人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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心の風から 24時間使い放題 その1

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我が家のベランダのミニトマト


心に吹きこむすきま風に季節は関係がない。どこからいつ忍び込むのだろうか。なにやら不満めいた、自己憐憫めいた風がひたひたと這うように寄せてくる。いささか心が重くなる。

 

自分の年齢を老いの視点からばかり見つめてしまう。40代、50代には目をつぶってもできたことができない。それが悲しいと思ってしまう。心の張りもたるんでいる。それも悲しい。

先のことを考えると、あれも足りない、これも足りないと、悲観的になる。

 

過去を振り返ると、いったいこの歳まで何をしてきたのかと、無駄に生きてきたような気がしてならず、自嘲したくなる。最後は、私一人など、この世にいてもいなくてもなんの関係もないのだ。

 

 

日ごろ、偉そうに、明日のことは思い煩うな、何事も思い煩わないでーー。あなたの道を主にゆだねよ。主が心配してくださる。と人にも声高にいい、自分にも言い聞かせ、アーメン、アーメンと祈る自分はどこへ行ったのか。

 

私には時々そのような精神の混乱がある。一瞬、濃い霧の中に迷い込むことがある。

 

幸いなことに、すきま風は間もなく消え去り、霧も晴れてくる。長く混乱にとどまることはない。生来、短絡的なのかもしれない。単細胞とか単純とか、そういった類の人間なのだ。

 

夕方、グループホームに入居した老姉妹を訪ねた。ちょっと散歩がてら覗いたというべきだ。姉妹は、こんな遠いところへざわざわ来てくださったのねと、大喜びしておられたが、気恥ずかしい。ちょうど夕飯時であった。姉妹は、嬉々としてお茶を配っていた。その姿を見て、安心して入り口ですぐ失礼した。

 

帰宅の道すがらに、見上げる空はどこまでも高かった。夕方がいつまでも長く、秋でもないのにさわやかな風が吹きわたっていた。

 

ふと、新しい思いが湧き上がった。
24時間使い放題の自分の今を、発見したのだ。

                         (続く)

 

 

 

 

 

 

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風の仲間たち 隣人のグループホーム訪問
 

梅雨の晴れ間が備えられて、我が隣人は10名ほどの兄姉の愛労のおかげで、あっという間にホームに居を移しました。住所は≪かえで一番地≫。青々と芝生が目に染みる一階の角部屋です。初めての兄姉は歓声を上げていました。ワンルームとはいえ、そこで十分快適な時間が持てるように至れり尽くせりになっています。収納スペースもたっぷりあり、老人一人の持ち物なら全部納められるようになっています。正確な平米は今度職員に訊いてみようと思いますがかなり広いです。

グループの真ん中にある共同空間も快適です、リビングとダイニングにあたるのでしょう。リビングの前には超大型のテレビが設置されており、ダイニング部分にはキッチンもあり、食事つくりも行われ、9名の入居者が2名の職員とともに生活することになります。

 

今日は朝から一人の姉妹とともに旧宅の残りの荷物やごみの整理をし、新宅のK姉を訪問しました。昨夜はどうだったろうかと案じました。教会の兄姉はけんめいに祈ったはずです。

 

なんと、K姉は、リビングの真ん中で、持参したキーボードを弾きながら歌を歌っていました。K姉は、かつては保育士です。子どもたちと歌ったり踊ったりして半生を過ごしてきました。教会学校のベテラン教師でした。礼拝の奏楽者でもあり聖歌隊員でもありました。暗譜でたくさんの曲を弾きこなします。豊かな音楽の賜物をいただいているのです。先週まではデイサービスの施設で弾いていました。皆さんの前で演奏するK姉は、実に生き生きした表情で、得意そうでもありました。自分の能力を使える場所があるのはすばらしいことだとつくづく思いました。職員の方が上手に引き立てているのでしょう。

 

みんなで食事しておいしかった、夜もよく寝られたと、私たちの質問に答えました。ところが、真剣にこんなことも言われました。いつまでもここにはいられない、向こうの家に帰らなければならない。教会へも遠くて行けないし、それが困ると。私たちはやんわりと受け止め、教会の日は必ず誰かが迎えに来るから心配しないでと言いましたがこのあたりが未消化だなあと感じました。こだわってしまわないように、一日も早く慣れて、ずっと前からそこに住んでいるような気持になれるように祈るばかりです。ここまで驚くべき恵みでK姉を守られた主は、この先もきっとそうしてくださるでしょう。

 

姉妹に与えられた主の愛を目の当たりにして、係わる私たちはどんなに大きな希望をいただいたことでしょうか。また喜びをいただいたことでしょうか。K姉には主の栄光が輝いているのです。主が生きた神様であることの証拠でもあるのです。この先も、楽しみにK姉を見守りながら、できるだけ寄り添っていきたいと、話し合っています。 

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風の仲間たち 我が隣人の転居

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とうとう我が愛すべき老姉の隣人は、グループホームに入居することになりました。この2か月余り、入居の手続きで過ぎてしまいましたが、明日、礼拝後、教会をあげて荷物を移動し、新しいホームへ連れて行きます。今週は荷物整理をしました。教会の若手の姉妹たち数人とともに、ホームに持っていくものと持っていけないものを分け、持ち物に全部名前を記入しました。タオル一本、靴下に至るまで、名を書き込みました。ちょっと切ない気持ちになりましたが。

 

区内最大の老人施設が、10分足らずの場所にオープンし、老姉妹はすべての入居条件をクリヤーし、めでたく許可が下りたのです。老人性の症状が日に日に著しくなり、どんなに周辺が、目を配り気を付けても、一人暮らしは不可能になってきていました。皆で、この先どうなるのだろうと案じていたところでした。そこへ、目と鼻の先へ最新設備のすばらしい施設が誕生したのです。ほんとうに奇跡です。行政や施設側は自分たちの計画を進めただけでしょうが、姉妹にとって、また私たちにとっては、こんなうまい話があっていいの、というくらいのうれしい出来事なのです。

 

姉妹の唯一の活動の場である教会への行き来が短時間でできます。もう、今後は一人で自由に外出することは禁じられるでしょう。送迎が必要になるでしょうが、それが簡単にできます。何よりもそれが感謝です。姉妹から教会生活を取り上げることはできませんが、遠隔地でしたら、体力的にも困難になってくるでしょう。

 

ご当人は、気乗りがしないようです。でも、根がすなおで信仰深い方ですから、周囲の人たちの愛を感じとれるのでしょう。行きますと明言し、覚悟もできたようです。

 

明日午後、お天気も守られて、我が教会の大名行列が無事に新しい宿場へ移動できますようにと祈ります。姉妹をお駕籠ならぬ車にお乗せして、私たちは荷物を抱えて付き添うつもりです。大きな課題が前進してこんなにうれしいことはありません。

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聖書の風から 赦されることへの一考

新大久保

  


6
月も後半に入って、梅雨のまっただ中です。こんなに空の顔色を気にし、ご機嫌をうかがう時期はないでしょう。人間を小さく感じさせる味のある時節といえましょう。

 

今日は今月第三の主の日です。今朝も主を近くに感じながら礼拝へと急ぎます。皆様方の主の日が祝福に満ちたものでありますように。

 

私のもう一つのブログ『聖書の緑風』は、その名の通りダイレクトに聖書や信仰書からいただいた恵みを記しています。コメントは受け付けないように設定していますが、訪問者が多いのには驚きます。時たましかアップできないのですが、それでも訪ね人が絶えません。みことばのもたらす影響力の大きさに改めて感慨を深くしています。

 

最近の一つをここに転載します。

 

 

ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

赦しの精神


テキスト要旨

自分のもろもろの罪は神によって赦されていると考えていても、他の誰かを赦そうとしていないなとしたら、それは思い違いをしているのであって、決して赦されてはいないのである。自分がキリストの血によって赦されていることを知っているなら、他の人々を赦さずにはいられない。キリストを本当に自分の《救い主》として知るなら、心砕かれ、かたくななままではいられなくなる。主もそれを明らかにしておられる。『……人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません』(マタイ61415

このことは絶対的で避けられない。真の赦しは人を砕く。赦さざるを得なくなる。私たちの心の中に赦しが見みいだされない限り決して私たちの祈りは純粋なもの、真実なもの、有用なものでありえない。

 

ロイド氏は鋭く胸を突いてきます。私たちは心底自分を罪深いと思うし、その罪を赦されたいと祈り求めます。そして、悔い改めれば赦される(第一ヨハネ1章9節)とのみことばによって全く罪赦されてきよくされたと信じ、感謝する者です。しかし主は一方で、ロイド氏の説くごとく、人の罪を赦さないなら、赦されないと言われます。主の祈りにも明記されています。では、私たちの罪は、十字架の贖いを信じて、告白しても、人を赦さない限り赦されないのでしょうか。これは福音の真理を平面的並列的に考えているのでしょうか。立体的にとらえるべき事柄なのでしょうか。

 

ある出来事によって不快な思いにさせられたり、危害を加えられたり、傷つけられたりすると、怒りや憎しみが渦巻き、あるいはいつまでもわだかまり、すっきりしないことが多くあります。時には顔も見たくない、口も利きたくない、近づきたくない人もいます。それは赦していないという証拠でしょう。そうした場合、私もまた主に赦されていないということなのでしょうか。もちろん、人を憎んだり怒ったりするは罪であるとは承知していますからその罪の赦しも祈り求めます。しかし、苦い感情は一朝一夕には消えません。その事実を忘れることはできません。いつまでも残り、また時々思い出してはかつてのにがにがしい思いが湧き上がってきます。それは、赦していないことなのでしょうか。と同時に、私は赦されていないのでしょうか。

 

再び主の祈りを思い出します。

『我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ』

 

罪の赦しを乞う祈りの前提には、他者を赦す自分がいなければならないのです。他者を赦したという捧げ持物を携えて、祈りの祭壇に行くことです。そのように理解しました。実践し、真に主に赦され、喜んで交わりに入れてくださる、そうした者になりたいと祈ります。

 

 

 

 

 

 

 
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日々の風から 梅雨入り

あじさい

  紫陽花


 

そこかしこいたるところにみられる紫陽花がいかにも生き生きとしている。

梅雨に入っていちばん喜んでいるのは紫陽花ではないだろうか。

一株なのに人の背丈以上も上背があり、

根元足元が見えないくらいに腕を広げ葉を茂らせている。

その間から人の頭ほどもある大きな花がふっくらとゆったりと咲いている。

なんと悠々とした花だろう。

おいしそうに体いっぱいに雨滴を吸い込んで、

それを消化して、美しく自分を表現している。

見る人の心に届けたいのだ。無心に使命を果たしているように思える。

いや、届けたいとか、使命など、こざかしい理屈はなどないのだ。

そこで、植えられたそこで、咲いているのだ。それだけなのだ。

 

見る人の 心ごころに まかせおきてーーーは、秋の月だけではない。

 

ふと見れば、薔薇も、はてはドクダミまで、心いっぱい咲いている。

 

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日々の風から 6月の風の中へ


夜のツリー1

夜のツリー2

 

もう6月。月日の足は速くて追いつけない。
追い風に乗って走っているようだ。

あわてて追いかけるのだが、
私には無情な向かい風のような気する。

 


長女ファミリーが夕食を済ませてスカイツリーそらまちへ出かけて行った。だが、とてもともに行く元気はない。居残るばかりである。外に出て行って、東の満月?と西のスカイツリーを眺めるだけで我慢した。

 

そこへ携帯から写メールが届いた。みごとなツリーである。そばへ飛んでいきたくなった。

こんなふうに見えるなら、そのうちにきっと行って確かめてきたいものだ。

 

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