えず、お風呂も入れないのが厳しかったそうだ。幸い、すぐに復旧した地域だったが、今日現在、まだ被災したままのところもある。

 

そして、台風一過の猛暑である。暑さの塊を残していくなんて、台風の去り方はスマートではない。台風は自然界の鬼っ子、駄々っ子だ。始末に負えない。短絡的な見方、考え方でしかないが、このたびの台風15号には悲鳴を上げた。遠方からお見舞いメールをくださり、祈ってくださった友人の皆様に心から感謝します。

 

 

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日々の風から 9月の風は気まぐれ風

日々の風から 9月の風は気まぐれ風

 

9月1日が日曜日だったので、秋の入り口の月のついたちに、主を礼拝できて、感謝ですねとみなで喜び合った。今年も3分の2が過ぎて、残りは3分の1だね、きっとこの3分の1は超スピードで進むねと語り合い、少し涼しくもなったから、手つかずだったあれもこれも素早く片付けよう、できるだろうと頭の隅で段取りをつけていた。

 

ところが、この2、3日は真夏の暑さが戻り、げんなりしている。もう着ないだろうと、畳み込んだTシャツをまただしている。エアコンを切ってみたり、また入れたりである。

冬から春への移行の日々を三寒四温というが、夏から秋へは、同じような適切な四字熟語はないものだろうか。三暑四涼、なんてどうだろうか、おかしいかしらと、苦笑しながら言葉遊びなどをしてみた。

 

一日の出来事を記録する暇もないほど時は早く過ぎていく。汗をかいたと思うすぐそばから秋めいた涼風に出会って足元に冷えを感じ、思わず長い靴下を履いたりする。着たり脱いだり、脱いだり着たりと、しばらくはあわただしいことだろう。こんなどうでもいいことを書いて、ブログとしてアップするなんて、おこがましい。そんなことも思う。気まぐれなのは秋風でなくて私なのかも。まとめ始めたジョン・バニヤンの祈りも、続けていきたい。

 

 

 

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