人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 私の夏休み 亡き母の里へ

日々の風から 私の夏休み 亡き母の里へ

 

 

 

 

 

 

このところ母の故郷へ行きたい思いが募っていた。つい口に出るものだから、とうとう娘が、夏休みに行ってみようと言ってくれた。夏休みと言っても家族全員が行ける日はなかなか見つからない。ついにそんな日は一日もないことが分かった。しかし部活動でほとんど休みなしの高校生があっさりと自ら外れてくれて、大学生と娘夫婦、いつでも都合の良い私とで出かけることになった。

 

遠路ではない。千葉県銚子の先の灯台で有名な犬吠岬の湾岸を南西に入り込んだ漁師町である。車で走っても130キロほど。大した渋滞もなく早々に着いてしまった。お天気はどんよりとしていたが、海岸に近づくにつれて晴れてきて、ずっと雨続きだった東京を思うと嘘のような青空になり太陽が照り付けた。久しぶりに青々とした空と海と白波を見た。

 

この地に、私は終戦の年の秋から四年近く父母や妹と戦後疎開をしていた。私には唯一、地方暮らしをした場所であり、出生地こそ違うけれど故郷と言ってもいいところである。記憶の底にしっかり堆積し、心の壁に深く刻まれている私の人生の消すことのできない歴史である。今回、思い出の一ページ、一ページに立ってみた。

 

前回来たのはいつだったろうか。そんなに昔ではない。つい先ごろ、私より年下の従妹の葬儀にも来ている。しかし限られた場所だけのとんぼ返りである。今回は車だから自由に動けた。三年生まで通った小学校跡も行ってみた。毎日泳いだ浜辺にも行った。しかし自然は変わる。人が変えるのだ。いたるところに人の手が入っているのがわかる。かつて、祖母から、その浜だけは泳いではいけないと言い含められていた波の荒い浜は、堤防で囲まれて昔日の面影はない。きつい魚臭もなく、潮の匂いさえ薄い気がする。しかし私は落胆しない。心の中の風景と重ね合わせるからか、よけいに感慨は深くなる。

 

あの時10歳にも満たなかった私が、子や孫といっしょに同じ場所を歩いているのだ。自分も変わった。歳月が変えたのだ。かつてのつもりで磯の岩の上を飛び渡ろうとしたら、孫が、そこは危ない、そこは滑るよと言いながらたくましい手を差し出してくる。時は流れていく。海波は寄せては返す。潮は退いてもまた満ちてくる。しかし歳月の川は一直線に流れ過ぎるだけ。婿どのが、行きたいと願っていたところを余すところなく回ってくれた。ふと、見納めという言葉が生々しく横切って行った。

 

お昼に、魚料理のお店を選んだ。久しぶりに、濃くて甘い独特の煮魚に大喜びした。この味は変わっていなかった。この煮魚を食べにまた来ようとひそかに思った。

 

 

 

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日々の風から 真夏の閑けさ

日々の風から 真夏の閑けさ

 

夏の大型年中行事である夏休みも、子どもたちはさておき、大人たちが職場に戻ってそろそろ終わりだろうか。今年は雨続きだったせいか我が家のすぐ脇を通る車の音もふだんとほとんど変わらずだった。お正月の時のように森閑とすることはなかった。

 

最近、大江健三郎氏の著書を再読していて、忘れてしまっていた一文を興味深く読んだ。

講演集の中の一文である。

 

「わたしはパリで公開討論の会に出席しました。日本文化に深い理解を示す、フランスの一詩人が、日本の高名な俳人、芭蕉の俳句を一つ引用して、こういわれたのです。《枯れ枝に  

烏のとまりけり 秋の暮れ》、この十数羽の烏に、日本人の心はよく表現されていると。

私は反論しました。日本人にとって、この烏は一羽でなければならないのだと。ところが同席していた日本の古典詩の専門家が、私にとどめの一撃を加えたのでした。最近のことだが、芭蕉自身がこの句に合わせた絵を描いた作品が発見された。そこには、烏が二十数羽、描かれていると。それ以来、私は外国人の前で俳句の話をする時、単数と複数の表記が日本語では厳密でないこともあり、疑いにとらえられるようになりました。芭蕉のもうひとつの、有名な俳句、《古池や 蛙とびこむ 水の音》。この蛙は一匹なのだろうか、十匹なのだろうか、二十匹なのだろうか、フランス語の世界では、どれがもっとも自然なのだろう。私は長い間、一匹だと信じてしたのですが……」

 

 唸ってしまった。私も、枯れ枝に泊まる烏は一羽、古池にとびこむ蛙は一匹だと固く思っていた。枯れ枝に二十数羽の烏がとまっているなんてとても考えられず、それでは句から受ける感じがまるで違ってしまう。古池の蛙も十匹、二十匹がとびこんだのなら、もう、滑稽になって楽しくなって笑いだしたくなる。一匹だと思って受けたイメージが壊れてしまう。

大江氏でさえ一羽であり、一匹だと信じて疑わなかった。この知者と同じ思いだったというだけで何かほっとするが、これは日本人だからか。日本人でも複数派がいるのではないだろうか。一人一人に尋ねてみたい。

 

もうひとつ《閑けさや 岩にしみいる 蝉の声》。

この蝉は単数か複数か、これも考えてみたいし、訊いてみたい。

いかがでしょうか。

 

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日々の風から 72回目の敗戦記念日 

日々の風から 72回目の敗戦記念日 

 

このところずっと東京は涼しいし、雨が降る。真夏とはとても思えないお天気模様が続いている。一言でいえば異常気象であろう。しかし過去40年前にもこんな夏があったとか。思い出すこともできないが。家に居る者は涼しくて何かと便利であるが、自分の都合だけで喜んでいくわけには行かない。日本中が年に一度のバカンスで沸き立っているときだ。半年、もっと前から子どもたちともども様々なプランを立てて待ちに待った夏休みである。この天気で実現できなかったらまことにお気の毒である。それを当て込んで商売しようとしていた方々もお気の毒である。あの37度にもなった夏はどこへ行ってしまったのだろう。まるで梅雨時のようだ。

 

今日を終戦記念日という。戦争が終わったのはいい。だから終戦、しかしなぜ「敗戦」といわないのだろう。子どものころからずっとそう思ってきた。だれが始めたのかなどの、犯人探しではなく、日本中が素直に、戦争は負けて終ったのだと身を低くして認めたらいいと思う。外国に対して多くの間違いを犯し、多くの犠牲者を出した戦争、一方で自分の国も壊滅的な被害に遭った。とりわけ広島、長崎を経験した。そして日本は負けたのだ。ここからどうやって平和な世界を作り出し、生きていくのかが最優先の課題ではなかったか。その72年ではなかったのか。いつのまにか間違った道ができ、そこを進んでいるのではないか。その舵取りは任された政治家の仕事ではないのか。任す国民にも責任はあるが。

 

72年前の8月15日の夜、母は部屋の電灯に被せる黒い覆いを勢いよくはぎ取って言った。

「今夜からこんなものは要らなくなった。堂々と電気が付けられる。せいせいした」と。

母の顔には見たこともないような晴れ晴れした笑顔があった。私はそれを覚えている。

 

 

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日々の風から 夏の牙

日々の風から 夏の牙

 

春夏秋冬と聞けば、豊かで穏やかで美しい日本国の諸情景が次々と浮かんで顔がほころんでくるものだ。DNAのなせるわざだろうか。それともかつての日本の四季はそうだったのだろうか。しかし春夏秋冬のそれぞれに厳しい一面があることは昨今の事ではない。特に夏と冬には生活そのもが脅かされたことだろう。豪雪はその大きな難事、夏の干ばつや長雨には飢饉をももたらした。

 

かつて、日射病と言って、夏のカンカン照りの下で長くいると倒れるとよく聞いた。帽子をかぶりなさと注意されたものだ。しかし、熱中症とは言わなかった。日射病の別名かと思っていたが、熱中症日差しの中にいなくても罹る。家の中でも夜中でも発生するそうだ。

 

どこへ行っても「こまめに水分補給を」と言われる。あまり聞くので最近は「こまめに」という言葉が鼻についてうんざりするようになった。「お年寄りは喉が渇いたのも気がつかない、暑さも感じないから」と追い打ちをかけられるとむっとしてくる。思えばこのかたくなさも老いの特徴かもしれないが。

 

夏には牙がある。今朝は一度に数名の友人たちから連絡があった。「このところ真夜中に鼻血がでます。今日こそ医院に行ってきます」、「腹痛が治りません。たぶん冷たいものを摂り過ぎたのかもしれませんが、苦痛です」、「喉の痛みが取れません。ずっとエアコンにあたっているからかも」、「腸の痛みに七転八倒しました。タクシーで病院に行きます」。皆さん独り暮らしなのだ。マンションや一軒家に一人で暮らしておられる。聞いても地方の方もおられるし、近くたって飛んではいけない。一人暮らしは大変だとつくづく思う。夏の牙から守られますようにと、ひたすらに祈る。

 

 

 

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日々の風から 若者の夏、高齢者の夏

日々の風から 若者の夏、高齢者の夏

 

8月1日がスタートしました。高温に呻吟し、突然の豪雨に仰天し、隅田川の花火が中止になるのではないかとハラハラしながらも夏は進んでいます。そして、小さな日常も生きている限りなにやかやと多忙です。身の回りの断捨離と同じように活動の場も少しずつ整理してきてゆとりある日々に移行していますが、まだいくつかとは関係を続けています。負担になるようなことはなく、むしろ楽しみであり、生活のメリハリとなり、ストレスになるどころか反対にストレス解消にもつながっています。しかし気を付けなければならないことがあると自戒しています。一つは《老害》であり、《裸の王様》であり、《鈴をつけるに手を焼く猫》にならないように自分自身を見張ることです。

 

夏休みといっても高齢者には関係がありません。一年中夏休みのようなものです。特別にこの時期に遠出することもありません。この時期だからこそかえって遠出は避けます。日ごろ働きづめの現役の方々に席を譲るのが礼儀でしょう。子どもたちが夏休みの日記帳に(いまごろはそんな課題はないのかもしれませんが)書ききれないほどたくさんの思い出ができますように。とは言っても、家族そろってたとえ故郷へ行くにしても出かけられる人たちばかりではないでしょう。まして海外へ、などは、飛行場があんなに混雑していても少数の人たちでしょう。この時期にお仕事から離れられない親たちもいます。学童保育で日々過ごす子どもたち、保育所に通い続ける子どもたちもいることでしょう。

 

我が家の孫たちは今では大学生と高校生。すっかり大きくなりました。同じ家にいても、婿殿と同じように顔を見ない日もあるくらいそれぞれに多忙です。夏休みも同じです。昨日は大学生が大きなスーツケースを牽き、さらにリュックを背負って研修旅行に、今朝は下の孫が真っ赤なスーツケースとともに部活動の合宿に出かけました。無事を祈りつつ見送ったことです。

 

 

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