人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 老いのチャレンジ

手賀沼

 

 

 

4月は若者たちの冒険の月だろう。上級の学校へ、あるいは社会へと飛び出していく。新家庭を築く人たちもいるだろう。新しい家屋へ入居する人もいるだろう。フレッシュでエネルギッシュできらきらしている。代わり映えしなのは老人たちかもしれない。若者たちの後姿をうらやましくぼんやりと眺めるだけ。こんな言い方はあわれっぽ過ぎるかもしれない。飛んでる高齢者からは叱られそう。事実、街には、男性老人はさておき、女性高齢者が群れをなして闊歩している。下町だけの風景だろうか、パンパンに膨らんだリュックを背負い、両手にも膨らんだエコバックを下げ、一様に帽子をかぶって、都バスにしがみついている。

 

費用の掛からない新しいことにチャレンジし始めた。ふと思いついたのである。高校生になったS君は、ある日、中三受験グッズを整理し始めた。その、国語のテキストに目が行った。

以前からもちょくちょく耳にしていたが、長文読解に使われている文章に興味があった。文学だけでなく、多くのジャンルから、名作を始め、話題作などの論文が抜粋されて載っているのだ。自分の読書は偏っている。ときどき自分のジャンル以外で読みたい本があっても、分厚いのをわざわざ買うこともしないでいる。が、読みたい気はある。そこで、廃棄するテキストを全部いただくことにした。問題を解くためではなく、抜粋の文章を読むためである。もちろん文末には、出典が記されている。気に入ってもっと読みたかったら、その時買えばいいし、あるいは図書館へ行けばいい。私の読書範囲が広がるに違いない。期待して始めた。

 

まだ一冊目の最初なのにある文章につかまってしまった。幸田文である。なつかしいなあという方である。若いころ『おとうと』を読んだことを思い出した。今回出会っのは『崩れ』である。すぐ注文した。他の著書も混ぜて読みやすい文庫本を3冊。『流れる』と『季節のかたみ』。第一に、ここにほんとうの日本語があったと感動した。というより唸ってため息が出た。幸田文の文学世界、文体の世界、ことばワールドに圧倒された。ことばそのものに関心を持ちだしたもっと早くに、出会っていたらとしきりに悔やまれる。

 

幸田文へ惹かれるもう一つは、生まれ育ったのが同じ墨田区で、すぐ見当がつくほどの場所なのだ。知らなかった、ちっとも知らなかったと、これも悔やまれる。こう言っては口幅ったいが、なんとなく下町の江戸っ子の匂いが漂ってくるのだ。もっとも幸田文の頃の墨田区は、東京府南葛飾郡寺島村大字寺島なのだ。19歳で関東大震災も経験している。明治37年(1904年生まれ)。かなり昔の人である。しかし私がなつかしいと感じるのは、私の中のどこかに実体験のような記憶や感覚があるからだろう。貴重な人に出会った。しばらくは幸田文さんとお付き合いするつもりである。老いのチャレンジ効果といえる。

 

 

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世相の風から ささくれる人心
  4月も半ばを過ぎて、新年度からそれぞれに新しい世界へ歩き出した人々も、まずはそれらが自分の日常の姿になってきているのではないかとおもう。つまり落ち着いてきたるのではないだろうか。我が家の高校新人、中学新人、そして新しい部署に就いた婿殿も、元気に家を出て行く。私の部屋に、「行ってきます」、「行ってきます」、「行ってきま〜す」の三つの声が時間差で聞こえてくる。三人とも以前より30分ずつ早くなっている。そのあと日によっては娘も出かけていく。そして私も日によって、時間によって外出する。すべては我が家の日常になってきていて感謝である。

 

ところが、外出の途中で続けて意外な出来事に出会った。昨日、いつもの総武線でお茶の水へ向かう車中のことであった。夕方4時頃だった。電車は混んではいなかった。空いている座席があったので座った。とたんに、隣りの若い若い女性がいきなりぐっと私を肘で押してきた。座り方が悪かったかしらと思ったが、聞き取れなかったが乱暴な言葉を言った。私にらしい。ちょっと腹立たしかった。しばらくすると、膝の上の大きなバッグを思いきり大きく開いた。そのときまた肘が出っ張って私の脇腹に突き当たった。明らかに乱暴を通り越して、半暴力ある。そして、また、私を邪魔者のように罵った。大きな声ではなかったが。

 

長年、同じ道を往復しているがこんな目に会ったことはない。これが近頃の女の子の実態なのかと、もっと腹が立ってきた。横目で見るとほんとに若い。髪はま茶っちゃ。上から下まで真っピンク。取り出した携帯も真っピンク。爪も真っピンク。これって流行かしら。ちょっと古いんじゃないかしらと思った。右隣が空いたので私はさっとそっちへとづれた。それにしても、心が荒々しく、不満でもいっぱいに詰まっているのだろうか。それともそうした仕方がその子にとってはいつものことなのか。理解できなかった。

 

今日も異様な場面に出っくわした。バス乗り場である。これは私は目撃しただけであるが。初老の男性がわめいていた。体中にひらがなやローマ字で、卑猥な言葉を書きつけたゼッケンを貼っている。空のペットボトルをたくさん提げている。バスを待つ数人の中学生に、大声で世の中批判や説教めいたことを言っている。そばの老人を口汚くののしっている。ものすごい大声である。が、数名のバスの警備員は黙って知らん顔をしているのだ。

 

ところが同じバスに乗り込んできた。困ったなあと思ったがしかたがない。男性はドライバーのすぐ後ろに荷物を置いて、座席にのぼると窓を開け放った。そのまま立っている。ドライバーはさすがに注意した。しかし聞く耳など持たない。開けた窓から首をのばしている。わめき声はなかったが、危ないではないか。乗客はだれも一言もいわない。みんな目をきょろきょろさせ、時どき同意を求めるように頷き合うだけ。私はじきに下車したが、その後どうなっただろうと心配になった。

 

昨今、世の中の動きが少し変わってきた。気配は感ずる。だれもが感じ始めているのだ。まず政治だろう。淡路で大きな地震があった。アメリカでテロのような痛ましい事件があった。いつ、なにが飛んでくるかもしれない。そうした不安や恐れが人心を騒がせるのだろうか。

 

何があろうとも起ころうとも、世の波風に翻弄されずに泰然自若としていたいと思う。

『神の御前には静けさがある』そこにいなければならない。

静けさを求めなければならないと強く思う。

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日々の風から 若者たちの門出・冒険の世界へ
  

我が家はふたつ入学式があった。同じ日でなくてよかった。8日は高校生になったS君、9日は中学生になったMちゃんのである。S君は今までのJR両国よりさらに都心に向かう。Mちゃんは徒歩であったのが、S君の後を追って両国へ行く。朝が早くなった。真新しい制服、真新しい鞄、真新しい靴。すべて新調である。親の出費は莫大だ。私立ではなくて公立であってもだとおもう。

 

S君はいわゆる学生服だから、中学時代とあまり変わり映えはしないが、中学入学の時とは背丈や顔つきに雲泥の差がある。さすがに高校生である。凛々しい。Mちゃんはかわいい。三つ編みのおさげにセーラー服。懐かしいさがこみ上げる。制服が大きいのか肩のあたりが浮いている。まだ借り物を着ているようだ。それがなんとも初々しい。初めての電車通学である。たかが二駅であるが、日本一のラッシュと言われる総武線に乗る。教えられたとおり先頭車両の女性専用車に乗ったそうだが、ほっぺがつぶれそうだったと。

 

子どもたちは真剣そのもの。すべてが新しい世界だもの。新しい学校、新しいクラス、新しい先生である。いにしえからだれもが通ってきた道であるが、彼らにとっては人生初体験、未踏のせかいである。こんな大冒険はない。大いに緊張しているだろう。親も気がかりである。気が張っているようだ。S君の学校に給食はない。さしずめママはお弁当作りだけでも気が抜けない。

 

おばばは一歩も二歩も下がって眺めている。なんと美しい光景だろう。幸せ気分いっぱいである。責任がないからだろうか。でも決して無関心ではない。好奇心も手伝って、あれもこれも聞きたいし知りたい。しかし、じっと我慢。聞こえてくることだけでよしとしよう。彼らは親への報告もそこそこに、すぐに始まるテストに備えている。

 

おばばの暮らしに特別な変化はない。新しいことへの挑戦は別として、変化がない方がむしろ幸せだ。若者のように昨日と今日が激変したら倒れてしまうだろう。それが老いというものかもしれない。しかしすぐそばで、勇ましく新世界へ羽ばたいていく若者たちの羽音を聴けるのはうれしい限りである。想像力をたくましくして、彼らが出会うであろう、またあってはならないことのために、一つ一つ祈り続けよう。これこそおばばの特権的役割だ。

 

 

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日々の風から 葉桜の大樹のもと 父母の墓参
  

爆弾低気圧の合間の春うららのおだやかな一日、久しぶりに3人の妹たち全員とで父母のお墓に行った。私と2人は近くにいるから時々会えるのだが、一人は地方に引っ込んでしまったから、全員が揃うのはめったにない。墓所は私の教会のお墓のあるキリスト教専門の霊園、ラザロ霊園である。父母は教会のお墓に葬られている。教会では、春と秋に墓前礼拝をおこなうので、私だけはたびたび訪れているが、妹たちはめったに来られない。さすがに声が掛かった。行こうと。ようやく4人での墓参が実現した。

 

今回は初めて電車を使った。我が家に宿泊した妹とは、東武線、半蔵門線、常磐線、成田線で東我孫子に向かった。二人の妹たちは、北総線、常磐線。松戸で同じ電車に乗り込んできた。東我孫子からタクシーで現地まで行くことにしてあった。ところが驚いたことに東我孫子駅は無人駅。スイカのタッチ版をようやく探して外へ出る始末だ。が、人っ子一人見当たらない。どこからタクシーに乗るのだろう。見まわすと、駅のそばに霊園を管理している教会があった。飛び込んだ。教会から牧師夫人だろうか、外まで出てきて隣家の車庫から電話してくださった。車はすぐに来た。手賀沼大橋を渡れば見慣れた風景である。ドライバーさんは帰途を心配したのか、一時間くらいなら待ってますよと言ってくださったが、相談の末、お天気がいいので大橋まで歩くことにした。

 

妹の一人が庭のクリスマスローズを籠いっぱいに生けて持ってきた。妹たちは信徒ではないが、長姉の私に従ってくれる。私は毎回しているように、今回も一葉を作成して配った。賛美はアメイジンググレイス。全員で歌った。聖書箇所は妹の一人が好きだという山上の説教の部分。輪読したかったが拒否されて、私が朗読した。祈りはむろん私である。妹たち家族の祝福を特に祈った。最後のアーメンは私の声しかない。しかたがない。それでも、黙って頭を垂れて、祈りの時をいっしょしてくれたのだからよしとしなければならない。

頭上にはすでに葉桜になった桜樹が思いっきり大枝小枝を広げていた。それでも花が多少姿をとどめていたのはうれしかった。

 

さて、問題は帰途である。かつては山女、今は鳥女に変わった二人の妹は健脚である。地方に越した妹は、最近は車ばかりだからといささか不満げである。私は、あまり自信はないが、平坦な道なら30分や1時間は大丈夫である。畑の真ん中の農道を突っ切って、手賀沼の水べりへ出た。なんと、みごとな遊歩道が延々と続いている。車は来ない。実に快適である。疲れたと思う頃を見計るようにベンチがしつらえてある。鳥が盛んに泣き声をあげ、忙しく飛び交っている。二人の妹は立ち止まってはバッグに忍ばせてきた双眼鏡で鳥たちを追いかけている。ちっとも先に進まない。おかげで、私も、ハクチョウを見つけ、舞い上がるヒバリ、白鷺、カワウ、カイツブリ、ゴイサギ、オオバン、クイナ、ツグミ、カワセミなど教えられ、観察し、鳴き声を聞いた。大橋を下からくぐり、道の駅しょうなんにたどり着いたときは、めったにないほどの空腹感。あさるようにお赤飯や炊き込みご飯や草餅を買い込み、土手際のベンチで青空ランチとなった。

 

バスで我孫子へでた。ここは駅前らしい装いがあり、カフェへ飛び込んで一息ついた。あとは戸惑うこともなく行きの逆コースで帰宅となった。約6時間だが、小さな冒険の旅であった。それにしても、霊園は電車の人のためにもう少し詳しい説明を公報してほしいと思ってしまった。それともネットでの調べ方が足りなかったのかもしれない。お天気が良かったのが何より感謝であった。今年は春早々からよい時を与えられたのでさらに欲心が起こり、この先に希望を繋いでいる。

 


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日々の風から 桜散らしの無情風雨 

サクラ 4

 
 

春という季節は秋に勝って来たるを待たれる恵まれた季節だ。

春よ来い 早く来いなどと、童謡にまで歌われる。

実際、あのとげとげしい寒風に肌を突き刺されるような時、

暦の上でも春立つの声を聞くだけでこわばった顔がやわらぐ。

梅が香り、桃が開き、桜が咲けば、もう、人心は春に喜び浮かれ立つ。

 

しかし、昨夜来の風雨はなんとしたことだろう。

荒々しく桜樹を揺さぶり、春の女王の華麗な衣装をもぎ取って地に叩きつける。

そのうえ、容赦なく冷たい雨を浴びせかける。花の破片は見る影もない。

夜半に嵐の吹かぬものかは、と古の人は春の無情を知り抜いて警告してくれるが、人の力ではどうにもならない。おそらく春自身も、自分の内面にそうした非情粗暴な牙を宿しているとは知らなかったかもしれない。

 

ひとつの命が誕生する時、命を見つめる周辺の人々は、命について生きることについてたくさんの希望に満ちたメッセージを聴きとる。

一人の人が地上を去る時、この人を見つめる周辺の人々は、悲しみのうちに、人生について、死ぬことについての深いメッセージをたましいに聴きとる。それを我が生き方に重ねながら。

希望のメッセージを聴きとるには復活の信仰が必要だ。

 

春の嵐に吹き上げられるようにしてはかなくも天に舞いあがった一人の人を惜しむ。

まだまだ花として十分に力量を発揮して活躍できたであろうに。残念無念である。

もの皆生き、よみがえる、春に託された新創造の使命を信じて、天を見上げ、歎息を希望の歓声に変えていただきたい。

 

    『我はよみがえりなり、いのちなり。
我を信ずる者は死ぬとも生きん』

 

 

 

 

 
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