人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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旅の風から モンゴル紀行 その12 モンゴル5日目 羊の解体激写

 

準備



出来上がり




私は横目、後ろ目でちらちらと視線を向けていた解体現場へ走り寄りました。魔女になった気がしました。いや、現場を体験しなければ書いたり話したりできないという『証しスピリット』だと恰好よく言いたいです。証し魂、証し根性と、泥臭い表現でもいいのです。ところがすでに一行のかなりの方々がカメラを向けていたのです。

 

現場ですが、意外や、きれいなのです。血が飛び散ったり、嫌な臭いが立ち込めていると想像していたのですが。理由がわかりました。最後の一頭が連れてこられました。手足は細い紐で縛られていました。二人の男性が提げてきて、お腹の方を上にして寝かせました。首のあたりにナイフを入れ、そこから手を入れて、頸動脈を探し当て、そこを切るそうです。羊は身動きしませんでした。断末魔の声もないのです。そのまま2分〜5分で完全に息絶えるそうです。血は外へ飛んだり流れ出たりしません。内臓の間、お腹に溜まるだけです。職人?さんは、実に手際よく皮をはぎ内臓を切り分けていきます。膵臓と胆嚢はすぐに川に放り込んだと聞きました。これは食べられないのでしょう。あとの物はなにひとつ捨てる物はありませんでした。腹腔に溜まった血液は、よく洗った直腸に流し込んでブラッドソーセージにします。内臓や肉の切れ端も詰め込みます。小腸も女性たちが川で洗って、詰め物をしてシーセージを作りました。

 

血にこだわりますが、羊(おそらく山羊や牛も)をほふった時に、あたり一面血の海になるのではなく、体内の一か所に溜まった血を汲んでいるのを目の当たりにして、長年の聖書の疑問が解けたように思いました。旧約聖書には、祭司たちが神殿に捧げる動物を殺す記事が至るところに出てきます。聖書の時代にしていたことと、今のモンゴル人がしていることが同じであるかどうか、私には皆目わかりません。全く違っているかもしれませんが、同じ遊牧の民ですし、彼らは古の習わしをずっと単純に踏襲してきていることを考えると、あながち間違っているとはいえないと私は判断しました。

 

聖書には祭司たちがほふった動物の血を祭壇に注ぎかけると書いてあります。水のように汲んで注ぐわけです。そこがどうしてもわかりませんでした。血が地面に流れ出てしまうとしたら、すくって注ぐことなどできないではないだろか。血は空気に触れれば触れるほど凝固作用が働いて固まってしまいます。

 

また、勢いよくほふったら、あたり一面血が飛び散り、祭司の衣服は血まみれになるだろう。手も足も。あの水の乏しいところで、衣服を洗うのも並大抵のことではない、血のべっとりついた祭服をどうやってきれいにするのだろう。そんなことも考えました。それに芬々たる血の匂いなど、神聖な神殿での惨状が理解できずにいました。もちろん、罪のゆるしを得ることは生易しいことではない、血を流すことなしには罪の赦しはありえないとのへブル書のみことばもありますので、凄惨であればあるほど、これらの一切をイエス様が私のために支払ってくださったのだと思っては、感謝してきたのですが。

 

羊解体からわかったことは、ほふられる羊はうめき声ひとつ立てないこと、血はすくって汲み上げることができ、注ぐことができることです。聖書に当てはめていいかどうかは、あとで専門家に聞いてみたいと思います。

 

皮は丸めてかたわらに置かれ(業者に売るそうです)、肉や内臓はいち早く火の準備のできたかまどに運ばれ、大きなお鍋に詰め込みました。ジャガイモなどの野菜と交互に入れていました。焼いた石も入れます。調味料は塩だけです。これがモンゴルの伝統料理ホルホグです。素朴で自然そのもののです。

 

さあ、ここまでで3時間くらいかかったでしょうか。お料理が出来上がり、食べるまでにはあと3,2時間はかかるそうです。昼食にはまにあいそうにありません。私たちは車に積んできたパンやお菓子をかじって待ちました。教会員など現地の方々は慣れているのでしょうか、あるものを食べて、あとはおしゃべりしたり、水の中に入ったり、思い思いに楽しそうに時間をつぶしていました。

 

ホルホグ料理1


ホルホグ2

 

原始時代に戻ったような、遊牧民になったような、アブラハムの一族になったような、奇妙な気分になりました。決して不快ではありませんでした。時がゆっくりとゆったりと流れていました。澄み渡った空、お構いなく降り注ぐ陽の光、夢を運んでくれるような穏やかな風、悠々と流れゆく水などのすべてが、時代の毒素に少しも影響されていません。創造の時のままの世界があり生活が見えてくるようでした。

 

夕方の4時頃だったでしょうか。いよいよ料理が出来上がりました。草の上にいくつもの輪ができ、あつあつをいただくのです。お肉も内臓も骨までしゃぶって、一同大満足でした。おいしかったかって?う〜ん。ご想像にお任せします。これだけは言えます。数時間前に生きていた羊だと思うと、とてもとてもーーー。そんな気分は空のかなたに消えていました。

 

お魚に例えてみると、釣りに行ったとして、釣った魚をすぐに料理して平気で食べます。魚屋さんからサンマや鯵を買ってきて、頭を落とし、内臓を取り、水につけて血抜きをし、煮たり焼いたりして舌鼓を打っていただきます。何でもないことです。それと同じでしょう。

 

全部あますところなくきれいにいただいて、後片付けが終わると、元気いっぱいの皆さんは、バレーボールをしたり、綱引きをしたり、近くの山に登ったりして、日が暮れるまで、果てしもなく遊び興じていました。いかにも屈託なく楽しんでいるのです。しかし、教会員の現状はバラ色とは言えません。病人を抱えている方、失業中の方、定職のない方など、生活が安定していない方が多いのです。遊んでいる場合ではないだろうと思ってしまいますが、モンゴル気質ではどうなのでしょうか。皆さんは、老後のためにはいくらお金が必要かなどと、老後の心配までしていないのではないかと思いました。今日を精一杯生きているのです。草原のかなたから聞こえてくる『明日のことは思い煩うな』のイエス様のお声をしっかり聴き分けているような気がしました。私も聞き耳を立てました。モンゴルには本物の希望の風が命に満ち満ちて力強く吹いていました。

 

ひとこと

9月いっぱいモンゴル紀行を書きつづけましたが、明日は9月最終日。紀行文はひとまずピリオドを打ち、今後は後日物語としたいと思います。旅はまだ二日残っており、聖日礼拝と月曜日のモンゴル神学校やモンゴル宣教団体訪問など続きましたが、A教会の皆様とは

出発日の朝、空港まで送っていただいてお別れとなりました。D宣教師ともお別れの時になりました。間もなく零下50度にもなるモンゴルに、うら若い先生を残すのはいかにしても辛いものです。しかしです、『キリストの愛が取り囲んでいる』から、主に託します。
              ひとまず擱筆。
 

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旅の風から モンゴル紀行 その11 モンゴル5日目 羊を解体してホルホグ料理に


みずあそび



薪わり


ひつじ



この日は朝からまたまた快晴です。ここへきてから日中に雨に降られた日はありません。日差しもかなり強く、一日中野原にいたらどうなるかと心配です。空が澄み切っているぶん、紫外線も強いでしょう。やわな帽子くらいでは防ぎようがありません。しかしあまり気にしないから不思議です。モンゴルの野生ムードに慣れたのかもしれません。

 

今日は教会をあげての、全員参加の一大イベントです。河原へ出て行って生きた羊をほふり、その場でモンゴルの伝統料理ホルホグを作っていただくのです。行先はガチョルトといって、ウランバートル市の東を南下した河原です。観光地テレルジは東北でした。距離は遠くないそうです。しかし例によって定員大オーバーの車で、でこぼこ道を行くのです。河原へ降りるとき、車は坂道で窪みにはまって、ついに動かなくなってしまいました。運転者の掛け声とともに全員降りて全員で押しました。その手際の良いことったらありません、困った顔をする暇もありませんでした。

 

最初、日程表に、土曜日はピクニックをし、河原で羊解体と書かれていたました。ギクッとし、参加はやめようと思いました。そのうちに、団体行動なのに自分一人だけ残るわけにはいかないだろう、いっしょに行くとしても、羊をほふるのを見るのは絶対やめよう、できないだろう、まして、そのお肉の料理など食べられないと、先へ先へと考えては重い気分になっていました。

 

前日、教会の庭の隅の小部屋に羊3頭が運ばれたと聞こえてきました。だいぶ暴れたとのことです。ぞくぞくしました。3頭もほふるのです。ますます怖気づいてきました。そのうちに、羊の心も知らず、こわいもの見たさで小屋を覗きにいきました。じっとうずくまっているのか、物音一つしませんでした。

 

誰かが言いました。羊は小屋に入れられた時点で自分のこれからを悟り、騒ぐことはしないのだと。イザヤ書53章が浮かびました。『ほふり場に引かれていく羊のようにーーー彼は口を開かない』。イエス様が黙々と十字架の道を歩かれた様子を表している箇所ですが、羊は最後の時、決して乱れないのでしょうか。胸がつぶれる思いがしました。翌朝、この3頭は、トラックに積まれて、私たちといっしょに河原に連れていかれたのです。

 

河原はモンゴルにもこんなに豊かな水流があったのかと驚くような美しい川のほとりでした。澄んだ水が満々と満ち、自然のままに水は手の届くところを流れています。子どもたちは早速水遊びに興じ、大人たちもずんずん入り、水を掛け合い、ずぶぬれになり、はしゃいでいました。本格的に水着に着替えて水泳をする方もおられました。

 

その川岸に一行560名が陣取りました。もっともほかに人はいません。草は青々と茂り、振り向けば川の後ろには小高い山々の峰が連なっていました。水辺のすぐ近くで支度が始まりました。まず、火を起こします。薪割からです。持ってきた古材を男性たちが薪にしました。ちょうど焚火のような形にします。薪だけなく、ホルホグ料理の鍋にも詰め込むために、いっせいに平たい小石を集め、まず火の中に入れて焼きます。

 

その間に、水への近くでは解体の準備が始まっていました。教会では見かけない男性の姿がありました。おそらく解体のために来られたのでしょう。職人のような方たちかもしれません。羊が連れてこられました。三頭全部ではありません。一頭だけです。いくらなんでも、目の前で仲間がほふられるのを見られるでしょうか。残酷すぎます。人の側は羊の心を知っているのでしょう。配慮がありました。ほっとしました。でも、私は後ろを向いて遠くに離れました。カメラに収めたい思いもあるのです。女性の一群は、ホルホグのお鍋にお肉といっしょに入れるジャガイモの皮を盛んにむいていました。驚くほどの量です。

ついに三頭目になりました。私は意を決してカメラを手に、解体現場に近づいて行きました。

野菜

 

 

 

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旅の風から モンゴル紀行 その10 モンゴル4日目 ワークサービス 地域の低所得者家庭慰問

コスモス
モンゴルのコスモス 

 

A教会のある地域は、市の郊外にあるゲル集落の一つで、低所得者の方々が集まっています。様々な理由があるのでしょうが、それが悪循環して一定のきちんとした仕事に就けず、したがって収入が少なく、よい生活環境も望めないようです。どこの国にもあることですが、

モンゴルは特に共産主義から民主主義の国へと政治体制が大きく転換した、その混乱がこうした現状を生み出している一つの原因だそうです。

 

午前中に一軒の母子家庭を訪問しました。最近教会に来始めた母子です。歩けば教会まで小一時間の場所に住んでおられますが、母子は雨の日もぬかるみをいとわず来られるそうです。

その貧困ぶりが目に余るので、何とかして物心両面から励ましたいと、D宣教師の判断で、お住まいに出かけました。ある一画に土地を借りて小さなゲルを建て、そこで生活をしていました。母なる女性はまだまだ若い方で、2歳くらいの女の子との二人暮らしでした。

 

D宣教師の通訳で、女性の身の上をお聞きしました。なぜ母娘暮らしなのか、その事情は知りませんが、現在、体が悪くて働けない。傷害者年金だけで暮らしているとのことでした。ついでに、この国にきて、傷害者年金という言葉を時々耳にしました。この制度は制定されているのです。生活保護制度はどうかと訊きましたが、それはないそうです。

 

公的に認定されればいくばくかの年金をいただけるのです。しかしそれだけでは母娘二人が満足に暮らしていくことはできないとのことでした。私たちはこの家庭に、お鍋や簡単な家具類、小さなテレビをプレゼントしました。兄たちが運び入れ、テレビが見られるように配線もしました。モンゴル国は、電気は国の隅々まで行き渡っているのです。水道はありませんが。ゲルの真ん中にはストーブがありますが、燃料は石炭と聞きました。それが暖房器具になり、また炊事の竈にもなります。台所という特別な場所はなく、ストーブの上にお鍋をのせてすべて済ませるようです。ちなみに教会もO姉宅も、グループホームもそうでした。他に、電気コンロや電気のプレートがありました。

 

この国の冬は零下40度にもなるそうです。数字を聞いただけでぞくぞくしてきます。ゲルの外側は布のようでしたが防寒の役目をするのでしょうか。ストーブひとつに乏しい燃料でとうやって冬を越すのでしょうか。子どもの衣服も買えないと、母なる女性は悲しみの浸みついた表情で力なく語りました。日本にも厳しい状況下の人々は大勢おられますが、こうしてまじかに拝見しご本人から直接聞かされると身の縮む思いになりました。

 

この母娘は教会に来て間もないと聞きました。イエス様に出会って、魂の救いをいただき真の喜びと平安に包まれるなら、病や貧困との戦い方も違ってくるだろうと思うとき、ぜひぜひ教会にしっかり繋がっていただきたい、さしあたって、今度の礼拝に来てほしいと祈り続けました。

 

神様は礼拝にこの母娘を招いてくださいました。教会堂で二人の姿を見つけたとき、なんとうれしかったことでしょう。そばへ行って声をかけ笑いかけました。すると、女性の顔に笑みが浮かんだのです。ゲルを慰問した時にはなかった笑顔です。作り笑いではなく内側から生まれたのだと思いました。午後の子ども集会にもずっと出ておられました。その後の様子はわかりませんが、救われてほしいと切望しています。

 

私たちの旅も終盤に入りました。奉仕は、日曜午後の教会学校奉仕を残すだけとなりました。明日はこのトリップ最大のイベント、河原へ行って羊の解体体験です。どんなことになるやら、恐ろしさと好奇心で落ち着きません。

 

 

 

 


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旅の風から モンゴル紀行 その9 観光地テレルジで、O姉とエーデルワイス


テレルジの山

 山の斜面の木陰に、O姉と二人きりになりました。O姉はアルコール依存症者のグループホームを自費で運営している【モンゴルのマザー・テレサ】です。本家のテレサはしわ深い痩身の老女姿で世界中を魅了しましたが、私の隣にいるテレサさんは豊満な体躯をゆさゆささせながら皺ひとつないはちきれそうなお顔で笑いかけてきます。

 

ところで私たちは互いに言葉を交わすことができません。私は日本語しかできませんし、姉妹はもちろんモンゴル語のみ。英単語すら通じません。私は話したいのです、姉妹も語りたいのです。それがありありとわかります。こんなときどうしたらいいのでしょう。私は姉妹のモンゴル名を覚えています。そこで身振り手振りを使うことにしました。姉妹を指差して「あなたはOさんですね」といい、自分を指差して「わたしはKです」と日本語で言いました。なんどか繰り返すうちに、私を「K――」と微笑みながら指差しました。私は大きくうなずきました。何度も何度もお互いに呼び合い、そのたびに顔を見合わせてにっこりし合いました。通じたのです。そのうち、「ハレルヤ!」、「アーメン!」が飛び交いました。

これは待ったなしで通じました。「ハレルヤ!」、「アーメン!」と叫びながら笑い合いました。

 

ふと、なにを思ったのか姉妹は座っている草原に身を屈めて、草を抜いて私に差し出しました。みればエーデルワイスです。実は、テレルジにきてすぐに誰かがエーデルワイスを見つけました。驚きました。アルプスの山中だけに咲いていると思い込んでいましたので、私たちは歓声を上げて喜び、探しては摘んでいました。それを思い出したのでしょう。そこで私たちは立ち上がって歩き出し、エーデルワイスを摘み始めました。Oさんは見つけると摘んでは私に差し出します。私は「ありがとう」と大きく叫び、受け取ります。姉妹も「あ・り・が・と」と口真似します。後で知ったのですが、O姉は日本語に興味があり、D宣教師から習い始めているそうです。私の右手の花束はしだいに膨らんでいきました。大事に持って帰りましたがふっくらした花はいつの間にか押し花になり、今も私の机上を飾ってくれています。

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私たちの蜜月?蜜タイムは、まもなく戻ってきた野イチゴ組にかき消されましたが、なんと豊かな交わりだったでしょう。素朴な野の花エーデルワイスは、言葉も交わせない二つの国の人間を結び合わせてくれました。いいえ、エーデルワイスだけではありません。交わりの真中には確かにイエス・キリストがおられました。「アーメン!」、「ハレルヤ!」を連呼した時、姉妹の顔は特別に輝いていました。おそらく私も輝いていたでしょう。お互いの内にいます主が、喜び合ったと信じます。それからはこの旅の間中、お会いするたびに手を取り合い、ハグし合いました。
O姉の写真を掲載しいのですが、やはりやめておきます。

 

翌日の朝いちばんに、D宣教師が、OさんからKさんにプレゼントがありますと言って、私に一枚の絵ハガキと、フェルトの子羊のぬいぐるみをくださいました。トリップの方々は怪訝に思ったかもしれません。それはテレルジの山での、あの愛の出来事の続きだと思います。O姉の心を私はうれしくなによりも貴くいただきました。


 

オユンナ宅

 A教会近くのO姉宅

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O姉宅でいただいたボーズとポテトサラダの夕食

ついでながら、その日の午後のイベントは、教会員のご家庭を訪問して、モンゴル料理を教えていただき、それを夕食にすることでした。3つのグループに分かれました。私は迷わずO姉宅を選びました。同伴のM姉、愛知のI兄と揃って教会近くの姉妹宅を訪問し、モンゴル料理ボーズの作り方を教えていただき、ご家族も加わってすてきな交わりのひと時を過ごしました。ご主人は寡黙な方ですが、いつも車をだして参加してくださり運転手役を務めてくださいました。私たちは別に宿泊していましたので、朝に夜に、送迎していただき、お世話になりっぱなしでした。

 

 

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旅の風から モンゴル紀行 その8 観光地テレルジへ 乗馬体験   

 

車窓


テレルジ

テレリジのゲル

 この日は奉仕からひとまず離れて、観光地として有名なテレルジへ行きました。出発前の案内では乗馬体験ができるとありました。モンゴルの草原を馬に乗って走るというのです!これこそ一生に一度しかないであろう一大チャンスです。トリップのメンバーは密かに大いに期待して、万が一のために保険までかけて備えました。

 

私ですか?冒険女の異名をけがすことなんてできるわけがありません。だれよりも早く名乗りを上げてーーー。いいえ、机上ではたしかに勇ましいのですが実際は大の臆病者。それに、あらかじめ娘たちにきつく禁じられていましたので、泣く泣く諦めることにしました。

 

さて、テレルジは首都ウランバートルから一番近い観光地だと一般の旅行案内の本にもあり、ちまたのツアーでも必ず訪れる観光地だそうです。はじめて、夢に描いた本物のモンゴルに

出会えるのだと胸をときめかせました。

 

参加者は私たちトリップだけではありません。前日訪問したグループホームの兄たちや教会員もいっしょでした。【モンゴルのマザー・テレサO姉】もでした。例によって定員超オーバーの車に詰め込まれて?心弾ませて出発しました。お天気は上々です。初日のような寒さはなく快適です。20度くらいでしょうか。

 

テレルジは市の東北東70キロほどに位置します。道の両側はほとんど無人の草原です。放牧地でもあるのか、時どき羊やヤギが群れています。しかし人影はありません。車も走っていません。一本道がはるかかなたまで続いている単調ですが雄大な風景が繰り広げられます。しかし、しかしです、路面は最悪です。スピードが出せるわけがありません。穴ぼこを避けながら、もうもうたる土煙の中を、今にも倒れんばかりによろよろと進むのです。たいてい、距離がわかれば到着時間もわかるというものですが、ここでは通用しません。何時に出発して何時に着いたのか、あまり気にしなくなりました。

 

さて、観光地として有名なテレルジとありますので、ウエルカムの大きな看板やお土産店がずらりと並んでいるかと思いきや、行けども行けども何もありません。確かによく見ると立ち寄れそうな建物がぽつぽつとありましたが、およそ日本的観光地概念は通用しません。やがて目的地へ着きました。なだらかな丘の一画です。大きなゲルが数個並んでいました。その一つが私たち一行に割り当てられました。木の入り口から頭を屈めて入ります。中は、ゲルの丸みに沿って簡易ベッドがわりのベンチが並んでいます。横になれるほどの長さがあり、6つ、7つありましたかしら。荷物を置いたり、腰かけたり、そのうち仮眠する方もおられました。

 

早速メインイベントの乗馬です。トリップは私を除いて全員挑戦です。30分コース、1時間コースと思い思いに選んで、皆さん大はじゃぎで馬上の人となり、草原に消えていきました。といっても、もちろんガイドさんや付き人がいるのです。これなら私だってーーーと、むずむずしてきましたが、調子に乗ってはいけないと自戒して、デジカメを向けるにとどめました。

 

ゲルは空っぽ。私だけになりました。留守番役です。人気のないゲルの扉の外で、澄み渡るモンゴル晴れの空を見上げ、丘の下の河原あたりを越えているだろう乗馬組を思いながら両手を思い切り上にあげ体を伸ばしていると、乗馬しないO姉たち教会員から声がかかりました。すぐ近くの山に野イチゴを摘みに行こうと相談が決まったらしく、私を誘うのです。モンゴル語なのですがどうしたわけか通じるのです。

 

振り向いて指差す山を見ればかなり急な斜面です。躊躇していると車を出すから途中まで行こうと再び誘われるので、ごろっと心が動き、仲間に入れてもらうことに決めてしまいました。車はなんと小型ですがトラックです。管理している方にゲルの扉を閉めていただき、トラックの助手席に乗り込みました。ほんの10分か20分だということでした。ところがこれが大きな誤算で、延々と長引いたのです。乗馬組が戻ってきたとき、ゲルは閉まっており、外で長く待たせることになってしまいました。大失敗の巻でした。

 

トラックは斜面などものともせず這い上がっていきます。しかしさすがにこれ以上は無理とわかったのでしょうか、木陰にストップしました。すると、荷台に乗っていた皆さんはさっと飛び降りて、ずんずん上に向かって上り始めました。私はまた一人残される羽目になりました。一瞬心細くなりましたが、運転手の男性が、自分は残るといわれたようです。ほっとしたものの、また違った不安がよぎりました。そのとき、すかさずO姉が、自分が残るから皆行きなさと言ったのです。私は、今度は大いに安心しすっかりうれしくなりました。野いちご摘みの一群はみるみる小さくなって岩場を登っていきました。

 

ゲルの中1 

ゲルの中2


ゲルの中3




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旅の風から モンゴル紀行 その7 モンゴル第二 夕方 アルコール依存症者のグループホーム訪問

グレースセンター

 

私たち日本からのミッショントリップ一行による地域向けイベントが一段落してその後、

アルコール依存症者のグループホームを訪問しました。グレイスセンターと言いました。

グレイスセンターは、教会員O姉夫妻、おもにO姉が中心になって運営、経営しておられます。O姉は教会草創期からのメンバーで、今4名のリーダー会のお一人です。44歳と自ら言われました。肉付きの良い大柄な女性です。何よりも心がイエス様の愛と熱情によって満ち満ち、豊かでふくよかです。私はO姉にすっかり魅せられてしまいました。

 

この日の行事には朝からホーム入居の兄たちが参加していました。彼らは教会の重要なメンバーです。O姉のケアーの過程で、クリスチャンになったのです。O姉の働きは偉大です。

 

グレイスセンターは、A教会よりもさらに町から外れた人家の少ない場所にありました。大きな施設かと思っていましたが、二階建てのごく小さなしもた家でした。現在は7名の男性が共同生活をしていました。多い時は15名もおられたとか。皆さん、アルコールの虜になって、家庭も仕事も健康もすべて失った方々です。アルコール患者専門の病院に収容され、治療を受け、完全に社会復帰できるまでの間、グル―ホームに入居しているのです。

 

O姉がなぜそうした方々に愛を注ぐようになったかを、姉妹は真っ先にあかしされました。かつて、御主人がアルコールの魔力に捕えられ、姉妹は長く大変な苦しみを味わいました。8年間祈り通して、ついにご主人はアルコールから解放され、さらにクリスチャンになりました。そうした経験をした姉妹はアルコール依存の方を見るとほっておけないのだそうです。自費を投じて家を借りて、一人、二人とお世話をし出して、今日に至っているそうです。

 

姉妹の証しも感動でしたが、入居者全員が代わる代わる自分の身の上と救いの証しをされたのには本当に感動しました。中には日本に働きに来られた方もいました。日本でアルコールから抜けられなくなったとか。何か責任を感じました。証しが終わると、入居の方々が造られた具たくさんのスープをごちそうになりました。夕食でした。

 

そのあと、建物の奥の庭に出ました。夜の8時は過ぎていましたがまだ日が差していました。いつまでも暗くなりません。草の上に座って、延々と話が続きました。O姉が将来のビジョンを語りました。今は借家だけど自前の建物がほしい、もっと多くの方々を入居させたいとのことでした。それが神様から与えられた使命だと信じていると。神さまが付いていれば絶対に安心だと、ゆだねきったみごとな信仰をあかしされました。ちっとも悲壮感や力むところがなく、ごく自然体で淡々と、よく考えるととても大きなことを語り続けるのです。一瞬、これはモンゴル気質かとさえ思いましたが、そうではなく、姉妹の信仰なのでした。

私は、ひそかに、O姉を【モンゴルのマザー・テレサ】と名付けました。

 

グループホームにO姉は入り浸っているのではありません。お子さんもおられ、教会のすぐ近くに住んでおられます。ご自宅を事務所にして仕事をしておられ、その経済をホームに投入しておられるようです。入居者たちは基本的には自主的に共同生活をしています。また、教会の兄姉も奉仕をしておられるのだそうです。ホームは教会の奉仕活動の場でもあるのです。おそらく、O姉夫妻は経営の資金面を担っているのでしょう。またO姉は入居者の心のケアーをされているようです。皆さんはO姉を母のように慕い信頼しているのです。

 

その夜のデボーションの箇所はなんとマタイ2540節。『これらの最も小さき者の一人にしたのはすなわち私にしたのである』でした。私は御霊の激しい迫りを感じ、みことばの前に震える思いをしました。

 

O姉とはその翌日に、二人だけで深く交わる時が与えられました。すてきな時でした。また書きます。

 

 

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旅の風から モンゴル紀行 その6 
 

イベント1

手巻き寿司

お寿司

イベント2


モンゴル第二日 ミッショントリップによる地域向けイベント

今回の旅はミッショントリップと呼ばれています。その最初が、A教会を会場に、地域に向けて、種々のイベントを催すことでした。一言でいえば、日本人メンバーによるフェスティバルです。日本文化の紹介や提供の時でもありました。当初、教団からは賜物を用いて何でもできることをしてくださいとのことでした。たび友のM姉妹と相談の結果、日本食を提供することにしました。巻き寿司とお好み焼きに決めました。最初、私は簡単なてんぷらを揚げたいと思っていました。かつてニュージーランドで大変好評でしたし、わりにらくにできるので、今回も喜んでいただけると、日本の空の下で、考えたのです。てんぷら粉やごま油やサクラエビは持っていこうとも思っていました。ところが、モンゴルの諸事情を知るにつけ、無理ではないかと思い始めました。案の定、教会堂の一隅のテーブルの上ではどうにもなりません。水道もなし、コンロもなしなのです。最後の望みも捨てました。

 

巻き寿司ならと、M姉妹と張り切りました。

ところが、5合炊きの電気釜が一つだけ。何十人の人が来るかわかりません。不安になりました。お米、その他は前日にスーパーで買ってきましたが、お米を研ぐのもままならず、です。お水がないのですから。それでも、太巻き用に卵焼き、ニンジン、キュウリなど、煮炊きしました。トリップ仲間の兄、姉も加わり、ようやく炊き上がったご飯ですし飯を作りました。

 

開会の時間前から、教会の方々、地域の方々、ちょうど夏休みなので、たくさんの子どもたちが来場してきました。テーブルの周りはすでに人の山。巻き寿司ところではなくなりました。急きょ、海苔を4つに切って手巻きずしに変更しました。海苔の上にすし飯をスプーンで乗せ、たまごやキュウリ、ツナ缶などを乗せ、紙皿で渡しました。そのうちにまた変更です。あちらからもこちらからも目の前に、大きな手、小さな手が突き出てくるのです。手の平にじかに海苔を乗せ、ご飯を乗せると、あとは自分たちでトッピングが始まりました。珍しいし、おいしいらしいのです。あっという間に食べてしまいます。すぐにまた手の平がでてきます。実に楽しそうに食べてくれました。口に合ったのでしょう。うれしくなりました。海苔もなくなると、ラップを小さく切ってご飯を乗せ、梅干しや削り節をお醤油でまぶして、おにぎりにしました。これも、またたく間になくなりました。

 

ふと、何か災害の時の炊き出しを思い浮かべました。実際そうした奉仕に係ったことはないのですが、もしかしてこんな風景かなと、申し訳ないけど想像しました。珍しいとかおいしいとかだけでない、もう一つ奥に何かあるのではと心を横切るものがありました。

 

お好み焼きにも人々が群がりました。プレートがないので、お鍋で焼くのです。なんだかお好み焼きとは呼べないような代物になりましたが、削り節とソースがたっぷりと掛かって、私もいただきましたがおいしかったです。そのうち疲れてギブアップしましたが、兄たちや若い姉妹が頑張ってくれました。

 

ある一画では、兄たちが、日本からたくさんのインスタントラーメンとわかめスープを持ってきて、カップに入れて配っていました。これまた大好評。ラーメンには、チャーシューの代わりにスーパーで買ってきた太いソーセージを厚輪切りにして添えていました。いいアイデアでした。

 

その間に、会堂のそこここに紙飛行機が飛び、けん玉に挑戦者が続出し、ドラムをたたく音が響き、卓球も始まりました。朝の10時ごろから4時過ぎまで、モンゴル時間というのがあるのでしょうか、とにかく参加者はタフで明るく、目いっぱい楽しんでくださいました。

 

しかし、その間、トリップ仲間はつまみ食いもままならず、隅にあるぺットボトルのお水を飲むだけ。立ちっぱなしでフラフラでした。こんなに長時間、体を使って奉仕したのは久々でした。昨今教会では、CSも愛餐会も退いて、隠居気分でいましたから。疲労の中にもさわやかな風が吹き通って行くのを感じ、感謝しました。夕方から、もう一つの予定がありました。このトリップの中で、忘れられない強烈な印象と感銘を受けた出来事です。
イベント6
けん玉


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旅の風から モンゴル紀行 その5 モルゴルの地の第一日 午後は歓交会

会堂

 

モルゴルの地の第一日 午後は歓交会

 

午後は、そのまま全員で教会に移動して、教会の方々との歓交会になりました。このA教会については1993年に開拓されて以来約20年、様々な経緯があり、順調な時ばかりではなかったと聞きいています。今も困難が続いています。しかし、今回、見る限りでは、子どもから年配者まで、常に230名の方々が平日にもかかわらず集まってこられました。お互いに言葉は通じないのですが、輝いた瞳からほとばしる親しみの感情、あふれる笑顔、うなずいたり、握手したり、時にハグしたりして、私たちを歓迎し、この後も滞在中ずっと、帰途の空港まで多くの時間をともにしてくださいました。

 

歓交会では、まず、A教会リーダーたちによる教会紹介がありました。4人の兄姉が代わる代わる講壇に立って、ノー原稿で語りましたが、実に堂々としていて、しかも口調は非常に熱っぽいのです。それを逐一D宣教師が日本語に訳してくださるのですが、彼らのモンゴル語の語調からだけでも、教会と神様に対する真実がじかに伝わってきます。『主の栄光のために』という訳語が何度も出てくるのが、とても感動でした。

 

次いで私たちトリップ一行が一人一人簡単な自己紹介をしました。私は、この人たちが知っているか知らないか、その事情は分かりませんが、スカイツリーを写した絵葉書をたくさん作って持っていきましたので、配りました。ある兄は持参のフルートを演奏して大うけでした。そのあと、日本ならティータイムとなるところですが、何もありませんでした。総じて、お茶が出たり、スイーツが配られることはありませんでした。これもお国柄でしょうか。

 

翌日は一日かけてミッショントリップによる地域向けイベントをします。私たちが主催でフェスティバルを催すのです。日本にいるときから自分にできることを考え、準備してきました。食材などは現地調達ができるとのことで、皆で近くのスーパーへ出かけていき、仕入れをしました。その足で、近くのイタリアンレストランで夕食をいただきました。そこにはシャワールームがあるとのこと、それが目当てでもありました。代わる代わる入浴気分を味わいました。

 

ところで、私の見た限りでの、また話に聞いた範囲内での教会員の様子を記しますと、

気が付いたことは、大人も子どもも、歯が気になりました。まず、歯並びが悪いです。子どもでは、小さい子に、昔よく見かけた味噌っ歯(こんな言葉御存じでしょうか)が目立ちました。上の前歯が抜けて茶色になってそのままです。また、若い女性でも前歯が抜けたままなのです。想像ですが、歯科医にこまめに通えないのかもしれない、歯科医がいない、あるいは医療制度が整っていないために、費用がかさんで通えないのではないかと思いました。

健康保険は、正規の社員はあるけれど、日本のように国民皆保険の制度はないとのことでした。当然、病気になっても、すぐに病院には行けないのではないか、大病ならともかく、風邪を引いた、腹痛を起こしたくらいでは病院のお世話にはなれないのではないか思いました。

D宣教師にお尋ねするときもありませんでしたが。

 

また、感じたことですが、あまり高齢者を見かけないのです。教会にもおられません。お孫さんを連れた初老の女性がおられましたが、一見、70歳くらいかとお見受けしました。ところが後で知ったのですが、まだ50代半ばとのこと。そういわれれば活力を感じましたが、日本の感覚で判断すると、明らかに70歳なのです。これはいったいなんだろうと考えてしまいました。後日、杖にすがるようにして室内を歩くのもやっとの老婦人にお会いました。80歳は過ぎていると直感しましたが、なんと70歳。この国は高齢者対策で困ることは今のところないのではと思いました。調べていませんが、平均寿命は低いのではないか、そんなことを考えました。



講壇 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

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旅の風から モンゴルの旅 その4 モルゴルの地の第一日

ゲストルームのあるマンション

          このマンションの一隅がゲストルーム

8
21日(火)

モルゴルの地の第一日 

予定は、午前はD宣教師によるガイダンスとA教会員との交わり。昼食の時。

午後、翌日の私たち日本のミッショントリップ一行による地域向けイベントの準備と買い出し。

 

到着日の夜は5度の気温に不安を感じましたが、それほどの冷え込みもなく、さわやかな青空のもとで朝を迎えました。私と相棒のM姉(教会の姉妹。今や部屋友でもあります)は、用心のためセットしておいた目覚まし時計がアラーム音を発するまで、ベッドでじっとしていました。その後、行動開始です。旅の間は、朝晩のデボーションはいっしょにしましょうと申し合わせていましたので、まずは二人してイエス様のみ前に頭を垂れました。

 

寝袋組から別れた私たちがあてがわれた場所は、モンゴルにある、JCS(ジョイント・クリスチャン・サービス)という団体の管理するゲストルームです。3つのベッドルーム、ダイニングとキッチン、リビング(使わなかった)と、二つのバスルーム、洗濯場があって、形式的には欧米並みの間取りでした。私たちは一つのベッドルームを仮の住処にしました。部屋の真ん中にダブルベッド、片脇にシングルベッドがあり、広々としていました。サバイバルを覚悟で寝袋を持参されたほかの皆様には申し訳なく思いましたが、高齢ということで大目に見ていただくことにしました。旅の後半は、二人の兄たちが空きのベッドルーム一つづつに入居してきましたが。コンドミニアムに滞在と言ったほうがわかりやすいでしょう。

 

D宣教師が前日に朝食の品々を用意してくださっていました。冷蔵庫には牛乳、チーズ、ヨーグルト、トマト、マーガリン、ジャムが入っており、食卓にはパン、インスタントコーヒーやミルク、紅茶が乗っていました。私たちはおしゃべりに花を咲かせながら、優雅に?朝食をいただきました。

 

モンゴルでは、電気は国中に行き渡っていると聞きました。電気ポットですぐにお湯が沸きました。ただし、水道は一部の地域しかありません。これこそがが大きな問題です。

 

みんなの宿舎

           トリップ一行の宿舎

A教会のある地区には水道はないのです。井戸水です。したがって水洗トイレはありません。シャワーもありません。このために、旅の間中、どれほど難儀したかしれません。寝袋組の方々は24時間水とトイレに戦い続けたのではないかと思います。私たちゲストルーム組は、朝晩はそれなりに水道水を使い、水洗トイレでしたが。日本では意識すらしない、生活の基本中の基本に、ことごとく体当たりされたのです。しかも場所はモンゴル国の首都ウランバートル近郊なのです。インフラの未整備、遅れをまざまざと知りました。

 

水

水を運ぶ少年(断って撮らせてもらいました)


ここで釈明しておきますが、インフラの遅れだけでその国を評価することは決してしませんし、してはいけないと思っています。利便性だけを追いかけた人工都市とその生活だけが人を幸福にするための目標ではないとは、今や世界共通の価値観であり、私たちクリスチャンは肝に銘じて知っています。

 

しかし、日本のようにインフラその他が世界一完備され都市化された、いわば無菌状態の中にいると、その対極の環境はかなりストレスです。もしかして、それは禁断の木の実であり、一度を食べてしまうと、その味が忘れられなくなるのではないか、そんなことを考えはじめました。一方、モンゴルには、禁断の木の実を食べる以前の、あの麗しいエデンの園があるに違いない、神様とごく自然にともに生きるアダムとエバがいるに違いない、そんな方々にどこかで出会えるような気がしました。

 

 

約束の時間に、門の前に出ていると、車があり、A教会の兄がお迎えに来てくださいました。5分ほどで、一行のお一人であるK学園のM学長に、あるホテル前から同乗していただきます。これがこれからの朝と晩の定番になりました。

 

寝袋組(たいへん失礼な呼び方ですが、拙い記事を理解していただくための方策です。おゆるしを)は教会から二つ目の路地脇に立つT姉宅の別棟に宿泊しています。T姉宅は工務店をしておられ、敷地内に自宅とは別に、おそらく従業員の住まいに当てているスペースだと思いますが、2階の4部屋を提供してくださいました。

 

私たち別泊組3名(後半は5名になります)が到着すると、ちょうど朝食を終えたところでした。4部屋の内の一つが、今後、全員の食事場所や集会場所になりました。

このトリップは原則として自炊です。昼食、夕食は、その日のプログラムによって、別の場所やレストランのこともありますが、朝食はここでした。(私たち別泊組はすでに済ませています)。

 

自炊といっても、調理場があるわけでありません。近くのスーパー(歩いて10分ほどのところに大型のスーパーがありました)で、すぐに食せるものを買い込んでくるのです。まず、お水から買うのです。11名分、時に14名分です。並みの量ではありません。費用もさりながら運ぶ兄たちのご苦労が忘れられません。水ほど貴重で重いたいものはありません。ふと、カナの婚宴の奇跡が浮かびました。あの時の、水汲むしもべたちと、スーパーからペットボトルを担ぐ兄たちが重なりました。感謝します!細いテーブルの上には、牛乳、ヨーグルト、おかずパン、甘いパン、みかん、紙カップに注がれたコーヒー、紅茶があふれかえっていました。この朝は、早朝に買い出しに行ったのでしょう。まもなく、D宣教師によるこの度のミッショントリップの概要が説明されました。

 

ちなみに、D宣教師のことや、同行したお仲間のことを語りたいのですが、ブログとはだれもが見られる社会性を帯びた発行物です。プライバシーを侵害するようなことがあったら一大事です。私の親しい友人たちだけが読者でないことを、常に意識していなければなりません。(驚いたことに、モンゴルの記事が始まると、がぜん、訪問者が多くなり、昨日は1000名を超えていました。何かの間違いかと思いますが、時どきこうしたことがあります)

掲げる写真も無人ばかりで、物足りなさを感じる方もおられるでしょうが、おゆるしください。特に、外国に出かけている宣教師のことは故意に曖昧にしています。

 

D宣教師とはほとんど初対面です。先生の近況報告もあり、質問もありで、そのままランチタイムに流れ込み、一度片づけた朝食が再び登場して、お昼になりました。

 (午後のことは次回に)

朝食風景

 宿舎の食事風景

 

 
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旅の風から モンゴル紀行その3 8月20日  


pekinn

                    乗り換えの北京空港           

8月20日 出発日・ウランバートルの夜は5度  


モンゴルの首都ウランバートルへは、チンギスハーン空港まで、日本から直行便が出ています。しかし私たち一行は費用のことがあったのでしょう、北京で乗り換える方法でした。直行なら
6時間ほどですが、乗り換えは出入国の手続きもあって時間がかかります。それに、飛行機の遅れが加わって、朝の9時に成田を出て、モンゴルに着いたのは夜の7時頃でした。

 

この旅はメンバー全員が顔を合わせるのは北京なのです。北京空港が集合場所でした。

関空から2名、中部セントレアから2名、羽田から3名、成田から6名の計13名が旅友というわけです。同じ教団に所属してはいますが、信徒同士はお顔はおろかお名前も存じ上げない方ばかりです。あらかじめ配布されたパンフレットでようやく教会名と参加者を知り、それからは日々祈り続けましたが、年齢などはわかりません。風の便りに、この旅は、高齢の方々が多いと知りました。ふたを開けてみたら、その高齢者とはなんと私と相棒のM姉妹だったのです。笑うに笑えず、改めて自分を再確認したことでした。内心、お年寄りには、何かとケアーしなければと思っていたくらいなのですから。

 

ウランバートルの夜は明るいのです。緯度の関係で7時はまだ陽が差していました。昼のようです。とっぷり日が暮れて暗くなるのは9時を過ぎてからでした。空港にはD宣教師とA教会の兄姉が出迎えてくださいました。すぐに車に案内されました。ところが、言いにくいのですが、日本ではめったに見られないような、いや、絶対に走っていないような、働きすぎた車でした。そこへ押し込まれました。定員は?。そんなものあったものではないらしいのです。1.5倍は乗りました。これはその後滞在中ずっとそうでした。後述しますが、郊外へ出たときは、810名乗りに、なんと18名乗りました。最初からびっくり仰天、サバイバルが始まったのです。

 

走り出したとたんに渋滞です。大渋滞です。そもそも市内へ入る道は1本しかないそうです。

ひどく揺れます。並みの揺れではありません。日本でいう舗装とは程遠く、土の道です。それも穴だらけ。ドライバーはその穴を避けるために左右にハンドルを切ります。ハンドルさばきは実に巧みです。スピードを落としてなるべく衝撃が少ないように配慮しておられます。しかし、運転技術だけでは限界があるのです。身構え、全身に力が入り、足腰を踏ん張って

危険に備えました。15キロ、340分のところを2時間以上かかって目的地A教会に到着しました。9時半を回っていました。

 

冷え込んでいました。5度です。35度の東京から来たのです。なんというサバイバルでしょうか。この先どうなるのだろうと、寒さもあって身が震えました。


教会前

        教会前の道(雨が降ると大きな水たまりができる)


A教会の会堂は明るく電灯がともり、待機しておられた兄姉が笑顔いっぱいで出迎え、テーブルには熱いお茶(モンゴルてぃー)とモンゴルの有名な料理、ショーホールが用意されていました。手作りだそうです。ショーホールは一言でいえば、大きな大きな揚げ餃子のようなものでした。たいへん空腹であったので、皆で飛びつきました。この時の味が忘れられず、後日、再度、所望したほどでした。

 

寝袋組の方々は近くの教会員が提供してくださる宿舎へ、私たち高齢者2人は、また市の中心へしばらく走って、宣教師団体のゲストハウスへ送り届けていただきました。真夜中近くになっていました。洗面もそこそこに(お湯が出ないのですーーーー)、私たちはベッドわきで感謝の祈りを捧げました。特に、我が教会には、今日か明日かの重篤な姉妹がいます。彼女のために心を合わせて祈りました。こうして、無事に初日を終えたのです。

 

教会内のゲル

教会の敷地内のゲル(住人がいる)

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