人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 梅雨入りと台風襲来と

榛名


 

えっ、もう 梅雨入りですか。ちょっと耳を疑いました。それに強い勢力を持つ台風がグングンと北上してくるとは。あの3・11大震災以後、自然の動向には恐怖心を抱きつつ目が離せません。と言っても何もできないのですが。それにしても、梅雨入りはたいてい6月も2桁を迎えたころではないでしょうか。

 

一年中で一番爽やかなのは5月の中旬から6月の梅雨入りまでの時期ではないでしょうか。若いことは気が付かなかったのですが、近年この時期の麗しさを大いに楽しんでいるのです。暑い日があっても、梅雨を経験しない前の暑さは耐えられます。暑さの中にもしなやかさを感じます。風だってそうです。薫風と言われるくらいですから。

 

今年もあと10日くらいは初夏の日々、特にいつまでも明るい夕暮れを楽しみにしていました。ことさらに遠方に行かなくても、そこここにふんだんに満ち満ちている初夏の姿を見たかったのです。レモンシャーベットのように味わいたかったのです。

 

それはそうと、梅雨を嫌ってはいけないのでした。梅雨には梅雨の使命があるのですから。

それにしても、北上中の台風は歓迎したくありません。被災地に被害はありませんように。強く願い祈ります。

 

記事書きかけで、思い立って久しぶりに群馬路に向かいました。この2日の間に、台風は温帯低気圧に変り、その余波で、群馬路も大雨、しかし朝は雨があがり、雲の切れ目から雨に洗われた新緑の山々がくっきりと見えて心広がる思いでした。

 

さて、夕方の東京は、群馬路よりずっと荒々しい天候。大風が吹きまくり、冷えた空気の中を雲が飛び、雨粒さえ降りかかってきました。ところ変われば天気変わるを、まざまざと体験し、刺激の多い週初めとなりました。

榛名の雲

 
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心の風から 讃美歌『ガリラヤの風かおる丘で』

農園3

クリスチャン生活に欠かせないものは聖書と祈りと讃美であろう。それは大切にし愛しているものでもある。聖書も、祈りも、賛美も、励ましと慰めと希望と愛を与え、さらに教え、戒めて、信ずる者たちを正しく生かしてくれる。神様からのいのちあふれる贈り物と言えよう。

 

特に賛美は即効性の早い薬のようだとおもう。

大きな苦難の最中にあって、聖書を開くことも祈ることもできないとき、ふと、唇に上るひとつの賛美歌で我にかえることがある。

 

賛美歌はメロディーに捕えられるのはもちろんであるが、歌詞にも心揺さぶられる。メロディーとともに歌詞が浮かんでくる。歌詞を噛みしめながら自分の思いを乗せるのである。

 

最近、しきりに歌っている賛美歌があります。

歌詞を味わってください。ご存じの方は歌ってください。

聖書の場面が浮かび、イエス様が生き生きと今、私に語ってくださるようです。

初夏の今にピッタリの賛美ではないでしょうか。ガリラヤに薫る風は希望の風です。

 

『ガリラヤの風かおる丘で』

歌詞・別府信男、曲・蒔田尚昊(日本基督教団出版局 讃美歌2157番) 

ガリラヤの風かおる丘で

ひとびとに話された

恵みのみことばを

わたしにも聞かせてください。

あらしの日波たける湖(うみ)で

弟子たちにさとされた

力のみことばを

わたしにも聞かせてください。

 

ゴルゴタの十字架の上で

つみびとを招かれた

すくいのみことばを

わたしにも聞かせてください。

夕ぐれのエマオへの道で

弟子たちに告げられた

いのちのみことばを

わたしにも聞かせてください。


(『聖書の緑風』にもアレンジして、この記事を載せました。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日々の風から 5月は勉学の月

石井6

 

5月からではないけれど、4月の新学期から久しぶりに一つのクラスを受講し始めた。『宗教改革の歴史』である。母校お茶の水聖書学院の上半期に登場したので、迷わず申し込んだ。学院には長年にわたって月一回の研究科リサートコースに在籍してきたが、これとは別の一般の授業である。『教会史』は本科生の時すでに学んでいるが、かれこれ20年前になる。

 

当時の教科書であるE.E.ケアンズ著『基督教全史』を再び使うことになった。箱入りのぶ厚い一冊である。取り出して見ると、箱は周辺が茶色に変色しているが、背文字は鮮やかな金色。濃紺の地色の中に当時のままを保って光っていた。しっかりしたハードカバーで700ページにもなる。このたびは重さが気になった。身にこたえるのだ。20年前にはおよそ感じなかったことだ。重いからといって教室に置きっぱなしにはできない。予習、復習もしなくてはならない。殊勝な?学生である。

 

担任の先生は、20年前の敬愛するY先生である。もっとも、Y先生と授業が忘れられなくて、リピーターになったのであるが。先生の風貌は20年前と大きく変わってはいない。驚きなのだ。もっとも20年ぶりではなく、時々学院でお顔を拝見してはいたが。身のこなしがきびきびとして、年齢を感じさせない。にこにこと気さくなごあいさつをくださる。講義も20年前と変らない。言葉のスピード、声の大きさも。それにしても、私は20年前とは大いに違うなあと思ってしまった。

 

特に、今回は『宗教改革の歴史』に集中しての15回なのでたいへん楽しみである。心に熱く燃えるものがある。学ぶとはなんという喜びであろう。それにしても、なんという幸いであろう、この年齢にして、こんなことが出来るのだから。しみじみと主に感謝する。

 

宗教改革の英雄、ルターを中心に学ぶのであるが、彼一人にとどまらないのは当然である。いままで細切れに入っている知識が、時系と地域と人物たちを巻き込みながら、統合整理され、あるいは加えられて、私自身の宗教改革史として身につくことを願っている。しっかり消化、吸収させていただきたい。その意味で、5月は勉学の月である。新緑の匂いは向学心を刺激する。感謝である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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日々の風から 子どもと高齢者の風と光

石井5

花の4月、では5月はと問えば、風の5月、光の5月ではないでしょうか。子どもの5月ともいえます。この時期、子どもたちの姿は、まるで風の中を、光の中を、飛んでいるように見えます。

まるで天使たちのようです。(この際、聖書的にどうのこうのというのではありません。ちょっとした形容です)。子どもたち自身が風のようです。光のようです。

 

子どもとの対局に、高齢者がおられますが決して差別ではありません。年齢的区別です。

友人が二人期せずして転倒しました。お一人は歩道の縁石の段差で、お一人はご自宅のキッチンで。お二人とも、前歯を折りました。さらにお一人は肩の骨を折ってしまい、入院、手術なり、大事件になってしまいました。年齢を思わせない活発な動きをなさる方でしたので、とても考えらないのです。お見舞いに伺ったら、「あなたも気をつけてよ」と諭されました。ほんとうにそうだと思います。

 

礼拝の中で献児式がありました。数年前に結婚されたファミリーに第二子が誕生しました。2ヶ月を過ぎた元気のいい赤ちゃんが、お父さんの腕に抱かれ、お母さんはちょろちょろと走りまわる2歳になったばかりのお兄ちゃんを追いかけたりだっこする中で、祝福のみことばが読まれ、祈りがささげられました。おもわず笑みのこぼれる何とも麗しい光景でした。日本の将来も希望が持てるなどと、たいそうな事を考えさせられほど、光と希望が差していました。

 

この3月に、闘病の末、奥様を天に送った年配の(70代初め)兄弟が、気が付くと一日中家から出ていない、出る気がしないと話され、驚くとともに大変心配しています。三度のお食事もいい加減とか。このままだと身体的にも精神的にも支障が出てくるでしょう。どうしたらいいのだろうと、数名の方々と話し合っています。なかなか名案がありません。係わるのにも限界があります。どうにかして、お一人暮らしに慣れていただくしかありません。

 

89歳で、また82歳で、独身を通したまま老いた姉妹たちは、独り暮らしを続けておられますが、いたってお元気です。教会のお食事もしっかり完食し、しゃきしゃきとしておられます。

神様の家族が、イエス様の教会に日曜毎に集まって礼拝し、交わりをしますが、高齢の方々は教会が唯一の行き場所、楽しいところとなっているのです。教会へ来ることを中心に一週間を過ごしているようです。シルバーエイジも5月の風と光を楽しんでいます

 

かつて我が家の娘たちが幼かった頃は、教会は子どもであふれ、一日中声が絶えませんでした。今は、めったにそうした風景はみられません。そして、そのころ、教会に高齢者がいた記憶はありません。今はすっかり逆転しました。しかし、生まれてくる子もいるのです。教会は時代に合う多様なプログラムを用意して、大きな有機的な神の家族を形成していく、大切な役割があるのではないかと思います。

 
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日々の風から 大震災から2ヶ月が過ぎて

石井4

悪夢と思いたい大震災から2ヶ月が過ぎました。当時は雪が降った日もありましたが、桜はすでに散り、一気に夏の気配が満ち満ちています。数日前、栃木路を列車で行きましたが、車窓の両側には見渡すかぎり水を引いた水田が広がっていました。今か今かと田植えを待っているのが伝わってきました。ああ、これより少し先、福島以北は原発事故で入ることもならず、さらに北の地域は、水田の影も形もないのだと思い、当事者の方々のお胸の内はいかばかりかと、重苦しい気分になりました。

 

この2ヶ月の間に、高速道路は復旧し、新幹線も開通し、飛行機も船舶も航行できるようになり、大動脈だけは繋がったようです。しかし、机上で安易に思いを馳せるだけですが、まだ本の入り口が見えただけではないかと思います。

 

そして、またまた新しい問題が出て来ています。静岡県の浜岡原発の稼働中止要請です。この際ですからしかたないでしょう。利害のある方々には苦渋でしょうが、ホッとしている人の方が多いのではないでしょうか。しかし一人一人に電力の使い方などに責任がかかってきます。自分のこととしてしっかり受け止めたいと思います。

 

そしていつも思います。政治家の皆様が党派を超えて、一つになれないものだろうかと。ことのもって行き方にも善し悪しがあるでしょうが、どうしてもっと歩み寄れないのでしょうか。被災者の苦悩などちっともわかっていないと思えてなりません。国民はじっと見ています。メンツを捨てて、汗をかいて、体をはって、泥まみれになるのを惜しまない人を探しています。口ばかり大きく開けて、声ばかり大きいのは見るに堪えません。

 

やがて、梅雨に入るでしょう。長雨の時期です。悪天候の季節です。山や海の荒れるのが心配です。今年の梅雨は穏やかに過ぎますように。夏は去年のような猛暑になりませんようにと祈っています。揺れ動く台地がしっかり固まって、日本列島を支えてくれるようにとも祈ります。。

 

そこかしこに、小さな草花が咲き乱れています。

五月の陽光と戯れています。

五月の風の中で踊っています。

早くも新緑に衣替えした公孫樹の樹陰で

雀たちが喜々として飛びわたっています。

 

 

空の鳥を見よ、野の花を見よ、といわれるイエス様のお声が聞こえてくるようです。


石井農園1

 

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世相の風から 9・11と3・11に思う


我が家のチューリップ

 

テロの代名詞のようなオサマ・ビンラディンが殺害されたと知って、発端となった911を思い出した。2001911日の一大事件は、このたびの大震災と同じように、ほとんどリアルタイム?で世界中に知れ渡った。時は21世紀を迎えたばかりのこと。前年の2000年はミレニアムと称して世界中がお祭り気分で過ごし、明けて2001年は新世紀への大きな期待の中、歓迎ムード満ち満ちる中をスタートしたように思う。前途洋々たる大海へ乗り出す大型新船のようではなかったか。


とは言っても、問題だらけの世界がすぐにバラ色になるとは誰も考えてはいなかったであろうけれど。


それにしても、まさか、世界一の大国の、世界一の大都会の真ん中で、あのような惨事が起こるとは、誰が想像しただろう。ところが、起こってしまった。同時多発テロという聞き慣れない言葉がまたたく間に世界中を駆け巡った。地球全体が大きな滅びに向かって突入しいくような不気味な恐怖を感じた。以後、テロに対する警戒が厳重になり、駅のゴミ箱一つまでも封印され、テロ警戒中との貼り紙や立て札が至る所で見受けられるようになった。それは今に至るまで続いている。
テロに攻撃されたアメリカは怒り狂って早速戦争を始めた。

 

あれから10年が過ぎた。その首謀者とされるオサマ・ビンラディンが今日まで生きていたとはむしろ驚きであった。アメリカの猛攻撃の中で、おそらく知らないうちに死んでしまったのだろうと、内心思っていた。それが、生きていたのだ。よくぞ隠れ通したとおもう。また、アメリカもよくぞ10年間も執拗に探し回ったと、妙に感心してしまう。そう言えばあの、イラク戦争の首謀者フセインも巧妙に逃げ隠れていて、ついにはアメリカ軍に発見されたのだった。

 

今世界は、新たなるテロに神経をとがらせている。負の連鎖反応だ。
暴力には暴力、報復には報復と、とどまるところがないだろう。これでは世界中が望んでいる平和は到底やってこない。


真の平和はどこにあるのだろう。
何を平和と考えるのだろう。

 

それにしても、形や内容や種類は全く違うが、我が国の311もまた誰も考えなかった大惨事ではないか。911からちょうど10年である。この先の二十一世紀はどんな時代になるのだろう。


9
11から世界はその様相を一変させた。命を初め大事なものが力ずくで破壊されたのだ。

そしてこのたびの311もまた、貴い人命と生活が築き上げた有形無形の莫大な宝物が喪失した。日本も様相が一変してしまった。

 

この破壊力、喪失力の前に誰が立ち得ようか。誰が防ぎ得ようか。どこまで復旧、復興ができるだろう。懸命に戦っておられる多くの方々や、このためにつぎ込まれる巨大な経済には申し訳ないけれど、ふと、失望感が襲ってくる。なにを以て真の復旧とするのか、復興とするのか。

世相の風は私たちの心をかき乱して、竜巻のようにすさまじく吹きまくっている。真の希望の風を感知するのは容易ではない。

 

 

 

 

 

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日々の風から 五月の風は希望の風
 

日野春4月その3 


3・11を背負った3月と4月は、のろのろと足取り重く過ぎて行ったように思う。ようやく5月がやってきた。ちょうど50日である。しかし、復旧、復興は、まだまだ始まったばかりであろう。被害の全容さえ正確にはわからないのだ。原発事故に至ってはまったく先が見えないではないか。被災地、被災者の方々には、再度、心からお見舞い申し上げます。

 

相馬をふるさとに持つ敬愛するA氏のお話を聞いた。親族たちは30キロ圏内にあり、この一ヶ月のうちに避難しなければならなくなったが、避難先はまだ決まっていないそうである。ご親族への心配はもちろんだが、80歳を越した老A氏には、懐かしいふるさとへの思いがひとしおで、嘆きは一通りではない。涙声を振り絞るようにして、灯台の灯が再び点る日を信じると結んでおられた。

 

今年もゴールデン・ウイークが始まっている。思い思いに5月の海を、山を、野原を、空を楽しむ最高の季節である。一年がかりでこの時期を待っていた人も多いだろう。さて、今年の人出はどうだろうか。ひとつもふたつも盛り上がらないのではないか。今や自粛ムードは影が薄くなったが、傷ついたり、萎縮した人の心は簡単には立ち直れない。

 

自然界だけはあの大災害にもめげず、いつものように正直に精一杯季節を表現してくれる。

そのあふれ出る命を見ると生き返るような思いがする。吹き出した木の芽のなんと初々しいことか。五月の光と風の中で、生き物のようにきらきらと輝いている。その麗しさよ。朝見ても、昼見ても、見飽きることがない。私のGWは近くの公園の新緑を見ることだ。今年もこれに徹しよう。新緑の下に立って風を感じたい。5月の風こそ『希望の風』だから。

 

『この希望は決して失望の終わることはありません。

なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからです』

 

 

 

 

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