人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 師走の前の静けさ

日々の風から 師走の前の静けさ

 

 

 

一か月ほど前に、久しぶりに旧友と会う時が与えられた。T姉妹はちょうど一年前に最愛の家族を失い悲嘆のどん底をさ迷った。やたらに言葉を掛けられるような状況ではなかった。それを察して敢えてそっと見守った。最近、一年の記念会を直系家族だけで済ませたと聞いた。そのあとで会うことになった。お互いにひと昔ふた昔のまえの話をし続けた。長い時間が過ぎたので、そろそろお開きにしたほうがいいと思った。核心の話は一言も出ない。もちろんこちらからは言い出せない。第一、詳細なことを知っているわけではないから切っ掛けも作れない。しかしたわいない話ではあるがたくさんでき、笑い合うこともできた。それでいいと思った。

 

そろそろお終いのご挨拶をと思っていた時、彼女の口が自然に開いて、私の知らない渦中のことをすらすらと気負うこともなく話し出した。私がすべてを知っているかのように。私は静かに黙して心の奥深くに留め胸に収めた。その時私は、彼女は今、大きな山を一つ越えたのだと悟った。それを機に姉妹はますます軽やかに今日までのことを話し続けた。よかった、会ってよかった。彼女の心が一歩前に向かったことがわかって、感謝の祈りを捧げ合った。

 

それから一か月後の昨日、また会う機会があった。姉妹はお茶の来る前から例の話を話題にした。先の時にはまだ話し足りなかったのだろう、たくさんたくさん語った。心の隅の隅まで洗いざらいを、自分の言葉で表現しているようであった。半分は自分に語っているようであった。心の整理をしているようであった。私はその場に居合わせたことを主に感謝した。

 

メールがあった「お祈りに感謝しながらやっていこうと思います。私なりの進み方でゆっくり歩いていこうと思います」と。姉妹の中で一つの決意が生まれ、これからの生き方の方法が見えてきたのだと思った。11月末にしては暖かい静かな日であった。

 

『主は与え、主は与えられる。

     主の御名はほむべきかな』ヨブ1・21

 

 

 

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世相の風から 移民キャラバンとは?

世相の風から 移民キャラバンとは?

 

近ごろ目につき心を占める世相風景は「移民キャラバン」の様子である。情報は細切れにネットで見聞きするだけだから、ほんもののやじ馬でしかないが、この先どうなるのだろうと、目が離せない思いである。もともとのはどうして起こったのだろうか、だれかが呼びかけたのだろうか、最初は小さな群れであったに違いないが、あれよあれよという間に数千人の大集団になったようだ。中南米の人々が合衆国移住を目標にしているという。

 

「アメリカに行きさえすれば何とかなる、幸せになれる」そうした一途な夢と願いから、今までの自分たちのすべてを置き去りにして家族ともども旅を続けているという。日本という島国生まれ育って、しかも私など、70年以上も同じ場所に暮らし続けている者には、他国へ移住しようとする方々の事情など全くわからない。わからない者が考えたり言ったりするのは余計なことで、邪魔だと一蹴されそうだけど、しかし、考え込んでしまう。

 

このニュースを見た時、とっさに思い出したのは「聖書」にある「出エジプト」したイスラエルの民のことであった。彼らは一人のモーセという力あるリーダーのもとに結集して、エジプトでの奴隷の苦役から集団脱走した。延々と続く行列がイスラエルの民のように見えてしまったのだ。彼らは一夜にして出発した。パンを焼いているお鍋を抱えての旅立ちであった。生まれ場ばかりの赤ちゃんも、歩行困難の老人たちもいただろう。病床に伏していた人もいただろう。しかし全員ひとり残らずエジプトを後にした。まごまごしていたら軍隊が追跡してくる緊迫した状況であった。いのちからがらの脱出であった。

 

「移民キャラバン」の人たちも後戻りはできないに違いない、しかし、入国を拒否された時はどうするのだろう、帰るところはあるのだろうか。こうした現象は今回が初めてではないようだ。近くは数年前、中東からドイツに向かってもっともっと大勢の人たちが移動した。幸い、メルケルさんが寛容政策を掲げて受け入れた。国内は混乱し、義性もあった。今や、メルケルさんはその座を降りざるを得なくなった。合衆国ではトランプさんが最初から両手を広げて通せんぼのアクションを示している。

 

この先どうなるのだろう。あの人々はどこへ落ち着くのだろう。衣食住を得て、安心して暮らせる場所があるのだろうか。出てきた国の為政者はどうするのだろう、通過中のメキシコはどのように扱うのだろう、彼らの目指す国アメリカはどう対処するのだろう。

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世相の風から 外食、中食(なかしょく)、おうちごはんのこと

世相の風から 外食、中食(なかしょく)、おうちごはんのこと

 

世の移り変わりはいつの時代もそうなのだろうが、すさまじいものがある。振り返ってではなく、今現在その渦中にいても、目のまわるほどだ。流行というのだろうか、それに付いていけるのは年代の若い人だろう。実は若い人はその流れを作るご当人かもしれない。知らない間に、知らない言葉が当たり前になっている。

 

「中食」がその一つだ。昼食でなく「中食」、「なかしょく」と読むのだそうだ。外食は昔からあったのでよくわかる。毎日家で作る食事は「おうちごはん」というのだそうだ。呼び名はどうであれ、内容はよくわかる。

 

「なかしょく」ってなんだろうと、聞き耳を立てていると、なあんだ、よくわかってきた。お総菜やお弁当など調理済み食品を自宅で食べることを言うのだそうだ。自宅で食べることがポイントのようだ。いわれるまでもなく、どこへ行っても食品売り場にお惣菜やパックに詰められたお弁当があふれている。いかにもおいしそうに、自分ではなかなか作れないようなすてきなおかずが氾濫している。高級なものもあるが、手ごろな値段のもある。家で作ったほうが高くつくものもある。ひとり食事の人にはピッタリだ。便利な世の中になったということか。

 

しかし昔からお惣菜を売るお店はあった。お肉屋さんでコロッケやカツを売っていた。魚屋さんが店先でお魚を焼いていた。乾物屋さんでは、毎日、煮豆や煮物や佃煮を何種類も売っていた。パン屋さんではサンドウィッチやコッペパンにジャムやバターをその場で挟んでくれた。わざわざ「なかしょく」と言わなくてもごくふつうに存在していた。なぜ今「なかしょく」といって話題をさらうのだろう。理由はまだ研究していないのでよくわからない。

 

私の現在の食事スタイルは「おうちごはん」の一言に尽きる。「外食」は時にチャンスがあれば出かける。独りで「外食」することはほとんどない。家族や友人たちと、歓談を主に「外食」することはとてもうれしく楽しみである。この回数は多いかもしれない。誘われれば断ることはない。都合が悪ければお互いに調整し合って実現させる。これはもう単に日常の食事という枠を超えているから話を折ることにする。

 

「なかしょく」であるが、今のところは、敢えて出来たもの買ってくるはしない。お店でおいそうなものが目に入ると、よくよく見てきて作ってみる。それがとても楽しい。私の日常の食事はいたってシンプルである。粗食ともいえる。おいしいものは大好きだが、私の好みや味覚の範囲でのおいしいものである。だから、たかが知れている。

 

格差社会であり、差別も著しい世界である。たとえ粗食でも三食に事欠く人々は無数におられる。外食でもいい、中食でも、おうちごはんでもいいが、一瞬でもいいから、苦境にある方々を覚えて、感謝して食したい。

 

 

 

 

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書林の風から 「トルストイの日記抄」から 11月の初めに

書林の風から 「トルストイの日記抄」から 11月の初めに

 

もう11月と、だれもが言ったであろう。わかっていても言わずにはいられない。今年もあと2か月になった。ここまで無事に来られたことは大いなる感謝であるが、悔いも反省もある。大みそかには同じことをまた言うかもしれない。

 

以前に買い求めた古書「トルストイ日記抄」をぽつぽつとめくっている。彼が19歳の時に書いたものからはじまっている。冒頭に目が留まって何度も読んだ。彼は自分を完成させるためにいくつかの規則を課した。とても興味深いので、本のとおりに書き出してみる。

 

1、必ず実行すると定めたことは、どんなことがあっても実行せよ。

2、実行することは立派に実行せよ。

3、忘れたことを決して本で調べるな、自ら思い出すように努めよ。

4、常に自分の智力を能う限りの力を持って働かしめよ。

5、常に声に出して読み、声に出して考えよ。

6、邪魔になる人に向かって、邪魔になる、ということを恥じるな。まず、感ずかしめよ。彼が理解しないなら        ば、無礼を謝して、彼らにこれを言え。

 

この日記は1847年から始まっている。今2018年だから173年前になる。時代のずれを思わせるものはない、違和感は6番目くらいだろうか。そうそうできることではないから。

 

一番参考になったのは5番である。声に出して読めとは、心がけていることだから。しかしすべての本を声に出して読むことはとうていできない。聖書はできるだけ音読がいいと思っている。特に詩篇は声に出して読むようにしている。

 

「声に出して考えよ」とは、独り言のことだろうか。これはどうだろうか。文章を書く時も、音声で言ってから書くことはしない。ただし、お祈りは努めて声に出して祈る。努めてはっきりと声に乗せて祈るようにしている。電車の中では無音で祈るが、歩いている時は、だれもいなかったら声に出すことにしている。

 

3番目も興味深い。忘れたことを思い出せとは、老化防止にもいいだろう。どんなに頑張っても思い出せないこともあるが、安易に「あれ、あれ」などと言わないようにしたい。

 

一番目については思うところ大なので、またにします。

 

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