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日々の風から 小石川植物園の緑陰力
日々の風から 小石川植物園の緑陰力
小石川植物園の正式名は【国立大学法人東京大学大学院理学系研究科付属植物園】と長々しいいかめしい名を冠した、植物学の教育・研究を目的とする東大の教育実習機関とのことです。長く東京人でありながら、名前ばかりを頭に刻むだけで一度も訪れたことはなかったのです。近年東京人になった姉妹が、東京の名所をしらみ潰しに見て歩いている折から、暇人の私に声が掛かりましたので、渡りに舟とばかり、江戸っ子のプライドを脱ぎ捨てて連れて行ってもらいました。姉妹はネットから地図をプリントし、アクセスも分刻みで調べ、提供してくれます。なんと地図も読めるのです。私は地図の読めない部類ですから大助かりです。
植物園のことをパンフレットから抜き書きしてもいいのですが、それよりも、何枚か写真を撮りましたので、掲載します。すべて植物園内です。私が感動した最大のことは、ここは、人集めのために造られた公園ではなく、六義園のような純日本庭園ではなく、植物園の名の通り、研究のための樹木が自然のままに生育している姿でした。もちろん入念な手入れは行われているでしょうが、一見、自然林の中を歩いているような、静かでのびやかな雰囲気が満ち満ちていたのです。傾斜地の林に入ると、遠方までハイキングに来たような錯覚を覚えるほどでした。緑の屋根の下に入ると自然に深い呼吸がしたくなります。緑陰力です。
惜しまれたのはソメイヨシノ林があることです。来年に期待です。新緑のカエデ並木はみごとでした。秋の紅葉も見逃してはならないと今から心に刻んでいます。 歴史も興味深く、ところどころに旧跡があるのですが、またの機会にします。
世は恒例のゴールデン・ウイークに突入していますが、高齢と貧民という二重の鎖に繋がれてますから、ま、静かに、静かに、家の近辺を散歩するにとどめます。
安息は人間にとって神聖なもの ただ狂人だけが騒ぐ。
皮肉や嫌味ではないのです。 小さな書物からいきなり突きつけられたこの一句に、頭をドシンと押さえつけられた衝撃を受けました。
2014.04.29 Tuesday 10:14
日々の風から ハンカチの木の下で
日々の風から ハンカチの木の下で
小石川植物園に行ってきました。折から今年一番の上天気、もう五月晴れと呼んでもいいでしょう。みどり滴るとはよく言いますが、高い木々の上から雨のように降ってくるのです。みどりを浴びて、全身みどりまみれという幸いをいただきました。初めてまじまじとハンカチの木を眺め、白い花びら(本当は苞葉)を不思議な思いで見つめました。まずはご覧ください。
2014.04.26 Saturday 21:25
世相の風から 身元不明の認知症の人たち
世相の風から 身元不明の認知症の人たち
高齢者の認知症が急増していることはよく報じられているが、こんな記事を読んで驚くとともにいろいろ考えさせられた。
『認知症などの疑いで警察に保護された高齢者らのうち、名前が分からないために自治体が介護施設に暫定入所させるなど「緊急一時保護」の対象となった人が、2008年度からの約6年間に少なくとも546人いたことが分かった。本人が氏名や住所を話せず、引き取る人も見つからないために取られた措置で、年間の対象人数はこの間にほぼ倍増していた。大半はその後、身元が判明するが、現在も身元不明のまま仮の名前が付けられた人が少なくとも5人いることも判明した』
迷子になっても家族が捜索願を出せば、海外にでも行ってしまわない限り(これは不可能)、どんなに遠方に行ったとしても、見つかれば引き取れるはずだ。長期に施設に保護されている方は、いっしょにいた家族などが捜さないということなのだろうか。捜してもらえない人たちなのか。それともほかに違う理由があるのかもしれないが。
本人は仮の名前を付けられ、仮の名で呼ばれて施設に留まっているのだ。どう考えたらいいのだろう。もちろん当人は幸いなことに仮の名で呼ばれようと、全く違う場所にいようとわからないのだから、苦しむことも悲しむこともないのかもしれない。しかし、たとえそうであっても、1人の尊厳ある人間として、そのままでいいはずがない。人格を尊重するとはどういうことだろう。捜さない人たちに私は憤りを覚える。成熟した文化国家にあってはならないことだと思う。
認知症の人を介護するご家族の苦労は計り知れない。きれいごとでは済まされない厳しい日々がある。一瞬、一瞬がある。第三者が理屈を並べる筋のものではないだろう。認知ではなく、静かに寝たきりの介護だとて、24時間同居となれば、時にパニックに陥る経験を多少はしてきたので、認知症の介護はどれほど厳しいだろうとそのご苦労に思いを馳せることもある。しかし、行方不明になったからと、捜さないことがあってはならない。『引き取りを拒否されることもある』と、記事は続けていた。
ひとりの人が生まれたとき、親たちは幸せを願ってすてきな名前を付け、まだ赤ちゃんで、自覚がない時から、その名を呼んでいつくしんで育てた。周囲の人たちも名前を呼んでかわいがった。学校で名前を呼ばれ、恋人にも名前を呼ばれ、やがて奥さんにもその名を呼ばれ、 戸籍にも登録され、社会でもその名前のもとに義務を果たし権利を行使して、生き抜いてきた。年金もいただいているかもしれないし、健康保険証も、パスポートもその名で作成されているかもしれない。その人が、生きながらにしていなくなるのだ。かつての名前はそのままに、今や違う名をつけられ、呼ばれ、かつて活躍したところとは全く違う場所で、衣食住だけで生きるのだ。なんという悲劇、なんというミステリーだろう。
認知症は悲しい現象だが、好きこのんでなった人はいない。いつ自分がなるか、ほんとに誰も知らない。自分だけはならないと思っている人は、今や一人もいないだろう。みんな密かに、明日は我が身とかすかに思っている。しかしそれも神様だけしか知らない。その神様は『一人の人のためにご自分を捨てられた』愛の神様である。一人でも捨てられたと同然のことがあってはならない。
今、仮の名で施設に預けられている方が少なくとも5人おられるという。一日も早く、引き取り手が現れてほしい。もしかしたら残っているかすかな認知力が働いて、喜ぶことができるかもしれない。神様はまた『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』と言われた。 私は今、この方々のために祈ります。
2014.04.22 Tuesday 17:22
日々の風から 春夏秋冬すべて神様のプレゼント
日々の風から 春夏秋冬すべて神様のプレゼント
すっかり春めいて、外出するにも服装に神経を尖らせなくても済むようになった。それでも用心してショールやコートを羽織ると、家の角を曲らない前でもう脱ぎ捨てたくなる。歩いていると汗ばむ経験もたびたびである。ほんとうによい気候になった。つい先ごろまで桜、桜で華やいだ近くの公園は、葉桜の寂しさもすぐに乗り越えて、様々な木々がいっせいに芽吹き、淡く柔らかい明るい新緑姿に変わった。いのちあふれる新緑の初々しさ、すがすがしさよ!私は全身を浸したくて木の真下に入って体を反らせて真上を見上げた。
遠方の知人が、気温が上がるにつれて体調がよくなり、気分も晴れやかになった。これは一体どうしたことだろう。冬の間、気分は上がらず、いつも具合が悪く、自分は大きな病気を抱えているのではないか、あるいはうつ病になったのではないかとひそかに恐れていたが、もしかして気候のせいだったのかもしれない。来年、冬の間、体調が悪い時があっても、寒さの仕業と考えて慌てふためかないように気をつけたいと言っておられた。これも一理あると思う。神様の下さる自然現象や時という賜物を、御心に添って上手に用いたいものだ。
2014.04.17 Thursday 22:00
心の風から 春愁ではなくーーー
心の風から 春愁ではなくーーー
ところで、春愁だが、もやもやと霞というのか、薄曇りと言えばいいのか、特別にはっきりした原因がないのに、気が沈んだ。そこで、春愁かと思ったのである。私の性分からは、その対極ともいえる、春宵一刻値千金の一言や、唱歌『花』(武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲)の一句の、錦おりなす 長堤(ちょうてい)に/暮るればのぼる おぼろ月/げに一刻も 千金の/ながめを何に たとうべき/なのだが。
しかし、一口に春愁と言っても、春の気候のせいだけではなく、原因皆無ではないことがわかってきた。よくよく自分の心の奥底を覗き込んでみると、気の塞ぐことがらがいくつかあった。とりたてて懊悩苦悩するような大問題ではないのだが、気になり、引っかかっている。心配とか不安ということでもない。ようするに、思うようにならない事柄、つまり、我執であり自我なのだ。
それではとばかり、詮索好きな私はまたまた自分の心を掘ってみる。う〜〜ん、心の憂いは、あのことだ、このことだと、浮かび上がってくる。見えてくれば処理方法がわかる。今度は信仰の問題になる。神様と向かい合って、憂いの元を聞いていただく。どうしたいのかと問われれば、こうあってほしいのですと、包み隠さず幼稚を承知で思いの長をお話しする。そうしているうちに、聖霊は、きれいに整理整頓してくださる。捨てるべきもの、ゆだねるもの、祈り求めていっていいものが明らかになる。憂いの靄で霞んでいた心の空は次第に青さ増し、明るくなり、日が差しこんできた。
今宵は、一年に一度くらいしかない、一刻値千金を楽しめるでしょうか。
2014.04.12 Saturday 16:24
日々の風から 新学期スタート 私の場合
日々の風から 新学期スタート 私の場合 花冷えとか桜散らしとか春の嵐などと、桜にうかれる人間を笑うかのような自然の意地悪に悲鳴を上げながらも、束の間の桜を楽しんで、春を喜び感謝しています。今日、明日は学校と名のつくところでは新学期がスタートです。やはり、新学期は4月に限ります。もうとっくに入学とか新学期とは無関係になりましたが、それでも近年は生涯教育の花盛りです。中年以降の学び舎はいたるところで門戸を開き、中高年はそれこそ大歓迎のお客様になっています。
子育ての一区切りを待って、聖書の学び舎に飛び込んですでに20年以上が経ちます。継続の効力と喜びを味わいつつ、今年もわずかに一クラスだけに申し込みました。今日は午後から入学式です。私などはおまけのおまけですから、いきなりクラスの日に行けば済むのですが、正規の新入生たちに紛れこんで参列します。気持ちが改まり、引き締まり、覚悟もできます。わずかなこととはいえ、神様に守られ支えられなければ学び舎にかようことすらできません。
自分のこともさりながら、学院全体のために、新入生、在校生のためにも祈りが必要です。現場に立って祈ってきたいと思います。学院を支援する組織の役も担っており、その会議も予定しています。この新年度の活動はやはり祈りからスタートです。ちょっとウキウキするのも心の栄養になってくれるでしょう。
2014.04.07 Monday 11:08
日々の風から 桜に呼ばれて 満開艶麗
日々の風から 桜に呼ばれて 満開艶麗 消費税などにうじうじとしてはいられない。なるべく被害を受けないように、自分の状況に合わせて上手に付き合っていくまでだ、いやだと言っても日本から出て行くこともできない、たとえ出て行っても、そこにはそこのしきたりがある。ここで生きていくしかないではないか。開き直りもてっぺんであるが、そんなに心は騒いではいない。
讃美歌を口ずさむ。 ここも神の みくになれば よこしま暫しは ときを得とも 主のみむねは ややになりて あめつち遂には ひとつとならん
ついてながら2番の歌詞はこうである。
ここも 神のみくになれば 鳥の音 花の香 主をばたたえ あさ日 ゆう日 栄えにはえて そよ吹く風さえ 神をたかる
折から、桜満開の時、一年に一度のこの桜を見ずしてなんぞ人生や、ではないか。
前置きが少々長くて歯切れが悪いことになりましたが、今年の桜は、東京では開花から満開までわずかに4日とか。三日見ぬ間の桜かなですから、うかうかしてはいられません。というわけで、観桜に出掛けたというわけです。桜に呼ばれた感もあるのです。桜だって、一生懸命にやっと咲いたのですから、その麗しき姿を見てもらいたいのだと思います。そして、咲かせてくださる神様を賛美してほしいと、声なき声で伝道しているのだと思います。
一昨年も、昨年も、時期を逃して悔しい思いをしましたが、今年こそはと、友人がじっくりネットで研究して、今日しかないと誘ってくれました。文京区駒込の都立特別名勝六義園の、枝垂れ桜です。さぞ人でひしめいているのかと覚悟していましたが、さほどでもなく、ほっとしながら、際限なく広がって枝垂れる桜花を満喫しました。しかし、すでに、はらはらと花びらは枝を離れて舞い始めています、風もないのに。
落花艷麗という珍しい言葉を思い出しました。出会ったばかりなのですが。 幸田文全集第二十一巻にわずか400字のエッセーがあります。題して『落花艶麗』。少し抜粋します。誘われて桜見物をした時の一文です。『一本立ちの山桜。三日ほど前から花の盛りだったろうか。……無風なのだが、急斜面の下からのぼる気流があるらしく、絶える間なく花びらは舞い下りる。まさに落花の艶麗である。なんとまあ、みごとな―――と心にしみて、目にしみて、胸の奥がいたいようにうずいて、なごりとはこうあるものなのだろうかと思った。今年の桜はこの一樹だけで、ほかにはどこにも見に行かなかった。一樹でみち足りた、なごりの風趣だった』
六義園の枝垂れ桜の落花艶麗は観られませんが、この一樹で今年の観桜は大満足です。何と言っても満開の艶麗に出会ったのですから。その風趣は格別でした。
2014.04.03 Thursday 13:34
世相の風から 日本列島の一大事 消費税8%へ
世相の風から 日本列島の一大事 消費税8%へ
国の経済が大赤字だからと聞けば、心配しないではいられない。国家の営みは税金で賄われているのだから、それが不足しては機能できなくなる。みんなで協力して捻出しなければならないとは、当たり前の考え方であるが、いざ、税金アップとなると並大抵のことではない。まして、ほとんどの国民一人一人に直接に係ってくる消費税には神経が尖がる。本心はアップはいやだけど、受け入れざるを得ないと思って来た。それがとうとうはじまった。現実は厳しい。例えば子どもが消しゴム一つ買ったとしても、税金を支払わねばならないのだ。これは天下の一大事である。うかうかとしてはいられない。
駆け込み需要などと、切ない防衛策に走り回ったのもおしまいである。もっとも老人の暮らしには、買いだめの知恵も働かず、またたいして必要も感じない。いつものように暮らしていくだけである。今後、消費税アップくらいの節約は必要だとは思っているが。
今日のこの日に、わざわざ買い物に行くなんて愚かだ、今日一日くらいは何も買うまいと、そんな思いも浮かぶが、昨日は一日買い物ができなかったので、ふらっとスーパーへ行ってみた。町の人たちの動向はいかがかと、好奇心もちらついた。そういえば、人影はいつもより少なくて静かだ。ささやかな抵抗だろう。値札はいつのまにかきちんと、ほんとにみごとにきちんと、増税分がプラスされている。増税前に仕入れたのであろうが、そんなことはお構いなしに、今日この日からは3%アップである。昨日と今日のこの違いはすさまじい。
野菜や果物がお客の心をなだめるように、特売になっていた。やはり心が和む。商人の腕はみごとだ。つい、ひとつふたつ手が伸びてしまった。老人の一人所帯はままごとの様だろう。しかし、育ち盛りの子どもを抱える家庭はどんなに大変だろう。ほんとうに働く人たちの所得が増えているならまだいいけれど、その部類に入れないとしたら悲惨である。不公平ばかりが増大してはこまる。必要なところに必要な財が届けられ、国の赤字も減少して、健全な国になるようにと祈りつつ願いつつ、3%アップを消化していこうと思ったことである。 2014.04.01 Tuesday 18:03
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