人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 日本の女医第一号 荻野吟子『荻野医院』開業の地へ  その7
日々の風から 日本の女医第一号 荻野吟子『荻野医院』開業の地 その7
 
 

荻野吟子は埼玉県熊谷市県妻沼町(当時は俵瀬)で生まれ、東京の墨田区向島(当時は小梅町)で小さな医院を営みながら天に召されていきました。日本各地に活動の足跡が残されています。吟子が医学を学び、女医の資格を得て、念願の『荻野医院』を開業したのは、文京区湯島でした。吟子の生涯60余年の真ん中の20年はこの辺りを中心にしています。湯島も私の居住地域から遠くありません。そこで、地図を手に出かけていきました。
 
私は、体質でしょうか、真冬の外出は気持ちも体も進みませんが、真夏はさほど苦にならないのです。しかし近年は温暖化現象のせいでしょうか、直射日光の強さと高温が若かりしころとはだいぶ違います。もうひとつ老年齢というハンデがありますから、自重の帯をしっかり締めてかからねばなりません。それでも、たぶん木枯らし吹く日だったら止めたでしょうが、35度との予報が出ていても気持ちは前に進むのです。
 
都バスに乗って錦糸町へ。そこから大塚行のバスが頻繁に出ています。これはとても便利です。前回、吟子の通った弓町本郷教会へ行くのにも使いました。その時の下車停留所名は真砂坂上でした。今回は一つ手前の湯島三丁目です。そこは、全国的に有名な湯島天神のそばでした。『産婦人科 荻野医院』跡とは文献にあるだけで、実際の地に何一つ記念のものはありません。案内板すらありません。これは文京区の怠慢ではないかとさえ思います。医院があったとされるところは、現在の三組坂下交叉点とのこと。
 
上野から銀座、新橋を南北に走る中央通りが上野広小路で交差する春日通りの一つ先のバス停が湯島三丁目ですが、中央通りの一本西を並行して走る都道452号線を南に250mほど下った地点です。そこには現在の2015年7月28日が昨日と同じように平凡な時を刻んでいるだけでした。私がカメラを上に向けて道路標識を写しているのを、ガソリンスタンドの店員さんが、一瞬視線を向けただです。辺りは湯島天神を抱えている土地柄なのか、飲食店や小さな宿泊場所がびっしりと重なり合うように軒を並べていて、表通りにはない独特の雰囲気が漂っていました。急に、初老の女性と中年女性の二人組に「あの、湯島天神はどこでしょう」と声を掛けられ、すぐ先の木々のこんもりした高台を指さしましたが、吟子さんの「ぎ」の字も見当たらないのには寂しい思いをしました。
 
当時、『産婦人科 荻野医院』はふつうの民家を医院風に改造したものでした。六畳一間ほどの玄関は、たちまち患者の履物であふれたそうです。明治18年5月、吟子34歳のことでした。熊谷の嫁ぎ先で性病をうつされて実家に出戻ってから十五年あまり、苦闘の末に勝ち取った冠でした。この日を夢見ながらも闇の中を手さぐりで歩くような歳月でした。しかし、夢は現実となったのです。この時こそ、歓喜の時ではなかったでしょうか。それはまた吟子人生の絶頂期でもありました。よくぞここまで一途に来たものだと、無表情な都道452号線を眺めながらも、涙の滲む感動を覚えました。
 
しかし、一つの大きな山を乗り越えた吟子に、神様はさらに新しい道を備え、導こうとしておられたと、私は大局から眺めてそう思わずにはいられません。40歳からのおよその20年は前半にも勝る大冒険、山坂の連続であったのです。
 
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日々の風から 梅雨明け10日 
日々の風から 梅雨明け10日 
 

本格的な夏の到来がはじまると、母がよく「梅雨明け十日」と言っていたのを思い出します。気象庁から梅雨が明けたと報じられて「そのあとの10日間ほどは連日猛烈な暑さが続くものだ、それを梅雨明け十日」と言うのだと、かなり割り切って言っていたのです。暑いのは当然だ、その暑さが大事なのだと言わんばかりに。さらに日本では「日照りに飢饉なし」とも添えていました。母がどこからこうした知識を得たのかは知りませんが、私の脳裏には
深く刻まれているのか、燃えるような日差しが照りつけると、暑くてたまらないのですが、どこかホッとする思いがあるのです。これでお米や果物が豊かに実り、豊作の秋になると思うからです。ハイテク農業の現在には通用しないかもしれません。
 
その母の言葉と同時に、つぎつぎに母のことが思い出されてきます。母が召されて7年過ぎました。ときどき、なぜ母が私のそばにいないのだろうかと嘘のように思えることがあります。若かったときの母も、父を亡くしたころの母も、寝たきりになった母も、同じ濃度で思い出すのはなぜでしょうか。母といっしょに父のことも思い出します。ごくありふれた小さな家庭でした。しかしあの戦争時代に、兵役にも服せず徴用だけで終戦を迎え、飢えの時代もどうやら家族六人生き延びて、父は86歳で、母は父亡きあと10年生きて90歳で、二人とも晩年に近い頃、イエス様のみ救いに与り、天に帰って行ったのです。思えば、これほどの幸いはないのではないでしょうか。なによりも残された者たちが神を崇め感謝して、深い安心の中で父や母を思い出すことができるのも大きな恵みであり幸いです。
 
昨日、今日と、教会は葬儀です。87歳の老姉があっという間に召されました。老姉の娘の姉妹も教会員ですので、ずっと豊かなお交わりをいただきました。ですから、この二日間は感謝を込めてできるだけのお手伝いをしながら最後まで老姉に付き添うつもりです。老姉は、先に救われた娘さんの熱心な伝道によってエス様を信じることが出来ました。まだ信仰歴は数年ですが、周囲の人たちが驚くほど変わっていきました。笑顔が生まれたのです。最近は車いす生活になってしまいましたから、思うようにならないことがたくさんあったでしょうに、絶えず柔和な笑顔なのです。笑顔は貴いと思います。神が笑わせて下さっているのでしょう。私も笑顔を向けて老姉の柩をたくさんの花で埋めたいと思います。
 
 
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世相の風から 友人が国会前のデモに
 
世相の風から 友人が国会前のデモに
 


台風11号が荒れる中、東京もときおり激しい風雨が地をたたき、傘を広げるのも危うい2日間でした。友人知人たちとそれぞれにメールで連絡を取り合いながら国会の動きを探りつつ祈り合ってきました。これからも祈って行きましょうねと、残念な結果を嘆きつつまた励まし合いました。四方八方閉ざされても、天の窓は大きく開いており、天におられるお方は聴く耳があり、すべてを見わたせる御目をお持ちですから、信頼して訴えていきます。近しい友人から、これからデモに行きますとメールがありました。友人の勇気に拍手しつつ、励ましと感謝のメールを送ったところです。
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日々の風から 日本の女医第一号 荻野吟子が受洗した教会を見に その6
日々の風から 日本の女医第一号 荻野吟子が受洗した教会を見に その6
 
 
5月末にその1を載せて以来、荻野吟子を慕い追いかけて今回は6回目になります。荻野吟子は明治初期、日本には未だ女医が公認されていない時、まるで熱帯のジャングルに道を作るようなすさまじい苦闘の末、女医第一号の資格を獲得しました。前人未到の世界に、第一歩を付けるのは、どんなに小さな足跡であっても後の100人にも勝る貴重なことです。人の意識を変え、国の制度まで変えねばならないのです。強さと知恵と忍耐など、医学の知識と医師としての能力以外にあらゆる力を総動員しなければできないことだと思います。それでも戦えるのは、ひとことで言えば使命感と情熱でしょうか。
 
吟子は16歳で結婚、夫から性病を移されて離婚、屈辱の闘病の中で、20歳の時に医師になる決意をします。22歳で上京、その後、苦節12年、道なき道を歩み、ついに34歳で、医術開業後期試験に合格、女医第一号になります。直ちに本郷湯島三組町で産婦人科荻野医院を開業するに至ります。
 
後期試験合格の半年前、前期試験に合格したころ、吟子は京橋の新富座で開かれていたキリスト教の大演説会に行きます。さしづめ一大伝道集会に当たりましょうか。きっかけは、東京女子師範学校(いまのお茶の水女子大。吟子は第一期生だそうです)時代の親友で、クリスチャンであった古市静子に誘われたからです。しかし、単に義理人情でその場をしのぐ吟子ではありません。なにか理由があったのだと思います。そのあたりも調べてみたいと思いますが、はっきり分ることは神様のお導き以外以外にないということです。神様の不思議な御手が吟子を新富座の大演説会に連れて行ったのです。
 
吟子のその時の状況は、前期の試験には合格したものの、まだ最後の難関が待ち構えている緊張の強いられる時です。合否の判定は成績だけの機械的なものではありません。なにしろ女医の前例がないのです。果たして当局は女性に医師の資格を与えるのかどうか、誰にもわからない時でした。たとえ最高の得点でも、前例なしで闇に葬られることだって大いに有りうるのです。吟子は深い谷間にいたのです。
 
キリスト教の演説(説教)は鮮烈な渓流のように吟子の魂の奥深くに流れ込んでいきました。
その後、合格して開業し、働きが始まって行く多忙の日々が続きますが、吟子は夜になると聖書を覚えるために一字一句書き写したそうです。やがて、本郷教会へ通うようになり、翌年、明治19年11月に洗礼を受けてクリスチャンになるのです。授けたのはキリスト教史に有名な海老名弾正牧師です。
 
梅雨の晴れ間の暑い日、弓町本郷教会を見てきました。とにかく吟子が歩いたところ、呼吸したところへ行くことだと、今回は文字通りではないにしても、追っかけです。現在の教会は吟子が通った当時とは場所も違い、しかも火災や関東大震災に遭って建てかえられています。平日のためか、正面入り口は厚い鉄の扉でしっかり施錠されてびくともしませんでした。しかし、あの時代から130年も経っているのに、教会は健在、今も毎週日曜日には信徒が集まり、讃美歌と聖書を中心とした礼拝が捧げられていることに深く感動し、感謝しました。日本でたった一人の女医として日本中から称賛され注目の的になったばかりの吟子が、それに溺れず奢らず、神のみ前に額ずく姿を思い浮かべて、心に染み入る涼風を感じました。彼女の伝記を片手に、また、ゆかりの地を訪ねたいと思います。
 
 
 
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日々の風から 2年越しの幸田文との決着・露伴児童遊園へ
日々の風から 2年越しの幸田文との決着・露伴児童遊園へ
 
 


 2013年4月に幸田文の『崩れ』の一文に出会って、激しく読み心書き心を刺激され、以来、ほとんどの文庫本、さらに全集23巻に挑戦したことは、すでに書きました。幸田文が墨田区東向島で生まれ、関東大震災で被災したあとまもなく文京区へ移り住むまで、ずっとこの地域に暮らしていたことが、親しみを感ずる大きな理由でもありました。かの文豪幸田露伴の娘であることも大きな興味をそそりました。
 
思いがけなかったことは、幸田文の継母が熱烈なクリスチャンで、家族伝道も熱心であり、文さんはミッションスクール女子学院へ入り、洗礼を受けています。継母が家庭で日曜学校を開き、文さんも生徒の世話をし、時に聖書のお話もしました。クリスマスには子どもたちへプレゼントをするために露伴も資金援助して協力しました。露伴は信仰者には至らなかったのですが、露伴の父はすでに信者でした。ところが父露伴と継母は信仰のことからいさかいが絶えず、継母はついに長野の実家に帰ってしまうのです。文は結婚しますが、離婚して一人娘玉さんを連れて幸田家に戻ってきます。以後、主婦のいない実家の全てを文さんが取り仕切り、露伴の最期をも看取るのです。
 
私は以前も書いたと思いますが、熱心なクリスチャンであった文さんがいつの間にか信仰を失い、そのままふつうに暮らし続けていったことに深い失望と悲しみを覚えるのです。文さんに限らず若い頃に信仰者になっても、その後教会から離れてしまった人は無数におられますが、残念でたまりません。これは私の個人的な嘆きにすぎないのでしょうが。
 
ところで、今日は、幸田文を追いかけた2年余りの締めくくりとして、近くの露伴公園に行ってきました。今の地名は東向島1丁目です。かつて露伴が住んでいた場所です。もちろんなにひとつ遺跡らしいものはありませんが、いくつかの案内板が建っていました。我が家から30分ほどのところで徒歩も可能ですが、都バスに乗って行きました。ときおり細かい雨がばらつきましたが、番地のメモを手にして路地裏に入って、その場所を見つけたときは、はるばると遠方からやってきた旅人の様な別世界感覚に引きこまれ、強い心の高揚を感じました。
 
これで幸田文の文学世界とはお別れです。私としてはけじめの挨拶の積りもあるのです。これからしばらくは、心おきなく「荻野吟子」を追いかけることにします。

 
 

 
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世相の風から 新幹線初の火災事故
世相の風から 新幹線初の火災事故
 
 
2015年も半分が過ぎ、いよいよ後半に入るのかと、前半の最後の日と後半最初の日を多少の感慨と緊張感を抱いて(信仰的には感謝と希望)身構えています。そこへ突然、世相の風が突風となって吹いてきました。新幹線の火災事故です。
 
新幹線は1964年に東京、新大阪間が開業して以来、すでに50年も、当時は驚異的スピードであった時速200キロで走り続け、その間、大きな事故もなく、安心して使える国民的交通機関です。安全性を込めた「新幹線神話」という栄光の呼び名まで獲得しました。庶民にとってもかつては高根の花のようなまぶしい存在でしたが、今や普通電車感覚で当たり前のように利用できるようになりました。飛行機もあるけれど、いろいろ比べると新幹線の方が気軽で便利だと言う方もいます。
 
その新幹線で事故があったとは聞き捨てにできません。原因は非常識な一個人の引き起こした出来事でした。これについては私の論ずるところではありませんが、昨今の世界的な「どこにいてもとんでもないことが起こる、安全なところはどこにもない」の潮流が、ついに「安全神話」の冠をも引きちぎったかと嘆かざるを得ません。今後はちょっと身構えて新幹線に乗ることになるでしょう。ストレスが一つ増えました。
 
50年の太平の夢を破ったこの事故で迎えた2015年後半最初の日、東京は音高く激しい土砂降りの雨です。雨に閉じ込められたこの一日、特に世相のために神様のお守りを祈る日にしたいと思います。
 
『わたしは山に向かって目をあげる。私の助けはどこから来るのだろうか。
私の助けは天地を造られた主から来る』詩篇121篇1節
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