人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 年末年始は非日常
日々の風から 年末年始は非日常
 
平凡な一老女である私の日常は判で押したように同じ時間割で営まれています。起床から床に入るまで、365日ほとんど狂うことはありません。ずれるとしたら家にいない時、めったにない旅行の時くらいです。しかし年末年始は家にいてもいつもと違う時間割、非日常になるのでとても新鮮に思えます。精神の昂揚する時です。感慨にふけり、時に感傷的にさえなる時です。安っぽいセンチメンタルと言われるかもしれませんが、心が刺激を受けるのは貴重なことだと思います。
 
大晦日のこの日、いつもならとっくに入浴も夕食も済ませている午後8時に、長女家族との恒例の年越しそばでの夕食が始まります。私を交えて家族全員が揃って食卓を囲むのは年に何回もありません。この時から三が日だけは貴重な家族タイムです。日本中、どこのご家庭もそうなのかもしれません。忙しいのは家長のパパだけではありません。子どもたちもそれぞれに多忙です。朝早く家を出る時もあれば、夜も会社員並みに遅いこともあります。めったに全員で食卓を囲むことなどできません。
 
我が家はふるさとがありませんから帰省文化はありません。また、元旦は礼拝がありますから、この時期に旅行することもありません。私はすぐそばの教会へ、娘家族は奉仕教会へ出かけていきます。明日もそうです。我が家の文化とまでいえるこの習慣はまだ当分続くでしょう。元旦の夕方はまた全員が揃いますから、貴重な夕食会になります。この時のためにも暮れから準備があります。メニューは平凡ですから言うのも恥ずかしいので秘しますが、楽しみです。
 
そろそろ2015年が終わろうとしています。今晩だけは起きていて、2016年の時が刻まれるのを見届けるつもりです。神様の助けがなかったら越えられなかった2015年を感謝し、新しい年に希望を繋ぎたいと思います。
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日々の風から クリスマス説教の不思議 その3
日々の風から クリスマス説教の不思議 その3
 
もう2015年のクリスマスは終わりました。商店街や店頭を飾ったクリスマスデコレーションは一夜のうちにすっかり和調になり、迎春一色なりました。そのすばやさに驚嘆します。
 
私はまだクリスマスを続けています。クリスマスの説教集を繰り続けています。秋たけなわの頃、銀座の教文館へ出かけて行き、クリスマスにちなむ数冊を求めてきました。調べものに使いたい意図もあったのですが、その中の一冊がシーズンが終わっても書棚に帰すことが出来ずいまだに机上に置いてあります。『光の降誕祭』20世紀クリスマス名説教集と言います。教文館発行、R.ランダウ編、加藤常昭訳です。
 
ここには20編のクリスマス説教が収められています。訳者の加藤常昭先生はまえがきで、「これらの説教の理解のために大切なのは、いつ、どこで語られたかということである。近代ヨーロッパ崩壊の予感を示すブルームハルトの十九世紀末の説教に始まり、第二次大戦末期、国土の廃墟を目の当たりにしながら語るイーヴァントや強制収容所で語るニーメラー、最近ではドイツ統一後の幻滅の事実に言及するユンゲルに至るまで、説教が語られた現実を色濃く反映している」また「あまり急いで読まないでいただきたい。説教はゆっくり味わうべきものである」と忠告しておられます。
 
事実、一篇、一篇が急いでは読めないのです。続けても読めないのです。深い説教です。一つずつ、日を空けて読んでいます。今晩は読もうと決めると、読む前から期待感が高まってくるのです。原文の力か、翻訳の巧みさか、両者でしょうが、語り口調が聞こえてくるようで、その一言一言を聞きのがすまいと身を乗り出している自分がいます。
 
そんなわけで私のクリスマスはまだ終わりません。我が家の玄関ドアーに掲げたリースのように、まだ仕舞い込むわけにはいきません。当分リースは玄関を、この一冊は私のかたわらにあって、私の視線を受け続け、時に読まれるでしょう。
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クリスマスの不思議 その2
クリスマスの不思議 その2
 


23日に、我が教会で行われた地域の老人施設へのキャロリングは昨年にも増して感動的でした。過去2年は、一階のデイサービスのルームと、4階の特養ホームのフロアーでしたが
今年はさらに2階、3階のフロアーが加わりました。ここは特養ですが一人部屋で暮らす方々がおられるそうです。ほとんど方が車いすで、職員さんに連れて来られていました。
 
まず一階のデイサービスルームに行くと、最前列には我が教会のメンバーO姉がニコニコして手を振っていました。姉妹は93歳で、お一人暮らしです。施設に入居を希望しているのですが、介護2なので入れません。そこで月曜から土曜日まで、木曜の祈祷会の日を除いて毎日デイサービスを受けています。日曜日は教会です。教会への往復は兄姉が送迎します。
食事は毎日給食です。木曜午後だけヘルパーさんがお掃除など家事介護で家にきます。自力で歩き、金銭管理他日常のことも自力です。しかしシャキシャキと言うわけにはいきません。
その姉妹が、目を輝かして私たちの賛美を楽しんでいました。
 
2,3,4階と、そのたびにエレクトーンを台車に乗せて運びます。すべて職員さんたちが手際よくリードしてくだいます。私たちの賛美を大勢の職員さんもいっしょに聞いてくださいました。私たちが歌いだすと何人かの方々が身振り手振りで合わせます。「もろびとこぞりて」や「きよしこのよる」は知っている方も多く、唇が動き声の出ている方もいました。
大勢の方が目を潤ませ、涙を流しているのです。こちらも胸がいっぱいになります。讃美の力でしょうか。お別れの時は皆さんに声をかけ、握手などをしますが、私が接した一人の方は「息子がキリスト教の幼稚園に行っていたのです」と言われ、泣いておられました。在りし日を思い出したのでしょう。
 
特記すべきことは、一階の奥に2つあるグループホームに入所している教会員で私の親友のK姉が、今年も私たちの輪に加わって4回とも全部出演できたことです。往年の姉妹は保育士で教会学校教師、ご自分の地域ではこども会を結成し、家庭集会も開き、伝道一筋に来られた方です。賛美歌はびっしりと頭にこびりついているのです。悠々と楽しそうに歌っていました。職員さんがわざわざ姉妹を連れてきてくださったのです。
 
別れ際、姉妹はなんども振り返りながら手を振ってご自分の部屋の方に付き添われて戻っていきました。すっかり丸くなった背を見ながら、私たちも目をしょぼつかせました。とはいえ、姉妹とは次の日曜日には教会でお会いできるのですが。
 
教会に戻って、夜のキャンドルサービス礼拝に備えて一休みしている時、つと私の隣に一人の姉妹がぴったりと坐り、「私たち夫婦は子どもがいないから、やがてはホームに入ることになるとおもう」とぽつりとつぶやくように言いました。「今から考えておかなきゃと思う。老いても二人の時はまだいいけど、一人になる時が来るわ」これもつぶやきのようでしたから私は軽くうなずくだけにしました。50代前半の現役真っ最中のキャリアウーマンです。専門のライセンスをお持ちで、男性の中でバリバリと働いておられ頼もしい女性なのです。ああ、何の心配もない様に見えるこの姉妹も、忍び寄る老後問題で、時に心を悩ますこともああるのだなあと、ふと、地上の生の厳しさを感じました。
 
クリスマスには、神は一人一人になにか大切なメッセージをささやいておられるのかもしれないと思いました。ところで神は私に何を語りかけておられるのだろうと、考えてしまいました。
 
 
 
 
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日々の風から クリスマス礼拝の不思議

日々の風から クリスマス礼拝の不思議
 
今年は22日がクリスマス礼拝でした。教会がいちばん賑やかで明るいのはこの日ではないでしょうか。闇深きこの世に、苦難のご生涯を送られるために降誕されたイエス様を偲びますと、手放しで浮かれて(決して浮かれてはいませんが)「クリスマス おめでとう!」などと言い合えることではないのでしょうが、この日を暗く過ごす理由はないでしょう。イエス様は「光」としてこられたのです。闇のなかの光として輝くために来られたのです。光を見て喜ばないわけにはいきません。光を知った者たちが手を取り合い躍り上がって喜び楽しまないわけにはいきません。みんなで光のそばへ駆けつけないわけにはいきません。
 
昨日は教会には珍しい方々が多く来られました。日頃何かと欠席がちな兄姉が来られました。
距離のあるところに移転されて、日常は近くの教会に行っておられる兄が、久しぶりにやってきました。ご家族ぐみるで遠くから来られたファミリーもいました。
一年に一度クリスマスだけ来られる方もおられました。「クリスマス信者」大いに歓迎です。教会には初めてという方も来られ、うれしい限りでした。
 
クリスマスには特別に主が激しく働いておられるのでしょう。ふだん忘れている人たちに語りかけておられるのでしょう。それを聞きとった方々が来られたのでしょう。
 
午後には、送迎しても礼拝堂に座っていられない方を、愛餐会のスペシャルなお食事を包んで訪問し、クリスマスの讃美歌を何曲も歌い合って、小さなクリスマスタイムを過ごしました。クリスマスはプレゼントをもらう日ではなく、すでにいただいているイエス様の恵みを分かち合う日だとつくづく思いました。
 
23日に、私の教会ではキャンドルサービス礼拝をします。その日は午後から、この2、3年依頼のある近くの老人施設に賛美とメッセージを携えて出かけます。そのための聖歌隊でもあります。昨年までは2つのフロアーで行いましたが、今年は4回お願いしますとのこと。どこのフロアーに行くのでしょうか。とても楽しみです。
 
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日々の風から 先人たちの降誕メッセージ その2


ドイツ告白教会に属し、ナチと戦った一人の牧師の戦時下の説教から抜粋要約しました。(『光の降誕祭』20世紀クリスマス名説教集 R・ランダウ編 加藤常昭訳 教文館)
 
★救いは上から始まる★ ハンス・ヨアヒム・イーバン
 

御使いは彼らに言った『恐れることはありません。私はすばらしい喜びを知らせに来たのです。今日、ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたたがは布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどり子を見つけます。これがあなたがたのためのしるしです』
*ルカ二章一〇〜一二節*

 
 降誕の物語は上から始まります。救いの物語は上から始まります。私どもはいつも下から始めざるを得ないのです。立っているところ、苦しんでいるところ、絶望しているところから始めざるを得ないのです。しかし、救済の物語は天の一角が開かれて、明瞭な言葉で語りかけるところから始まったのです。

『恐れるな』、『すばらしい喜びを』と声は言います。しかし天使に、地上に何が起こっているか知っていますかと言いたいのです。私どもは大きな喜びなど何一つ知りません。知っているのは苦しみがどんどん増し、苦悩が深まっていることです。陰のごとく迫る死であり恐怖です。自分はしあわせから追放された者、悲惨な者でしかないと知るのです。闇が、人間の苦悩が、人間喪失が起っています。これがすばらしい喜びといえましょうか。

天使に、一度我々とともに全世界をへめぐって見ませんかと頼みたいのです。崩れかけた家に老夫婦います。戦争が子どもたちを奪いました。二人とも悲しみに沈んでいます。天使よ、ここに喜びがありますか。

天使とともにさらに遠くへ行きます。戦争が行われているところへ。一人の人間が他の人に武器を向けています。前方の塹壕に何人かの兵士が潜んでいます。ここに喜びがありますか。

最後に、天使に見てもらうために一つの扉を開きます。私たちの心の扉です。思い煩いが巣くっています。暗い暗い将来への思い煩いです。罪悪が巣くっています。大切な物を壊し、多くのことを怠けてきた嘆きが巣くっています。ここに喜びのメッセージを携えて来たいと思われますか。

しかし天使は黙っていません。天使は神からの知らせを変更することはありません。『あなた方のために』、『今日、救い主がお生まれになった』と天使は言います。いったい、神のキリストとはどなたですかと尋ねます。天使は飼い葉桶に眠る幼な子を示します。すべての人間の子と変わらない幼な子です。それではなぜ幼な子が私たちの救い手になれるのでしょうか。

天使は言います『これがあなたがたへのしるしである!』この幼な子は、神があなた方の所におられるしるしなのです。この王であるみ子はこの世の牢獄に入って来られました。困窮と暴力支配の束縛を受け入れられました。だがなおそこで王であり続けます。
もう一度皆さんの心の扉を開いてみませんか。そこに、この幼な子は留まろうとしていてくださいます。

私どもは天使といっしょに行かなければなりません。私どもを束縛するものから離れて、出ていくのです。自分自身からも出ていくのです。この幼な子のところへ行かなければなりません。『ベツレヘムへ行こう』と立って行くのです。幼な子のおられるところ、そこでこそ天は開かれます。そこでこそ、喜びは大きくなります。そこでこそ、牢獄は開かれ、死人は生きます。疲れた者たちが新しい力を得ます。不治の病も清くなります。そこでこそ喜びの知らせを聞くのです。
 
この幼な子はすでに私どものそばにいてくださいます。大切なのは、私どもがなお間に合ううちに、このみ子のところに来ることができるということです。  
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日々の風から 先人たちの降誕メッセージ その1
日々の風から 先人たちの降誕メッセージ その1
 
神のひとり子であるイエス・キリストの降誕の出来事は聖書にしか記されていません。分量もわずかです。それにもかかわらず、二千年の歴史の風雪に耐え、今もますますあらゆる方法で伝えられています。絵画や音楽やメディアはなどあらゆるジャンルに及んでいます。それはさておき、偉大な信仰者や賢者たちが語った膨大なメッセージの中からほんのひとひらを拾ってみました。
 
★小さな人々の家の上で/星が止まった時/星は間違っていなかった/大きな未来がそこに生まれた。  クラウス・ヘンマーレ
 
★神が人となったということを/一度でも理解した人は/非人間的に語ったり/行動したりすることはできない。   カール・バルト
 
★黄金も、友人も、権力も、名誉も/キリストが人となったという福音ほどには/私を喜ばせることはない/人間の心はそれを考え出すことはできず、それについて十分に語ることもできない/神は人間を心から愛されたに違いない/神はそれほど私たちの近くにおられ/私と同じ人間となられたのだ/神は、私と同じ者になったのだ。  マルティン・ルター
 
★ベツレヘムの星は/今日もなお/暗い夜に輝く星である。  エディット・シュタイン
 
★飼い葉桶の幼子を見て/だれが神のこと思ったであろうか/神は幼子の中に隠れておられる/神は「お忍び」で来られた/この矛盾はクリスマスの秘儀の本質/神の威厳は卑しさのうちに/神の力は弱さのうちに/神の永遠は死すべきからだのうちに現れる/神は静かに来られる/神はその力を言いふらし、見せびらかせることはない/家畜小屋と飼い葉桶の出来事のうちに/ゴルゴタの十字架はすでに、ひそみ予告されている。カール・レーマン
 
★神が人となったということ/それは神の愛の大いなる知らせ/このことによって、人間は面と向かって神を見ることができる。ビンゲン
 
★わたしたちのだれが/クリスマスを正しく祝いうるか/すべての見栄と名誉欲/すべての高ぶり/すべての独断を/すべて飼い葉桶の前に置くことのできる人/自分を小さな者とし/神のみを大いなる者と仰ぐことのできるひと。ディートリヒ・ボンヘッファー
 
★神はあなたを問いただすことはない/あなたを非難することはない/神はあなたを知っており/あなたにほほえみかけ/あなたを愛している/それはクリスマスの神秘である。ヴォルフガング・ペップラオ 

先人たちの至言を噛みしめながら、今年も『恵みとまことみ満ちた』降誕節をお迎えください。
『クリスマスに贈る100の言葉』アルフレート・ハルトン編 里野泰昭訳 女子パウロ会
 

*本文は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)機関紙『文は信なり・クリスマス特集号』33号に掲載しました。なお33号はJCPホームページにアップしています。URLは以下です。ぜひお訪ねください。 http://jcp.daa.jp/
 
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書林の風から 今年のノーベル文学賞作家 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさん
書林の風から 今年のノーベル文学賞作家 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさん
 



先日図書館でスヴェトラーナさんの本を借りようとしたら一冊もありませんでした。無いのを承知で尋ねてみたのです、話題の人ですから。それからしばらく諦めていたのですが、いよいよ授賞式の時期になり、受賞者たちが続々とストックホルム入りをしてノーベルウイークを過ごしているのを知って、また図書館で探してみました。残念ながら彼女の講演は聞き逃しました。本は一冊だけありました。『ボタン穴から見た戦争』白ロシアの子供たちの証言という本です。借りてきました。まだ読んでいませんが、怖いような気がしています。
 
ベラルーシという国さえ馴染みがなく、調べなければわかりませんでした。近くは旧ソ連邦の構成国の一つ「白ロシア共和国」でしたが、ソ連崩壊後の1991年に独立し、ベラルーシ共和国となったそうです。白ロシアとベラルーシと同じ意味です。
 
『ボタン穴から見た戦争』の著者紹介によりますと、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは、社会の大きな流れの陰に隠れた小さき人々の声に耳を傾ける新しいタイプのルポルタージュ作家として旧ソ連時代から著作を発表していたとあります。
 
また、訳者のあとがきによりますと、第一作目は『戦争は女の顔をしていない』で、二作目がこの本です。ともに1941年、ナチス・ドイツに侵攻され占領され、残虐の限りを経験した生き残りの人々の証言集です。一作目は女性たちの証言、本著はそのとき〇歳から14歳だった子供たちを、「孤児院育ちの人々の会」などを訪ねてその体験を丹念に取材、記録したものです。
 
――爆弾が落ちるところを見たくて怖がりながらも、ひっかぶったオーバーのボタン穴から覗いていたジェーニャ――など200人以上を取材、その中から101人の子供たちの感覚で受け止められた「戦争」の話だそうです。

読んでみます。

 
 
 
 
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日々の風から 今年最後の紅葉
日々の風から 今年最後の紅葉
 






小雨が降っていましたが、初冬にしては冷たい風はなく、暖かい小雨なので、小一時間の散歩に出かけました。いつも場所を探してくださる教会のM姉妹との弥次喜多散歩です。アクセスも時間もすっかり姉妹任せ。私は付いていくだけなので至極らくです。
 
散歩先は「ねむの木の庭」、美智子妃殿下のご実家正田邸後の公園と、同じ地域にある「池田山公園」、こちらは岡山藩池田氏の江戸下屋敷跡です。どちらも今は品川区が管理しています。辺りは高級住宅地と言われ、確かに我が隅田川東岸の下町には見られない邸宅が並び静かさが覆っていました。
 
「ねむの木の庭」は200坪ほどの個人の邸宅跡を偲ばせていました。シンボルのバラはさすがに季節ではないので咲き誇ってはいませんでしたが名残りのバラに出会いました。池田山公園は回遊式純日本庭園として保存され、紅葉が見事でした。

 












ついでながらM姉妹は昨年末に大きな試練に会い、心に深い傷を負って懊悩苦悩し、神経科にかかろうかと思うほど煩悶から脱出できないでいました。事情は細かく知ってはいましたがどうすることもできず、ただただそばにいて聴きつづけました。M姉妹との散歩はそんな中から生まれました。近場ばかりですが、よく出かけました。おかげで東京に住みながら行ったことのない名所へあちらこちらと出かけることができました。私には楽しい時になっています。
 
最近、ふと気づくのです、姉妹は癒されてきているなあと。お元気になっても、この散歩は続けたいなあとひそかに思っています。


 
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風の仲間たち 友人とのクリスマス・ランチ
日々の風から 友人とのクリスマスランチ



 

ペン仲間の友人たちとは例会や学び会で頻繁にお会いしていますが、ゆっくりよもやま話をする時間はありません。会はプログラムに追われ、あわただしく散会します。夕方も迫ってくればどうしても足も心も家路に向きます。残務のやり取りをするのが精いっぱいです。
 
かねてから一人の友とゆっくり話をしたいねと言い合っていましたがようやく実現となりました。姉妹は東京近県の方ではなく遠方から参加されています。文章談義もできたらと、帰郷の列車までの数時間をごいっしょすることにしました。デイトの場所はスカイツリー。姉妹は初めてということですので、ジモティーの私がお薦めしたのでした。しかしツリーに上るのではなく傍らのビルのレストランで会いました。
 
近頃スカイツリーも外国人が多く混雑していましたが、さすがに師走に入り、クリスマスには間があるせいか空いていました。空いているとホッとします。それでもツリーを背景に盛んに写真を撮っている人たちがおられ、シャッターを、いえ、スマホを押すのを頼まれました。私はスマホは苦手、そこで使い慣れている姉妹がお手伝いしていました。
 
姉妹とはお店のはしごをしながら4時間も話し続けました。文章談義、文学談義はほんのわずかで、ひたすら身辺のことが中心でした。「あかし文章」の会話編といえましょう。これもまた、楽しからずや、ではありませんか。私はたいへん楽しかったのですが、姉妹もまたいろいろ話せたと、夜遅くにびっしりとメールがきました。雪が積もらなければ一月の例会には参加しますと言い残してエスカレーターを下って行きました。私は区内循環の100円ミニバスに乗り、10分ほどで帰宅しました。友人たちとのクリスマスランチは来週も続きます。

 
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