人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その11 観光センター→冷水(れいすい)教会→青砂ケ浦教会 

 

今日からいよいよ12月、年の瀬に入りました。

教会暦では11月27日から待降節(アドベント)に入り、

今週は第一週です。

イエス・キリストのご降誕を覚え、25日のクリスマス礼拝に向かって、

いっそう「みことば」と「賛美」と「祈り」を愛して、

恵みの時を過ごしたいと願っています。

 

 

 

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その11 観光センター→冷水(れいすい)教会→青砂ケ浦教会 

 

どこからともなく、しかしいっせいに?あがったのは、お土産を買えるところに行きたいとの切望の声!団長さんから「巡礼ガイドM氏」へ伝えられ、時間のカギを握るドライバーさんに届きました。その結果、わずかだけど「観光センター」に寄っていただけることになりました。車内はにわかに色めき立ちガラリと空気が変わったのです。そう思ったのは私だけかも……。何しろ旅人の4分の3は女性なのですから。センターの場所は頭ケ島を引き返して、昼食をいただいた「扇寿」の近くです。店内には五島の特産品が自信に満ちて行儀よくど並んでいました。海産物はもちろんですが、有名なのは「五島手延べうどん」、「椿油」、「上五島の塩」、「飛魚(あご)製品」、「かんころ餅」などです。多量になると重い物が多いのです。目移りしている間に時間が過ぎてしまいました。さらに残念なことに買い物に心奪われ、一度も周囲にレンズを向けず仕舞いでした。

 

バスは再び国道384号を西に走り、まもなく奈摩湾に向かう県道170号線を右折して北上します。奈摩湾を挟んで対面するように西側に冷水教会、東側に青砂ケ浦教会が建っています。肉眼で見えるわけではないのですが、仲の良い姉妹同士のようです。まず西側の冷や水教会へ向かいました。

 

 

 

冷水教会・木造で白い建物

冷水教会は1907年(明治40年)5月献堂式が行われました。設計施工は長崎県下に数多くの教会を残した郷土出身の鉄川与助です。当時27歳、独立して初めて自ら設計施工した教会であり、歴史的な価値は大きいそうです。教会の入り口にトンガリ帽子のような尖塔がありました。木造の白と尖塔や屋根の褐色のコントラストがすっきりしていてスマートな雰囲気を作っていました。

 

今回、一つ一つの教会では必ず靴を脱いで内部を見学しました。ガイド氏は柱や天井までその教会の特徴をこまごまと説明してくださいましたが、ここに記すことは敢えてしませんでした。私たちの旅は教会の建築や構造を学ぶのが第一ではなく、迫害を耐えてそこに教会を建てた先人たちの苦難と信仰を知ることであり、形に表れない部分を心に感じて刻むことです。それに、堂内を写すことは禁じられていました。また、私は教会の外であっても、キリスト像、マリヤ像などは写しませんでした。それは私個人の信仰の有ようによるものです。

 

青砂ケ浦教会・煉瓦作り・国指定の重要文化財

 

 

 

 

 

 

次に奈摩湾を挟んで向かい合う青砂ケ浦教会へ急ぎました。もと来た道を引き返し、県道170号を湾に沿って左折、まもなく県道32号に入って北上します。教会は奈摩湾の中腹を見下ろすように正面を対岸の冷水教会に向けて建っています。1856(安政3年)、浦上三番崩れの殉教者である浦上の帳方(潜伏キリシタンの信仰組織の指導者の頭)吉蔵はこの付近に隠れていて捕まったそうです。1878年(明治11年)年ごろには初代教会堂があったといわれます。その後1919年(明治43年)に献堂され国の重要文化財にも指定されている現聖堂は3代目の聖堂です。設計施行は鉄川与助氏。外壁の煉瓦は信徒が総出で運びあげたたそうです。

 

「巡礼ガイドM氏」はここで思いを込めたように、自分の父と母も教会作りに参加し、煉瓦を運んだのだと話されました。びっくりしました。目の前の外壁のどこかにその煉瓦がはめ込まれているのです。それは80歳のM氏がいくつの時だったのでしょうか。数十年の歳月を飛び越えて、今、ここでその作業が行われているような気がして身の引き締まる思いがしました。

 

 

この旅行記もあと2回ほどの予定です。ご愛読を感謝します。

 

 

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上五島のカトリック教会群を巡る旅 その10 昼食「扇寿」→頭ケ島天主堂

上五島のカトリック教会群を巡る旅 その10

 

 

昼食「扇寿」→頭ケ島天主堂

さて、待望の昼食「扇寿」へ急ぎます。予定時間を超えています。東シナ海に面する有川港ちかくです。お店に滑り込みますと、店内はたいへんな混みようです。評判のお店なのでしょう。予約席へ着くと、すでに名物五島うどんのお鍋がたぎっていました。地獄炊きうどんというのだそうです。うどんはほとんど食べ放題、それに生きのいいネタの握り鮨でした。

 

頭ケ島天主堂・石造りのロマネスク様式

 

 

 

 

 

午後一番の見学教会は頭ケ島教会です。この午後は5つの教会を巡ります。国道384号は昼食をいただいた「扇寿」のある有川港あたりで終わり、その後は県道62号に変わって、頭ケ島に入ります。頭ケ島は新上五島町の北東部、五島列島の最東端に当たり、現在は橋で結ばれていますが幕末まで無人島でした。1859年(安政6年)に、鯛ノ浦のキリシタンが迫害を逃れて住みつきました。

 

教会は明治3年、ドミンゴ松次郎が、長崎でプチジャン師の教えを受けて島に帰り、住家を青年伝導士養成所とし、仮聖堂を置いたのが始まりです。1887年(明治20年)最初の教会を建設しましたが、1910年(明治43年)大崎八重神父のもとに鉄川与助の設計、施行によって松次郎の屋敷跡に、島で産出する石材を使って総石造りの聖堂の建設に着手、7年余の歳月をかけて大正(1917年)大正6年に、ロマネスク様式の石造り天主堂が完成しました。その間には島の信者による資金集めや労働奉仕など献身的な努力があったそうです。2001年には国から重要文化財に指定されました。教会には常駐の主任司祭はおられず、カトリック鯛ノ浦教会の巡回教会となっているそうです。教会近くの浜辺には、キリシタンの墓地が今も残されています。

 

周辺を歩いているときはあまり気にならないのですが、眼下に広がる五島灘の海を見、また特に地図で確かめると、島は今にも教会もろとも海にこぼれ落ちそうに見えるのです。島民はわずか17名とか。しかしこんな小さな島に1981年(昭和56年)には東部の山を切り開いて上五島空港が建設され、開港にあわせて頭ヶ島大橋が架けられて、本土ともいえる中通島と結ばれたのです。交通の便が良くなったことで一躍脚光を浴び、島を訪れる観光客も増加したそうですが、残念ながら現在空港は閉鎖されています。頭ケ島大橋は300メートルのアーチ橋です。橋の色は赤です。海の深い青と山々の緑と赤い橋はみごとなコントラストを生み出し、旅人の胸を躍らせます。これもドミンゴ松次郎を筆頭に、先人信徒たちの苦闘が生んだ思わぬ遺産ではないかと思いました。

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その9 大曽教会→鯛の浦教会

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その9 大曽教会→鯛の浦教会

 

 

 

 

 

 

 

見学の時間ですが、教会から次の教会までおよそ15分、見学時間は20分程度です。道路はアップダウン、急カーブの連続ですから走行距離は短いと思われます。教会も、ヨーロッパの大聖堂のような規模はなく、素朴な「村の教会」ですから、短時間で見学できます。もちろん、じっくり立ち止まり、座り込めば、もっともっと長く鑑賞できますが、団体行動ですから分刻みの予定が立てられています。しかし、私たち一行は、息せき切って歩き回ることもなく、思い思いにスマホをかざしカメラを向けて楽しみました。ただし、教会はほとんど高台にあるので急な階段を上り下りするのはたいへんに骨が折れました。

 

大曽教会・濃淡の赤煉瓦の教会・上五島で一番美しい教会

「大曽教会」はさらに国道384号を北上した青方湾を見降ろす丘の上に建っていました。上五島で一番美しいと言われる教会です。この教会の壁面は色の違う赤煉瓦で積み上げられ芸術性と重厚さを感じました。正面には八角形のドームを戴いた鐘塔が高くそびえていました。はじめの教会は禁教令が廃止された明治6年から間もなくの1979年(明治12年)に木造で建てられましたが、現在のものは1916年(大正5年)に、長崎県下に数多くの教会建築を残した郷土出身の鉄川与肋が設計施工して建てたものです。11年もの年月をかけたそうです。美しいカーブの半円アーチの窓の花柄ステンドグラスは西独製とか。鮮やかに輝いていました。

 

午前中最後の見学になるのは鯛の浦教会です。時刻は11時20分を過ぎています。正午に昼食会場の「扇寿」に到着できるかと、心は早やひそかにランチに向かっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鯛ノ浦教会・煉瓦作りの旧聖堂は資料館

北上を続けた国道384号線を右へ、つまり東へ行き、途中から県道22号線を南下すると鯛ノ浦教会です。この教会は旧会堂は資料館になり、現在はその前方に建てた新会堂を使っています。この集落の人々は外海の出津から移住してきたキリシタンの子孫に起源をもち、五島崩れの迫害を受けています。1871年(明治3年)には「鯛之浦の六人斬り」呼ばれる残忍な出来事がありました。胎児を含む2家族6人が有川村の郷士に殺害されたのです。さすがに下手人の郷士四人は入牢、引き回しのうえ切腹を命ぜられました。

 

「巡礼ガイドM氏」はずっと淡々と穏やかな口調で説明され、個々の凄惨な迫害の場面はあまり語りませんでした。しかし、この時は声を高くして語られました。バスが現場近くの集落の中をゆっくりと進んでいるときでした。村は人影こそありませんでしたが沿道の畑はよく耕され、作物が青々と葉を広げ、平和そのもののようです。そんなおぞましい殺戮があったとはとても考えられません。しかし現実のことなのです。しかもたかだか150年ほど前、元号は明治なのです。

 

「歴史は読むのではなく、見るものである」、「歴史を知るとはその場に立つこと以外にない」と言われた堀田善衛氏の言葉を思い出し、粛然とさせられました。

 

初めての聖堂は1903年(明治36年)のことです。潮風による破損が激しかったために、1979年(昭和54年)年に現在の聖堂が建てられました。旧会堂には旧浦上天主堂の被爆煉瓦を用いた鐘塔があります。その他は木造です。そのコントラストに深い味わい感じました。新しい聖堂建設には一世帯80万円を献金したそうです。捧げる信仰のたくましさと美しさを胸に刻みました。

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その8 若松大橋→中ノ浦教会

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その8 若松大橋→中ノ浦教会

 

 

 

 

 

 

キリシタン洞窟―ハリノメンドの荒海から脱出した私たちは、若松港で下船し、待っていた貸し切りバスに乗り込みました。もちろん「巡礼ガイドM氏」も今日一日はいっしょです。

今日一日で8つの教会を巡ります。午前中に3つ、昼食ののち、5つです。ちなみに教会名を挙げてみます。中ノ浦教会→大曽教会→鯛の浦教会→(昼食)→頭ケ島天主堂→冷水教会→青砂ケ浦教会→江袋教会→仲知教会です。これらの教会は今もミサや祈祷会などが行われ、活動している教会です。このうち、頭(かしら)ケ島天主堂と青砂ケ浦教会は国の重要文化財に指定されています。

 

若松港を出発したバスは国道169号から「若松大橋」を渡ります。若松島と上五島の中通島とを結ぶ全長522メートルのライトグレーの橋です。開通は平成3年(1993年) 。この架橋により「離島の離島」という若松島の悪条件が改善されたそうです。周囲は西海国立公園に指定され、橋の両側にすばらしい眺望が広がります。それにしても長い間橋がなかったことで、人々は想像を超えた多くの不自由を強いられてきたのだと思いました。バスは

国道384号を北上して「中ノ浦教会」に向かいました。

 

中ノ浦教会は美しい白亜の木造教会です。大正14年に建てられ、静かな中の浦に面していて、潮が満ちているときは入江の水面に鏡のように教会と背後の山が映るそうで、「水鏡の教会」と呼ばれているそうです。私たちは目にすることはできませんでした。正面の屋根の上には赤い帽子をかぶせたような鐘塔がそびえていて、とても優雅な姿でした。聖堂内はどこの教会も影禁止ですから目に刻むだけですが、島のシンボル樹木である「椿」をモチーフした装飾がたくさん使われていて明るく優しい雰囲気を作っていました。しかし椿は花弁が5枚あるはずですが正確な4枚になっているので十字架を表しているのではないかともいわれるそうです。

 

この地区のしん信者たちは寛政年間に外海の黒崎から移住してきたキリシタンです。近くにある桐古里が伝道師ガスパル下村与作の出身地ということで、五島崩れ(キリシタン弾圧)では信者たちへの迫害がはげしい地区のひとつだったそうです。

 

この教会では島内の6つの教会が持ち回りで開催するクリスマスコンサートが行われます。その時は信者の方ばかりでなく一般の方々も参加され、時には数百名にもなるそうです。

 

朝8時に「えび屋」さんを出発して、まもなく10時です。わずか2時間しか経っていませんが旅の袋はすでに満杯。たくさん見聞したような心持です。ときどきパラパラと雨が降り出したと思うとすぐにやんでしまい、海岸特有の現象かしらと思いました。

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その7 ハリノメンドについての一考

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その7

ハリノメンドについての一考

 

「キリシタン洞窟」ハリノメンドという珍しい言葉に引っかかっています。特に「ハリノメンド」です。この地にキリスト教を伝えた宣教師のお国の言葉か、あるいはラテン語かと思ったりしました。それが五島の方言で「針の穴」と分かった時、頭の中で動くものがありました。「メンド」とは「穴」という意味になります。「めど」が浮かびました。「めど」とは、≪めどがつく≫とか≪めどが立たない≫など、いまでも使われている言葉です。「めど」とは、めざすところ、めあて、大体の見当、目標の意だと辞書にあります。この時の「めど」は「目処、目途」と書きます。「穴」から来ていると思います。

 

ところで、母の故郷は千葉県の東端、犬吠埼の灯台で知られている近くの漁村です。そこに戦後疎開していたことがありますが、土地の人たちが「あな」を「めど」と呼んでいたのです。「メンド」とまでは言わないけれど「めど」記憶にあるのです。茨城県のことばにもあるそうです。

 

なぜこんなことを考えるのかと言えば、「五島」の言葉が、流れ流れて千葉や茨城に渡ったのだと思うからです。今だけでなく昔も人々は決して一つの地域にとどまり続けていたわけではないと思います。特に漁師たちは漁をしながら自由自在に海を渡ります。嵐に遭って見知らぬ国に漂着しそこに住みついた話などはよく聞くことです。母の里で、この地の人たちの祖先は和歌山から来たと聞いたことがあります。

 

話は飛びますが、今年の読書で大きな刺激を受けた『みんな彗星をみていた』の中に、作者の星野博美さんは、自分は東京人だけれど、祖父母は千葉の内房の人で、その人たちの祖先は和歌山だと、証例を挙げて書いています。千葉県には内房にも外房にも和歌山の人たちが入っているのです。その和歌山の人たちもたぶんどこからか移住してきたのでしょう。直接に五島の人たちでなくても、巡り巡って「メンド」という言葉もわたってきたのだと思います。壮大な海のロマンです。いや、そんな甘いものではなく、実際は命がけの出来事があったに違いありません。

 

そもそも五島の祖先は大陸から漂流した人々が住みついたとあります。人間同士のことです、瞬く間に言葉を交わし合い、暮らしに溶け込み、当然、結婚もあり、新しい子孫たちが増えていきます。それは、今も大昔も少しも変ってはいないのです。

 

話が大きく飛びますが、日本人は単一民族だなどどうして言えるでしょう。私たち一人ひとり、小さく言えば家族一族であっても、肌が白くて鼻の高い人、丸顔で浅黒く丸い鼻の人がいます。北方系かな、南方系かななどと考えることもあります。ふと、自分は何者ぞなどとも思います。世界は一つなのだ、人間は一体なのだと強く思います。

 

「ハリノメンド」が私を壮大な人間物語へと連れて行ってくれました。人間物語の上には「神様のストーリー」があることは言うまでもありません。

 

 

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その6 キリシタン洞窟 ハリノメンドへ

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その6

キリシタン洞窟 ハリノメンドへ

 

 

 

 

 

 

 

 

昨夜の夕食はお魚づくめ、それも獲れたてのものばかりでした。なにしろえび屋さんは「神部港」という小さな漁港に面しているのです。港にはボートより少し大きめの漁船が停泊していました。朝食もお魚づくめ。しかしゆっくりいただいている暇もなく、外に飛び出しました。連泊なので大きな荷物は置いていけます。これはなにより感謝です。

 

この朝、最初にキリシタン洞窟へ行きます。海上タクシーで行くとかねてから聞いていましたが想像がつきませんでした。「洞窟」、「海上タクシー」とう聞きなれない言葉に好奇心とスリルを掻き立てられました。「洞窟は」海の中の離れ小島にあり、そこへ船で渡って見学することだとわかりました。宿のすぐ前の港にはすでに船が待っていました。20名全員が乗れるのですからちょっとした遊覧船です。船体は黄色、船の名前は「あやかぜ7」と言います。ドキドキ、わくわくしながら乗り込みました。

 

今日こそ「巡礼ガイド」氏がおられました。Mさんと言って、自己紹介によれば80歳、代々のキリスト者だそうです。この島で暮らしてきた方らしく、潮風や太陽のしみ込んだ健康そうな肌をしておられ、小柄ながら体力もおありのようでたくましさがにじみ出ていました。語り口調は歯切れよく明快でしたが、物静かですぐに親しみを感じました。

 

船は小さいせいかエンジンの音と振動は相当なものでした。海面との距離も近く、船体にぶつかる波しぶきが直接飛んでくるような気がしました。ところが、ところがです。Mさんが「南風が強くなると波が高くなり島に近づけないのです。どうやら今日はそのようです」と説明され、瞬く間に驚くような大波が立ってきました。

 

神部港のあたりと同じ海とは思えないような、別世界に来たような、大荒れの海です。だんだん激しさを増してきます。座席の背の手すりにしがみついて身を縮めました。Mさんは「今日は島に渡れないかもしれません」としっかり立ったまま言われます。船は今にも倒れんばかりです。「木の葉のように揺れる」どころではありません。波に叩き潰されそうです。ジェットコースターのようなアップダウンもあります。悲鳴、うめき声が出てきます。

 

船酔いするなと思いました。おなかに力を入れ、全身にも力を入れ、少しでも揺れの衝撃がを減らそうと努めました。Mさんは船頭さんを「島きっての名船長さん」だと太鼓判を押されました。おそらくこのあたりの様子は自分の家のように知り尽くしておられるのだろうと信頼感はありましたが、船体をひっくり返すような大波の攻撃にはなすすべもなくひたすら身をこわばらせて、主よ、主よとつぶやきながら歯を食いしばっているばかりでした。

 

洞窟が見えてきました。

 

 

 

「ハリノメンド」とは五島の方言で「針の穴」の意だそうです。遠くから見ると洞窟がまるで針の穴のように見えるためでしょう。実際、黒々とした岩肌の真ん中に穴が開いているのが見えました。「巡礼ガイド」M氏の説明によりますと、

 

明治元年、五島のキリシタン探索は、ますます厳しさを加え、 五島崩れ といわれる最後のキリシタン弾圧の嵐が吹き荒れました。この弾圧の嵐は、若松周辺でもそれぞれの集落で起きました。そのような中で里ノ浦地区のキリシタン達は迫害を避けてこの洞窟に隠れました。洞窟は奥行50m、高さ5m、幅5mT字型で、入り口はかなり広い海蝕台場の背後にある岸壁の裏側にあって、海岸からは見えないので、隠れ場には適していました。里ノ浦の山下与之助、山下久八、下本仙之助らは話し合って、当分の間の生活用具や物資を持ってひそかにこの洞窟に隠れました。しかし、ある朝、朝食を炊く煙を、沖を通る漁船に見つけられてしまいました。さっそく役人たちが乗り込んできて捕らえられ厳しい拷問にかけられました。この時以来キリシタンワンド(湾処)洞窟と呼ぶようなりました。昭和42年、苦しみに耐えて信仰を守り抜いてきた先人達をしのび、窟の入口に高さ4mの十字架と3.6mのキリスト像が建てられました。毎年11月には近くの土井ノ浦教会の信者100人ほどが集まって祈りを捧げています。

 

私たちは島には上陸こそできませんでしたが、船長さんは荒波の上に船が浮かぶように最高のテクニックを駆使してくださり、波の合間を縫って窓を開けてくださいました。私はよろよろと立ち上がってカメラを向けましたが、出来栄えがよくありませんでしたので、後日、Y姉から拝借し、使わせていただきました。

 

下船した時は命拾いしたような気がしました。みな一様に安堵の笑みを浮かべ、怖かったと口々に言い合い、少しも動じないMガイド氏と、何よりも船長さんに深々と頭を下げて感謝しました。ふと、ガリラヤ湖で突然の嵐に遭った弟子たちを思い出しました。彼らは慌てふためきおじ惑い、艫のほうで眠っていたイエス様に苦情を言ったのでした。体の方は多少胸がむかむかしましが次第に収まり事なきを得ました。しかし一日分のエネルギーをすっかり使い果たしたような消耗を感じました。

 

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅その5 希望の聖母像と浜串教会、民宿えび屋へ

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その5

希望の聖母像と浜串教会、民宿えび屋へ

 

 

 

 

 

 

二つ目の教会、浜串教会に行く前に「希望の聖母像」を見に行きました。聞いていなかった場所ですが、教会が航海の安全と大漁を願って1954年に建立し1996年に建て替えたものだそうです。像は漁港の入口近く、五島灘に向かって突き出した岩場の先端に建っていました。像のそばに行くには岸壁を削って作られた曲がりくねった道を進むのです。道はところどころに波しぶきのためかぬかるんでおり、滑ったり転んだりしたら一大事ですので、おそるおそる一足一足慎重に歩きました。

 

辺りの岩場には波が轟音を立てて砕け散り、岩の裂け目めがけて生き物のように盛り上がって流れ込んでは引いていきます。柵にしがみつきながら見ていると吸い込まれそうで、ぞくぞくしました。聖母像にはライトはついていませんでしたが、船の上からは昼夜を分かたず見えて、漁師さんたちに大きな安心感を与えているのでしょう。プロテスタントの私たちにはこうした像には違和感があり手を合わせることはありませんが、心を鎮めながら、祈りの心で眺めてきました。

 

 

 

 

 

岩場の道を引き返してバス乗るとあっという間に浜串教会に着きました。おりしも祈祷会の最中だとのことでしたが、お許しを得て聖堂に入り、祈りの中に加えていただきました。迎えてくださった初老の女性が「今月はロザリオの祈りをしています」と教えてくださいました。ところで、「ロザリオの祈り」って、なんだろう。カトリックの集会についてはほとんど知識がありません。広々とした聖堂にはちらほらと信徒の方々が座っておられました。私たち20名も空いているベンチに座りました。前方で数名の子どもたちが大きな声で先導すると、会衆が祈りの言葉を唱えます。祈祷文の通りなでしょうか、しかし、聞き取れません。

 

しばらくすると日本語で祈っていることがわかり、じっと耳を澄ませました。聞き覚えのあることばに出会いました。主の祈りがあり、使徒信条があり、頌栄がありました。ところが、終わったかと思うとまた元に戻ります。それが延々と何回でも繰り返されるのです。いささか戸惑ってしまいました。時間がどんどん過ぎていくからです。宿に知らせてある時間があるからです。しかしそれは私たちの勝手な都合にすぎません。信徒の方々は熱心に時を忘れるようにして祈り続けました。私たちも最後まで参加しました。終わって、皆さんとお交わりをし、記念の集合写真も撮りました。聖堂内の撮影はここだけ許されました。

 

祈りを先導した子どもたちは最近洗礼を受けたそうです。びっくりしました。現に、伝道活動が行われ、実がなっているのです。教会は生きており、神は救霊の御業をなさっておられるのです。私たちは過去の歴史を見学に来たのでない、遺跡を見に来たのではない。今、正に生きている、活動している教会を訪ねているのだ、殉教者の血は無駄には流されなかったと改めて気づかされ、深い感動をおぼえて胸が熱くなりました。

 

浜串教会は外海地区から安住の地を求めて海を渡った信者が隠れ住んだ地域です。1899年、鯨捕獲の利益金で初代の教会が建立されましたが、その後老朽化したことから、1966年、海の近くに敷地を求め、現在地に新教会を建設しました。さらに教会から700m離れた港口に、先に見た「希望の聖母像」を建てました。

 

予定より小一時間遅れて、私たちは2日間お世話になる民宿「えび屋」に到着しました。

広間には夕食のお膳が並べられているところでした。

 

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅その4  五島のキリスト教史と最初の訪問、福見教会へ

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その4

五島のキリスト教史と最初の訪問、福見教会へ

 

 

 

 

 

 

今回の旅行の目的は『上五島のカトリック教会群を訪ねて』です。《カトリック教会群》です。有名な教会を一つ二つ見学するのではありません。上五島には今現在活動している教会が29もあるそうです。私たちはそのうちの10か所を巡ります。どうして、こんなに小さな島にそんなに多くの教会があるのでしょうか。そんな素朴な疑問が生まれます。

 

日本に初めてキリスト教を伝えたのは、ご存知の通り、スペイン人イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルです。彼は1549年に鹿児島に上陸し、翌年、平戸で宣教を開始します。ザビエルは2年ほど滞在して中国宣教に向かう途中で病のため亡くなります。その後、コスメ・デ・トーレスがザビエルの働きを継承します。そこへ合流したポルトガルの宣教師ルイス・デ・アルメイダが1566年に五島へ渡り、宣教活動をスタートします。これが五島とキリスト教の最初の出会いです。

 

五島の藩主宇久純尭(うくすみたか)はキリシタン大名になりますが、その後の秀吉、江戸幕府による禁教令のために五島の信仰は一掃されてしまいます。しかし一部の信徒たちは潜伏キリシタンになって隠れた確かです。1597年に秀吉の迫害によって長崎の西岡で殉教した26聖人の一人、聖ヨハネ五島は島の出身者です。

 

その後年月が経って江戸時代中期に、五島藩は大村藩領から開拓民を移住させます。1797年(寛政9年)、外海地方から108名が五島へ移住しましたが、ほとんどが潜伏キリシタンだったようで、五島におけるキリシタン信仰がひそかに復活しました。移住者が土地を与えられたことを知ると外海地方からは続々と3000人以上の人たちが渡ってきます。しかし、移住民たちは山間部の僻地や小さな入り江などに住んで小さな集落を作りました。潜伏キリシタンはこうした集落に隠れ住んで信仰を維持し、特に明治維新前後の激烈な迫害をたえました。

 

幕末の1865年、居留地長崎の大浦に建てられた天主堂に浦上の潜伏キリシタンがプチジャン神父に信仰を表明し、これ以降続々と長崎各地で多くのキリシタンが表に出てきます。ところが江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府は、「浦上四番崩れ」と呼ばれる過酷な弾圧を加えましTら。五島各地のキリシタンにも、長崎で指導を受けた信徒によってカトリックの教義が伝えられて、多くのキリシタンが信仰を明らかにしていきます。これに対して五島藩はキリシタンを捕え、「五島崩れ」と呼ばれる弾圧を繰り返しました。しかし政府は諸外国の圧力に屈し、1873年(明治6年)250年に及ぶキリスト教禁教令の高札を撤廃します。ここにようやく、キリスト教は晴れて日の当たる場所に出られるようになりました。

 

五島のキリシタン達は、キリスト教の信仰が認められると五島各地に次々と聖堂(教会堂)を建てていきました。教会は小規模のものが多いのですが、長崎にある日本最古のカトリック教会、国宝大浦天主堂建立直後に建てられて100年以上の年月を経ている建物もあり、その後建てられた新しい教会群とともに、今も五島のカトリック信徒たちが熱心に教会生活を続けています。今回の旅では、会堂で祈る方々の群れに加えていただくチャンスがありました。カトリック教会独特の祈りのスタイルをつぶさに体験し、考えらせられることが多々ありました。

 

最初の訪問、福見教会へ

ジェットホイルで下船した私たちはすぐに貸し切りバスに乗って最初の教会「福見教会」へと急ぎました。国道384号から右に折れ県道22号を10分ほど東に進むと五島灘に向かって立つ「福見教会」に着きました。教会は見上げるような階段を上ったところに建っていました。以後、多くの教会は岸壁のてっぺんか丘の頂上にあって、そのたびにため息をつくほどでした。

 

その代償のように眼下には青く深い海が広がって、塩の匂いを含んだ海風がそよいでいました。キリシタンたちは目を凝らしても見えない水平線のかなたの、福江島外海(そとめ)地区から、移住あるいは逃げてきて、ひっそりと集落を作ったそうです。教会の前にはどこも同じように統一された青地に白い文字で書かれた案内板がありました。またどこの教会にも鐘楼が建っていました。この教会の鐘は近くの「お告けのマリア修道会福見修道院」のシスター達が朝昼夕欠かさずに鳴らしているそうです。

 

≪教会と鐘の音≫は平和のシンボルとしてあこがれさえ掻き立てられますが、先輩キリスト者たちの血と涙とうめきの戦利品であることを忘れてはならないと心に銘じました。時刻は夕方5時になろうとしています。予定ではもう一つ、浜串教会へ行くことになっています。私たちは今度は急坂を下りてバスに乗り込みました。

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その3

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その3

 

 

 

わずか二泊三日とはいえ、今回は飛行機あり、船もありで、まさに空を飛び海を渡る大旅行です。五島列島は九州の最西端に位置し、東シナ海に浮かぶ大小140余りの島々の総称です。浮かぶとは妙な言い方でしょうが、地図をみても、実際に海路から眺めてもそう思えてしまいます。そのうち大きな島が5つあるので五島列島といい、その5つも大きく2グループに分けて、南の方を下五島、北の方を上五島と呼ぶそうです。2008年に福江島へ旅した時は、羽田から福岡空港、乗り換えて福江空港でした。国内線を乗り継いだことになり、すっかり忘れていましたが、この旅も大冒険でした。

 

上五島は主に若松島と中通島からなり、総面積は213㎢、人口は約2万人。そのうち四分の一はカトリック教徒です。四人の一人が信者とは驚きです。うらやましい限りです。面積と人口ですが、東京23区が621㎢、人口はなんと約1千万人。面積はわずか3倍なのに、人口は500倍です。東京はすさまじいばかりです。

 

24日初日は、羽田空港の集合が朝8時半です。4時起きで家を出られた方もおられました。朝食なしだったかもしれません。しかも「旅の栞」には昼食はあらかじめ各自用意、機内または長崎空港までのバス中でいただくようにとありました。旅とは食事一つ考えても非日常です。こうした緊張感がずっと続くのが旅というものなのかもしれません。人ごとのように言えるのは、なんといっても20人中、羽田には私が一番近いからです。炊き立てのご飯で朝食し、昼食のおにぎりを二つ作ってバッグに詰め込みました。そのおにぎりを私は機内でいただきました。折よく、サービスの飲み物の中に「あご出汁」のスープがあり、飛びついたわけです。ところが隣のS姉は、空港で買った、テレビで紹介していた○〇肉の高価なすき焼き弁当を広げました。これもまた旅の一興かも。姉妹は旅の楽しみ方を知っておられる、旅の達人です。その隣のK兄は長崎に着いたら買うと、我慢?しておられました。

 

「ソラシドエア」は初めてですが、こぎれいですてきな機内でした。

 

長崎空港はこじんまりとしており、すぐに迎えのバスのトライバーさんと会えました。貸し切りバスなので安心です。乗り込むとすぐに港へ走り出しました。まずは第一の関所であるフライトを無事通過、大型バスにゆったりと身を沈ませながら小さく一息つきました。

 

午後2時、定刻通り長崎港を出港したジェットホイル「ペガサス号」は、75分、滑るがごとく海面を走り、15:15に奈良尾港に到着しました。船につきものの揺れは少しもありませんでした。空は快晴、さすがに東京より南西方向のせいか暑い、のひとことです。日差しは強く、風はかなり湿度が高いと感じました。思わず、用心のために忍ばせてきた夏の帽子を取り出しました。

 

下船すると、今度は三日間お世話になるバスが待っていました。このバスこそ、旅の本命である教会群へと案内してくれる強力な足です。今回の旅行には都合で旅行社から派遣される添乗員がいません。しかし島内巡りにはドライバーの他に「巡礼ガイド」といって、ボランティアの方でしょうか、ガイドさんが付き添ってくださることになっています。バスは中型かと思っていましたがデラックスな大型です。二人掛けを一人で使っても十分な余裕です。それでも班ごとに手際よくつつましく着席しました。

 

ところが、ところがです、ハプニングです。どうしたことか「巡礼ガイド」さんがいません。一瞬、そんなバカなことが〜〜〜と顔がこわばりました。団長のH氏があわてて東京の旅行社まで電話しましたが、手違いで、明日からだそうです。これから2つの教会見学がまっている、大事なスタート地点です。

 

しかし私たちは大して気にしていません。2つの教会は確かにこの島の、しかも遠くないところに存在し、そこに確実に連れて行っていただけるはずです。そこにはおそらくいくつかの掲示板があって、概要はわかるでしょう、いちばん大事なことは実際に現地に立って自分の目で見ることですから、今日のところはそれで良しとしましょうとそれぞれに納得しました。急きょ団長のH氏がにわか「ガイド」を宣言し、車内は笑いにつつまれ、島特有のきついアップダウンの多い道を北上しました。国道384号です。最初の教会は福見教会と言います。

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