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世相の風から 時代の節目を迎えて
世相の風から 時代の節目を迎えて
天皇陛下が自らお仕事を退いて、 いわば自発的に退職されて、 後継者に譲るのは、 まことにご立派なことで、 地位が高い方ほどなかなかできないことだろう。 まして一存ではいかないことだけに、 よくご意志を貫徹されて今日の日を迎えられたと感動する。 30年間、よくぞ激務をこなされたと思う。
退位に伴って元号も変わるか、 私はずっと西暦で通してきたし これからも西暦を使うつもりなので、大きな感慨はない。 先ほどある友人から、 「平成の30年間は個人的にはどんな時代でしたか」と質問され、 はたと考え込んだ。彼女は、 「私はガンになったことと、3・11が一番大きな出来事でした」と言われた。 彼女のように、自分の歴史を振り返る良い節目の時かもしれない。 しばらくそのことについて思いめぐらしてみようと思った。 2019.04.30 Tuesday 21:12
世相の風から 高齢者の交通事故に思う
世相の風から 高齢者の交通事故に思う
近ごろ池袋で起きた高齢者による交通事故ほど痛ましく悲惨な事件はない。こうした事故は近年多発し大きな社会問題になっているにもかかわらず、なんら解決策も対策もない。法律で一律に決める事柄ではないのだろうが、犠牲者が痛ましすぎる。
事故を起こすのは高齢者に限ったことではない。若者だって、長年無事故で通した人だって、男性だって女性だって、事故は一瞬のうちに起きる。話題は外れるが私はかなり昔に被害者になった。相手は高齢者ではなかったけれど、怪我は元通りにはならず、いまだに後遺症で苦しんでいる。かつて、注意一秒、怪我一生とのフレーズが流行ったが、その一秒はいつ起きるかわからない。
交通事故は今ではかつて交通戦争と言われたころに比べると激減しているという。だからこそ高齢者の事故が目立つのだろう。いくら長生きの時代になったとはいえ、人は老いていく。体の諸器官、諸機能は衰えていく。髪は白くなり老眼になる。いちばんわかりやすい老化現象だろう。若い頃のように走るなんてとてもできない。昔のことはよく覚えていても、外国語の記憶力などは昔の何十分の一ですらない。それが高齢者の交通事故と何の関係があるのかと言われると言葉もないが、老いの自覚こそ老いたる者の基本的な有り様ではないか。
一度手に入れて、自由に重宝に使っているものを手放すこと、これほど難しいことはないのだろう。強制的に取られてしまえば、従うのかもしれない。いのちだって、どんなにしがみついても必ず神様によって取られる時が来る。否応なしに来る。それは、寿命として受け入れるのだろう。
重宝に使っていたもの、自分自身のものを、自分から手放すことが、人に与えられ託された最後の選択だと思う。天皇陛下はご自分の意志で座を降りる決意をされた。これほどご立派なことはない。徳川慶喜は三百年続いた将軍の座を自ら降りた。これほど見上げた決断はない。運転免許を手放すことくらい、良識ある高齢者ならできないことはないと思う。持たない者のたわごとかもしれないが。人を殺してはいけない。殺人者にならない前に、何とかしなければいけないと思う。
運転免許は18歳未満には与えられない。どんなに優秀な男女にも与えられない。きちっとした一線があるのに、どうして免許返上の一線が決められないのだろうか。矛盾していると思うが。社会的なルールは法律で決めたらいいのではないか。こんな悲劇をいつまで許しておくのだろうか。ますます増えるだろう。老いは刻一刻、忍びよってくる。 2019.04.26 Friday 12:14
日々の風から 十字架の上で
日々の風から 十字架の上で
この一週間、教会では特別に早朝の祈祷会が持たれた。 主に教会の近所に住む教会員が参加した。 牧師夫妻を中心にした小さな会だが、 毎朝新鮮な思いで加わってきた。 受難の賛美歌を歌い、 受難の聖書個所が読まれ、 牧師がショートメッセージをし、 そのあと、参加者全員が祈った。楽しい毎日であった。
聖書から、 この時期に登場する珍しい人たちのことが語られ、 考えさせられた。 イエス様が十字架につけられた時、 左右にも十字架刑を受けた人たちがいた。 彼らは強盗であった。 極悪人であったのだろう。 しかし、その一人が、イエス様に、 「あなたが御国に入られる時には、私を思い出してください」と、助けを求めた。 そのときイエス様は 「あなたは今日、私とともにパラダイスにいます」と、 彼を受け入れ、彼をゆるし、救われたのである。
死の間際でたった一言、救いを求めた人を、 神は救われたのだ。 救いの業はスピーディーでダイナミックである。 難しい理論も理屈もいらないのだ。 ただ、ひたむきに頭を下げて助けを求めればいいのだ。 これが神の救いというものだろう。 私は感動している。 感動のあまり躍り上がりたいようだ。 単純素朴で、やさしさと愛に満ちているのがイエス様の救いだ。
その貴い救いに、若い時に与かったので、 この難しい世の中を、 喜びと平安に包まれて、今日まで生きて来られた。 神の新しいいのちで、生かされてきた。
明日はイエス様がよみがえられた勝利の日を祝う。
「あなたは今日、私とともにパラダイスにいます」 2019.04.20 Saturday 21:50
日々の風から 花だより、思わぬ雪だより
日々の風から 花だより、思わぬ雪だより このところ気温気候のアップダウンに振り回されている。 今日はよりによって、雪である。 4月の雪に出会ったこともあるがいつだったろうか。 桜満開の頃になっても雪の日があったとの記憶はある。 珍しいことだが、なかったことではないのだ。 今回、東京の下町には雪は降らない。真冬より冷たい雨であるが。
ところが早朝の群馬から雪が降っている、 積雪15センチの予報と一報があり、 山梨からは、あきれ果て、困り果てた声が聞こえてきた。 「なんなの、いったいこれは」と。 もう雪用のタイヤはノーマルと交換しているので走れない。 仕方なくタクシーで用足しに行ったと。 みんな戸惑い迷惑しているが、 当のお花はどうだろうか、 震えあがっているだろう。 しかしこの間にも樹は葉の新芽を育てている。 雨が上がったらまぶしい陽に踊る葉桜がみられるだろう。 2019.04.10 Wednesday 18:10
日々の風から 雨も寒さもなんのその 観桜三昧
日々の風から 雨も寒さもなんのその 観桜三昧
それにしてもこのところ寒すぎる。花冷えとか寒の戻りなど、重宝な言葉がすでにあるということは、この時期にはそうした自然現象がよくあることなのだろう。まさかの雪まで舞ったところある。友人から、花ならず雪の吹雪く中で露天風呂に入っていますとメールが来た。
4月の声を聞いて、今週はかねてからの約束で連日お花見を兼ねた集まりがあった。上野公園、六義園と続く日があった。近くの荒川土手の千本桜公園が見事だった。
妹たちと、我孫子にある教会の墓地へでかけた。墓碑に父と母の名が刻まれている。彼女たちとは一年に一度の墓参である。昨年は私の体調がよくなくて、出かける自信がなかったので心ならずも中止した。とても残念だった。なぜなら、この時ばかりは私は妹二人の前で、賛美歌を歌い、聖書を朗読し、大きな声で祈ることにしているからだ。妹たちは教会には所属していない。伝道の思いを秘めてそうすることにしている。妹たちは逆らわない。静かに聖書に聴き入り、祈りを聴いている。私にとってはこの上ない感謝な時である。
帰途は手賀沼の遊歩道を延々と歩く。これも恒例である。妹たちは背中のリュックから双眼鏡を取り出して、お得意のバードウオッチングを始める。バス停までのわずか2キロに一時間以上もかける。鳥を見つけると立ち止まって動かないのだ。私も小さなカメラで鳥を追う。河原の風はきつく、真冬以上の寒さに感じたが、歩き通すことができてうれしかった。まだまだ歩けるぞ!! そんな思いも強められて、収穫は大きかった。
2019.04.04 Thursday 10:25
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