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旅の風から 『宗教改革の足跡とバッハをたどる10日間』その12 ヴィッテンブルク
1515年からルターはこの町の大学でローマ書の講義を担当しました。それ以前数年間、ルターはヴッテンベルク修道院の塔の中で詩篇、ローマ書、ガラテヤ書などを研究しました。研究を通してルターは《人はどのようにして救われるのか》との積年の疑問に答えを見いだします。それはローマ書3章28節『人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による』というものでした。ルターはこのみことばによって新しく生まれ変わる体験をしたのです。これを世に『塔の体験』と呼びます。 ちょうどそのころ、まるで合わせたかのように、ローマ教会は免罪符(贖宥券)を販売しました。これを買えば罪が赦されるというものです。今考えるとまるで子供だましのようです。子供でもだまされないかも知れません。(いやそうでもないかも知れません。今でも、神社でお守りやお札を買う人がいます。幸せを買おうとするのですから罪の赦しよりももっとたちが悪いかも知れません)。人々は自分の罪に大きな関心があったのです。罪が赦されるためならと、多額のお金を出して買ったのです。ルターはこれに大いに疑問を抱きました。
そこでルターは上述のように1517年10月31日正午頃、自分の主張をまとめて『95箇条の提題』としてヴィッテンベルク城教会の扉に提示しました。この教会は大学付属の教会であり、この文書はラテン語で書きましたから、一般市民に対するものではありませんでした。大学の教授や学生を対象にした公開討論でした。 (この辺はOBIのクラスで横山武先生が繰り返して教えてくださったことです) 私たち一行は10月1日、秋晴れのすがすがしい一日、世界遺産に登録されているルター町、宗教改革の発祥地ヴッテンベルグへ入りました。そして、走るように待ちに待ったあの城門目指しました。門扉は残念ながら当時のような木製ではありません。それは18世紀の七年戦争の時に消失したのです。19世紀に現在のようにブロンズで再現されたそうです。ラテン語で95箇条がびっしりと刻み込まれていました。
2011.10.31 Monday 15:28
旅の風から 『宗教改革の足跡とバッハをたどる10日間』その11 ライプチヒ
今回の旅のクライマックスの一つは、聖トーマス教会のコンサートに参加することでした。教会付属の合唱団が大聖堂でバッバを歌うのです。夕方6時開演でしたが、教会の入り口にはすでに4時から列ができていました。指定席があるわけではなく、ベンチに座るだけですから、聖歌隊がよく見える席を確保するためには並ぶしかないのです。入場料はわずか2ユーロでした。コンサートと呼んでいますが、夕拝のように思えました。説教も会衆賛美もありました。確か主の祈りもありました。こんな体験はほんとうに一生に一回でしょう。 バッバのいるステンドクラス 2011.10.29 Saturday 21:48
旅の風から 『宗教改革の足跡とバッハをたどる10日間』その10 アイスレーベン
父はハンス、母はマルガレーテといい、子どもを愛しましたがしつけは厳しかったそうです。 父ハンスの家は農民でしたが、父はまもなく炭鉱都市へ移り鉱夫になり、勤勉と倹約によって富を蓄積し溶鉱炉を二つ持つ小工場主になり町の有力者になりました。しかしルターは後年自伝の中で「私は農民の子である。私の父も祖父も祖先も生まれながらに農民である。父は若いとき貧しい鉱夫であった。母は背中いっぱい薪を負って家に帰った。こうして父母は私たちを育てた。私は農民出身である」と言っています。(直接自伝を読んだわけではなく孫引きです)敢えて農民を強調するには、なにか深い考えがあったのでしょう。 ルターは5歳の時にラテン語学校へ入学します。当時何をするにもラテン語が基礎だったのです。14歳の時は家から離れてマグデグルクのラテン語学校へ入学し、さらに15歳からはアイゼナハの聖ゲオルグ教区学校に入学します。全て父の命令です。父は教育パパだったようです。このアイゼナハでの生活は、この旅行記の最初に紹介しました。その後ルターの人生は18歳の時の『シュトッテルハイムの落雷体験』へと導かれていきます。ついでながら、この落雷体験から、パウロがダマスコ途上で、復活のイエス様に出会った出来事を思い出しました。 落雷体験後、すぐに修道院に飛び込んだルターは、厳しい修道生活に耐え、24歳で司祭になり、まもなくミサを執行しています。 旅の一行は次の宿泊地ライプチッヒへ向かいます。そこはバッハ一色で、ルターから少し遠ざかりますが、中一日おいて再びルターに戻り、ルターがかの95箇条の提題を貼り付けたヴィッテンベルク教会の門扉の前に立つことになります。 2011.10.27 Thursday 08:13
旅の風から 『宗教改革の足跡とバッハをたどる10日間』その9 エアフルト
ルターは1501年〜1505年まで、この町のエアフルト大学で法律を学びます。ルターの父は、息子が法学を習得して、将来は有能な法律家、または行政官として活躍するのを希望していました。ルターは寮に入り厳しい勉学に熱心に励みました。優秀な学生でした。 1505年、ルターは修士になり、前途は洋々たるものでした。父の期待はますます高まり、ルター自身も、まっしぐらにその道に突き進んでいたのです。
ところが、1505年7月、神様以外にだれ一人として予想もしなかった出来事が起こったのです。世に言う『シュトッテルハイムの落雷体験』です。 その日ルターはアイスレーベン(*この地も訪問します)の自宅からエアフルトに戻る道を歩いていました。すると急に暗雲が広がり、激しい雷雨になりました。突然、激しい稲光と轟音が鳴り響くと、ルターのそばに火の玉が落ち、彼は地面にたたきつけられました。ルターは死の恐怖におののきました。(以上は、読んだり聞いたりしたことです) ルターは叫びます。「聖アンナよ、助けてください。私は修道士になります」 (聖アンナとは、鉱山の守護女神。当時の人々はそれぞれこうした聖人たちを身近な守り神として信仰していました) ルターの落雷体験ととっさの祈りと誓いの言葉こそ、これからのルターの人生を大転換させただけでなく、中世の世界を揺り動かし、目を覚まさせる一大出来事、宗教改革が始まるファンファーレとなりました。500年後に生きる私たちは、これこそ神様のご計画の幕が切って落とされた偉大な瞬間であったことを確信します。 ルターの決意は堅いものでした。翌日すぐに町のアウグスティヌス修道会の修道院に入ってしまいます。怒ったのは父ハンスです。無理もありません。父との関係は断絶、しばらく修復の余地はありませんでした。しかしルターはまっしぐらに修業の道に没頭します。その生活は誠に厳しいものだったそうです。一年間は見習い修道士として厳しさに耐え、1,506年には正式の修道僧になりました。 ルターの入った修道院
この午後はルターの生誕地アイスレーベンへ進みます。 2011.10.26 Wednesday 11:32
旅の風から 『宗教改革の足跡とバッハをたどる10日間』その8 コーブルク
すでに書きましたが、ルターは1522年ヴァルトブルク城に匿われたときには新約聖書を翻訳しました。1521年ヴォルムスの国会に召喚されましたが、主張を変えなかったので追放の身となった時のことでした。その後ルターの戦いは激しさを増し、ローマ教皇から破門され、同時に神聖ロー帝国から追放されました。 1530年4月から10月まで、ルターはコーブルクの城に匿われ、旧約聖書の翻訳に取りかかりました。これが完成し、出版されたのは1534年のことです。 コーブルク城は、ヴァルトブルック城と同様に古い歴史があり、多くのコレクションや逸話がある名城です。城塞の城です。ドイツで2番目に規模の大きい城だそうですが、1番目はわからないそうです。この城は、ルターを保護したザクセン選帝候の滞在地であったことから、ルターを住まわせました。 ルターの使用した部屋に入りました。先のヴッテンベルクと同様に、机が一つあり、ルターやルターを庇護したザクセン選定候フリードリヒ賢明王の肖像画などの展示物がありましたが、いたって簡素そのものでした。明日をも知れぬルターが、選定候初め友人などの味方があるとは言え、孤独の中でひとり聖書翻訳に没頭したと思うと胸に迫るものがありました。これは日本人特有の感傷でしょうか。ルターといえば、燃えさかる火のように、あるいは鉄のように、熱く強い、情熱と意志の人のように思われます。特別に信仰の人に思えます。そうでなければ、当時の絶対社会、ローマカトリックにプロテストすることなどできなかったでしょう。 しかしルターは世話好きで情に厚く、一人の魂を愛して切々と手紙を書く人でもありました。ルターの個人的な手紙は3000通にも及ぶそうです。脱走修道女を匿い、ついにその一人である、カタリーナ・フォン・ボラと結婚するのです。与えられた子どもたちのために、讃美歌を作って歌うよき家庭人でもあったのです。娘マグダレーネに先立たれたときは、一目もはばからず泣き伏したそうです。先にヴォルムスの国会で、皇帝カール五世以下諸侯の居並ぶ中で審問されたとき『我ここに立てり』と、死を目の前にしても断固として自説を曲げなかった改革者ルターと、家族や弱者を愛するルターに惹かれます。 この日はエアフルトのホテルに一泊。翌日はルターの生誕地アイスレーベンへ入り、その後一路ライプチヒに向かいます。まだ三日目です。先は長いです。 2011.10.24 Monday 09:25
旅の風から『宗教改革の足跡とバッハをたどる10日間』その7 アルンシュタット
ずっと晴天続きです。気温も24度にも上り、予想を覆して暑いほどです。こちらでも珍しい天候だそうで、《年取った女性が最後の力を振り絞っている》と形容するそうです。しかし、このたとえはおもしろくありません。笑う気になどなれません。男性が言ったに相違ありません。 移動のバスは快適です。朝、走り出すとすぐに賛美と祈りをささげます。賛美の指導は声楽を学ぶI姉、祈りは参加者が順番で担当します。移動時間が長いときは、団長のY先生が講義をしてくだり、動く教室になります。日本からテマサトラベルのSさんはもちろん、現地のガイドさんも乗り込んでいます。 ついでに、海外では気をつけなくてはいけない飲料水は、バス内で運転手さんが1ユーロで売っていました。安くて便利です。大いに利用しました。ついでに今回は円換算のユーロが安くてたいへんお得感がありました。私は旅行の2週間ほど前に換金しましたので112円でしたが、それからも連日下がっていました。昨年のオーストリヤ旅行の時は125円でした。また、ドイツは物価が安いです。一面的な比較ですが、パン一つとっても、日本なら200円はくだらないドイツパン(ドライフルーツや木の実の入ったしっかりしたもの)が80円ほどです。主婦感覚でざっと類推しても日本の半値以下だと感じました。 この日の最初の訪問地アルンシュタットは、チューリンゲン州最古の町と言われ、こぎれいで静かなたたずまいでした。家々の窓には、絵のように、いえ、絵よりも美しく花が飾られていました。写真でご覧ください。この町にはバッバがオルガニストを努めた教会があります カトリックの教会堂は、宗教改革後はそのままプロテスタントの教会として使われているところもあるそうです。現在も、です。カトリックの司祭によるミサが、牧師の説教中心の礼拝に変わったということでしょうか。 コーブルクへの途中でお昼をいただきました。全員で、とあるレストランへ入りましたが、オシャレですてきなお店でした。お食事もおいしかったです。一般的な感想ですが、ドイツの味付けは塩味がきついように思いました。 次は宗教改革史で、またも見逃すことのできない重要地点コーブルグです。
2011.10.21 Friday 18:21
旅の風から 『宗教改革の足跡とバッハをたどる10日間』その6 アイゼナハ
ヴァルトブルグ城こそ、宗教改革の一つのクライマックスです。ここはローマ教皇から国外追放の命を受けたルターが、友人たちの助力によってこの城の一室に匿われ、わずか3ヶ月で、新約聖書をラテン語からドイツ語に翻訳した場所だからです。 それまで聖書は一般民衆は読むことができませんでした。難しいラテン語でしたから。しかしドイツ語の聖書ができたのです。人々は自分たちの言語で書かれた聖書を手にすることができました。これはそれまでの宗教界(ローマ教皇を中心とするカトリック教会支配の宗教界)を根底から揺り動かし、改革する一大原動力になったのです。ルターの聖書を待っていたかのように、グーテンベルグの発明による活版印刷の技術があったればこそですが。 城は町からバスで20分ほど山道を登った頂上にいかめしく建っていました。ドイツでもっとも城らしい城とのこと。1999年には早くもユネスコ世界遺産に登録されました。 この城はルターが匿われたところとして、そのことだけで有名になったとばかり思っていましたが、とんでもないことでした。建城の由来を初め、たくさんのエピソードがありました。その歴史は1000年にも及びます。日本の名城にも多大な逸話があるのと同じです。それを書きたいのですが、本筋の宗教改革から外れますので、他の機会にします。 このお城に着いたところで、私は大きなミスをしました。デジカメが電池切れになってしまいました。残念至極です。かろうじて携帯で城の外を撮りましたが中は写せませんでした。 帰って来てから、友人のY姉にお願いしてルターの部屋を送っていただきました。 2011.10.19 Wednesday 21:54
旅の風から 『宗教改革の足跡とバッハをたどる10日間』その5 アイゼナハ
2011.10.16 Sunday 20:59
旅の風から 『宗教改革の足跡とバッハをたどる10日間』その4 アイゼナハ
アイゼナハは修道僧になる前(献身する前)のルターが、父の命で、家を離れて聖ゲオルグ教区学校に入学し15才から18才までの3年間ラテン語の勉学に励んだ町です。この町で、あの情熱の人ルターは早くも一人の夫人の心を捉えました。
ルターハウスはこの町で一番古い木組みの家だそうですが、家の内外は人であふれていて、残念ながら使えるような写真は撮れませんでした。 若き日のルターに目をかけたコッタ夫人に非常に惹かれました。こうした話は珍しくはないのでしょう。近代国家が出来上る前は、社会保障や公的救済は皆無でしたでしょうが、日本はさておき、キリスト教信仰が社会の隅々にまで浸透していた西欧には、心ある富者が社会的弱者を積極的に救済した話はよく聞きます。それは慈善とか慈悲という美しい言葉を作りましたが、コッタ夫人もそうした慈悲深い女性だったのでしょう。 その彼女が、知らずして後の英雄ルターに目をかけ、ルターを庇護したのです。ただ通りいっぺんの慈悲ではなく、自分の家に寄宿させて目をかけたのですから、ルターの中にあるある種のエネルギー、才能に強く打たれたのではないかと思うのです。このことはルターは幸いでしたが、コッタ夫人もまた、ルターゆえに幸いな女性であったと思います。『ある人は知らずしてみ使いをもてなした』とありますが、これもルターを用いるための主の遠大なご計画の一つではなかったでしょうか。 次にバッハの家に行きました。(続く) 2011.10.14 Friday 19:03
旅の風から 『宗教改革の足跡とバッハをたどる10日間』その3 旅へのいきさつ
今回の旅には前物語があります。 10年ほどにもなるでしょうか、まだ母が健在で、父を見送った後、のんびりとひとり暮らしをしていた頃でした。もちろん私とは同居でしたが。私は母校お茶の水聖書学院の研究科に在籍し、学びと交わりを楽しんでいました。聖書と女性セミナーを開催し、また日本クリスチャン・ペンクラブでも力一杯奉仕していました。大きな病気になる前でした。 いつもクリスチャン旅行社のテマサトラベルから旅行案内が送られてくるのですが、ある時『宗教改革とバッバの旅』にたいへん強く惹かれました。旅行友達のNさんと話しているうちに意気投合、自分なりに大きな決断をして申し込みました。ところがです、参加人数不足のため、催行できないことになりました。 こんな事もあるのだと、ツアー経験の少ない私は初めて知り、少なからずショックを受けました。それ以来見果てぬ夢は消えることなく、ふくらみ続けました。しかし、その後は、旅行などできる状況ではなくなりました。私自身が大きな病気をし、やがて母の介護が始まってしまいました。旅への思いは残りつつも、現実の厳しさに、正に夢となってしまいました。 2009年になって、お茶の水聖書学院20周年記念事業に係わる中で、記念研修旅行案が出て来たとき、私は宗教改革の旅を積極的に提案しました。協議の結果、2011年春にイスラエル、秋には宗教改革の旅と、二つの研修旅行が打ち出されました。宗教改革については、前期の半年間、そのための学びのクラスが開講されることにもなりました。 今度こそと、ひそかに決意を固め、祈りつつ、まず春からの学びに参加しました。こうしてこの春から半年間15回に亘って宗教改革の歴史を学ぶことができました。教会史の碩学Y牧師のクラスを受講できたことは願ってもない喜びであり大きな収穫でした。クラスの大半は旅行参加予定者で埋まりました。 8月半ばには旅行社に申し込みをしました。10年越しの夢が実現するのです。しみじみと感謝しました。主は小さな願い事をも忘れずに覚えておられ、いちばんよい時に、いちばんよい方法で実現してくださったのです。Nさんと二人で行くものよかったでしょう、でも、学院の先生方と大勢の友人たちとの方が、もっと豊かで有意義でしかも楽しいでしょう。 Nさんはもちろんですが、Y姉も、T姉も、H姉も、久しぶりのM姉も、思いがけなく懇意のH牧師夫妻まで参加することになり、弥次喜多道中は一変して、イエス様を中心にした大名行列になりました。 かくして、9月26日、成田まで京成電車一本で行ける私は、早朝5時半に、最寄り駅まで婿殿に送ってもらい、大きなスーツケースとリュックを背負って、アクセス特急に乗り込みました。私の心は、おみやげ用に半分は空けたスーツケースのように軽く?、ぎっしとリと詰め込んだリュックのようにはち切れそうに弾んでいました。まるで、○○年前の修学旅行生のようでした。 成田8時30分発のルフトハンザ711便は30分遅れでフランクフルトへ向かい、10時間半のフライトを終え午後4時無事着陸しました。空港では気温24.5度の真っ青な空と大型バスに出迎えられ、一路最初の訪問地アイゼナハへ、2時間半の道を走り出しました。(続く)
2011.10.11 Tuesday 18:51
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