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2023.08.01 Tuesday
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日々の風から 関東平野水浸し
日々の風から 関東平野水浸し 災害はいつどこで起こるかわかりませんが、まさかこんな大きな大災害が、水の被害が、あの3・11を髣髴させるような様相で発生したとは……。 あわてて地図で確認するくらい近くでありながら意識からは遠方でした。しかし、その地域に住んでおられる友人がいました。しばらくして、栃木、茨城の友人たちを思い出し、しかも報道にその地名が出てくるので驚き、あわてて安否メールを出しまくりました。皆さん全員被害なくご無事であったのでホッとしたことです。仙台の友人は、近隣の教会のすぐそばまで水に浸かったと知らせてきました。あの大震災と重なった地域もあったのではないでしょうか。痛ましいことです。お見舞い申し上げます。 私の住むところは東京の下町でいわゆる零メートル地帯。町のところどころに標識があって、ここは海抜−2.6メートルなどど大きく記されています。ゼロ以下です。今回も、荒川の水が上がっていると区からの報が入ってきて、緊張しました。改めてぐるっと見回すと川ばかりです。今は堅固な治水対策がされ、水門で水量を調節しているはずですから、かつてのような洪水は起きないと、ずっと安心していました。ところが、昨今はすべてにおいて安全神話は通用しなくなりました。と言って、いったん事が起きたらどうしたらいいのでしょう。 流された人々、マイホーム、刈りいれ寸前の稲穂、どろどろの家々、復旧は気の遠くなるような労力が要ります。消費税を上げる場合ではありません。日本の国を愛するなら、外に出て、泥水をかぶってください。 ああ 人も 家も稲穂も 水浸し 2015.09.12 Saturday 08:46
日々の風から 日本女医第一号荻野吟子 その9 誕生の地へ
日々の風から 日本女医第一号荻野吟子 その9 誕生の地へ
ミニバス車中の案内画面 埼玉県熊谷市が吟子女史の故郷です。思い切って生誕の地にある記念館を訪ねてきました。思い切ってとは、隣りの県とはいえJR熊谷駅まで約70キロ、70キロとは東海道線なら大磯あたりです。駅のそばではありませんから、一日がかりです。夏の間行けなかったのは、熊谷と言えば全国有数の気温の高いところです。38度、39度になるので、気持ちが前に出ませんでした。しかし、熊谷までは自分に課した宿題でしたので日を睨んでいました。北海道は、南西部渡島半島の日本海側に面する漁港瀬棚町他、数か所ですが、今の所ほとんど諦めています。しかし隣りの県くらいは行かねばなりません。 熊谷は新幹線が通っていますが、一時間くらいですから高崎線の普通車にしました。そのあと、記念館までは丹念に調べました。ネットからもわかりますが、バス会社に電話して確かめました。やはり訊いてよかったです。そのバスは循環バスのひとつで、吟子記念館で折り返すのです。片道一時間余りです。この往復はかなりきつかったです。結局、4時間以上乗り物に乗っていたのです。記念館滞在時間は、バスの合間の小一時間でした。それで十分でしたが。 下車したのは私一人。来るまでの一時間余りは驚くばかりの田園風景です。関東平野の一部でしょうが、起伏のない真っ平らな地がどこまでも果てしなく続きます。茨城路も上州路でもそう思いましたが、ここでもまた広大な関東平野に感動しました。現在は人口の手も加えられて、森林や小山などは平らにされ、農地、宅地に整備されてきた結果なのでしょうが、それにしても見事です。今は稲が刈りいれをまつばかりでしょうか。こがねの稲穂には少し早いように見えましたが、よい天候が続き、台風の被害に遭うことなく、豊かな収穫を迎えられるようにと祈りました。 点在する家々は住宅展示場からそのまま運んできたようで、見栄えよく立派です。地方の豊かさを想像させる風景です。ただし、人影はほとんど見かけませんでした。JR熊谷駅は若い会社員たちが乗り降りし、なかり活況を感じました。 さて、一時間バスに揺られ、いよいよ荻野吟子記念館に着きました。背後に土手が見えています。ああ、これが利根川だと思い、急に胸が高鳴りました。会館に入るそばに、誕生史跡公園が置かれていました。公園とは、公の管理の園の意でしょうか、小さな一画です。会館に入る前にいくつかの記念物に見入りました。見上げるような顕彰碑に惹かれました。幅2メートル、縦3メートルほどの大きな石で、読むにもカメラに収めるのも難しかったです。ただ、最後に、吟子女史の愛唱聖句『人 其の友の為には 己の命を捨つる 之より大いなる愛はなし』(ヨハネ15章13節)がしっかり刻まれているのにうれしくなりました。 これは、北海道瀬棚にある顕彰碑にも刻まれています。いたるところでこの聖句が掲げられていて、後々の人が、吟子と言えばこの聖句を思い出すほどに、吟子の生き方そのものを代弁する一句なのでしょう。クリスチャンになってからの吟子は、医療も社会事業も夫との原野開拓も、すべてこの一句に集約されているのだと思います。働きについて回る豊かさや名誉や地位は吟子の勘定には入っていないのです。未踏の厳寒の地へ行き、開拓民の脈を取り、日曜学校を開き、地域に婦人会を組織し、夫の教会建設に尽力した吟子の原動力なのです。 この聖句が、まるで吟子と表裏一体のように、吟子の行くところどこでも突出して掲げられているのを知るのは、クリスチャンとしては胸が躍ります。吟子さんはこの聖句で自らの生き方を通して証し、伝道しているのです。これは神のご計画であり、神のわざです。吟子は貴重な神の器です。キリスト教界は吟子を教界の宝としてもっともっと知らせ、吟子を用いる神をほめたたえねばと、熱くさせられます。 記念館にはボランティアの老男性がおられ、あいさつすると、鍵で隣の展示室を開け、点灯してくれました。だれもいない時は閉めておくのでしょう。記帳してくださいとのこと、名前はいいですとも言われ、東京都墨田区と記しました。ちらっと前日の欄を見ますと3名でした。墨田区は吟子さんの終焉の地ですといいますと、いまでもあの橋はあるのですか、一度行かねばと思っていますとも言われました。 この方は吟子専門ではなく、地域の名所のいつくかを管理紹介する会の方でした。それでも北海道の瀬棚や利別原野の開拓地インマヌエルの丘には行ってきたと言って、自分の分厚いファイルを取り出し写真を見せてくださいました。実は瀬棚が立派な顕彰碑を建てたので、こちらでも計画が持ち上がり、一年後に生誕の地として碑も建てたとのことでした。 今回、私の訪問の目的は、館内の陳列物もさりながら、生誕の地に立つこと、もう一つは利根川を見て、利根川の風に吹かれることでした。 利根川の土手は見えているのですが、まさか、まっすぐに登って行くわけにも行かず、できないだろうと、公園内を覗き込むと、階段が見えました。そこで顕彰碑の脇をすり抜けて裏手へ出ると、横に走る小道もあり、目の前に階段がありました。うれしくなって、駆け上りました。流れははるか先ですが、まぎれもなく利根川でした。感慨無量です。荒川や江戸川のように河川敷が整理されていないぶん、自然が生きていました。土手の上は私一人、たった一人です。胸が自動的に広がっていきました。空は悠々と高く澄んでいて歳月を無視しているようでした。吟子はここで生まれ育ったのだ、でっかい空とでっかい川と、だだっ広い田畑の中で、しかし野生児ではなく、折り目正しい旧家のしきたりの中で、愛され教育されて成人したのだと、吟子の性格や人柄に思いを馳せました。何よりも吟子の人目を気にしないおおらかなたくましさはこの生誕地の環境の影響によると感じました。 対岸は群馬県です。利根川は茨城と、栃木、千葉、東京も流れ、太平洋にそそぎます。長さは日本で二番目ですが、流域面積は日本一です。大河なのです、日ごろもう少し認識を強くした方がいいかもしれないとつくづく思いました。対岸はるかにうっすらと山並みが見えます。群馬の山なのでしょう。しかし暴れ川で、台風の時期だけでなく年中氾濫していたようで、その度に大きな被害があり、特に吟子の地域俵瀬は、堤防がなく、あふれるにまかしていたようです。それが江戸幕府の、江戸を救うための手段であったようです。しかし、災害のない時は肥沃な地味で農作物の収穫も大きく、村民はわりに豊かであったようです。 吟子の頃は今のようなしっかりした土手はなく、いわば河川敷の続きに集落がありましたから、川はもっと近かったと思われます。吟子が、嫁ぎ先の上川上村から俵瀬に戻る時にどのようにしたのか、考えさせられました。バスで上川上という地名がありましたので気に留めましたが、嫁ぎ先の稲村家から俵瀬までは二里あまり、つまり8キロで、かなりな距離です。吟子は嫁入りのときは馬に乗ったそうです。実家に出戻るときは、馬に乗って悠々と、というわけにはいかず徒歩だったのでしょうか。そんなことも土手の上で考えました。 ちょうど快晴に近い空模様で、微風が吹いていました。この風を感じたかったのだと改めて感激でいっぱいになりました。しかし、私には心地よい最高の利根の川風も、離縁覚悟で家出してきた吟子には剣の刃先のように痛かったに違いありません。 2015.09.05 Saturday 12:09
日々の風から 雨の9月1日
日々の風から 雨の9月1日 9月は月の変わり目だけでなく季節の変り目の時期でもあって、意識的に注目の月です。 たいてい9月の声を聞くとホッとするものです。立秋は現実には残暑厳しき頃ですから、気休めの秋です。しかし今年はこのところずっと肌寒い様なぐずぐずした雨模様の日が続いているので、9月1日の感慨は味わえません。季節感がますます薄らいでいる気がします。 かつては、9月1日は登校する子どもたちが朝の通りを元気に賑やかに埋めたのですが、今朝はどうだったか、いつもと変わらなかったように思います。それというのも、すでに先週当たりから始まっている学校もあるのです。3期制の学校もあり、二期制のところもあって、一斉ということはなくなりました。昔人間から見ると、締りもメリハリもなく、ボケボケしているように感じます。 子どものことばかりでなく社会全体に感じます。個人個人は十分にメリハリのある生活をしているのでしょうが。それもいいのかもしれません。社会全体がいつも一色なのはむしろ危険かもしれません。それにしてもオリンピックの準備はこんなにボケボケしていていいのでしょうか。会場騒ぎが続いているさなかに、シンボルのマークがなにやらおかしいです。 世界中が期待し注目しているのですから、もう少しパキッとしてもらいたいです。年寄りに小言を言わせないでください。せっかくの9月1日がおかしな記事になりました。 2015.09.01 Tuesday 21:30
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