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日々の風から 多忙なのか行動力の減退なのか
日々の風から 多忙なのか行動力の減退か
在宅の日、必要で外出する日、無理にでも外へ出る日をミックスさせながら日々を過ごしているのですが、ついついブログ更新が遅れてしまいます。書く時間がないほど多忙ではないのです、パソコンに向かわない日ありません。故障やトラブルでどうしても開けない日以外はへばりついています。それなのに更新できないのは、たぶん行動力のスピードがダウンしているのだと思います。
何か一つすると休憩が入ります。お茶しているのではありません。ただじっとしているのです。なにかを集中して考えているのではないのです。そんな時間は効率を考えれば無駄なのです。時間の無駄使いかもしれないのです。しかし、じっとしている、その時間が楽しくなりました。好きになりました。大切に思うようになりました。これを代表するひとことは『老い』なのでしょう。老いていく、神様がだれにでも(老いまでいのちがあった場合)公平にくださった贈り物です。神様がくださった贈り物を喜び、感謝したいと思います。
2016.07.27 Wednesday 21:39
旅の風から その6 北海道の旅 最終日は函館
旅の風から その6 北海道の旅 最終日は函館
瀬棚町滞在時間はわずかです。前日の午後4時半にバスを降り、翌日の午前11時半には帰途のバスに乗りました。見学のためだけに使った時間は前日が30分、翌日が2時間半です。こうしてきっちり計算してみるとたった3時間のために1000キロを超えてやってきたのです。ふと、在原業平の『〜〜〜はるばる来ぬる 旅をしぞおもう』が浮かび、胸に染み入るものがありました。
瀬棚⇔長万部は、現在はバスしかありませんが、友人が言われるにはかつては瀬棚線として鉄道があったそうです。鉄道の起点は国縫駅、昭和4年に開通し昭和62年に廃線になりました。バスはその代替なのです。もし、鉄道の瀬棚線に乗れていたら、旅情は倍加し、実際に涙があふれたのではないかと思いました。
瀬棚は登山に例えれば山頂です、それを極めて充分に感動を味わい、後はもと来た道を戻るだけ、しかも最後に寄るのは函館です。函館へはすでに来ている友もいれば、日ごろから耳に入ることも多く、まったくの未知の地ではありません。なにしろ瀬棚に行ってきたのですからこわいものなしです。『行きはよいよい 帰りはこわい』ではなく、『行きはおそるおそる 帰りはるんるん』です。長万部で函館本線を待つ85分も、プラスチックベンチも気にならないので我ながらあきれてしまいました。
函館でもゆっくりできるわけではありません。夕方、到着したその足で駅構内の観光案内所へ行き、夜景観光の準備をしました。函館山山頂まではバスで行くことにして乗車券を購入、かなり混んでいるとのことで、早めに行くことにしました。そのためにはホテルでゆっくりとディナーを楽しむことは断念、構内のレストランで大急ぎで夕食めいたものをお腹に詰め、ホテルに着くと、部屋に荷物を置くだけですぐに夜景観光に出かけました。まだまだ日は高く、夜の闇に包まれるまでにはだいぶ時間がありますが、さすがに函館です、外国人観光客も多くおられ、展望台はびっしりと人の山でした。
翌日は二か所だけ見学することに決めていましたので、バスに乗り込んで巡りました。一つは五稜郭、もう一つはトラピスチヌ修道院、こちらは女性の修道院です。五稜郭は明治維新最後の戦いの場所です。昨今、幕末の歴史に捕えられているのですが、今回は瀬棚の荻野吟子が主役ですから、幕末はひとまず秘めておくことにします。
修道院訪問は旅の締めくくりにふさわしいところだと、院内の庭を巡り歩きながら気が付きました。終始同行された神様は、私たちをここに導いてくださったのだと悟りました。入り口近くの「旅人の聖堂」に入り、明るくて清潔で穏やかな空気に包まれたベンチに腰を下ろして、皆、しばらくこうべを垂れました。旅の緊張や疲れがいつの間にか消えて、主を讃える喜びで満たされました。こうして二泊三日の老女たちの旅は、初めのハプニングは笑い草に変わり、次回の機会を願いつつ、一路東京へ向かう「はやぶさ26号」の人となりました。
北海道で出会った荻野吟子については、まだまだ時間をかけて咀嚼、熟成の時が必要です。 しばらくしたら、借り物ではない「私の荻野吟子」が生まれてくると期待しています。
2016.07.21 Thursday 10:08
旅の風から その5 二日目 瀬棚町・荻野吟子の活動記録
旅の風から その5 二日目 せたな町・荻野吟子の活動記録
民宿「マリン倶楽部」部屋のガラス戸越しに
瀬棚町目指して東京から1000キロ旅してきましたが、滞在はかりそめの一夜のみで午前11時半には再び長万部へUターンするべくバスに揺られることになります。宿では昨晩と同じように海の幸あふれる朝食が供されましたが、楽しむ暇もなく瀬棚町郷土館へ急がねばなりません。開館は10時。ところが総合支所に吟子女史の写真が掲げられているとのことで、まずそれを見に行くことにしました。そこから資料館です、できればもうひとつ、最近建てられたという開業跡地にも行きたいのです。これら3つはわりあい近い範囲にありますが、徒歩移動です。ごろごろとスーツケースを引きながら歩くのは老体には大きな負担です。それを見かねたのか、なんと感謝なことに、宿のご主人がバスの時間を見計らってバス停まで運びましょうと申し出てくださいました!私たちは目を丸くしてほんとですかと歓声をあげました。かくして5つの重荷を宿の玄関に置き去りにしたまま、バッグ一つで支所へと急ぎました。
写真があるのはお役所のどのあたりかと、おずおずと入りますと、オフィイスに入る一番手前の一番目につくところに、まるで私たちを出迎えるように額入りの吟子女史の写真が掲げられていました。若き日の写真です。どこでもゆかりの場所には必ずある、女医試験に合格した時の凛々しい半身像です。もっとも当時はこれ一枚撮影するのも簡単ではなかったでしょう。ずっと和装で過ごした吟子でしたが、この時ばかりは一大発奮したのでしょう、まるでこれから鹿鳴館のパーティーにでも出かけるような、青地に袖や衿から胸元を赤いモールでトリミングしたロングドレスを仕立てたのです。吟子女史の心意気が伝わってくるような一着です。もっとも写真はセピアがかったモノクロ一色で古びていましたが。
胸が熱くなるのを覚えながら、数分佇んだでしょうか。その間にいくつもの思いが浮かんだり消えたりしました。私は吟子女史に語りかけていました。
「あなたは、あの写真を撮った時と同じ新鮮で熱く清い志を秘めて北の国に来たのですね。世の人は、若い夫の後を慕って、その恋情だけでせっかく手に入れた名声を投げ捨てて追いかけてきたと悪しざまに言うかもしれないけど、私はそうは思いませんよ。確かに夫なる人を恋い慕ったのは事実でしょうが、それってまちがっるでしょうか。物笑いの種でしょうか。いのちを賭けて一人の人を愛するのは最も人間らしい美しいことだとおもいます。恋と呼ぶ愛であろうと、慈愛と呼ぶ愛であろうと、対象が夫であろうと、親であろうと、友人であろうと、果ては敵であろうと、人を自分のように愛すること、それ以上に、自分を捨てて愛すること、それこそ神が望まれる愛ではないでしょうか。
吟子さん、あなたは、その真実を固く握り、実行できる意志と信仰と愛を与えられていたのですね。こちらに来てからはいっそうその愛を発揮して、地域の人たちのために東奔西走されましたね。淑徳婦人会を組織して地域の婦人教育に取り組み、日曜学校を開設してキリストの愛を伝道しましたね、多忙な医療活動の傍らで。病人のためには雪の中を夜遅くまで往診され、そんな時、馬の轡を取って馬上のあなたを守ったのは最愛の夫であったとか。人は下男を連れていると思ったそうですね。人が何と言おうとあなたの魂はみことば一色に燃えていたのでしょう。『人 その友の為に己の命を損つる 此れより大いなる愛はなし』
私たちがこれから郷土館に行くのを知った若い男性の職員さんが、気を効かせてくださり、10時前にオープンしてくださるとのこと、私たちはここでも歓声をあげて、小走りに彼の後を追かけました。時間は刻々と進んでいますが予定通りです。館内では思い思いに吟子女史の遺品や写真に見入りました。吟子の聖書や愛読書や手帳などに惹かれました。よく書く人だったのです。そういえば本郷時代は、診療を終えると夜遅くまで聖書を書き写していたとか。みことばが自然体で心身に刻みこまれていったことでしょう。
最後のスポットはせたな町での医院開業の跡です。3メートルは優に超える木製の記念碑がすっきりと建っていました。簡単なものでしたが、せたな町の吟子への尊敬と愛着が伝わってきました。しかしこうした顕彰や賞賛の場所が造られたのは後世のことです。当時は吟子が日本初の女医であることさえだれも知らなかったのです。吟子は人に自分を吹聴するような人ではありませんでした。東京時代の名声などおくびにも出さず、黙々と持てる能力、経験を精一杯地域に役立つ形で使ったのだと思います。後年、東京女子医学校を創設した吉岡弥生は吟子のことを「輝ける埋没」と評して偉大な先駆者として称えています。また「名誉ある沈黙」とも言われました。
せたな町教育委員会発行のパンフレットの表紙には『荻野吟子 志方吟』と明記されていて、ハッとしました。確かに『志方 吟』なのです。北海道の吟子は『志方 吟』なのです。 私の中の荻野吟子像にその大事な一面をもっと加えなければと思い至りました。
さようなら せたな町 荻野吟子の町瀬棚町
長万部へ走るバスから 2016.07.18 Monday 11:41
旅の風から その4 せたな町の誇り 荻野吟子の存在
旅の風から その4 せたな町の誇り 荻野吟子の存在
はるばると旅してきたことを実感させてくれるのが時間の経過です。朝8:20分はやぶさ5号で東京駅を経ち、最後100分間のバス移動を経て、バス停「瀬棚」に降り立ったのは16時半でした。約8時間、歩いたり、立ったり、座ったり、揺られたことになります。 これだけのプロセスがありますと、ああ、やっと、やっと、ようやく、ついに辿り着いたのだと、喜びが吹き出し達成感に満たされます。思わず笑顔を見合わせて「ハレルヤ!感謝します」が飛び出しました。今夜の宿は港のすぐそばの民宿「マリン倶楽部」です。情報源はネット検索。すべてBBさんが手配してくださいました。この周辺に「荻野吟子」ゆかりの場所が集まっています。宿に入る前に、第一の見学スポット「顕彰の碑」に急ぎました。一番願っていた場所です。そこは吟子公園となっていて、小さな場所に吟子の顕彰碑のほかに吟子の立像、十字架の形にした石板に刻んだ抄記も併設されていました。つい昨年、公園として一つにまとめられたようです。埼玉県の妻沼俵瀬にも同じように吟子公園があり、顕彰碑がありますが、形がだいぶ違っていました。
和装の吟子胸像の背面には愛唱聖句「人、其の友の為に己の命を損るは、此れより大いなる愛はなし」(ヨハネ伝15章13節)を縦書きに刻んだ石板が掲げられ、土台から胸像と聖句板全体は分厚い石を積み上げた堅固な石造りの囲いで覆われていました。囲いの中央部分には十字架が細く長く刻まれていました。おそらくここは雪も積り風も強いので、それらから守るように造られているのでしょう。顕彰碑の前で写真を写し合い、しばらく佇みました。おりから日が沈む時刻なのか、もう一つの洋装の吟子像は黒々と力強く逆光の中に屹立していました。町の人々が少ない吟子の資料を寄せ集め、愛をこめて造園したのではないかと、その思いが伝わって来るようでした。
公園の一つ一つを目と心に焼き付けて、徒歩で10足らずの、お宿、民宿「マリン倶楽部」に到着しました。概観は洋風、二階建て和室7部屋の清潔感に富んだ建物でした。売りは瀬棚の海で取れた新鮮な魚介料理です。大いに期待していました。緯度が高いせいかなかなか日が暮れません。夕食前に吟子公園のそばの「温泉」に行きました。宿のご主人の車で往復です。8時間行軍の疲れが一度に解消しました。お部屋の窓から海と港が見え、船の姿もちらほらと垣間見えました。一階の食堂で、食べきれないほどの魚介料理をいただき、その後、二つのうちの一部屋に集まって、一人一人が証しをし、就寝時間オーバーの分かち合いが続きました。
2016.07.14 Thursday 22:05
旅の風から その3 渡島半島をバスで横断
旅の風から その3 渡島半島をバスで横断
函館新北斗で新幹線を下車、函館本線特急スーパー北斗に乗り換えて約一時間、内浦湾沿いに走った列車は長万部で私たちを降ろすと札幌へ向かって走り去りました。その間、できるだけ車窓からの外の風景に目を凝らしました。列車はある箇所では入り江の縁を波打ち際すれすれに走ります。全くの自然の浜で、よく見かけるテトラポットも護岸の堤防もありません。もちろん人家も見かけません。大波が来たら列車に水しぶきがかかるような近さです。向きを変えたらそのまま海の中へ進めそうです。見たことのない風景に感動と言うより驚きと不安がよぎりました。この地域に津波はこないのでしょうか。無防備すぎるのではないかと、地震や津波などの災害アレルギーになって自分を発見したことです。もっともあとは原野の中を列車だけが走っているので、何が起こっても被害は少ないのかもしれません。
長万部駅の駅舎や駅前は在来線ならどこにもある風景です。時どき下車する信越線の磯部駅、中央本線の日野春駅によく似ていました。しかし、人影はまばら、駅前にはお土産店や食堂があるのではないかと期待していましたが、シャッターが閉まったり、開店していなかったりで、うら寂しさが漂っていました。バスを待つ70分、駅前のカフェで一息つけたらとの思いはむなしい夢と消えました。かろうじて構内の売店が開いていたので、長万部限定のソフトクリームに飛びついたことです。さっぱりとして美味しかったこと!!それに女5人の辞書に退屈と言う言葉はありません。プラスチックのベンチに身を寄せて、話の泉の枯れることはありませんでした。
函館バスの定期便は終点せたな町までの約70キロ、国道230号線をひた走ります。私たちだけの貸切バスのようです。途中、短区間の乗降客がちらほらいましたが、申し訳程度です。赤字路線の見本みたいではないかとついつい余計な心配をしますが、朝夕には学校の生徒たちが利用すると、運転手さんはゆうゆうとしていました。
走り出してまもなく国縫(くんぬい)という地名が道路標識に見えてきました。ドキンとしました。そこもまた、荻野吟子ゆかりの地なのです。拙著「利根川の風 荻野吟子の生涯」にはわずかしか書きませんでしたが、おそらく吟子が苦渋の涙を隠したまま往復した場所ではないかと思うのです。
荻野吟子は日本初の公認女医第一号の栄光に輝き、志も高く意気に燃えて本郷湯島三組町に「産婦人科荻野医院」を開業、玄関には足の踏み場もないほどの履物が並び患者が押し寄せ、大評判の女医さんでしたが、数年も経たないある時、志方之善という若き伝道者に出会い、同じキリスト信仰に燃えていたことから結婚、北海道にキリスト教の理想郷を建設するビジョンに賛同し、東京でのすべての医療、社会活動を捨てて、利別川流域の原野に入植していきます。そこは現在、今金町神丘と名がついていますが、当時は前人未到の原野でした。想像を絶する北の国の厳寒、自然との熾烈な戦いの中で、怪我人、病人、死人の続出する中で吟子は医療にフル回転するのですが、夫が信仰の違いから開拓に挫折します。
やがて彼は半島の東部にあたる国縫のマンガン鉱採掘に活路を見出そうと、妻吟子と、養女トミ、この子は志方の姉夫婦の遺児です。姉夫婦は開拓の犠牲になり子供を残して死んでしまうのです。吟子夫婦はトミを養女にして育てます。幼いトミを背負って今金から国縫に移住します。バス路で4,50キロはあるでしょうか、今でこそアスファルトのきれいな道を大型バスが走っていますが、当時は道があったのでしょうか、馬を使ったのでしょうか、そこを、落人のように辿る三人を、いや、吟子の胸中を推察すると、あわれを感じないではいられませんでした。にわか鉱夫志方になにができたでしょう、彼らは半年もたたないうちにもっと落ちぶれて再び今金に戻ります。吟子は開拓地から西に下った古くからのニシン漁の港町瀬棚で「荻野医院」を開設します。吟子はこの地でようやく本業に専念します。
私たちは、そのせたな町を目指しているのです。バスの道、国道230号線は舗装された立派な道ですが、原野の一本道だとありありとわかるように、両側は丈の高いくま笹がびっしりと覆っていました。さすがに今金辺りからはひろびろと眺望よく開け、なんと水田が青々と果てしなく広がっていました。北海道に田んぼとは、つい近年まで考えられなかったことでしょう。昨今は稲の品種改良、温暖化の影響もあって北海道のお米のおいしさは定評があります。しかし水田の底には、開拓民の血と汗と涙も浸みこんでいるでしょう。
2016.07.13 Wednesday 17:59
旅の風から その2 北の国へ 初めての北海道新幹線
旅の風から その2 北の国へ 初めての北海道新幹線
2泊3日の北海道の旅ですが、今回のメイン訪問地は久遠郡せたな町です。町にはたいへん失礼ですが決して有名な観光地ではありません。交通の便も良いとは言えません。函館と旭川間を走る函館本線の長万部で下車すると、せたな町までは一時間に一本のバスしかありません。国道230号線を東から西まで渡島半島を横断するのです。それでも私たちは時間のロスを覚悟で鉄道を選びました。ひとえに北海道新幹線の魅力に勝てなかったのです。
ところが、新幹線を選んだばっかりに、早々からハプニング続きでした。私たちの旅は手作りです。既成のツアー参加型ではありません。列車のチケット購入から宿泊先探し、予約、日程もすべて自分たちで決めていきます。もちろん有能なるBBさんがプランしてくださるのですが、時に検討し合って決めていきます。互いのコミュニケーションはメールだけ、ちなみに全員の携帯はガラケー、メールはCメール固守です。まずは列車のチケットと宿泊先の確保です。あらかじめ打ち合わせておいた列車とホテルをめいめいで手配するのです。
ハプニングの第一は、函館のホテルが満室で断られたことです。早々に躓きました。団体かあるいは外国の観光客に先を越されたかと驚いてしまいました。幸い、第二希望で全員が予約できました。ところがハプニングには続きがありました。指定した新幹線のチケットが往復とも満席で取れないのです。一か月前の発売日の朝一番のことです。全列車指定席で空席がないとは、それ列車が使えないことです。これには途方に暮れてしまいました。私はあらかじめ旅行会社に頼んでいましたが、その日の夕方になって、予定の列車が取れたと連絡をいただきました。友人たちからも同じ報が入ってきて、何とか取れたとのこと、そのかわり座席はバラバラで、車中の楽しみが少なくなりました。
ハプニングは第三と続きます。東京駅から新函館北斗まで、かっきり四時間二分、JR東日本が売りまくったキャッチフレーズの通りに列車はまことに快適に終点につきました。途中、車内を観察しますに、下車する人がいると必ず次の人が乗り込んできてそこに座し、決して一つも空席のままはありませんでした。コンピューター管理の威力でしょうか。さて、下車するとすぐに次の函館本線スーパー北斗に乗り換えて長万部まで行きます。乗り換え時間は10分です。新幹線から在来線に乗り換えるのは一仕事です。在来線までの様子がまったくわからないのでドキドキします。
下車した人たちの多くは海外旅行のような大きなスーツケースを曳いていました。その他の人たちも小さめのキャリーバッグです。8両の車両から大荷物の人たちが出口に殺到したのです。さすがに東京駅でも見られない風景です。しかもその人たちのほとんどが在来線めがけます。構内は真新しくてすてきですが、使い慣れていないのが明らかです。駅員さんたちが、です。
函館本線は札幌行と函館行になりますが、どうも同じひとつホームなのです。頭上のロープに洗濯物のようにひらひらと舞う小さなカードが目印です。しかしそんなものをゆっくり眺めている暇も場所もありません。私たちの列車はすでに目の前に停車しているらしいのですが、乗り込む車両の位置がわかりません。係員に訊きたくても見当たらず、そのうちに発車の合図、乗り込み口は人であふれています。皆さん車両番号を探しているのです。そのうちに女性の大声がしました。「とにかく乗り込んでください。中に入ってください」これは駅員ではありません、見かねた女性の声でした。私たち5人もバラバラになってしまいました。まるで終戦直後の風景のよう、あるいは昨今映像で見る難民のようだと思いました。
車内はごった返しています。前方に行きたい人、後方に行きたい人が右往左往です。列車はすでに走っています。それが、揺れる列車なのです。こんなに揺れる電車に乗ったことはありません。線路が悪いのか、列車が古いのか、とにかく立っていられないくらいです。しかし目指す場所へ行かねばなりません。通路は人であふれ、しかも大荷物。キャリーがぶつかり合い、身動きが出来ません。重いケースを抱きかかえる有様です。10分後の大沼公園でようやく着席できましたが、その10分間の長かったこと。とてもとてもたかが10分とは思えませんでした。しかし座してしまえば一瞬で眉間のしわも消え、笑顔がもどり、笑い声さえ出てきましたが、まさに一大冒険でした。ハプニングはこれで終わり、ではありません。またまた想定外が待っていました。(そんなわけで写真どころではありませんでした)
2016.07.10 Sunday 09:32
旅の風から 老女軍団、津軽海峡を潜る
旅の風から 老女軍団、津軽海峡を潜る
65歳の姉妹を老女(ごめんなさい、BBさん)と数えては申し訳ありませんが、70歳台3名、81歳1名の五女が、津軽海峡を飛んだのでもなく渡ったのでもなく、海の下を潜って北の国へ向かったのです。ことさらに軍団と名づけたのは、戦い多い戦場へ行くような冒険の旅を覚悟したからです。その戦いとは旅程の戦いもさりながら、体力、行動力、判断力、集中力不足が、戦いの第一要因だと自覚してのことです。この不安との戦いです。
旅行の目的は大きくは二つです。 一つは開業して3か月の北海道新幹線に乗ることです。チケットの取り方によっては飛行機の方が安く時間もかかりません。その分、疲労度も低いと言えます。しかし、老女軍団は敢えてレールを選びました。老鉄女でしょうか。
二つ目の目的は、日本の公認女医第一号の荻野吟子が滞在した、現在の地名では北海道久遠郡せたな町を訪問し、在りし日の吟子の足跡をたどることです。昨年の拙著『利根川の風 荻野吟子の生涯』から、荻野吟子の生き方に深い感銘を受けた友人たちが立ち上がって旅行軍団が結成されたのでした。私には夢のようなことです。書をまとめるにあたって、できるだけ吟子女史の生きた場所へ出かけましたが、さすがに北海道は無理と半ば諦めていました。
行ってみたいとつぶやいたことは確かですが、実現するとはつゆ思えませんでした。友人のお一人は拙著を旅行鞄に忍ばせて来られ、私に「おわりに」の最後の行を指さしました。『吟子をその地に導かれた神が、鷲の翼に乗せて連れて行ってくれる日を待望している』と結んだその一行を覚えてくださっていたのです。確かに、今回私たちは神様の鷲の翼に乗せていただいてせたな町入りをしたのです。この感動をいかに表したらいいのでしょう。
ざっと旅程を記してみます。 東京駅(新幹線はやぶさ5号)→函館北斗(特急スーパー北斗)→長万部(バス)国道230号で瀬棚市街下車。一泊。バス(瀬棚)→長万部→(特急北斗)→函館下車。一泊。快速函館ライナーで新函館北斗(新幹線はやぶさ26号)上野。東京→長万部910キロ、バス約80キロ。往復2000キロを走りました。
見学地はメインのせたな町にある荻野吟子ゆかりの場所数か所。オプションは函館の半日観光。シャトルバスで五稜郭、トラピスチヌ修道院の二か所を見学。忘れてならないのは函館山山頂に上り、函館湾の夜景を楽しんだことです。
2016.07.06 Wednesday 18:03
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