人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から グリンピースとそら豆と枝豆とトウモロコシ

 

グリンピースの時期は早い。うっかりしていると食べ損なってしまう。そら豆も。しかし枝豆とトーモロコシは夏の八百屋さん(今は単独の八百屋さんなんてなくなってしまったが)の看板娘だ。好物が、らくに買えるのがうれしい。たいていどちらかを切らさずにいただいている。枝豆の出ている間は乾物の大豆とはしばらくご無沙汰する。時節がら、黒豆と小豆からもちょっと遠のいてる。

 

最近読んだ本の中からお豆の話を紹介する。幸田文『父・こんなこと』(新潮文庫)より。

父とは言わずもがな、明治の文豪幸田露伴である。

『畠には豆を蒔いた。私の蒔いたの一番やしい枝豆で、よくできた。畠の豆は大部分父が一人で食べた。豆は父の大好物で、春の豌豆から秋のーーーすがれ豆にいたるまで、毎日でも御膳につけた。糖尿病だから糖の排出がひどくなれば食事は制約を受ける。こういう時には米を全廃して三食とも豆を摂る。ただ茹でただけの大豆である』

 


露伴先生は相当な美食家であったらしい。一人娘を連れて実家に戻った文さんは、ひたすらにこの父に仕えた。空恐ろしいほど厳しい父であったようだが、文さんは父を世界で一番愛したようだ。戦争のさなかはもちろん、終戦後の食糧難時代でも、その気があれば手に入れられると叱咤され、男たちの闇市にまででかけた。文さんは命がけで父に仕えた。文さんが物書く人になったのは露伴先生の亡くなった後のことである。

 

断片的だが、文さんは女子学院を出ている。しっかりキリスト教教育された人である。それは、継母八代さんの意志だろう。洗礼も受けている。露伴と八代は、なんと植村正久の司式で、教会で結婚式を挙げている。なぜ植村正久かといえば、露伴の父親が彼から洗礼を受けている。露伴の兄弟もクリスチャンになった。露伴ひとりだけ信仰を拒否した。

 

後妻の八代さんは信仰堅固なクリスチャンだった。しかし文さんとは不仲だった。ついでに八代さんは露伴先生ともうまくいかなかった。家では激しい夫婦喧嘩が絶えなかった。幼い文さんは、幼いうちに信仰へ蓋をして敬遠したと別の本に書いている。悲しくなった。

 

豆に戻る。文さんの子ども時代の話である。

『当時二銭銅貨というのがあって、休み茶屋でお茶代にそれを一枚置くと、ちょっとお待ちなさって下さいとおかみさんが慌ててそらまめをゆで、あら塩をふりかけた青い粒を、ざる一杯にもりあげて出したものである。すぐ裏に畠をもっていたからこその、もてなしである』

 


なんとうらやましいことと、本心思う。畑から採ったそらまめをすぐその場でさやをむき、ゆでて、ざるいっぱいにもりあげてーーーこんなことが日常の風景だったのだ。なんと豊かで贅沢でしかも素朴だろう。そこに行き合わせたかった、お相伴にあずかりたかった、いや、二銭銅貨を置いて、ざる一杯のあら塩をふりかけたあつあつの青い粒を自分一人で食べたかった、そんな思いに駆られた。

 

さあ、豆を買いに行きましょう。

 

 

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日々の風から 我が家脱出―工事難民

 

我が家の脇を走る通りは東京都の管轄である。この道路は地中へ電柱をうずめることになった。電柱が地下に入れば、空を渡っている電線や電話線がすべて地に潜ることになる。以前にも記事にしたことがあるが、完成すれば景観はすこぶる良くなるだろう。しかし、工事は大規模極まる。半年も前に試作掘りがはじまったが、そのときすでに街路樹の公孫樹はことごとく切り倒され、引っこ抜かれた。ツツジもなくなった。今回はいよいよ本番らしい。まずは穴掘り、穴ではなく、溝というより、道路に沿って延々と地中に通路を作るのだ。じっと見ている訳でないから、具体的にはわからないが、まずは今ある道路脇を壊すことから始まる。ショベルカーが怪物のようにのし動く。轟音とともに家がぐらぐらと揺れる。恐ろしくて家にはいられない。気持ちも落ち着かない。

 

そこで、脱出することにした。しかしである。どこに行きましょう。とっさには思いつかない。先延ばしにしてきた夏支度のいくつかの買い物を思い出したのでまずはそれを目指した。が、そんなことくらいでは数時間なんてとても過ごせない。そこで、いい場所があればと期待しながら、手提げに本を2冊、今朝の新聞、書きかけの文書などを詰め込んだ。歩けない距離ではないけれど暑いので電車に乗った。まずはそこでじっくりと売り場を見て廻った。

 

いくら売り場を探検してもそうそう長くはかからない。さて、どうしましょう。図書館へは距離がある。仕方なく、店内のカフェの隅に陣取った。わりにいい席である。ここなら本も読める。しかし、ただで座っている訳にはいかない。カフェだから、最低コーヒー一杯はいただかねばならない。そこで、今日のブレンドを啜ることになった。

 

本を読みながら、私はむしろあちらこちらに座する人たちを見てしまう。一人の人もいれば、お友達だろうか、テーブルに相対している方々が多かった。それもまだお昼前の時間だからだろうか、七十代後半くらいの女性カップルが何組もおられた。悪いけど、観察してしまった。


まさか、体を動かして見廻すわけにはいかない。視界に3組が入った。同じような方々なのに驚いた。たぶん、近くにお住まいの友人仲間なのだろう。実にゆったりと静かに談笑しているのだ。女性グループと言えば、当たりかまわず大声で話し、大声で笑う姿を思い出す。たぶん、あの騒々しい人たちは
50代、60代なのだ。そんなことを思った。

 

すぐ後ろから話し声が聞こえた。そっと振り向いてしまった。高齢の男性二人だった。何十年もお付き合いをしてきた方々のような雰囲気と話しぶりであった。いわば、おじいさんたちがカフェで時を過ごしているのである。いいなあ、いい人生を生きてるなあ、おしゃれな老後だなあと思って楽しくなった。戦前からあまり変わらない下町ゆえかとも思った。

 

さて、工事難民も、いつまでこうしてはいられない。ひと時、短編の一つに没頭したがもう一つ読む気にはなれない。やはり家に戻りたいのだ。それに、コーヒー一杯で長時間居座られてはお店も困るだろう。帰途は歩いた。工事はまだまだ続いていたが、ショベルカーの姿はなかった。破壊は終わったらしい。にわか工事難民はそれなりに良い時を与えられた。

 

 

 
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旅の風から 書きつつ歩まん 上州路

 

 

11名の書き仲間と旅に出た。一泊だから大荷物は要らない。しかし忘れてならないものがある。自分の作品である。これが重い。ペーパーにすればたかが数枚だが、10名の仲間の前に据えられた白木のまな板の上にのるからだ。どんな包丁でどのようにさばかれるかは、料理人の腕次第である。頭と尾っぽはちょん切られ、はらわたは搔き出され、骨は抜き取られ、身は八つ裂きにされるかもしれない。まさか、現実にはそんな恐ろしい光景があるわけはなく、一つひとつの作品には愛に満ちた励ましと慰めのコメントがつけられ、希望のそよ風が添えられて、おいしい一品になるのだが。

 

雨こそないが梅雨雲にかすむ妙義山をはるかに、信越線に揺られて田畑ひろがる上州路を行った。それぞれの作品をさばく場所は、とある小さな教会堂。新築なって数年、まだ木の香のにおう瀟洒で可憐な建物である。テーブルと椅子をフレキシブルに配置できる会堂が私たちの研修の場に用意された。そこで、3回にわたって、研究発表と作品合評の時を持った。


また、会堂に隣接された多目的スペースで、
2回のランチとティータイムを過ごした。夕方から、近くの温泉街にある磯部温泉すずめのお宿、磯部館に移動し、温泉と夕食、朝食を楽しんだ。夕食後は、一部屋に全員集合して、11名がそれぞれに自分の現在と明日のことを、あかし文章に賭ける思いのたけを絡めながら分かち合った。2時間があっという間に過ぎた。

 

研究発表は、今や日本中にブームを起こしている新島八重の夫新島襄の最初の説教と、ゆかりの安中教会歴代の牧師たちの話であった。ふだん、教会ではめったに触れることのない、維新前後の信仰の先輩たちの命がけの労苦に胸揺さぶられた。翌朝には、今や人気の観光スポットとなった安中教会を見学した。

 

11名の書き手たちはそろって無名無冠のアマチュアライター。10年、20年、30年と書いている。好きだから、だけが、継続力の源泉ではない。文章道を行かせるのは一言でいえば、イエス・キリストへのひたむきな信仰心である。外側から押し付けられた信仰ではない。それぞれの魂の内側からほとばしったキリストへの愛の発露である。それも、お返しの愛である。初めにキリストの愛があった。キリストに愛され赦され、今日まで生かされ続けてきた。その喜びと楽しさに書きごころが刺激されたからだ。このキリストを伝えたいためなのだ。

 

心は熱しても技がなければ明確に文意を伝えることは難しい。そこで、絶えず研鑽に励んでいる。プロといえども困難な業に挑戦しているというわけだ。しかし、仲間がいれば苦行も楽しい。こうして一泊二日四食付の合宿は盛り上がった。帰途も、神様のあわれみで、低くなってきた梅雨空は割れずに保たれ、皆さん無事にご自宅のドアーを開けたようである。


『歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ』の讃美歌をもじって
『書きつつ歩まん ハレルヤ』と口ずさんだ。

 

 

 

 

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風の仲間たち 一通のメール『日々忙しくて感謝』から

 

SMSメールが飛び込んできた。「日々、何かと忙しくしていて、感謝です」とあった。忙しくしていて感謝とはーーー。深く胸にとどまった。姉妹は忙しいことを感謝してるんだ、とあらためて思ったからだ。私などは雑用に追われていると、いつのまにかしかめっ面になり、ブーブーと不満の笛を鳴らしてしまう。


姉妹の笑顔が浮かんだ。行動派である。じっとしているのが好きではないのだ。かといって、おしゃべりする時は、どっしりと腰を据えて、いちばん多く話しする。時の経つのなどお構いなしだ。もっともおしゃべりも行動の一部かもしれないが。ご主人は足腰を痛めてほとんど在宅である。リハビリを兼ねて週2回はデイサービスに行かれる。そのお留守の間が姉妹にとっては、快適なフリータイムなのだ。もちろん、理解のあるご主人だから、在宅の日々も姉妹を決して拘束しない。姉妹は蝶のごとくひらひらと、習い事に、教会奉仕に、学びにと、花から花へと飛んでいく。「何かと忙しくて感謝」と喜々としておられる。

 

ふと、私と同年齢前後の、親しい友人10名を思い出して、聞いている限りの姉妹たちの日々を思ってみた。私のようにシングルは2名。お一人は生粋の独身貴族。お一人は5年前からメリーウイドウになられた。あとの8名のうち、ご主人と二人暮らしが5名、同居のシングルのお子様のおられる方が3名で、孫と同居の方はいない。ご主人様方は全員リターアーされて在宅である。8名の男性のうち3名はデイサービスを利用しておられる。因みに年齢は60代後半から70代なかばである。デイサービスへ行かれる3名の方々は、病歴があり、現在も少なからず闘病中である。ご家庭でのお世話が大変な姉妹もおられる。

 

10名の女性たちは、それぞれに家庭の事情を抱えながらも、特別な病気はなくすこぶるお元気である。老親と同居している方はいない。4名の姉妹が、施設の親たちを時々見舞ったり、別に暮らす親を覗いたりしている。後の6名は介護の戦いはすでに終えてしまった。

 

「忙しくしていて感謝」とのメールから、思いが四方八方へはじけてしまったが、忙しく動けることが感謝とは、今の状況を積極的に受け入れて、明るくたくましく生きている証しなのだ。この際、忙しいことの内容は問うまい。絵に描いたような楽しいことばかりでないことは確かだ。泣くことだって、怒ることだって、しょんぼりすることだってあるのだ。それも忙しさの範ちゅうであろう。

 

エネルギッシュな友の便りに励まされて、目の覚める思いがした。心の隅に立ち込めるいくつかの暗雲に気を取られてはならない。雲はとどまってばかりはいない。やがて動く。いつか消える。後に残って動かないのは澄みわたる青空である。青空は消えない。動かない。

 

 

 

 

 

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日々の風から 6月はうるおう

 


今年前半最後の月、
6月に入った。ひとこと書きたい。関東はすでに梅雨入り宣言があった。例年よりかなり早い。入ったとたん、明けるのはいつごろかしらと、それが気になる。毎年否が応でも出会い、避けて通れるものではないのに、慣れることはなく、大好きとはいいがたい。思えば気の毒な時節だ。梅雨が歓迎されない大きな理由は高い湿度だろう。湿度を表すのに不快指数のことばがあるくらいだから、高湿度はすべての人に不快を感じさせるマイナス的自然現象なのだろう。

 

このところ読み続けている幸田文によれば、6月は『うるおう』とあった。

『六月は湿める月、うるおう月、濡れそぼつ月、雨の月。六月の旅をゆけば、山も田畑もただただ青くて、つい繁茂という文字などを思いうかべる。それほど青く、盛んである。なぜそんなに青い?水が十分にまわっているからだろう。晴れても曇っても風でも、どの木どの草を見ても、充分にうるおっていることがよくわかる。まして、降りみ降らずみの細雨の日いうまでもない。青さも潤沢、水も潤沢な六月の旅が私は好きである。多少の歩きにくさや、袖裾の汚れなどはあるにしても、一年に一度の、梅雨期という大きなうるおいの中に、ずっぷりと身を漬けたいという気になるのである―――――六月はうるおう月、濡れそぼつ月、私は好きだ』

 

何と気風のいい、しゃきしゃきした文章だろう。ちっともじめじめしていない。高湿度なんて発想はなく、湿める、うるおう、ぬれそぼつ、潤沢という。6月の繁茂と潤沢を喜んでいる。文さんのころと今とで、世界が変わったわけではないはずだ。要するに、受け止め方の問題だろう。嫌われものの梅雨が気の毒なのではない。梅雨を敬遠するこちら側の気概が貧弱で、気の毒なのだ。江戸っ子姉御文さんの前には頭が上がらない。

 

またじめじめ、むしむしの高湿度の話に戻るが、梅雨の終わりごろのやりきれないほど蒸すときは、熱いシャワーや熱い湯船がいい。冷たいものより熱いお茶がいい。さあ、これから一か月、雨が降ろうが降らなかろうが、一年に一度、神様がお考えの中で与えられた梅雨期を、前向きに受け入れていきたい。特に繁茂と潤沢を味わうチャンスを探してみたい。

 

 

 

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