人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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世相の風から ガラケー その2

 



新しい携帯が負の名『ガラケー』と、からかわれているのも知らないで、私はウキウキしていた。手放したのもよく使いこなした。こんどはもっと進歩しているはずだから、半分パソコン替わりもできるに違いないと期待した。

 

ところがショップにいる時から娘が言うには「いまは、スマホが主流だから、種類も少なく、色もたくさんないのよ」とのこと。あまり気にせず、最低のことができればいいの。カメラは付いてるでしょうねと、形も色もこだわらなかった。色は淡いピンクパープル調でまずまず気に入った。しかし、今までのよりどう見ても4分の1は長い。それに、ずっしり重い。おやっ、これはと、気になった。それをきっかけに、私の抱く期待は次々に裏切られた。

 

会社も違えば、機種も違うのだから、メールひとつ送るにも方法が違うのは当然だ、早く慣れようと頑張った。いままでは、家人の2台も全く同じだったからすぐ訊けた。するとすぐ解決した。しかし、こんどはちがう。彼らはスマホの新世界にはまり込んでしまった。頼みはノー携帯のMちゃん。しかし彼女もスマホに惹かれている。首を伸ばし顔をくっつけるようにしてパパ、ママ、S君のスマホを覗き込んでいる。私の叫び声は聞こえないらしい。

 

友人たちの話を耳にした。わからないことがあったらすぐにショップに電話する、あるいは近くのショップに出向いて質問するとのことだ。そうだ、それが一番迷惑が掛からず、しかも確実だと、私も真似をした。聞きたいところをメモして出かけて行った。私の知識不足の部分はいくつか解決した。しかし、これはどうしようもありません、もあった。機種がそのようにできているからなのだと。これは致命的。主流から外された余計者の悲しさか。

 

店員の態度が気になった。まるで、ガラパゴス諸島からやってきた人間に見えるらしい。最初から面倒な客あつかいである。しかも、彼は、店頭の呼び込み係りなのか、私に説明している間に、突然大声を張り上げて「いらっしゃい、いらしゃい、今、○○がサービス中です!」とやらかすのである。びっくり仰天であった。それを、機械のように時々繰り返すのである。私への説明など上の空なのだ。しかしこれが彼の今日の中心的仕事なのだろう。私は文句も言えず小さくなって教えてもらった。

 

ある時また行った。メールの一文字の値段を訊いてみた。電話番号から書けるSMSというショートメールは一通3円、同じ会社だと無料だそうである。それは便利である。携帯アドレスを使うEメールは、長く書けるが有料。その料金のことを訊いた。彼は、それは一概には言えません。パケット契約の内容にもよりますと。それは確かだ。私の携帯にどんな契約があるのか、残念ながら家族がらみなので詳しくは知らない。家人も詳細な説明をしてくれない。たぶん、理解できないと思っているらしい。今までより安いと思うわと一回だけ言ってくれた。

 

およそでいいから教えてと店員に言うと、奥の方から書類を出して、計算機を持ってきて叩き始めた。なかなか答えが出ない。そのうち「一文字一円にも満たない金額だと思いますよ。そんなこと気にしてる人はいませんよ」であった。あっけにとられた。私の質問も悪いのだろうから、答えようがないのだろう。しかし、そんなの気にしてる人はいませんよ、には、住む世界が違う人種だと思うほかなかった。老人たちは、いや、わたしだけかもしれないが、1円、10円、20円を気にしながら生きているのだ。やはり私はガラケー携帯の、ガラパゴス的人間なのだろう。

 

彼は私がそれ以上食い下がらないのにほっとしたのか「なにかあったらまたいつでもいらしてくださいと」初めて人間らしい笑顔を向けた。ガラパゴス諸島からわざわざ出てきたのに、大した収穫もなく、私は悲哀感を胸に秘めて、無料の都バス停留所に向かった。

 

ふと、ガラパゴス諸島の生態は世界にない独自の進化を遂げたそうだ。そこにヒントがあるように思った。独自の進化というところに希望を見た。ガラケーだって使いこなすのだ。今、私たち老人はこんな使い方をしている。長いメールの時も、SMSで、その1、その2と、文を途中で切って、次に繋いで発信している。どれほどの経済効果があるか見当もつかないが、自衛につながるといいと思う。

 

ガラケーの人は意外に多い。中年の社会人男性に、スマホですか、それともーーーと。彼はやおらポケットから取り出した。なんとガラケー。あら、ガラケーねっ、と私は澄ましていうと、怪訝な顔をした。知らないらしいーーー。ここにもガラパゴス的人間がいた。私は一人でニヤニヤした。世の中、楽しく愉快ではないか。

 

ちらっと聞こえてきたのだが、スマホを使いきれなくて困っている人も多いそうだ。そこで、スマホとガラケーをミックスさせたような携帯が考えられているらしい。日本人だもの、きっと独自の進化を進めるに違いない。その時が楽しみである。その時の新種にはどんな名がつけられるのだろう。

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世相の風から ガラケーの意味

 


時代遅れとは、お年寄り向け定番揶揄表現であることは、とっくに承知している。しかしよく考えてみると、昨今、社会が神経を尖らせている差別ことばの一つであるかもしれない。

 

時代遅れとは、何を標準にして言うのだろうか。その判断基準はどこにあるのだろうか。基準などなく、ちょっとした感覚から生まれた、しかしわりに事柄の真理を突いた動かしがたい物差しかもしれない。

 

たしかに、何十年と生きてきた人たちと、わずか二、三十年の人生の人たちとでは、見てきた世界も、体験の種類も量も雲泥の差がある。そして、今現在とのかかわり方も違う。お年寄りは過去を鮮明に覚えているが最近の記憶は弱いし、新しいことを理解し、覚え、我がものとする力は衰えている。パソコンも、携帯も、若い人と互角に使いこなす人は多くはない。

 

私は何を言おうとしているのだろうか。時代遅れと言われたくない、などと、そんなツッパリはない。かといって、これでいいと開き直るつもりもない。ただ、現代は、世相の処々で二極化が進んいることは確かだ。

 

携帯の話をしたいのである。

家庭固定電話から携帯電話時代になって、何年くらいたつのだろうか。思えば、重い腰を上げて家族の世話で持つようになって、その後、機種や会社を変えたりして、今、4代目である。できるだけ長く使ってきたことは確かだ。この4月から高校生になったS君が持つようになったのを機に、会社も機種も替え、家族の3台はいわゆるスマートフォンになった。私は、今までの型でいいとした。私の使用目的は、簡単なメールができること、いざという時、電話ができること(ふだんは家電話)、カメラが付いていること、この3つである。そのほかの用はパソコンを使う。音楽は部屋に設置してあるミニコンポで聴く。これで事足りている。足らしていると言ったらいいのか。もしかして、これがそもそも時代遅れなのかもしれない。

 

最近、「私の携帯は今までと同じスタイルよ」と言ったら「ああ、ガラケーね」と、何やら意味深長なそぶりと聞き慣れない答えが返ってきた。「ガラケーって、何?古い形ってことかしら」とっさにいった。「まあね、ガラは、ガラパゴス諸島のこと」。「?」ひとまず引き下がった。

 

余りしつこくは聞けない。そこでネットで検索した。たくさんの資料があった。要するに、従来型の親指でたたくケータイのことだ。人差し指で触れるだけのスマートフォンではない。

(ちなみに、親指から人差し指、次は中指、薬指、小指になるのだろうか)

 

調べたところによるとガラケーとは、いわゆるスマートフォンが登場する前の「普通の携帯電話」のこと。どうしてわざわざ「普通の携帯」のことをガラケーなどと呼ぶのか。その理由は日本の携帯が世界から隔離されたような環境で独自の進化をとげたから。ワンセグ・着うた・着メロ・電子マネー・お財布携帯・アプリ・ゲームなど、日本では当たり前のような機能は、海外ではほとんど普及していない。世界標準から外れた独自の進化をとげた日本の携帯のことを、他の島との接触をさけてオリジナルな進化をとげたガラパゴス諸島の生物に例えて表したのがガラケーである。

 

ようやくガラケーの意味が分かった。しかし、今やガラケーは携帯会社からして、継子扱いのように思える。ガラケーを使う私の実感を言いたい。(つづく)

 

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風の仲間たち 追悼号のご案内
 

浅間

 

走り梅雨というのだろうか、たっぷりと水量豊かな大粒の雨が勢いよく傘を叩く。柄を持つ手にまで飛び散ってくる。道路の小さな凹凸に流れこみ、あふれている。快い降りである。

 

322日、満開の桜日和の日に天に帰られた、日本クリスチャン・ペンクラブ理事長池田勇人師を偲ぶニュースレター「追悼号」を発行した。会員たちそれぞれが、胸の奥に刻みこんだ先生を筆に載せた。A4版で6頁に及んだ。

 

興味のある方はペンクラブのHPからお読みください。

http://jcp.daa.jp/  (リンクしてます)


追悼とは、どの時期が最適なのだろう。追悼に、賞味期限はあるのだろうか。確かに日が経てば立派なものが作れるかもしれない。言い訳の言葉は拙速を免れませんがーーーである。

 

 

 

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日々の風から 5月をひとことで言えば

 

5月も半月が過ぎた。先日、ある集いで、5月をひとことで表すとしたら、なんというかと、質問が出た。あまり深く考えずに頭のうわっつらにあるひとことでいいからとした。

『子どもの日』、『鯉のぼり』、『さわやか』、『憲法記念日』、『柏餅』、『菖蒲湯』、『五月晴れ』、『薫風』、『新緑』など5月を代表するひとことが次々に出た。ずらり並べると、ますます5月らしくなる。

 

最近、私の読書時間を独占している幸田文のエッセイに集に『季節のかたみ』がある。

四部構成で『春の声12篇』、『くくる11篇』、『台所育ち11篇』、『季節のかたみ16篇』である。数えれば50篇のエッセーである。粒ぞろいという言葉があるが、どれもこれも読んだ後は「う〜ん」としか言いようのない、幸田文の文学世界である。

 

5月については『伸びる』と題している。ざっと1000字の文章である。

冒頭には『五月は伸びる月。陽の伸びる月、枝葉の伸びる月、こころも身も伸びる、喜びの月』で始まる。まるで詩のようだ。

 

『陽は明るく、昼は長く、気温は高まり、犬も花も木も人も、手をあげて首をあげて、身のうちになにひとつ屈まるところないように深く呼吸する。これが五月なのだ』

 

それから、十何年か前の自分の精神状態を記し始める。

『毎日のくらしももの憂く、仕事は手につかなくて苛々するし………落ち着きを失くして戸惑っていた。………小庭に春が訪れ、さらに快い五月になっても心はかがんで息の抜きようもない』そしてすすめられて山の湯へ行くのである。

 

裏山の誰一人の影もないところで、鶯の鳴き声を聴く。鶯の鳴き声に自分の呼吸が添っていき、ひと時を過ごす。『目をあげると、陽はさんさんと、あちらの山の高みから風が湧いて、青葉若葉は金色に緑をゆるがせ……私の頬を裾を過ぎていき、胸にはいまだ消えずに爽やかにけきょけきょの余韻がなきしきっていた。感動にあふれて立ちつくし、ふと気づいたら私の心は伸びていたし、首は起き胸はまっすぐに整っていた』

 

結びの一文は『一生おぼえている五月のうたである』

 

幸田文の文章世界に入り込み、まるで鶯の鳴き声に合わせるように自分の呼吸を合わせると、文章の奏でるリズムが体内になだれ込み、音を立て、揺するのだ。私は感動にあふれて立ちつくすのである。

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日々の風から 栃木路の田の面に水光る

 

栃木県の太平山の近くに、定年退職後、私財を投じて開拓伝道に献身したご夫妻がおられる。その教会の礼拝のご奉仕に行ってきた。ご夫妻は20年来の友人である。ご夫妻のしていることはこの世の物差しで測れば割に合わない。が、信念に、いやイエス・キリストへの信仰に燃えて、聖書の英雄パウロのように、この世が追い求めている一切の宝をちりあくたのように思って、財もいのちも捧げて喜々としておられる。いつお会いしても、体の芯が熱くなるような思いになる。火が飛んできて私の内も炎立つのだ。魂が生き返るとはこういうことかと思う。

 

昨夜来の雨が上がって、東武電車はひたすら関東平野を走った。両側は田植えを終えたたんぼが満々と水をみなぎらせて五月の日差しを浴びてきらきらと光っていた。なんとのどかで平和な田園風景であろうか。うわべしか知らない都会人の都合の良い感傷かもしれない。しかし、ゆるしていただきたい、私は楽しかった。行きも帰りも座席から身をよじるようにして、車窓にへばりつき、飽かず眺めた。老いてなお福音の苗を植え続ける友人ご夫妻が重なって見えた。太平山は新緑を纏って初々しくふっくらとしていた。

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日々の風から 孫の手


 

 

我が家のGWも静かに終わって、皆、それぞれの場へ駆けて行った。この春から高校生と中学生になった孫たちは、異口同音に、学校が楽しくてたまらないという。何よりのことだと、私はにんまりしながら、ほっとしながら、安堵し、感謝する。何はともあれ、平凡な孫たちが、自分の場所がうれしくて、楽しくて、生き生きとしていられたら、それで十分と思う。もちろん彼等とて日々に小さな煩悶はあるだろうが、たくましく乗り越えて行ってほしい。

 

大物選択に精を出して、夕方、掛布団にカバーを掛けようとしていた。年とったせいか、さっさとする気になれない。もたもたしていると、いつもは長女がさっと手を出してくれる。この時も当てにしたが当てにならない気配だった。

 

Mちゃんが来てくれた。初めてである。へえーと驚きつつもうれしくなった。私は急に元気になってこの子にしっかり教えておかなくてはと、お世話おばばの顔になった。一番簡単で早い方法はこれよと、それなら一人でやればいいと言われそうなのをものともせず、講釈した。Mちゃんは黙ってその通りにしてくれた。

 

あっという間にカバーが掛かった。孫の手のおかげである。単なる道具ではない。生きた、血の通った孫の手である。皺ひとつないふくよかな孫の手である。

隅々まで布団とカバーがきちっと収まっているかよく見てね。OK

 

畳む時である。勢いよく振り回すのだ。あっ、ほこりが立つからできるだけ静かに静かにね。これでほんとにおしまいになった。と、いきなりその上に転がって、ああ、ふわふわであったかい、なんだか眠くなっちゃったと言って、ほっぺをうずめた。

私は幸せなおばばかもしれない。かもしれないではもったいない。幸せなのだ。


さあ、神様からいただいた幸せを、私はどこにおすそ分けをしましょうか。

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日々の風から 老いのチャレンジ その2

 藤

気候的には一年で最高の時期、GWのさ中である。春を運んだ桜花は慌ただしく季節前進の役割をはたして散りゆき、親もとの桜樹は、今度は緑の衣をのびやかに纏って、青空に大手を広げてくつろいでいる。桜の後を待つように、ハナミズキ、そしてつつじが満開である。

 

我が家のミニ花壇の主役たちがそろそろ痛々しい。しかし、例年より元気だ。はやく夏の花を植えねばならないと思いつつも、最後の力を振り絞るようにではあるが、けなげに花を開いているのだ。無下に引っこ抜くわけにもいかない。生きているのだもの。初夏とは言えない冷えた日々が続いている。節が遅れているのか、それとも気象の異変だろうか。

 

いささか冷たい強風の中を、新しい図書館へ急いだ。どういう理由によるのだろうか、区内の図書館が合併して、新しい場所に移転した。建物が新しいのは気持ちがいい、新しいシステムにはちょっと戸惑うが、これも、わからなかったらどしどし訊けばよい。聞くは一時の恥なんて言わずとも、すべて機械化されているのだから、年寄りがわかる方がおかしいとさえ思われるだろう。たぶん、快適な読書スペースもたっぷりあるに違いなと期待していた。

 

読書スペースには不満だった。一部屋があるわけではなく、書棚の窓際に向かって一列に机が設けられていた。満員である。隣りが気になるようなスタイルだ。これでは落ち着いて読書に没頭するわけにはいかない。早々に失望してしまった。無料で快適で一人っきりの気分が味わえる場所なんてどこにもないのだ。期待したのは間違いだった。やはり自宅しかないと結論した。

 

友人にこぼしたら「おうちがあるじゃないの。うらやましいくらいのおうちが。何を贅沢を言ってるの」とたしなめられた。そうかもしれない。みんなそれぞれの活動の場へ出て行って、にっちゅうはいつも森閑としている。朝夕の家人の音はむしろ楽しみだ。私次第で何時間でも読書できるし、書き物にも時間は取り放題だ。そうだ、神様が与えてくださったところで満足すべきなのだ。青い鳥はうちにいたのだ。

 

とはいえ、新しい図書館にはせっせと通うつもりだ。徒歩で20分。いままでの倍の距離だが、億劫がってはいけない。こここそ老いのチャレンジどころだ。予約していた本を受け取ってきた。『精選女性随筆集一 幸田文』である。借りたものは返却せねばならない。期間は2週間。せっせと読むことにしよう

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