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風の仲間たち 我が友、高齢の姉妹たち 92歳で独居のO姉
姉妹の日常は、祈祷会の木曜日と礼拝の日曜を除く毎日、デイサービスに出掛けます。食事は配達してもらいます。いまや、台所に立つこともなく、必要な食物は近くのコンビニなどを使っているようです。教会では、だれかれとなく姉妹に何か食べ物を持たせています。 姉妹の口癖は、早く主人のもとに行きたい、神さま、早く召してください。です。 それと、教会の皆さんがよくしてくださるので、幸せです。この二つをいつも言われます。 足腰は丈夫。食欲も旺盛。身のこなしは素早いです。ただ一つお耳が大変遠くなりました。 説教を聞くために姉妹専用のレシーバーが用意されています。しかし日常はどんなに補聴器を調節してもほとんど聞こえず、姉妹の耳に口をつけるようにして話すと、ようやく通じます。それでも不自由を乗り越えてなんとか困らずに生活しています。 ところが、この数か月、目に見えて体力が衰えてきています。姉妹は、送迎の都合がつかない時は一人でタクシーに乗って教会へ来ます。日曜日は必ず一つのファミリーが乗せてきますが、最近では、教会に着くとじきにソファーに横になってしまいます。しばらくするとうつらうつらしているのです。デイの施設でもほとんど寝ているとか。検診では身体的には何も異常がありません。痴呆も入っていません。実にクリヤーで、ご自分の経済もしっかり管理できているようです。 一人暮らしだから、何とかして施設に入れないのかと思いますが、介護度が低すぎて該当しないのです。92歳にもなって、全くの一人住まいであっても入居は叶いません。もっとも姉妹は今の一人暮らしに満足していて、ショートステイもめったに行きません。 私たちの祈りは、真夜中の一人の時に異変が起きないようにと、それだけは主に切実に願っています。主はホームのK姉のように、O姉にもよくしてくださっていると信じて、主に姉妹をお預けしています。 私たちの教会では今のところお二人の老姉にみなの思いが集中しています。特別に重病人もいないので、おだやかなクリスマスを迎えられると感謝しています。 2012.11.28 Wednesday 21:16
風の仲間たち 我が友、高齢の姉妹たち グループホームのK姉
入居当初はこの先どうなるのかと、教会では皆でひそかに心配し合いました。私は施設の近くですから、毎日のように訪問しました。教会への送り迎えも時にはしようと思っていましたが、暑い暑い夏がやってきて、K姉は少しづつ歩くのが辛くなってきました。熱中症の危険が声高に報道されるようになり、もしものことがあってはと、夏の間は、車で送迎することになり、日曜礼拝と木曜午前の祈祷会は、運転のできる方々が手分けしてするようになりました。 私は、何度か訪問しているうちに、職員の方々が実に行き届いたお世話をされ、ホームにいる限り何の不自由もないこと、外からの手は全く必要ないことがわかりました。ホームと公的なやりとりは地方におられる甥御さん夫婦がいっさいされており、かつてのように教会員があれやこれやと手出しすることは不要になりました。もちろんそのためのホームでもあるのですが、ホームに入居するとはこういうことなのだと、改めて知り、安心しました。 K姉は、ホームを嫌がる様子はありませんでした。時々、元の住まいにいろいろ物を置いてきているから早く帰らねばと言ったこともありますが、それはほんの初期の頃だけでした。 いまではアパートの前を通ってもなんの反応も示しません。無理にがまんしているようには見えませんので、忘れてくださったのだと感謝しています。教会で会うと、とってもいいところだし、みんな親切で、同じような年齢の者たちばかりなので話が合って楽しいと言われます。それを聞くとまた皆でホッとしました。 施設では定期的に健康のチェックがあり、時に医師の手が必要な場合には、あらかじめ医師と契約をしておけば、その都度出張してくださるそうです。つい先ごろは歯の具合が悪くなりましたが、歯科医は診療設備つきの車で往診し、すっかり新しい入れ歯になりました。至れり尽くせりだと感心したことです。医療費は別に発生するのですが、ホームから保護者の方へ通知があるとのことでした。 姉妹はごく自然にホームの人になってしまいました。教会へはきちんと出席されています。もちろん送迎は一仕事ですが、もう、徒歩での往復は無理になりました。生活全般も以前のように細かなところまでお世話することはありません。しかし、教会で毎週会っていても、かなり老化が進んでいることは確かです。しかし特別に命に係わる大きな病があるわけではなく、だれでもたどる老いの道を、最高の生活環境の中で、静かに明るく過ごしておられることもまた確かです。神様はK姉に《良くしてくださっている》いるのです。 2012.11.27 Tuesday 15:03
日々の風から 移りゆく日々
10月下旬から今月下旬まで、一冊の本『海からの贈物』に捉えられ、引きずり込まれて、豊かな日々を過ごした。読んでは書き、書いてはブログにあげ、その連続であった。他の記事を書くスペースもなかったが、切が付くまではと続けてしまった。 わずか1か月のあいだに、季節も、世界情勢も、日本の政治情勢も大きく変わった。大きな来事がいくつもあった。アメリカでは、オバマさんが再び大統領の座を繋ぎ、中国の中枢メンバーも看板を書き換えた。我が日本も、あっという間に衆議院が解散された。政界には大風が吹き、揺れに揺れている。国民のこころも揺れていると思う。いままでになく、不気味な不安を感じるのは私だけだろうか。神様はこの危うさをどのようにご覧になり、どのようにお考えになり、どのように係わるのだろうかと、しきりにそれが気になる。主の祈り『みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ』と祈らずにはいられない。 ふと見れば、街にははやくも人工のクリスマスツリーが立ち並び、美しいイルミネーションを纏って誇らしげだ。自己アッピールに余念がない。本物のモミの木は森の奥で苦笑しているだろう。そこここの落葉樹たちが振り落す黄葉紅葉の乱舞を楽しみながら。 教会も多忙な時期に入る。これからは毎週の土曜、日曜はびっしりとクリスマス行事で埋まる。全部に係るわけではないが、出番のある日時を指折り数え確かめている。教会外にも出ていく。さしずめ今日の午後は、日本クリスチャン・ペンクラブのクリスマス祝会である。特別なことをするわけではないが、外部から牧師をお迎えしてクリスマスメッセ―をいただいて礼拝を捧げる。クリスマスの讃美歌を歌うのも楽しみである。そのあとはいつもの文章の学びや合評会である。一年の総括の時でもあり、来年へつなげる出発の時でもある。 クリスマス物語を瞑想する。今年はどの視点から思いを深めようか。深まったら書きたい。 2012.11.24 Saturday 10:01
書林の風から 『海からの贈物』その7 アン・モロウ・リンドバーグ 吉田健一訳 新潮文庫
★たこぶね この貝も聞いたことがありません。一度も聞いたことがありません。アンも海岸で見つけたのではなく専門家の収集でしか見たことがないと言っています。アンは貝そのものよりもたこぶねの生き方に魅力を感じています。たこぶねの生態については他で知識を得たほうがいいと思います。私も、本書からは具体的な生息の様子を知ることができませんでした。 要するに、これはタコの一種で、自分で貝を作り、ひと時住まいますが、産卵後子どもたちがこの貝の中で育ち(アンは子供のための揺籃と言っています)海へ泳ぎ去ると、母のたこぶねは貝を捨てて新しい生活を始めるのです。貝は子供にとっても母親にとっても仮の住まいなのです。 本文抜書き 『これは人間と人間の関係が次に達すべき段階の象徴と考える。中年の牡蛎の状態を脱出した時、貝を離れて大海に向かったたこぶねの自由を期待していいのだろうか。想像力の世界に向けて出帆することになる』 『二人の関係(おもに夫婦でしょうか)は初期の排他的な性質のものではなく、牡蛎のように仕事本位の、相手を頼りにしあっているものでもなく、成熟した二人の人間としての関係がある。各自がさらに成長する余地があり、自由があり、お互いが相手の解放の手段になる関係、二つの孤独が触れ合うという考え方は、簡単には自分のものとしすることはできない。女が大人にならなければ実現できない。そのために女は自分一人で努力しなければならない』 『女は自分で大人にならなければならない。一人立ちできるようになることが、大人になることの本質である。成長とは分離することであるが、木は一本の木である。二つの別々の世界、あるいは二つの孤独は各自が貧弱な一つの部分の半分だった時より多くのものをお互いに与えることができるのではないだろうか。二人が二人の間にある距離を愛するに至るならば、二人だけのまたとない生活が始まることになる』 『我々の感情や付き合いの「真実の生活」も、断続的なものである。潮が満ちてくるとそれに飛びつき、引き始めると慌てて抵抗し、潮が二度と満ちて来ないことを恐れる。恒久的な持続に執着するが、生活でも、愛情でも、その持続は成長、流動的、自由であることにしか求めることはできない。しかし、断続的であることを自分のものにすることは非常に難しい。生活が引き潮になっている時に、どうすれば生き抜くことができるだろうか。波の谷に入った時にどうすればいいのだろうか』 『この浜辺での生活から私が持ち帰ることになった一番大事なことは、潮が満ち引きするどの段階にも、波のどの段階にも、人間関係のどの段階にも、意味があるという思い出かもしれない。集めた貝はポケットに入れて持っていける。貝は海が引いてまた戻って来るのを永遠に繰返していることを、私に思い出させるためだけかもしれない』 アンは家族から離れ、都会の喧騒からも離れて、島に滞在して、何種類かの貝を掌に乗せて、制限されない自由な時間に浸りながら、本書一冊書くだけの思索をしたのです。 私は、都会の自室の机上でアンとその著書に対峙し、小さな感想文を書くつもりだったのが、11月一か月を費やしてしまいそうです。よい書物に出会いました。そもそも本書を見つけたのは、須賀敦子の一冊からです。そこにはこんなフレーズがあります。『人生のいくつかの場面で、私を支えてくれた、書物というかけがえのない友人たち』。こんな風に表現できたらと、ため息まじりにほれぼれとします。 それはそうと、『海からの贈物』は、浜辺からもとの日常へと戻る支度をしているアンが、島の生活を総括している記事が続きます。私もこの書物全体の総括をしたいと思っていますが、ちょっと時間が必要かもしれません。ひとまずこの項は終了します。 2012.11.21 Wednesday 11:33
書林の風から 『海からの贈物』その6 アン・モロウ・リンドバーグ 吉田健一訳 新潮文庫
★牡蛎(かき) アンの関心をひく次の海からの贈物は『牡蛎』です。いまでは中身の食用の部分だけが売られていて牡蛎の家である貝殻を見ることはあまりありません。しかし、すぐに姿が思い浮かびますね。あの牡蛎の貝殻から、アンは思いを深めます。不規則にでこぼこした姿をおかしがり、親しいをこめて、ずんずんと考えを広げていきます。 本文抜粋 『牡蛎は二つとして同じ形をしていない。どれもが生活を続けていく必要から生じた独特の形をしている。大勢の家族が必要に応じてだんだん家を建て増しするのに似ている。結婚して何年かった女の生活のようでもある。結婚して何年かになる夫婦生活を表すのにも適している。生きていくための戦いを思わせる。岩の上にその位置を占めるために奮闘し、その場所にしっくりはまって、容易なことでは引き離すことはできない。不格好であり灰色をして決して美しいとはいえないが生活に適応するためにそんな形をしている』 ここからアンは中年期に入る夫婦像へと考えを向けていきます。 『膨れ上がった家は次第に住人が減り始める。自分や子供たちが無事に暮らせるために努力していた時代の、生活や環境や持ち物に対するあの恐ろしいほどの執着は必要でなくなる。岩にしがみついていなければならない訳はない。別な形の生活、別な種類の経験に向かって進んでいくべきだろう。中年とは、野心の貝殻や、物質的蓄積の貝殻、自我の貝殻を捨てる時期である。浜辺の生活と同様に誇りや見当違いの野心や仮面や甲冑を捨てることができるのではないか。中年になれば、ほんとうの自分であることが許されるかもしれない。それはなんと大きな自由を約束してくれることだろう。若かったころの冒険はできないが、それでかえって気楽になることもある。 人生の午後がはじまるのはそれからである。中年というのは第二の開花、第二の成長、第二の青春でさえある。この時代は青春期と非常によく似ている。不満とか、焦燥とか、疑惑、絶望、また憧れが衰弱のしるしと間違えられる。若い時はこうした兆候を成長にともなく苦痛として受け取るが、恐れずに戸の向こうの部屋に入っていく。しかし中年に達した時は、衰弱の兆候だと間違って解釈し死が近づいてきた印のように解釈する。しかしそれは天使であるかもしれない。何を告げる天使なのか。 今まで無視し続けた面を充実させる時が来たのである。精神の、心の、才能の成長ということにもなる。日の出貝の狭い世界から抜け出し、牡蛎の貝殻さえも狭すぎるようになる時期が来るかもしれない』 アンの中年説には大いに同感です。ただし、中年の年齢が10年ほどずれているのを感じます。中年ではなく、社会の第一線を引いた定年後の状況を思わせます。さしずめ今の日本なら60代以降でしょう。 私も不格好な牡蛎だったのだと、ほんとうにおかしく思い出します。アンの説に励まされます。中年以降は、精神の、心の、才能の成長のときとなる、という意味には、心が伸び伸びとしてきます。確かに、手を抜けないがんじがらめの仕事や、子育てから解放された今は、そして神との自由な密なる交わりが深まっていく日々は、千切れ雲を遊ばせる青空のように豊かです。(つづく) 2012.11.14 Wednesday 22:42
書林の風から 『海からの贈物』その5 アン・モロウ・リンドバーグ 吉田健一訳 新潮文庫
★日の出貝 この貝の名も聞いたことがありません。島の人が笑顔で近づいてきて無言で差し出してくれたのです。ただでもらったものです。その貝から、アンは考えをめぐらしていきます。 触るだけでも壊れそうなこの貝は金色の紐帯で結ばれて蝶の羽のように完全な一対をなし完全に一つに合わさっています。アンはその姿から人間関係の初歩を思い浮かべます。恋人同士、夫婦、親子の関係、そのほか何でも、初めは純粋で簡単で重荷になるものはない。二人の人間同士が貝の両面が重なるように一つに美しい世界を作ると言います。 アンは続けます。 『しかしこの完璧な融合はなんと早く犯されることだろう。初めの関係は変わっていき厄介なものになる。この変化がいちばん感じられるのは夫婦の場合である。夫婦の関係がいちばん保ちがたいが、どういうわけか初めの形を続けられないのは悲劇という間違った考えを持っている』
『一時的に昔の純粋な関係に戻るということが子どもとの場合にもあてはまると思う。子供たちの一人一人と二人だけで過ごせたら子どもたちももっと幸福で、丈夫になり、安心し、もっとしっかりしてくるのではないだろうか』 『我々は皆、自分一人だけ愛されたいのだ。「林檎の木の下で、私の他の誰とも一緒に座っちゃいや」という古い歌の文句の通りである。人は自分だけが愛されることを望む。いつまでも自分だけが愛されること望むのは持って生まれた迷いに思える。恒久的に純粋な関係はない』 『前にあった関係に恒久的に戻ることはできないという事実、もっと深い意味で、ある関係を同じひとつの形で保っていてはいけないということを、だんだん受け入れるようになるが、それは悲劇ではなくて、伸びていく生命の絶え間ない奇跡の一つである。すべて生きた関係は変化し拡張しつつあって、常に新しい形を取って行かなければならない』 『私たちの「小さな部屋」はやがて私たちには狭すぎるようになり、それは不幸なことではないのである。日の出貝は美しく壊れやすくはかない。しかし、蜻蛉の一日も天蚕蛾の一夜も決して無意味ではない。持続ということは真偽の尺度にはならない。現在あるものは、ある時の、ある場所での現在にしかないのである』 この日の出貝の章は含蓄に富んでいます。今までの私の考え方の枠をはるかに超えて豊かです。私の思考の世界はかなり固く狭いと気付かれ、驚いています。愛の関係も、活動も、継続持続こそ最良だと信じ込んできた、そんな気がします。変わってはいけない、不変でなければならないと固執していました。変わることは不誠実であり、不信仰であると決めつけていました。 自分を取り巻く世界は変わっていきます。それをある意味で批判してきました。しかし、自分も変わってきていることをうすうす気づいてもいるのです。それは≪悲劇ではなくて伸びていく命の絶え間ない奇跡の一つである≫と断言されると、ほっとします。≪すべて生きた関係は変化し拡張しつつあって、常に新しい形を取って行かなければならない≫に、大いにうなずき、励まされます。主の前に静まり、確信と勇気をいただいて、年齢にふさわしい変化と拡張を信じて、大胆に冒険の旅に出たいと思います。 2012.11.08 Thursday 16:42
書林の風から 『海からの贈物』その4 アン・モロウ・リンドバーグ 吉田健一訳 新潮文庫
★つめた貝 アンが扱う二つ目の貝はつめた貝と言います。聞いたことのない名前ですが、アンは掌にこじんまりとおさまるこの貝を見つめながら、豊かな思索を展開していきます。 前回のほら貝からの結論は≪簡素≫のひとことに束ねられると思います。 つめた貝はカタツムリの殻の格好をして猫が丸まったように掌に納まります。アンは貝の頂点を見つめます。アンはそこから島を連想します。人間は島であると言います。一つの海の中にある島です。みんな孤独なのだと言います。だが、人は自分が孤独だと思われたくない。一人になることを恐れている。一人でいることをもう一度初めから考え直さねばならない、一人でいることがいかに重要なことか、内的な泉を見つけるのには一人になるのがいちばんいい、と続けていきます。 アンの思いは先へ先へと、内側へ内側へと深められていきます。 女はいつもこぼしている。子供、男、社会を養うものとして、女の本能のすべてが自分を与えることを強いる。伝統的に教えられ、本能的に望んでいる。与えることに意味があっても 与えただけのものを補う源泉がなくてはならない。乳がいつも出るためには栄養を取らねばない。与えるのが女の役目であるなら、同時に、女は満たされる必要がある。しかし、それにはどうすればいいのか。 一人になること、とつめた貝は答える。女は、一年のある部分、また毎週、および毎日の一部を一人で過ごすべきである。ある種の力は、一人でいる時だけにしか湧いてこないものである。芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲するために、聖者は祈るために一人にならなければならない。しかし女にとっては、自分という本質を再び見いだすために一人になる必要がある。 女は、チャールズ・モルガンが言う『回転している車の軸が不動であるの同様に、精神と肉体の活動のうちに不動である魂の静寂』を得なけれなばらない。活動している最中でもどうすれば静寂を得られるか、自分の魂にその糧を与えられるか。女の精神は涸れつつある。私たちは飢えを感じてはいるが、何がそれを満たすのか解らないのだ。 教会は昔から女に一つの中心を与える大きな力の一つだった。女はなんと長い間、誰にも邪魔されずに自分を知る静かな時間を教会で過ごして生きてきたことか。女は教会での礼拝で祈りと交感のうちに、完全に自分を捧げて、受け入れられ、それによって更生し、泉には再び水が湧いてきた。教会は今日でも、男にも女にも自分というものを見出させてくれる大きな力であって前にも増して必要である。 今は、女は機械的な手段で昔のように箒と針を持つことはない。そうして節約された時間と気力を持て余して、多くの気散じの手段で埋めようとする。これでは女はずたずたに裂かれ、木っ端微塵になるほかはない。 女は一人で静かに時間を過ごすとか、ゆっくり考えるとか、お祈りとか、音楽とか、その他読書でも、勉強でも、仕事でも、自分を内部に向かわせて、自分に創造的な生き方させるものを求めなければならない。少しでも自分の内部に注意を向ける時間が大切なのである。神の国は人間の心の中にある。 女は生活の活動の中心にあって、車の軸のように静かでなければならないのであり、自分が救われるためだけではなく、家庭生活、社会、文明さえもが救われるために、この静寂を得るのに先駆をなさねばならない。 アンなら、都会の真ん中にある自宅の書斎にいても、こうした豊かな思考を展開できるのではないかと思ってしまいますが、そうではなくて、一人きりの浜辺の生活の中で、掌にあるつめた貝をじっと見ているうちに発想が広がったのでしょう。一人になることの重要さをここまで説かれると、心底から納得させられ、実行しなくてはと急かされます。 アンが、教会生活に言及していることには、我が意を得たりと拍手したいほどです。しかし、反省もあります。礼拝の時、『祈りと交感のうちに、完全に自分を捧げて、受け入れられ、それによって更生し、泉には再び水が湧いてきた』とありますが、それほど真剣に祈り、神様と交わっているか、魂のうちにいのちの水が湧きあがって喜びに満ち溢れているか、と問われたことです。(つづく) 2012.11.03 Saturday 23:20
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