人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- - -
世相の風から NZ懐かしの町の大地震

あの懐かしい町が、あの大聖堂が、大地震で倒壊したと知って、驚きは止まらない。前回に勝る衝撃を受けた。すぐに親友のS姉に連絡した。NZ、南島、渦中のクライストチャーチにはS姉のお身内が永住しておられるのだ。そのつながりで私は過去2回滞在させていただいた。数少ない海外の旅で、同じ場所に2回も訪問できたのは、なんとも幸いなことであった。観光旅行ではないので、一つ場所にとどまり続け、短期間ではあったが、町に溶け込んで生活したという強い実感がいまでも鮮やかだ。

 

感謝なことに、S姉のお身内は、中心部に近い場所にお住まいにもかかわらず、何一つ危険に遭うこともなく、住居も無事であったそうだ。まずはそれを伺ってホッとした。しかし、電気、水道、ガスなどインフララインがずたずたになり、スーパーマーケットは空っぽとか。食料などはもう救援が始まっているだろうが、インフラが元通りになるのはかなり時間がかかるだろう。前回の地震の時も、修理屋さんの絶対数が足らず、ずいぶん待たされたとも聞いた。たいへんなことである。

 

この災難の中で、もう一つ感謝なことがあった。実はS姉はこの22日にお身内を訪問する予定であった。ところがチケットの関係で28日に延期になった。もし22日に出かけていたら、巻き込まれていたかも知れない。今や、行ってもどうにもならないと断念された。計画が予定通りに進まないのにはいささかのフラストレーションになるけれど、寸前でストップできたのは何よりの幸いではないか。

 

被害に遭った方々、特に命を失った方やご遺族の悲しみを思うと言葉もありません。物心両面で迅速な助けと慰めが与えられますようにと祈ります。

 

 

世相の風から comments(0) -
日々の風から 一つ増えた楽しみ

ずっと我が教会には常設の聖歌隊はありませんでした。近年、本格的に音楽をされるファミリーが教会員に加わるようになって、クリスマスやイースター、特別集会のあるときに、有志を募って指導してくださるようになり、教会聖歌隊が誕生しました。とはいえ、定期的に練習するわけではありませんでした。

 

私も含めて聖歌隊に加わる者たちに、もっと練習したい、もっと上達したいと熱い思いが生まれ、指導するファミリーに迫りました。そして、ついに、定期練習がスタートしたのです。今日がその、歴史的?な日になりました。今後月一回土曜日の午後を当てる、また、日曜礼拝後も教会のプログラム次第で、することになりました。何とうれしいことでしょう。長年の夢が実現したのです。


賛美することは、いうまでもなく第一は、神様への信仰のささげものですが、歌うこと自体は健康にたいへんよいと思っています。私は身体上の都合から過度の体操やスイミングやジョギングはできません。運動といえば歩くだけです。でも、それだけでは絶対的に不足します。

 

歌を歌うことは全身運動です。腹筋、背筋、呼吸のトレーニングが必要です。それがたいへん健康に役立つと思います。昨年からひそかに歌のレッスンを始めましたが、効果がありました。冬の時期はひどい腰痛に悩まされてきましたが、今年の冬はいまのところ出ないのです。腹筋、背筋が多少なりとも強くなったためではないかと思っています。そのうえ、教会でもトレーニングが始まったので、本当に感謝しています。

もちろん、賛美の第一目的を外してはならないのは当然です。

 

土曜日に教会に集うのは、礼拝を明日に控えて、遠方の方には負担です。何人の兄姉が来られるかなとお顔を思い浮かべて指折り数えていましたが、なんと、いつものメンバーがほとんど揃ったのです。びっくりしました。皆さん、やる気十分です。

楽しみが一つ増えました。今後は月一回のこの日を第一に選り分けて、逃すことのないように心がけたいと思います。主に感謝!

 

 

 

 

日々の風から comments(4) -
聖書の風から ヨセフの生涯を思う その3

出エジプト記はヤコブの一族総勢70名がヨセフのいるエジプトへ下った記事から始まっている。その5節に『ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ』。とある。いつもはさっと素通りする箇所なのに、今回は釘付けになった。なんどもなんども読み返した。記事は淡々と事実を述べている。その通りに当然のことなのだ。だが、当たり前のこととして見逃しにできなかった。なんと重い厳粛な事実だろう。胸の中をいいようのないもの悲しい風が吹いていく。歴史の風というのだろうか。『ヨセフもーーーみな死んだ』そうなのだ。

 

創世記では、ヨセフの波乱万丈の生涯にどれほどはげしく心揺さぶられ、どれほど熱い涙を流しただろうか。場面の一つ一つに喜怒哀楽の感情をかき立てられ、ヨセフを守り通した主を賛美し、ヨセフの生涯に付き添ったような追体験を味わった。

だが、あの麗しの『ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ』。

歴史は次の時代へと移っていくのだ。時の経過はある意味で機械的であり、正確である。時を止めることは出来ない。その流れに逆らうことはできない。無情を感じる。虚しさを覚える。しかしこの事実の前にだれが立ち得ようか。感傷などなにほどのものか。

 

じっと静かに思い巡らしているとみことばが迫ってくる。

『草は枯れ、花は萎む。しかし私たちの神のことばは永遠に立つ』

記事の背後に,歴史を動かす巨大な神様の力を感じる。威をただしひれ伏すのみである。すべての思いを清め、正す、主へと思いが向かって行く。

 

8節には『さて、ヨセフを知らない新しい王がエジプトに起こった』とある。ここはいままでにも心に留まり、自分の人生史のいくつかの場面から、新しい人の群れ、あたらしい指導者に会って、良きにつけ悪しきにつけ教えられることがたくさんあった。ヨセフの偉業を知らない人たち、知っていても抹殺しようとする新勢力に怒りを覚えたり、あきらめたりした。『ヨセフを知らない王』の被害に苦しんだこともある。

 

しかし、『ヨセフを知らない王』が悪虐の限りを尽くし、暴政を振うそのただ中に、神様の剣は歴史を切り裂き、偉業がはじまったのだ。出エジプトのドラマである。神様は時が良くても悪くてもみ業を進められる。むしろ一見、絶望して呻くだけの時にこそ、神様は立ち上がる。ノアの時もそうだった。聖書の事例に信仰の目を留めなければと思う。昨今は、

 

どこもかしこも世代交代の時期だと言える。この世だけでなく、キリスト教界も、である。自分自身だって盛んな時期は過ぎたのだ。しかし、進退が周辺に影響を与えるような者でないから気楽ではあるが、変わり目の悲劇喜劇を目撃しなければならない。観客席に座る者にも辛いときがあるのだ。うろたえたり心騒ぐことがある。

 

『ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ』。

『ヨセフを知らない王がーー起こった』

 

 神様の愛と救いのみ業を見つめつつ、『みな、死んだ』の一人になる時まで、

『草は枯れ、花は萎む。しかし私たちの神のことばは永遠に立つ』を確信し、そこから不動の信仰をいただいて、今日一日を生き抜きたい。今日一日を、である。

 

 
聖書の風から comments(2) -
聖書の風から ヨセフの生涯を思う その2
 

奴隷、囚人と、この上ない悲劇のヒーローだったヨセフは、不可能を可能にする神様のご計画の中で、エジプトの救世主のような地位に上り詰めた。しかしそれは単に黄金の王座に坐していればいいというのではなく、ヨセフは知恵を尽くし力を尽くして命がけで働かねばならなかったとおもう。でも、もう奴隷でも囚人でもなく王からも国民からも信頼される宰相になったのだ。その名声はエジプト一国におさまらず近隣諸国にも鳴り響いたことであろう。今や英雄ヨセフである。そして、33年ぶりに父に会い、一族郎党に至るまで新しい地エジプトで養うようになった。

めでたし、めでたしである。しかし聖書はそれだけでは終わらない。

 

創世記の終章50章を読むと、めでたし一色ではすまされない人間模様が見えてくる。考えさせられることが多い。人の心の奥底に潜む闇が見える。ヨセフをいじめた兄弟たちはいつまでたっても罪の呵責から解放されない。いつか仕返しされるのではないかと恐れ続けている。ヨセフの愛がわからない。ヨセフはそのことにも泣く。自分の心を切り開き、はらわたを取り出して見せてあげたいくらいだったろう。愛が伝わらない切なさには泣かずにはいられない。人というものは赦されているのになお疑い、受け入れられないのだろうか。その心理の奥にあるものはなんだろう。

 

イエス様の十字架の犠牲による赦しを思う。十字架は切り開かれた神様のお心であり、はらわたであろう。その証拠を見せながら赦しを宣言されたのだ。ただ感謝して受け入れればいいのだ。しかし、その恵みを目の当たりにしながらも疑ったりあるいは無視してしまう。自分を変えることができない、いつまでも自分流の生き方に固執する。苦しまなくてもいいのに苦しんでいる。あるいは受け入れれば楽になるのに心の扉を開こうとしない。イエス様は泣いておられるだろう。

 

自分の来し方を振り返って見る。加害者になったこともあれば被害者になったこともあろう。加害者の場面はあまりないように思うが、それは気が付かないだけかも知れない。被害を受けたことは覚えている。これも身勝手と言えるかも知れない。

イエス様のあがないのみ業によって、いつまでも罪の呵責に苦しみ怯えることからは解放されてしまったが、今日も罪人である自己をしっかり認識し、絶えず悔い改めをし続けることを忘れてはならないと思う。

 

一方、過去の被害をいつまでもほじくり返し、被害妄想的になってはならない。その事実とそのときに係わった人たちへの悪感情を薄めていかねばならない。記憶の鮮度を落としていかねばならない。できれば記憶喪失してもいいくらいに。それこそイエス様の赦しのみ業にかかわることだ。イエス様を泣かせてはならない。

ヨセフの生涯は実に鮮明に、数千年の歳月を超えて語りかけてくる。

 

聖書の風から comments(0) -
聖書の風から ヨセフの生涯を思う その1

裸
旧約聖書『創世記』のクライマックスはなんといっても、アンカーを務めるヨセフの物語であろう。ヨセフが登場してくると、途中で止められなくなる。そして、必ず涙を流してしまう。何回読んでもそうである。いくつかの同じ箇所で泣くことが多い。多くの人が同じ経験をしていると思う。

 



今回、今までの他に、もう一箇所泣いたところがあった。

『ヨセフは車を整え、父イスラエル(ヤコブのこと)を迎えるためにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた』

4629節。

 

ヨセフは17歳のとき兄弟たちの手で隊商に売り飛ばされエジプトへ連れて行かれた。父ヤコブの11番目の息子として溺愛され、袖付きの長服を着ていたヨセフは一転、奴隷の身に突き落とされた。腹違いとはいえ弟を売るなどと、とんでもないことだが、その原因は父の偏愛にあった。愛される弟を妬んだのである。世に妬みほど恐ろしいものはない。ヨセフは異国の地であらん限りの辛酸をなめつくし、この世の地獄を味わった。なんとむごいことよと同情の涙があふれ流れる。

 

しかしヨセフは境遇に負けて悪の道へ進むことはなかった。その時その時を誠実に生きた。無力なヨセフにたった一つ残されたのは神様への信仰であった。それは父祖アブラハム以来、家に伝わる信仰だったと思う。父ヤコブも完全無欠な人ではなかったが、家庭の中に大河のように流れ続ける信仰の力を、幼いときから肌で知っていたのだろう。それが逆境の中で効力を発揮した。どんなときも自分に注がれる神の愛を鋭く知り、神の臨在の前に生きた。確かに神の祝福はヨセフの上にとどまり続けた。

 

パロの難解な夢を説き明かしたことから、無実の罪で囚人とされていたヨセフは、一躍エジプトの宰相に躍り上がった。シンデレラ的、あるいはエステル的逆転劇である。思わず立ち上がって拍手したくなる。しかし紙芝居のような薄っぺらなサクセスストーリーではない。宰相ヨセフの双肩には、国家を饑餓から救う重責がのしかかっていた。一つ間違えばたちどころに地位も命もないことは自明のことだったろう。恐ろしい緊張の中で、ヨセフは一つ一つ救済事業を進めていった。神様が知恵と勇気を授けてくださった。

 

7年間の豊作のあとにやってきた凶作はエジプトだけでなく、当時の世界中をも饑餓のどん底に突き落とした。カナンの地も免れることはできなかった。ついに父ヤコブは食料があると聞こえてきたエジプトへ息子たちを買い出しに遣わすのだ。10人の兄弟たちはまるで物乞いのように、権力者ヨセフの前にひれ伏した。それが、自分の弟ヨセフであるなどとは露ほども知らない。神様のシナリオの巧みさには息もつけないほどだ。ヨセフは一目で兄たちとわかったが、すぐさま名乗ることはできない。忍び泣くヨセフの心情が熱く胸に迫ってくる。あと5年は続く飢饉から生き延びるために、パロは、ヨセフの一族郎党をエジプトに住まわせることにした。こうして、ヤコブを筆頭に総勢70名が遠路エジプトに移住していった。

 

冒頭の聖句は、父ヤコブとヨセフの再会の時を記したものだ。当時ヨセフは50歳であったろう。父の顔を見るのは実に33年ぶりになる。おそらくヨセフはエジプトの宰相、並ぶ者なき高官だから、エジプト流の装束に身を包み、大いに威厳を備えていたであろうが、父を見るなりいきなり首に抱きついたのである。ヨセフは17歳の少年に戻っていた。ヤコブも110歳の老人ではなく、かつての慈愛に満ちた頼もしい父親に戻っていた。歳月の溝はあっという間にかき消え、ヨセフは「アッバ、父よ」と叫んだことだろう。そして、首にすがって泣き続けたのだ。泣き続けたとは、時間の経過を表わしている。いつまでもいつまでも泣いたのである。その涙は33年の悪夢を押し流してくれたことだろう。

 

父にすがりついて泣き続けるヨセフの姿とその胸中を想像して、泣かずにはいられなかった。辛かった日々を思い出したろう、苦しかった日が浮かんできただろう。その間一日として、父と故郷カナンを忘れることはなかったであろう。再会などはとっくにあきらめていたかも知れない。しかし、現実のことになった。しばらくは夢うつつに思われたろう。事実を確かめるために、泣きながらなんどもなんども父の顔を見ただろう。そして、ヤコブもまた同じ思いだったろう。

 

私の思いは走りに走った。ヤコブとヨセフの再会が、天に帰ったイエス様と父なる神様に思えた。イエス様は、あのベツレヘムの家畜小屋に生まれ、十字架の苦難を忍び通した。その間奇しくも33年間。イエス様は、父なる神様の首にしがみついて『アッバ 父よ』とむせび泣いたのではないだろうか。もちろん全くの想像である。次元の低い貧しき想像である。笑われてしまうかも知れない。

 

そして、自分が天に帰ってイエス様(神様)にお会いしたとき、はやりその首に抱きついていつまでもいつまでも泣き続けるのではないだろうかと、ふと、思ってしまった。これも的の外れた想像であろう。でも私は泣きたい、主のみふところの中で心ゆくまで泣き続けたい。

 

 
聖書の風から comments(2) -
CALENDAR
S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728     
<< February 2011 >>
PROFILE
MOBILE
qrcode
COMMENT
ARCHIVE
RECOMMEND
美しき姉妹たち
美しき姉妹たち (JUGEMレビュー »)
三浦 喜代子
最新本です。
ぜひお読みください。
SPONSORED LINK