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2023.08.01 Tuesday
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日々の風から 荻野吟子その5 吟子を慕って 雑司ヶ谷墓地へ
日々の風から 荻野吟子その5 吟子を慕って 雑司ヶ谷墓地へ
日本女医第一号の荻野吟子についてはすでに4回にわたって書いてきましたが今回は5回目です。葬られたところが都立霊園の雑司ヶ谷墓地であると知ったので、行ってみました。私の主義としては例えお寺でなくても興味だけでお墓を見に行くことはないのですが、吟子は例外です。ゆかりの地の一つ一つをできるだけ訪ねたい思いに駆り立てられているのです。その思い一つで、でかけました。都内でもあり我が家からそんなに遠くはありません。それもあって行く気になりました。今回の同行人は妹その1です。
乗り物は、東武線で曳舟、曳舟から東武スカイツリーラインで牛田、京成ではそこが関屋駅です。関屋から京成上野行に乗って町屋下車。さあ、そこからは、東京でただ一本の都電荒川線に乗りました。街中を走る都電です。昔懐かしい都電です。40分ほど乗って雑司ヶ谷に着きました。 墨田区小梅町で亡くなった吟子がなぜ雑司ヶ谷霊園なのか、それなりの理由があるのでしょうが、いまのところ分かりません。吟子は夫の志方之善の姉(北海道瀬棚で死去)の子のトミを養女にしていました。小梅町での吟子の最期を看取ったのもトミでしたから、おそらく葬りもトミがしたと思われます。 お墓の前で、吟子の生涯を思い出しながらしばらく佇んでしまいました。単に書物や写真から知っただけの女性ですが、その平面から立ち上がって血肉を備えた立体的な人間として私の近くにいるような気がします。そのうち、会話が始まるかもしれません。今度はどこへ会いに行きましょうか、吟子を慕ってどこへ行きましょうか。 ついでに、この霊園には多数の有名人のお墓がありました。 妹は、夏目漱石のお墓が目宛てでもありました。 2015.06.26 Friday 22:37
風の仲間たち 遥けき常総路へ
風の仲間たち 遥けき常総路へ
茨城県は東京の隣だと思っていたがそうではなく、埼玉県あるいは千葉県を経るのである。上野駅を起点とする常磐線(現在は多様化している)を使うので親しみやすく何人もの友人がいる。しかし友人たち一人一人の居住地をよくよく調べてみると、同じ茨城県でも広域にわたっていることがわかった。この度、茨城でも西部に当たる下妻市に出かけることになった。書き仲間との、いえば遠足である。お弁当持参にしたことで遠足感が強まった。 なぜ下妻かと言えば、仲間の一人(この教会の先生でもある)の教会を集会場所として使わせていただくためである。しかし下妻は交通の便はいいような不便なような、つまりかなり遠方である。わりに近い位置にある私でさえ、苦心した。茨城県には、筑波学園都市の発展に伴って「つくばエクスプレス」が走るようになった。東京の秋葉原からつくばまでである。これが大動脈になった。これは私にとって大変重宝な乗り物である。しかし、下妻は一本では行けない。途中の守谷で関東鉄道に乗り換える。関東鉄道はさすがに単線ではないがローカル線の見本のような鉄道である。つくばエクスプレスは最高速度130キロ、自動列車運転装置 (ATO) による自動運転を行う最新の乗り物である。それがのどかな田舎を走る、そのアンバランスがおかしいほどである。 関東鉄道下妻駅の隣の「大宝駅」で、まずは紫陽花で有名な大宝神社アジサイ園に寄った。この駅は無人駅であった。神社の裏山に紫陽花が空を覆う大樹に交じってそこここにのびのびと花を咲かせていた。300種類もあるという。アップダウンの一山を巡った。 大宝駅から下妻へ一駅を乗って、駅前からタクシーで友人の教会へ向かった。すでに正午を過ぎていた。早速、めいめいが思い思いに持参した昼食をいただいた。先生がサラダやおつゆを用意してくださり楽しい午餐となった。 さて、そのあと二時間ほどは予定通り集会のプログラムに従って進めた。まずは友人は(今は牧師先生、ここに教会堂を建て、牧師として主の働きに熱闘する宣教の器である)が、今日までの半生を証しされた。献身の証しと献堂武勇伝である。先生とはとは、30年も前から主にあっておりおりにお付き合いをしてきた、かけがえのない親友である。この地には教会堂の立つ前から何度か訪れており、姉妹のビジョンを聞きともに祈りを重ねてきた。 その後、参加者一人一人が近況やら手がけている働きやらをじっくりと語り分かち合った。 会堂の周辺には緑があふれ、紫陽花があふれ、外へ出れば見渡す限り畑が広がり、果てしなく空が広がっていた。こうした中にいるといつのまにか心も広がって行く。今回は老老介護の3人の姉妹が欠席された。老親介護真っ只中の2人の姉妹は、やりくりがついて参加できた。一息つけたそうである。親の介護が終わって何とか参加できる私など常連は、いまや介護予備軍であり、その束の間を泳がせていただいている。 帰途は筑波山を真ぢかに見上げながらつくばに出てエクスプレスに乗った。筑波山は子どもの頃、遠足で登った思い出があるがその後はご無沙汰である。この山は、冬のお天気の良い日には御茶ノ水の高いビルからも見える。姿も長い裾野がしなやかで美しい。 距離も時間も短かったわりにははるばる遠路を旅したような満ち足りた一日であった。一人一人の物書くスピリットが刺激され、明日の働きに繋がることを願い祈った。 2015.06.24 Wednesday 21:15
世相の風から 選挙権年齢18歳から
世相の風から 選挙権年齢18歳から
70年ぶりの改正とのことである。70年前と言えば終戦の年である。この年、参政権は20歳以上の男女と決まったそうである。以来、今日まで70年のあいだこの決まりは動かなかった。私は遅かったとさえ思う。若者は、もちろん良くも悪くもであるが、70年前とは中身が違う。ようするに大人なのである。教育や社会環境の影響だろうが、すこぶる目覚めている。人格的にどうかなどは、自分も含めた大人たちが大きな顔をして言えることではない。 新しく有権者となる人たちは240万人で、全有権者のわずか2%とか。しかし新鮮な有権者が閉塞感という厚い壁を張り巡らしている社会に、すがすがしい風穴を開けてほしいと心から願う。我が家の孫息子殿も、来年の参院選にはいそいそと投票所に行くだろう。彼ひとり見ても、日ごろから私以上に社会に敏感で、時代に合った判断をする。きっと責任を持って一票を投ずるだろう。私は新有権者たちに期待する。 2015.06.18 Thursday 18:05
日々の風から 荻野吟子 その4 国立国会図書館へ――吟子さんに会いたくて――
日々の風から 荻野吟子 その4 国立国会図書館へ――吟子さんに会いたくて―― 日本女医第一号の荻野吟子を追いかけています。墨田区教育委員会が最後の医院開業地であり同時に終焉の地に建てた案内板には吟子の肖像画が載っていました。年代を感じさせるモノクロですが、しげしげと見つめているうちに本物が見たくなりました。国立図書館所蔵と説明がありましたので、それへ行けばみられるのだと、思いが走って行きました。一冊の本から墨田区向島へ、今度は千代田区です。さして遠方ではありません。 国立国会図書館とは、名は聞いてはいましたが恥ずかしながらこの歳になるまで行ったことはないのです。たぶん、墨田区の図書館のように簡単には行かないだろうと思いました。ふと、1か月ほど前に友人からそこで珍しい講演会があるから行きませんかと誘われたことを思い出しました。先約があって断念したのですが、友人はすでにカードを持っていて、おりふしに通っているのです。早速友人に連絡し、同伴してもらうことになりました。 JR市ヶ谷駅からバスで国会図書館前下車ですが、近づくと国会議事堂が見えてきて、自民党本部、参議院議員会館、衆議院議員会館などが目白押しに車窓に入り、ああ、まさに日本の政治の中心地に来たのだと、なぜか緊張が走りました。デモ隊の旗が見え、普通の街よりずっと多くの警察官の姿が見えました。 図書館内はいたって静かでゆったりと時間が流れていました。別世界を感じました。初めてですからまずは登録してカードを入手することが先決です。友人が細かくアドバイスしてくださったのでスムーズに手続きが進み、やがて名刺サイズの水色のカードを手にしました。 本館に入るにつき、所持品はすべてロッカーに預けるのです。貴重品だけは備え付けの透明のビニール袋に入れて持つことができます。区立図書館とは大違いでした。次にいただいたばかりのカードでようやく入館できました。 さて、本命である荻野吟子の肖像画ですが、受付で聞き、また、備え付けコンピューターで検索もしましたが、本物を見られるわけではありませんでした。私は単純に、額に入ってどこかの部屋に陳列してあるのかと思っていましたが、ここは展覧会場ではなかったのです。すべてデジタル化されていて、コンピューターの画面に映し出すだけ、家からでも見みられるのでした。ああ、そういうものなのだと、納得したことです。しかし国会図書館所蔵とありますから、ここのどこかに本物があるのでしょう。そこまでは追及しませんでした。 本を借りるときの練習にと、吟子さんの出ている一冊を借りる手続きをしました。友人も用意した書物を借りるようでした。カウンターに届け出て、20分ほどまって、現物を手渡されました。それを携えて閲覧室に移動、広い部屋に三々五々座している読書人たちの中に加わって、しばらく読みふけりました。本は館内閲覧のみです。コピーはできるようです。 ちなみに、帰宅してさっそくPCから、国会図書館のHPに入り、電子展示室の「近代日本人の肖像」から吟子さんに対面しました。そこには墨田区の案内板で出会った、涼やかな目元でひたと一点を見つめる吟子さんがいました。吟子さんが見つめているものの実態は何か、それを知りたいと、いよいよ思いが強くなりました。 肖像画の下には次に様な説明がありました。 解説 日本における最初の女性医師。16歳で結婚するが病を得て離婚。東京女子師範学校を経て、私立医学校好寿院に学ぶ。明治18年(1885)医術開業試験に合格、荻野医院を開業、女性として初めて医籍に登録された。キリスト教婦人矯風会に参加、23年牧師志方之善と結婚し、27年北海道に渡り開業。夫の死後帰京し、41年東京でも医院を開いた。 その後、友人と館内のレストランで昼食し、時を忘れて話し込んでしまいました。大きなガラス窓からは大樹の深い緑が揺れ、テーブルの周辺も人はまばら、落ち着いた雰囲気にひきこまれました。 さて、最後ですが、書かずにはいられないひとことがあります。 国会図書館の設立理念は『真理は我らを自由にする』です。これは聖書・ヨハネの福音書8章32節のイエス・キリストのことばです。わくわくしました。これについて次回に書きたいと思います。 2015.06.13 Saturday 11:29
日々の風から 日本で最初の女医・女性解放の先覚者 荻野吟子 その3
日々の風から 日本で最初の女医・女性解放の先覚者荻野吟子 その3 また前回に続いて荻野吟子女史を追ってみます。お隣の県埼玉が県の三大偉人として誇る吟子女史が、我が墨田区を終焉の地に選んだとはすでに記しました。埼玉県には生誕の地に記念館が建っているそうです。私の吟子熱が冷めないうちに訪れてみたいと思ったりしていますが、近いとはいえ熊谷はやはり遠隔地、まして、利根川を真近にする俵瀬までは交通の便もよくはなく、一冒険する覚悟でないといけません。いまのところネット上でのバーチャル訪問でいっときの慰めとしています。その案内に以下のような文がありました。 荻野吟子は、嘉永4年(1851)俵瀬村(現在の熊谷市妻沼)に生まれました。小さい頃から勉学に意欲的で、両宜塾等で学問の基礎を学びました。18歳のとき、熊谷の名主に嫁ぎましたが、婦人病のために離婚。診療の屈辱をバネに女医志望を決意した吟子は、周囲の反対を押し切って上京。刻苦勉励し、明治18年政府公許の女医第一号となり、東京本郷に「産婦人科荻野医院」を開業しました。 翌年、キリスト教に入信し、女性解放の先覚者として活躍。明治22年には明治女学校教師となり、後に校医となりました。明治23年、志方之善と再婚、吟子40歳の時でした。明治29年、キリスト教による理想郷実現のため北海道に渡り、瀬棚町で医院を開業、開拓民の医療に従事しました。瀬棚町の開業した場所には、顕彰碑が建っています。また、北海道今金町には、吟子と志方之善が住んでいた住居跡も残され、貴重な資料となっています。 墨田区の案内板と比べてみると違いがあって考えさせられました。特に墨田区の「晩年は不遇でした――」のくだりに、私は不服を感じましたが、埼玉県のほうにはそうした私的解釈めいたものはなく、全体から偉人に対する尊敬の念が漂ってきてよい感じを受けました。 2015.06.08 Monday 19:12
日々の風から 日本女医第一号 荻野吟子 その2
日々の風から 日本女医第一号 荻野吟子 その2 前回のブログに、日本初の女医になった荻野吟子のことを書きましたが、その続きです。 吟子は晩年に我が墨田区の地を選び、何度目かの医院を開業し、まもなく62歳で召されました。召されたというキリスト教の言葉を使いましたが、吟子は開業の翌年、明治19年に本郷教会で海老名弾正牧師から洗礼を受け、熱心なクリスチャンとなり、その後、矢島楫子らの婦人矯風会に参加して女性運動にも大きな働きをします。 先日、吟子終焉の地に案内板を見に行ってきましたが、その看板の一文を書きとりましたのでご紹介します。 『荻野医院跡――日本女医第一号 荻野吟子開業の地―― 所在地 墨田区向島一丁目八番 荻野吟子は、嘉永四年(1851年)三月三日に武蔵国幡羅郡俵瀬村((現在の熊谷市俵瀬)の名主荻野綾三郎の五女に生まれました。幼い頃より向学心が強く、近所の寺子屋で手習いを受けた後は寺門静軒の弟子松本万年に師事して学問を身につけました。 医師を志したのは一回目の結婚後のことで、自身の病気療養中に女医の必要性を痛感したのがきっかけでした。吟子は以前夫の家に仮寓していた女性画家奥原晴湖に相談して決意を固め、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)卒業後の明治十二年(1879年)、私立医学校「好寿院」に入学しました。そして、女性であることを理由に二度も試験願書を却下されながらも決して諦めず、同十八年三月、ついに医術開業試験に合格したのです。時に吟子三十五歳。早くもその年の五月には現在の文京区湯島に産婦人科医院を開業して評判を高めました。 しかし、開業もまもなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す十四歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治二七年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めてこの地に開業したのは志方と死別してまもない明治四一年十二月、五十八歳の時でした。 晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました。大正二年(1913年六月二三日、六二歳で亡くなりました。平成二四年三月 墨田区教育委員会)』 この説明版と渡辺淳一氏の小説『花埋み』(荻野吟子伝)を読みながら、私なりの吟子像が浮かび上がってきています。命懸けの難関を突破して日本初の女医になり、開業して思う存分腕を振るうことができる、いわば人生の絶頂期にありながら、どうしてキリスト教に惹かれたのか、きびしいキリスト者の道を選んだのか、さらに単なる一信徒では収まらず、これも困難極まる女性解放運動にのめり込んで行ったのか、無謀ともいえる若い信徒と結婚し、彼のビジョンに従って、医院を捨てて北海道の開拓地に行ったのか、吟子をそうした冒険に進ませたのはなんであったのか、吟子の内に燃え続ける火は何なのか、そんなことを考えました。隅田川の片隅を最後の地とした理由は何か、それも知りたいと思います。 案内板が、『開業もまもなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです』、『晩年は不遇でした――』と語るのに不服を感じます。安穏とは何か、不遇と決めつける基準はなにかと言いたいのです。こうした偉人を、単なる世の秤の上に乗せて、幸福な人、不幸な人と色分けするのはおかしいではありませんか。私は怒りを覚えますが、吟子女史は静かに超越のほほえみを浮かべて、視線を逸らせるに違いありません。 2015.06.03 Wednesday 15:14
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