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日々の風から ベゴニア
高層ビルの間の花壇にびっしりと咲いていたのがたいへんきれいだったので、 2010.10.30 Saturday 15:40
日々の風から 宴は終わりぬ。そしてーー
25日午前11時から、お茶の水聖書学院創立20周年の記念式典が始まった。式は検討を重ねたプログラムに沿ってほどよいテンポで進められた。こうした式典はどうしても予定通りに行かず時間オーバーになりがちである。それもあらかじめ読み込んでいたが、85点くらいであろうか。まずまずの上出来だったと思う。形式はそうであったが、内実は120点をつけたいほど。自画自賛ではなく、参列者から続々と送られてくる感謝と讃辞に因るものだ。 続く感謝の愛餐会は終始それはそれは和やかだった。主催者側としては進行に気を遣いつつも、久しぶりの友人知人のお顔が見えれば飛んでいきたいし、また駆け寄ってこられたりもする。100名を超える方々だが知らないお顔はほとんどいない。 あの友とも、この友とも、一時間でも二時間でも話し込みたい。突き上げてくる衝動を抑えるのが辛かった。 私は1期生だから卒業後17年経っている。その間おそらく一度も会わなかったクラスメートが何名か来てくださった。こんなににうれしい再会はない。皆さんの風貌が当時とあまり 変わっていないのに驚いた。私は皆さんにどのように映ったであろうか。 感謝会は予定通りの時間に終了した。皆さんへのおみやげ物の手渡しも間違いなかった。大過なく二大プログラムを果たせたのは、主の導きはむろんだが、それぞれの会に立てられた司会者の方々、またそれぞれの部署の担当者の皆さんの人知れない祈りと心遣いとテクニックによるところが大きいと思う。痩せる思いをされたのではないかと思い心から感謝します。 それにつけても、会う人が必ず言われるのは、増田先生にお会いしたかったとの嘆きの声であった。続いて先生の思い出話が始まった。そうして目を潤ませ、声を詰まらせておられた。先生はひとりひとりの心に忘れられない具体的な思い出を残されたのだ。だれでもその懐に飛び込んでいける開いた心を持っておられた。よく、教室の片隅や廊下で、祈り会っている光景を目にした。神学の教師であると同時に、それ以上に魂の牧会者であられた。会場に先生の直接のお姿は無かったが、先生のスピリットは濃厚に満ち満ちて、20周年のヒーロー役を十分に果たしておられたと思えてならない。 ついに宴は終わった。学院の20年は礎を築かれた先生を追悼しつつ、フィナーレとなった。しかし、主の働きが続く以上、学院の活動も続いていく。主はご自分の戦いのために、その時、その時にふさわしい人を探しだし、立てて、用いられる。 『主は与え、主は取られるお方』として、身を伏してみこころに従っていきたい。 ともかくも、準備を進めてきた1人としては、無事終わってホッとしている。それが偽らざる本音である。一年半、いつもどこかで張り詰めていた。しなくてもいい心配もたくさんしてしまった。そうした疲労が体のあちらこちらからじくじくと滲み出しているのを感じる。それもじっと静かにしていれば、まもなく昇華してくれるだろう。よけいな物が全部消えたとき、あとには何が残るのだろう、その結晶の輝きを待ち望んでいる。希望の風の中でその光を楽しみたい。 2010.10.27 Wednesday 10:50
日々の風から 一年半の準備を経て
ところが、20周年のクライマックスである晴れの式典を前にして、一番の主人公である学院長が天に召されてしまった。残された私たちは茫然自失、涙とともに棒立ちになった。しかし手にしている働きを放り出すことはできない。ともに奮い立って、当初の計画通り進めていった。いよいよ明日はその記念式典である。感慨は大きい。まだまだ乗り越えきれない大きな悲しみを抱えつつではあるが、悲しみの中におられる主を仰ぎ見ながら、明日一日の働きを果たしたいと切に願っている。 ふと、カナの婚宴をおもう。増田学院長というなくてならない葡萄酒を切らした宴に、主はどのようなみ業をなさるのだろう。
2010.10.24 Sunday 15:10
日々の風から いつものように・今日の教会風景から
さらに、幸いなことは、突然欠席するような事態もめったにない。神様が先立って調整してくださるためだろう。一番大きな出来事と言える父母の召天前後も、子どもや孫の出産の時も、日曜日には当たらなかった。これから先、あるとすれば、私の老いに伴う病などの緊急事態だろう。それはもう致し方ないことで、今から思い煩うことではない。 実は今朝、礼拝前に小さな奉仕をしていて、コピー機の前で数人の仲間たちと雑談をしていた。それぞれに担当の奉仕を抱えているのであるが、いつものように、同じことをずっと続けられるのは感謝なことだとくちぐちに話が出たのである。ある方は、高校の教師、ある方は小さなゼネコンの重責にある。ウイークデイはそれこそ早朝から夜更けまで働き通しである。日曜の朝は家族を乗せて高速を使って走ってくる。 それでも、いつものように教会内の自分の定位置での奉仕や礼拝に喜んで参加している。キッチンでは、主婦たちが礼拝後の食事の支度にいそしんでいる。 88歳になる独り暮らしの老女性の大きな声が聞こえてきた。彼女はひどく耳が遠い。補聴器を使っている。話をするときの声が割れ鐘のように大きい。「わたしは、教会に来ることだけがたった一つの楽しみです。これがあるから生きていける。早く主人の待つ天国へ行きたいので、祈ってはいますが」と言われる。ここ数年、聞かされ続けていることばである。彼女にも、いつものように、があるのだ。 礼拝後は、聖歌隊員が集って、今年も、いつものようにクリスマスの賛美練習が始まった。新しい楽譜やパート別のCDが渡された。参加するに意義ありとひそかに決めて、いつものようにすました顔で一員に加わっている。 今年もまた、神様の限りないあわれみの中で、いつものようにクリスマスを迎えたいと切に願う。 2010.10.17 Sunday 22:31
日々の風から 夕闇を背にしたスカイツリー
2010.10.10 Sunday 22:18
書林の風から 芥川賞『乙女の密告』
久々で話題作を読んだ。第一番に、ああ、プロってすごいなあ、これがプロの技なのだとつくづく感心した。『アンネの日記』というだれでも知っている一冊が太い川となって小説のベースに流れている。当然、ナチのユダヤ人迫害という恐ろしい時代のにおいが立ちこめてくる。そうしたものを配置する着想に驚く。 なによりも感心するのは一気に読ませる文章力だ。飽きさせない。引き摺られるほどの強い筆力だ。これがプロの力量なのだ。凝った文章やことさらに選び抜いたと思われることばはない。驚くほどの自然体でグングン進んでいく。そこにこそ並々ならぬ才能があるのだろう。これを才能というのだろう。作者は京都外大でドイツ語を学び、翻訳もできる語学力の持ち主である。その底力も小説を支えている。 雑誌には同時に選考委員たちの批評が載っている。それを読むのもおもしろかった。選考委員は一流の小説家たちである。この小説を高く評価する人もいれば、選ばなかったとその理由を述べる方もいる。専門家でも見方はいろいろなのだと、そこがまたたいへん興味深かった。 この小説を一気に読めたのはエロ、グロがないことだ。目を伏せたいような箇所がどこにもない。安心して読めた。乙女という、今では郷愁めいた少女小説の世界もどきが、私の中のどこかで共鳴音を立てていた。京都の人、乙女、赤染という名字もどこかで妙な調和を感じさせた。一見漫画チックで軽さを感じるが、どうしてどうして、太い柱で構築された頑丈な文学作品だと思った。 2010.10.08 Friday 22:11
光(キッズ)の風から 読書貯金
Mちゃんが説明するには、発案は担任の先生。一枚のシートが配られ、そこに自分の読書状況を記録していくのである。記録の明細は、月日、題名、作者、ペース数、累計となっている。興味深いのはページ数と累計である。9月からは【ひとこと感想】の欄が増えた。ちなみにMちゃんの読書量であるが、5月から9月までで、266冊、ページ数累計は51161ページでる。本の種類は、岩波少年文庫などの古典子ども向けのものや現代日本児童文学のたぐいで、もちろん漫画などはない。夏休みだけで96冊読んだそうである。貯金高はクラスではダントツだそうだ。 ほとんど学校図書と地域の図書館の本である。図書館へはいつもリュックを背負っていく。最近は自転車に積んでくる。図書館にメール登録しておいて、新聞などで知って読みたいものを予約する。ときどき自分のメールを開けて確認する。自分専用のPCはないから、ママのはもちろん、私のPCから覗いている。 私はあっけにとられている。とっくに白旗を揚げているが、大いに刺激される。もっと図書館へ通わなくてはとも思う。本に関するアンテナをもっと高く掲げて、古典ばかりでなく、新しいよい本に出会っていきたい。幸い、図書館にリクエストしておくと自分で買わなくても読むことが出来る。Mちゃんのように自宅から依頼できる。 恥ずかしい話だが、昨今積ん読の常習犯になった。信仰書ばかりは図書館とはいかない。ずっと手元に置きたいからつい買ってしまう。かくして、今、分厚いのが3冊も開かれるのを待っている。こうなったら同時進行するほかない。その前に、Mちゃんから借りた『ドリトル先生』シリーズを離せないでいる。 Mちゃんの【読書貯金】はいいアイデアだ。長年、読書ノートに失敗し続けているが、これならできそうだ。メモ程度でいいから記録しておきたい。たいそうな感想を書こうとするから出来ないのだ。負うた子に教えられると言うが、孫の場合はなんと言ったらいいのだろう。21世紀の超新人類の彼女は、PCもデジカメも携帯もいつのまにか使いこなしている。私はひたすら目を丸くして声も出ない。 2010.10.02 Saturday 20:55
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