人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 日本最初の女医 荻野吟子のこと
日々の風から 日本最初の女医 荻野吟子のこと
 
 
 

荻野吟子の終焉の地が墨田区であったとは、ずっと以前に区の広報の片隅で見たことがあった。女性の偉人には心惹かれるので、いつか調べてみたいと思った、その記憶もあるのに長く怠慢の歳月が続いた。
 
突然のように友人から『花埋み』を手渡されて、戸惑った。渡辺淳一氏は私の読書エリヤの外の方である。今後も積極的な読者になろうとは露思わない。しかし友人はこれはいわゆる渡辺氏の小説ではなく、史実に沿った女性の人物伝で、たぶんあなたならきっと感銘を受けるだろうからぜひお勧めすると言われた。友人との関係からもにべもなく断るのは失礼と思い、じゃあ、今、のめりこんでいる2冊を読み終えてからねと、念を押して受け取った。
 
しぶしぶ裏と表を見ているうちに荻野吟子の文字が見えた。あの、もしかして、苦労の末に日本初の女医さんになった、墨田区にゆかりのあの人だ、たしか中年ごろからキリスト教に出会い、クリスチャンになったあの人に違いないと、長い眠りから覚めたような新鮮な思いになった。
 
ついでながら、のめりこんでいる2冊とは、ネット読書会「カラマの会」の今年の課題本で、バルザックの「従姉ベット」である。バルザックの世界に引きずり込まれて、クタクタになっても離れられない巨匠の天才的筆力の虜になっていた。彼の本は、斜め読み、飛ばし読みをゆるしてくれない。少しづつ読むこともできない。そうこうしているうちに、近年にない目の疲れを覚えた。眼科へ行こうかと思うほどだった。それだけでなく、首も肩もこりこりになり、後ろはおろか左、右へも自由に首が動かせなくなった。醜態と言おうか、老体というべきか、タダ座して、たかが本を読むだけの、いちばんらくなわざでこの始末である。悲しくなった。荻野吟子からスタートしたはずが、途中に愚痴と泣きが入ってしまいました。
 
さて、『従姉ベット』は上巻で一時停止して『花埋み』に取り掛かった。バルザック氏の一ページは、こちらの10ページほどに匹敵する。もともと日本語であることも読み易さの一因だと思う。地名、人名がカタカナでないのも読書を楽にしてくれるとつくづく思った。かくして、『花埋み』はあっという間に読了した。しかしこの本は私に大きな宿題を残した。荻野吟子女史の史実をできるだけ、自分で調査し、実踏したくなったのである。吟子女史がクリスチャンになる辺りからの後半生は、同じ信仰者として、また同じ女性としての立場から考えてみたくなった。
 
昨年と一昨年は、やはり墨田区に係わりの深い「幸田文」に魅せられて、図書館にある全集24巻を読破した。読書中ずっと幸田文ワールドに浸りきってこのうえなく楽しかった。締めくくりになにか一文ものしたかったが、通り過ぎてしまった。≪し残し感≫は今もある。
 
さて、荻野吟子女史であるが、終焉の地に最近になって説明版が建てられた事を知った。地図を見るとすぐに行けそうである。そこで、カメラを持って出かけた。小さくてもいい、一度でもいい、行動を起こすべきだと自らを励ましたのである。スカイツリーを目の前にした、隅田川の堀に架かる源森橋の北詰に小さな説明版があった。しばらく佇んで見入った。意外にひっそりとした通りだった。
 
 
 
 
 
 
 
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日々の風から 友の詩文から
日々の風から 友の詩文から
 


85歳になる親しき信仰の友から小さな冊を手渡された。折々にパソコンで清書した短文を綴っては簡単にホチキスで止めた30ページほどの詩文集である。小さな集いでお顔が会うと、必ずにこやかに寄って来られて差し出すのである。寡黙で目立つような言動はないが、年齢にふさわしい風格のにじみ出る存在である。しかし、内側には30年ほど前にお会いしたとき変わらない火が燃えている。消えない火である。イエス様への愛と書斎仕事、つまり読書と執筆への熱い炎である。

85歳と言えば長寿には驚かない現代でもれっきとした高齢者ではないか。私は、身近な人だけによりいっそう友の生き方、歩み方に敬服している。
 

いただいた冊子からまるで独り言のような友の声が聞こえてきた。
 
【病気】
 
神さま
インフルエンザにかかって
何日か
不自由な日々を
送りました
 
なにしろ
85歳です
寝込んでも不思議ではありません
でも
毎日
起きて
いつもの通りの生活を
続けました。
こんな思いをするのは
何年ぶりでしょうか
妻が召天してから初めてです
 
だから
不安なこころもありました
このまま
召されるのかな と
でも
まだまだ
やりたいことが
残っています
ここで中止するわけにはいきません
だから
イエスの手を
いやしを
お願いしました
 
二週間たって
いつもの生活に戻った思いがしました
 
さあ
あなたにやくそくしたことを
しなければなりません
うそはつけません
 
いつものように
いつもの学びを
いつもの想いを
展開しなければなりません
やりたいことを
しなければなりません
 
わたしの
行く道を
あなたの光で
照らしてください
ただ
信じる道を
歩かせてください
ゆっくりした歩きですが
 
 
【おしゃべり】
 
神さま
わたしは
どのくらい
おしゃべりしているでしょうか
 
わたしは
7時間 寝ています
だから
起きている時間は
17時間です
 
そのうちには
食事や
家事や
勉強や
試作や
遊びの
時間があります
 
でも
一緒にいる息子と話すのは
一日
そうですね
一時間?
いいえ
30分
そんなにありません
 
15分
そんなものでしょうか
 
短すぎますが
でも
あんまり
話すことはありません
 
ましてや
他の人と話すことは
儀礼的なことが多いだけです
 
だから
 
夕方
大きな声で
下手な歌を
20分も
歌っています
 
誰にも
遠慮せずに
大きな声を
出して
歌っているのです
 
ほんとうに
おかしなことです
 
でも
 
考えてみたら
一番長く
お話をしている人がいました
 
あなたです
あなたには
なんでも話せます
人には言えないことも
 
何時間でも
 
だから
 
わたしは
おしゃべりかもしれません
 
こんな詩文が6つほど綴じられていた。85歳とは、私にとって3000m級の剣峰を2つも3つも越えねばならない地点である。そこへ到達できるかなどは考えることではないが、可能であっても友のような日々を送れるか、はなはだ心もとない。しかし、身近な手本に勇気をいただき感謝して、友の足跡をたどって行こうと思う。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
風の仲間たち comments(0) -
心の風から 心に移りゆくよしなし事を
 心の風から 心に移りゆくよしなし事を

地球上に、我が日本のあちらこちらに、自分の暮らす小さなエリヤに、嵐のようなことから、ひそやかに降る細い雨の様なことがらや、虫についばままれて穴の開いたバラの葉に至るまで、手に余ること、手に負えること、大小さまざまな事件が次から次へと起きて、心に留めて、心を注ぎ、じっくり考える暇もないうちに流れ流れて通り過ぎていってしまう。
 
一杯のお茶を手にし、小さなスイーツを楽しみながら、現代版の「硯に向かいて」に当たるだろうか、PCに向かって「心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば〜〜〜」と、兼好法師よろしくやってみる。その結果はたしかに「あやしうこそものぐるほしけれ」である。昨今、すべてがしらじらしい。
 
出来事を見聞きしてもひところのように激しく憤慨したり、あるいは歓喜したり、突き詰めて考えたり結論を出したり、自分なりの意志表示、意思決定に至らない。これこそまさに老化現象なのだろう。これを老いるというのか。しかも情けないとも思わず、わりに悠々としている。そんな自分を自嘲しながらも、一方ではこれでいいのだと、甘やかす自分がいる。
 
最近働いている心理は、今はこうだけど、もう少し時間をかけてみよう、もう少し辛抱してみよう、時は流れ進んでいるのだから、このままで終わるわけがない、このまま固定するわけがないということである。それを私は神さまにお任せする、ゆだねる、神様の時を待ってみると位置付けている。物事が私の願っている方向に進むのかどうか、それこそ、神様のお心ひとつだと、できるだけ自分のカラーを抑えて、白紙で待ち望むことが出来ればと願っている。
 
具体的な事例を示さないままのこんな文章は、人様のお目に曝すのは申し訳ないし失礼かもしれない。しかし、「おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ〜〜〜」
これも兼好さんに刺激されつつなした筆のすさびといえよう。ご容赦を!

 
 
心の風から comments(0) -
風の仲間たち カレブの様な親友
風の仲間たち カレブの様な親友
 
昨日の日曜日は、田植えがすんで五月の陽光に水面光る栃木路を、友人の教会の創立10周年記念礼拝に駆けつけました。友人は聖書学院同窓の兄弟(今は牧師先生)で、すでに後期高齢者の年齢に達しましたが、リタイア―後、聖書の学び、その後、開拓伝道に飛び込みました。地域の人々のために身を粉にして働き、私財を投じて教会堂も建て、主の日の礼拝を続けて10年が過ぎました。
 
現在も10年間前と少しも変わらない情熱と健康を神様から賜って、日々東奔西走しておられます。85歳のカレブがヨシュアの前に来て「私は45前と同じように今も壮健です」と言うのを思い出しました。10周年の喜びの報をいただいたとき即座に、何をおいても「行ってこの大いなる光景を見て来ようではないか」と迫られたのです。H牧師とは個人的もいくつものエピソードがあって私には楽しい親しい友人です。
 
記念礼拝には、会堂にあふれる人々が参列していました。ふだんはいつもの教会員と簡素な礼拝を捧げているのですが、この日ばかりはゆかりの方々が遠路とを問わず来ておられました。説教者はH牧師の苦難の時代に支え続けた恩師と呼ぶO牧師夫妻が関西から招かれていました。
 
H牧師のお働きをこの十数年垣間見てきて、トータルすると、弱っている人、危機にある人、病んでいる人、飢えている人々の救済と救霊に的が絞られていると感じています。たった一人の人のために全力投球してきたのです。集まったひとりひとりがH師の実践される愛によってイエス様に結ばれました。「私はこの時に助けられた」、「あの時に飛んできてくださった」との証しが退きも切らず語られました。私はあらためて深く感動しました。
 
イエス・キリストの伝道がそうであったと、思い出しました。
『それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた』(マタイ9章27節5節)
 
『あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。……この最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです』(マタイ25章36〜40節)
 
イエス様がほんとうに喜ばれることは何か、私たちにさせたいと願っておられることは何か、伝道とは何かを深く考えさせられ、そのひとかけらでも真似をしたいと、自らを正しました。
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世相の風から GW最高のニュース
世相の風から GW最高のニュース

王室びいきでも皇室ファンでもないが、赤ちゃんの誕生はうれしい。こんなうれしいことはない。生まれたてのプリンセス「シャーロット エリザベス ダイアナ」のあのお顔はなんともうれしい。一目見て、エリザベス女王によく似ておられると感じた。子どもの顔はどんどん変わっていくから、そのうちご両親の顔にも似てくるし、祖母ダイアナさんの面影もみえてくるかもしれない。
 
出産して10時間後に退院、しかも簡単な籠に入れて人前に出てくるとは、理解できないほどの驚きである。その籠を王子が車の後部座席にひょいと乗せたのも驚きである。もちろん中ではどなたかがしっかりと受け止めているのだろうけれど。世界のイギリス王室の方であるのに、何と自然体で生活していることか。
 
しかもエリザベス女王自らが、これもひょいと孫夫妻の住まいを訪れて、ひ孫ちゃんとご対面したとは、これも驚きである。女王は、ひ孫の面差しにご自分の幾分かを発見してほほえんだのではないだろうか。ついでだが89歳の女王の若々しさにはため息が出る。
 
長い間に積み重ねられてきた文化の違いなのだろうから良し悪しを言うことではないが、一人の人間としての動かしてはならない大事な部分がしっかりと確立されているのを見た気がする。一朝一夕のことではない。その時の人の頑張りでも考え方でもないかもしれない。
慣習なのかもしれない。それにしては、異文化で満ちたアジアの片隅から眺めるだけでしかないが、好ましく望ましいと思ってしまう。いったい基本的人権とはなんだろう。
 
 
 

 
 
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日々の風から GW・それぞれの過ごし方
日々の風から GW・それぞれの過ごし方

 






花の季節、鳥の季節、緑の季節、風の季節、光の季節と、自然界のお得意の場面がいくらでも並ぶ5月がやってきました。もっとも自然界の営みには得手不得手はないでしょうが、自分勝手な人間の側から見ると、受け入れやすい部分だけを喜ぶ傾向があります。雨も、風も、時に台風も必要だと聞きました。しかし、大地震はどうあっても困ります。
 
世は鳴り物入りでGWに突入しました。夏休暇と年末年始と合わせてこの3つが、日本流の「民族大移動」といえるでしょうか。一年の巨大なアクセントです。厳しく果てしない日常の流れをこの3つがひとときストップさせてくれるのでしょう。この日を目指して、この日に合わせて、さまざまな計画が立てられ、ある人は故郷へ、ある家庭は旅の空へと羽ばたいていくのでしょう。昨日までの疲れを癒し、明日への活力を得る意義深い時になりますようにと願います。
 
私はじっと在宅で、あれこれ思っているだけのGWです。毎年そうしてきたように思います。
ゆるされる小さな旅はふつうの時期のウイークデイにそっと楽しみます。こんな時に、老人がよろよろと出ていくことはありません。活動期の現役の方々に譲るに限ります。それぞれに出番があるのです。
 
365日、だれに拘束されるわけでもなく、自分の意志一つで自由に使える「時間の大富豪」なのですから、焦ることもいらだつこともありません。かつては恐ろしかった「時間泥棒」も、今や相手が違うとばかり近寄ってきません。見放されたのかもしれません。
 
しかし私自身の内側には小賢しい時間泥棒が住んでいるようです。この小動物はせっかくいただいた時間という富を浪費させようと企んでいます。気をつけねばなりません。神さまのみ前に祈り聴いて、今の私にできる有効な事柄を教えていただきたいと思います。
 
今は新緑に衣替えした近所の公園を朝な夕なに足繁く通います。ごく小さなエリヤですから大きく目を開けてぐるっと周囲を見廻せば、否応なく家々の背中ばかりです。しかし、人の目は便利なのもです。目を細めて視界を狭くすると、妨害物は見えなくなり、森林の中にいるような気にさえなるのです。緑風を感じ、ヒヨドリの声も一段と陽気に聞こえます。

 


写真は、バスで3つほど先の向島「百花園」のものです。開園と同時に入ったせいかほとんど人影がなく、いっとき、200年の歴史と1万平方メートルの小庭園のあるじになりました。
 
 
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