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2023.08.01 Tuesday
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日々の風から すでに初夏
日々の風から すでに初夏
長い間眠っていたのだろうか。気が付くとあたりの情景が激変している。強い日差し、快い南風、つい先ごろまで裸木であったイチョウやメタセコイヤやケヤキなどが、天を衝く枝の先々まで青葉若葉をまとって喜々としている。若返っている。毎日しっかり五体、五感、第六感までも働かせて生きているつもりだが、このところの季節のスピードには自覚がおいつかないようだ。自然界のエネルギーにたじたじとするばかりである。 今年も、生かされて桜を楽しむことができたと喜んでいた先から、もう夏の初め、初夏に入っているのだ。処々にツツジが咲きだし、藤の花房が枝垂れている。どんな大画面も及ばない一大ドラマを居ながらにして満喫できることはなんと幸いなことだろう。つくづくと私たちの国に与えられた春夏秋冬の周期に感謝するばかりだ。 このところ、施設暮らしをしている教会の友を訪問している。3年前に近所の新設のホームに奇跡的に入所した愛すべきK姉が、教会を休みがちになっている。もちろん入所当初から送迎をしているが、日曜の朝に、迎えを受け持ってくださっている兄姉が行っても、床から起き上がれないとのこと。理由は腰の痛みだそうだ。加齢による背骨の変形とか。90歳が目の先に来ているのだから仕方のないことだとはいうものの、皆の心配は尽きない。 午後に、訪問した。ところがいたってお元気である。ラウンジでくつろいでおられた。顔を見たとたんに大きく手を振って立ち上がり、入り口まで迎えてくださった。職員さんのお話では、朝が一番つらいようで、しばらくするといつもと変わらなく動きだし、食事も完食とのことで安心した。手を取り合ってお祈りしてお別れしたが、思い出すのだが、3年前とは違ってかなり背中が丸くなり背丈も縮み、口調にも往年の歯切れの良さはない。目の光が薄くなっている。忍び寄る老いを恨めしく思ったことだが、これも神様が人の一生に定めた恵みの一つなのだろう。 恵みと言えば、K姉の笑顔は変わらない。かつてともに教会学校の子どもたちに語りかけ、さんびし、祈った時と全く変わらない。痛いところがあっても仕方がないわよ、こんなに年取ったんだもんと淡々と受け入れ、納得している。いいなあと思う。K姉の心の中にはすでに天の御国がある、イエス様といっしょに生きているからだと実感する。今回も見舞ったはずのこちらが励まされ満たされたのであった。 2015.04.27 Monday 14:30
日々の風から 桜花を追いかけて
日々の風から 桜花を追いかけて
山桜が満開だから観に来ませんかとうれしい誘いをいただいたので、渡りに船とばかりに、船ならぬ「あずさ」号に飛び乗って山梨の知人宅を訪問しました。さすが山梨です、車窓を飾るのは桜もさりながら濃いピンクの桃の花がひときわ鮮やかです。遠く山の肌が明るく柔らかなのは、吹き出した木々の新芽や伸びはじめた若葉や山桜やこぶしやなどが織り出すハーモニーでしょう。 列車から知人の車に乗り換えて里を走れば、いたるところに桜の大樹が大枝を張り伸ばして空を覆うほどの花をつけて咲き誇っています。都会の桜よりのびのびと咲いているように思えたのは、私の心が広がったせいでしょうか。知人宅の庭もカラフルです。まだ年若い枝垂れ桜はほぼ終わりかけていましたが、残りの花は可憐そのものでした。 八ヶ岳も、南アルプスも、残雪がくっきりと白い帯を作って黒い山肌にアクセントをつけています。雪を抱く山は勇壮です。圧倒されるような強さと、惹きこまれるような美であふれています。さすがに清里は寒くて、長く外にはいられませんでした。名物のソフトクリームにも手は出ませんでした。今回の旅のヒットは鶯の音でした。姿をみつけることはできませんでしたが、あの鳴き声は聞き飽きることがありません。 思えば、この春は二つの地域の桜を楽しむことが出来ました。桜の名所を追いかける話は聞いたことがありましたが、そのまねごとをしたようで、何とも贅沢なことだと、我が主に心から感謝しました。 2015.04.19 Sunday 22:19
日々の風から 花びら道をゆく二人
日々の風から 花びら道をゆく二人
冷たい雨や無常風に曝されながらも、桜花は今年も精一杯の美を披露して人々の心を満たし、使命を全うして散っていきました。種類によっては今も散り続けています。我が公園の地面はうっすらと雪が積もったように花びらに覆われて、贅沢な花びら道が出来ました。木々を見上げず下を見て歩いた方が楽しいです。わざわざ花びら道を歩きます。今年もこれですべての桜観劇は終了です。惜しくてなりません。来年もまた楽しませていただけるといいのですが、100%の保証も確信もありません。だから、だから、惜しいのです。 ふと見ると、その花びら道を、教会の老兄たち、S兄とF兄が腰を曲げ、足を引きずりながら歩いているのです。S兄は85歳、F兄は75歳、ほんとの兄弟のようです。もっとも主にある関係ですから、肉親より密なる間柄かもしれません。何とも言えない穏やかなほほえましい雰囲気が伝わってきます。私は遠くから眺めるだけにしました。 二人の老兄たちの共通項は、近年、相次いで最愛の夫人を天に送たことです。思い出しますに、夫人たちはそろってガンの転移で、長い闘病生活を送られました。その間の、兄たちのいのちがけの看病を目の当たりにしてきました。夫人たちが召されたあと、残された兄たちがどうなってしまうのか、たいへん心配し、出来るだけのケアーと祈りをしてきました。85歳の兄は子どももなくその後はずっとひとり暮らし、しかも今は透析を受けています。75歳のF兄も一人暮らしです。一人息子さんはご家族で外国暮らしです。しかし、ご健康で、昨今は主にあって喪失の痛みからを乗り越え、積極的に老いた男性たちの友になって、張り合いのある生き生きとした日々を過ごしています。 85歳のS兄が、心臓の検査入院をすることになりました。透析もあるので、手術になった場合リスクも大きいらしいのです。信仰があるとはいえ、その不安は計り知れないはずです。 幸い、お二人のお住まいは同じ区域です。F兄はS兄に声を掛けて近くのレストランで食事をしたり、お茶をしていっしょの時を過ごしています。 F兄は時々メールをくださるのですが、こう書いてきました。 『祝福と言うのはこういうことであるとつくずく思わされているところです。たぶんその中身は「み国の相続者」、「恵み」、「与えられた使命を全うすること」です。Sさんに会い、苦しみを分かち合い、共に歩むなかで、真の神さまの御いつくしみに出会える喜びに満たされます。主がいつか来られる日まで、ひたすら祈り続けられる私たちであるように語り合っています。Sさんのために祈ってください』 私は胸が熱くなり、またうれしくて、涙が滲みました。『苦しみを分かち合い―――』が気になりましたが、たぶん、奥様を亡くされた痛み、悲しみを指すのでしょう。それは経験したことのない者にはとうてい分らないことです。真に分かち合うとは、同じ経験をした者で真に信頼し合える者同士だけに通ずる世界ではないかと思いました。老いた男性たちが、手を繋ぎ肩を組み合っているような姿には心の豊かさ美しさがあふれていました。ふと、老人たちではなく少年たちのようにも思えました。そこには私などが入り込む余地はありません。二人の兄たちの上に天国の祝福があふれるようにと祈るだけでした。 2015.04.12 Sunday 17:48
日々の風から 4月の雪
日々の風から 4月の雪
東京でも雪が降ったと報じられた今朝、私のところでは冷たい雨だけでしたが、驚くような寒さです。花冷えどころではありません。ところが5年前にもこんなことがあったとか。いそいでメモを繰ってみましたが、書き落としたのかありませんでした。しかし、自然界の出来事は計り知れません。どうすることもできません。現れた現象に対処するだけです。さしずめ、すでに整理したセーターやタイツをまた取り出すことになりました。暖かい物が欲しくなり、今夜は久しぶりにシチューでも作ろうかしらと考えたりしています。 この寒さの中を、天皇皇后両陛下がパラオへ公式訪問の途につかれました。いきさつや深い理由はわかりませんが、80歳を過ぎた方々が、気骨の折れる公務を続けられることに敬服します。特に、激戦地や災害地への訪問は、公人にとって大切なお働きだと思います。政治は世界情勢によって時に非情に傾き、危険なにおいも感じますが、政治家だって、大いに訪問してもらいたいです。ほんとうに平和を愛し、平和のために働く心を表わしてほしいと思います。 公人でもなく、何をしても大きな影響を与えることなどできない一庶民でも、小さな愛のわざはできるものです。私の教会の一人の兄は、定年後、時間のゆとりができたので、礼拝後には、体調が悪くて欠席した人をよく訪ねていきます。すると、その家の老いたお母さんがひとしきり元気におしゃべりするそうです。お見舞いの思わぬ付録ですが、こうした小さな愛のわざがどんなに大切かを学びます。私も心してそうしていきたいと願うことです。 2015.04.08 Wednesday 17:22
日々の風から 早くも花吹雪
日々の風から 早くも花吹雪 日本全国さくらさくらの話題一色です。のんきな国だと思われても仕方がないでしょう。しかし、です。年に一度待ちに待った桜をめでないで何の春でしょうか。そう言いつつも、自分ながらあきれるほど純日本人、浮かれポンチだと思います。ところが昨今は日本の桜を観るために外国からも多くの人が訪れるのとか。桜は日本だけのものではない、どこにでもある平凡な樹木だと思うのですが、何が魅力なのでしょうか。確かに、日本には桜を楽しむための多くの仕掛けがあるのでしょう。その雰囲気に惹きつけられるのでしょうか。 しかし何が一体日本中を桜狂いにするのでしょう。私などは、花の下で宴を繰り広げることはありません。残念?ながらそうした楽しみ方のチャンスはありません。ただただ、咲いた桜を眺めるだけです。それが無情にうれしく楽しいのです。 昨日は、親友の姉妹たちと三人で六義園の枝垂れ桜を目指しました。ところが、すでに遅し。昨年よりもむごかったです。まったくお花はありませんでした。昨年は一日早かっただけですが、多少残っていました。今年は開花が早かったのです。場内アナウンスは、来年は見頃の頃にお出かけくださいと叫んでいました。しかし園内は昨年にも増して多くの人々が散策しており、すでに新緑をまとった木々に出会うことが出来ました。いつもの、と言っても年に一度ですが、イタリアンのお店でランチ。おしゃべりには桜に負けない花が咲きました。 「花見のはしご」をしようということになり、白山通り、春日通り、迷って東大赤門前を通り、東京ドームを廻り、外堀通りを走りました。神田川沿いの桜並木が見事でした。四ツ谷の交差点で東に向かい、半蔵門から内堀通り、千鳥ヶ淵の桜を横目にみて、突き当りが靖国神社、右折して靖国通りを走り、北の丸公園の桜を右に見て九段下、一路両国橋を渡って錦糸町から亀戸、明治通りに入って、福神橋からスカイツリーを左に見て我が家まで、送っていただきました。一度にたくさんの桜を走りながら見たことは初めて。一か所をじっと見るのもいいですが、あちらこちらを車窓から居ながらにして眺めるのはつくづく贅沢なことだと、こんなチャンスをくださった神様と、運転のサービスをしてくださった姉妹に感謝しました。 さあ、明日はイースターです。 復活の主に出会い、約束されている永遠のいのちと今、生かされている恵みを感謝したいと思います。また、練習を重ねてきた賛美を、聖歌隊の一員として心から主にささげるつもりです。 (以下の桜は、数日前の我が家の近くの公園のです。六義園の新緑の写真が、パソコンに移している間に消えてしまいました。いや、誤操作で、消してしまったようです。涙、涙です) 2015.04.04 Saturday 21:56
日々の風から 4月は墓参から
日々の風から 4月は墓参から
待ちに待った桜ですが、あっという間に満開になってしまいました。こうなったら、一日でも長く咲いていてほしい、散らないで、散らないでと声を掛けつつ、近くの公園をぐるぐると見張るようにして歩いています。 今朝は、父母の墓参に出かけました。父と母は教会のお墓に葬られています。父は17年前に、母は7年前に天に帰りました。教会では毎年、墓前礼拝をおこないますが、私は、4年前から妹たちとだけで別の日に訪れています。今日も、二人の妹と3人で出かけました。ちょうどすぐそばの桜の大樹が満開でした。めったに満開には出会えず残念な思いをするので、思わず歓声をあげました。 妹たちはクリスチャンではありませんが、この数年は、2枚のプリントを手渡して、それに従って小さな墓前礼拝をすることにしています。今年は、詩篇23篇を朗読し、賛美は『アメイジンググレイス』を斉唱しました。妹たちも声高らかにとはいきませんが、歌ってくれました。そのあと、私は、今度は声高らかに祈りを捧げました。妹たちがどんな顔をしていたか知りませんが、妹たち家族のためにも主の祝福を求めて祈りました。 行きは最寄駅からタクシーを使いましたが、帰りは徒歩です。手賀沼の周辺には大変立派な遊歩道が出来ています。そこを延々とバス停まで歩くのが近年恒例になりました。曇り空で今にも雨が降り出しそうでしたが、気温は高く、歩いていると汗ばむほど。ウオーキングには最適です。 妹たちはバードウオッチャーです。背に負ったバッグからやおら双眼鏡を取り出し、私の首にもぶら下げました。私はそのほかにカメラを提げています。鳥の声がしきりに聞こえてきます。妹たちは声ですぐに鳥の名を言うのです。声のする方を見つめ、鳥を探し、それを双眼鏡で見つめます。それが、なんとも時間がかかるのです。長い長い土手を立ち止まっては鳥を探し、探してはじっと見つめ、少し歩くとまた立ち止まり――です。私も教えられるとおりに双眼鏡をのぞき、時にカメラを向け、にわか鳥女に興じてしまいました。 もう一人の妹は地方にいるので参加できませんでしたが、きょうだいそろっていつまで続くかねえと、それが最後のセリフになりました。さしずめ、いちばん年上の私の足にかかっているというわけです。大丈夫よなどとは決して言えません。私とは10歳下の妹も、何かしら老いを訴えていました。つい、愚痴っぽく湿った話になりがちでしたが、一番下の妹の娘、私には姪ですが、この7月に結婚式の日取りが決まったことが話題になり、大いに盛り上がりました。また、それぞれの孫たちの話に進むと、俄然、声が高くなり、笑い声も上がって、一年ぶりの墓参は楽しい一日になりました。 2015.04.01 Wednesday 20:46
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