人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 早かった八月
 
日々の風から 早かった八月
 
このところ涼しいのを通り越して肌寒い日々が続き、一足飛びに秋が来たような気配です。
しかし、まさかこのままでは済むまい、必ず、いつまでも暑いですねとあいさつする日があると、半ば期待しています。勝手なものです。異常に暑かった日々でしたが、過ぎてみると八月はあっという間でした。持病を抱え、暑さに弱い姉妹は腎臓と胃腸を弱め、ずっとお粥だったとか。体力が戻らず、今日も礼拝はお休みでした。礼拝の出席者はいつもより少なかったです。疲れが出ている頃でしょうか。
 
白内障手術から一週間が過ぎ、先週は少しばかり自重して外出も控えていました。ところが
パソコンの画面がクリヤーになりうれしくて日がな一日中へばりついていましたところ、急にエンジントラブルの様な爆音がし始めて、あわててオフにしました。しばらくしてオンにしましたが、立ち上がりに異常音が続き、画面が動きません。
 
酷使しすぎてパソコン君が、怒って、ストライキを始めたのだと思い、調子に乗ったことを反省しました。しかし、今のところどうしようもないのです。切ったり入れたりを繰り返していると何度か目にすっと立ち上がってくれるのですが、トラブルを起こしていることは確かです。パソコン不具合のストレスは強烈です。多分依存症気味なので、いや、れっきとした依存症なので、ほんとに困ります。祈るしかないのです。
 
 

 
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日々の風から 白内障手術を終えて
日々の風から 白内障手術を終えて
 
この半年ほど急速に左目の不自由を感じていた。曇っている、白内障が進んでいるのだとわかった。右目は12年ほど前にやはり不自由を感じて手術し、その後は快適に過ごしてきた。近所だったので日帰りで済んだ。ところが医院が通いにくいところに移転してしまった。今後どうしようと思っていたが、御茶ノ水によく行くので、あの有名な眼科にかからない手はないと、通いだした。3か月に一度定期検診をしていただいて数年が過ぎている。左目もいつでもしたい時にしていいです、だいぶ進んでいますとは言われてきた。しかし不自由を感じるほどではなかった。それに視力は眼鏡をかけて1.2は出ていた。
 
ところが最近限界を感じた。相談したところ、視力はあるが不自由さは人によって違うから、しましょうということで、2泊3日で予約し、していただいた。途中で事前の診察があり、血液検査から一通りすませて、手術日に至った。いまでは白内障の手術など大したことに思われないほど普及し、おおぜいの方々がその恩恵に与っているが、病院はたいへんていねいな準備をして、細かいプロセスを重ねて、物々しいほど慎重である。安心してお任せできた。あとで実際の手術所要時間を訊いたところ16分ですと聞かされた。手術室には執刀医の他、何人ものスタッフがいて、きびきびとポジションをこなしていた。麻酔は目薬を差すだけ、さすがにこれで痛みを抑えられるのかしらと心配になったが、歯の麻酔の時のようなしびれるような感覚もなく、まったく自然のママ、意識が薄らぐこともなく、進められた。
 
眼帯をしたまま付き添われて病室へ案内され、3人部屋の一つのベッドに収まった。手術したと言ってもどこも痛くもかゆくもない。何やら退屈である。といっても本は読めない。音楽や説教の入ったレコーダーを持って行ったので、心ゆくまで聴き入った。三食が運ばれてきてまさに上げ膳据え膳、それもたいへん立派なお食事で、旅気分でした。

眼帯を外すまでいささかの不安があったが、効果は抜群であった。明るいのだ!鮮明なのだ!爽快で、頭まで冴えざえとしてきた。頼りであった右目がかえって古びてきたように感じた。退院手続きを済ませて外に出れば3日前には感じなかった涼しい空気になっている。なんだか遠いところから帰ってきたような気がした。目のせいもあるが我が家が、我が部屋がパキッとして新鮮であった。新しくいただいた器官を感謝して、また日々励んで行こうと、新しい決意が生まれて、これもまた大きな感謝であった。
 
 
 
 
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旅の風から 松原湖バイブルキャンプ「聖会」の風
旅の風から 松原湖バイブルキャンプ「聖会」の風
 
 
 
 
このキャンプ場に最初に登ったのは高校一年生の夏であった。どういう経路で往復したのか何も覚えていない。人任せだったのだろう。当然、上野発信越本線に乗ったことだろう。アプト式で碓氷峠を越えたことだろう。一番変わったのは鉄道だと思う。昨今も長野新幹線が金沢まで繋がって北陸新幹線に変わったばかりである。小海線の駅で、無人駅があるのも驚きであった。
 
あれから50年以上も行ったり来たりしている。最近はずっと遠くに感じることが多かった。
係わりも減りそれだけ関心も薄れたのだ。老いたのだろう。テントやバンガロウーに寝泊まりするわけではないが、キャンプという言葉だけでも尻込みする思いが強かった。
 
純粋にキャンパーとして参加したのはほんとに久しぶり。懐かしい思いと新鮮な気持ちが混ざって、かなり刺激的だった。いい体験をしたと思う。思いがけない友との再会もあって感動しきりであった。湖畔ウォーキングや白駒池へのハイキングも参加し、どうやら歩けたのはうれしかった。にわか聖歌隊に飛び込んで特訓され、最後の夜に賛美できたのはまさに青春の再来であった。八十路に近い老夫妻と親しくなり、手を握り合ってお別れしたが、どこかで会えるだろうか。若者のようにアドレスや住所の交換などはしない。神のお導きにゆだねるのみ、老姉の笑顔が忘れられない。
 
7回の説教で信仰の胃袋ははちきれそうである。ユックリ反芻して血肉にしていただきたい。
まさに「聖会」はみことばの饗宴である。めったに味わえないフルコースに与れたのはただ恵み以外にない。受ける価値のない者へのあわれみのプレゼントに感謝するばかりである。

 

 


テキストのみことば・ローマ人への手紙12章3節
 
『私は、自分に与えられた恵みによって、
あなたがたひとりひとりに言います。
だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。
いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった
信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい』

 
 
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日々の風から 日航機事故から30年とは―――
日々の風から 日航機事故から30年とは―――
 
今年は戦後70年、国家や個人の今後の歩み方、生き方の根源が厳しく問われているし、問うてもいるときであるが、あの日航ジャンボ機の墜落事故からは30年が経ち、切のいい数字が並んで、否が応でも立ち止まらずにはおられない。
 
ジャンボ機墜落の時、私は群馬県とは山並みを越した長野県松原湖のバイブルキャンプ場にいた。よく覚えている。長女は大学受験の勉強中で参加しなかったが、次女が高校生キャンプに参加していた。私はその年はずっとキャンプ場にいて、カウンセラーなどの奉仕をしていた。キャンプ場の早い夕食が終わって、夜の集会前のフリータイムの時だったと思う。
空が明るくて気持ちのよい夕方であった。みな、戸外に出て思い思いに過ごしていた。若さあふれる高校生たちは男女ともにボール遊びなどに興じていた。
 
その時一瞬、雷鳴のような音がして、閃光が走った。それはほんの一瞬で、雷雨の前触れではなかった。おやっと思っただけでそのまま忘れてしまった。気が付いた人も、見なかった人もいた。私は夕方を楽しんでいただけなので、見たのかもしれない。
 
まだ、スマホどころか携帯もない頃である。キャンプ場はテレビもない。しかし、夜になるととこからともなくこの近くに飛行機が墜落したようだ、場所ははっきりしないがとのうわさが入ってきた。翌朝は解散の日であった。飛行機は長野県側でなく、群馬県だとわかったが、JR小海駅までの定期バスは全部事故のために使うことになって、一般の人のためには出さないと言い渡された。
 
さあ、たいへん。予定が狂ってしまった。私は教会から数名の生徒たちを引率もしていたので、いささか緊張した。そこでキャンプ場からのアドバイスもあったが、小海線の松原湖駅まで徒歩で下山することにした。引率者なしで参加してきたよその教会の生徒たちも集まってきた。大した距離ではなかったが、みな、無言で、それぞれに不安な気持ちを抱えながら歩いた。それが、日本中がひっくりかえるような大惨事であったとは、その後、帰京してから連日連夜引きも切らずの報道で知るところとなった。あんなにテレビを見続けたことはなかった。
 
たくさんの悲劇を生んだあの事故から、まる30年が経つとは、感慨無量である。あれから何度かキャンプ場には行っているが、真夏のこの時期に行くことはなかった。
 
今年は、ふと思い立って、明日から3泊4日の「聖会」に申し込んだ。事故からちょうど30年とは、いまさらながらに多くのことが胸をよぎる。事故もさりながら、30年間の小さな私の人生が思い出されてくる。あの時受験生だった長女は、今年、息子の大学受験を見守るママである。あのとき高校生キャンパーだった次女は、この「聖会」を進めるリーダーとして奉仕することになっている。すっかり老女になった私は、4日間、聖書一冊だけを抱えて高原の風を楽しませていただくつもりだ。30年が夢のようである。
 
 
 
 
 
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日々の風から 女医第一号 荻野吟子ゆかりの地 明治女学校跡へ その8
日々の風から 女医第一号 荻野吟子ゆかりの地 明治女学校跡へ その8
 

 
東京は連日猛暑日を更新しついに37.7度まで行きつきました。天地が溶けるような気がしました。意識もなんとなく漠として熱波に呑みこまれるようでした。
 
猛暑日の最中でしたが、吟子さんの足跡を追って、とある場所に出かけました。明治女学校跡です。この学校については高校生の頃、島崎藤村に熱中したことから覚えていましたが、
今ごろ荻野吟子のことで再会するは思っても見ませんでした。懐かしさがよみがえり、過去になった青春の血が噴き上げてきて、おもわず明治女学校だけに集中したくなりました。
 
明治女学校は明治18年に開校し、明治42年には閉校してしまいますが、そのわずかな23年間、全国に名を馳せた、しかもきらびやかに存在を示した学び舎で、まるで夜空を焦がす花火、あるいは一日だけの朝顔、聖書で言えばヨナの日よけになったとうごまの木のようです。明治の世が、特に女性たちに見せた真夏の夜の夢ともいえましょうか。近代日本の女子教育の先駆けとなった学校です。
 
創立者は木村熊二牧師、二代目はかの岩本善治(彼の妻が小公子などの翻訳で有名な若松賤子)であり、日本初の女性誌『女学雑誌』が刊行されました。この雑誌の投稿者である文学者たち、なかでも島崎藤村も教壇に立ちます。初期の講師の顔ぶれは華やかです。音楽は幸田幸子(幸田露伴の妹・幸田文の叔母だと記憶します)英語は津田梅子、若松賤子、医学を荻野吟子(ここに吟子の顔が見えるのです)島田三郎、内村鑑三、植村正久も教壇に立ったこともありました。生徒からは羽仁もと子が出ました。
 
さて、今は無き明治女学校の跡ですが、調べると、そこに千代田区の建てた銘板があるとわかりました。千代田区六番町です。JRでは四谷と市ヶ谷の間になります。土地勘であの辺りだと想像はつくのですが、その一地点を探すのは容易ではありません。地図が読めず、方向音痴は困りものです。案内の通り、わざわざ市谷から有楽町線に乗って一駅の麹町で下車し、出口番号も間違いなかったのに、いざ、地上に出るともうわかりません。地番も持っているのに、なぜかそこだけ逃げてしまうようです。『文人通り』というわかりやすい通り名もついています。まさにそこを歩いているのに、一軒の商店で訊いてみると、ああ、ここは確かに文人通りですがと言って、スマホで探してくださったのですが地番が分かりません。申し訳ないので歩き出しました。
 
しばらく行くと、ようやく目指す地番が現れてきました。うろうろしていると、自転車を引く初老の女性が声を掛けてくださいました。「明治女学校ですか」といわれるではありませんか。ずばり明治女学校の名が聞こえてきて、顔に血が上るのを感じました。「そこですよ、私は羽仁もと子の集まりの帰りです」とも言われます。なぜかその方はとてもうれしそうでした。
さて、ついに銘板に行き当たりました。マンションの植え込みの中に一本立っていました。真紅の20センチ四方の千代紙の様な版で、菱形にしてありました。この通りには他の人のものも立っているのでしょうが、通り過ごしてしまっても仕方がないと思いました。
しかし、人工的な銘板だけとは物足りなく悲しいです。建物の一部とか土台とか、なにか当時のものがすこしでもあれば現実感が沸くのですが、そんなものは跡形もないのです。
資料を思い出しながら想像するしかありません。
 
最後になってしまいましたが、この学校と吟子との関係です。
話せば連綿と吟子の歴史があるのですが、かいつまんでみます。
 
死闘の果てに、吟子は1885年(明治18年)34歳で、第一号の女医に合格し、早速『産婦人科 荻野医院』を本郷三組町に開きます。診療のかたわら、吟子はキリスト教婦人矯風会に参加し風俗部長になります。吟子は女医になって一年後には弓町本郷教会で海老名弾正牧師から洗礼を受けています。クリスチャンになった吟子は単に病気を治す医師だけでは飽き足らないものを感じていたと思われます。その線上にあるのでしょうか、明治22年に、明治女学校の講師、校医になり、女子教育の現場にも立つようになります。さらに、明治25年には、医院を畳んでここの舎監になるのです。この間には、吟子の今後の生き方を変える大きな出来事があるのですが、それはこれからに廻します。
 
 
 
 
 
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日々の風から 炎熱酷暑お見舞い
日々の風から 炎熱酷暑お見舞い
 


昼も、日が、あなたを打つことはなく
夜も、月が、あなたを打つことはない
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り
あなたのいのちを守られる。詩篇121

 
連日連夜、猛暑の攻撃を受け、身をかわす術がありません。
生きているのが不思議なほどです。ふと、『昼も日があなたを打つことはなく〜〜〜』が口をついて出て、ああ、生かされているのだ、守られているのだと実感します。
 

主はわたしの羊飼い
私は乏しいことがありません
主は私を緑の牧場に伏させ
いこいの水のほとりに伴われます。詩篇23篇

 
熱中症がやかましいほどに警告され、こまめに水を===がひっきりなしに忠告され、
それでも大勢の人が倒れているすさまじい現状を知るにつけ、いつ我が身に及ぶかと油断はできません。主は新鮮な泉に連れて行ってくださり、さあ、好きなだけタップリ飲みなさいと促してくださっている、そんな光景を思い浮かべました。
 

まことに、その人は主のおしえをくちずさむ
その人は水路のそばに植わった木のようだ
時がくると実がなり、その葉は枯れない
その人は、何をしても栄える。詩篇1篇

 
小さな花壇でもすぐにからからに乾ききっています。たえず地面を見ながら朝に夕に水やりです。水が多すぎても少なすぎても植物は元気ではいてくれません。ころあいが難しいです。
水路のそばに植わった木のように、いつもみずみずしい葉を茂らせ、やがて時が来ると実がなる、そんな木になりたいと願わずにはいられません。
 

『人もし渇かば我に来りて飲め。我を信ずる者は、聖書に云えるごとく、
 その腹から生ける水、川となりて流れ出づべし』ヨハネ7・38
 

立ち上がって叫ばれるイエス様の招きに応じたいと切望します。
永遠の命の水をいただかなくては、この一夏は乗り切れません。
冷蔵庫に冷たいお水はたっぷりあっても、魂の渇きを癒すお水は自販機でも売っていません。
魂から潤されない限り、熱中症から逃れる保証はありません。
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