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風の仲間たち 友の朗報
いつも会う仲間たちは別として、珍しい友に会えることが実にドラマチックです。 今回は涙なしにはお顔を見られないような友が参加できました。 お一人は、このブログでもなんどか書きましたが、2008年の暮れに、奥様が大きな交通事故に遭われて大怪我をして以来、何度も手術し、リハビリし、ようやく退院、その後も不自由になられた奥様をケアーして、それこそ不眠不休の毎日を戦い抜いた兄が、姿を見せたことです。 今も、決して楽ではないようですが、介護支援も受けて、24時間介護から多少時間のやりくりが出来るようになったそうです。それにしても、皆さんの中に座しておられるお姿からは、あの壮絶な戦いなさった気配は感じられないのです。大事件の起る前の彼と少しも変わらず静かに落ち着いておられたのには驚きました。主がどんなに彼を愛し、守られたか、まざまざと思ったことです。また、友垣が信仰の手を固く握り合って、どれ程祈ったか、主がいかばかり真実に答えてくださったか、そのことも目の当たりにして、感涙に耐えませんでした。とくに奥様がこの患難を通して救いの恵みに導かれたのは、まさに奇跡です。 もうお一人は、この1月、突然のように消化器系にガンが見つかり、手術なさり、108日の病院生活をし、先週退院なさったばかりの兄が来られたことです。まだ戦いの厳しさが全身から漂っているのは確かですが、以前と変らない笑顔と積極性には、こちらの方がたじたじでした。無理しないでと声をかけつつも、火の中、水の中をくぐり抜けてきた大勇士を、まぶしくうれしく拝見しました。生きて働かれる主のみ業に改めて感激しました。 ひとたびガンとなれば、無罪放免とはならず、これから新しいプログラムによる治療が始まるようです。これも乗り越えていただきたいと切に願います。 もうお一人は、あの横田早紀江さんの親友で、救出活動に熱く関わっている姉妹が来られたことです。今までも時々様子を知らせてくださるっていましたが、今回も最近の活動を語っておられました。事件が一日も早く解決して、また以前のように学院で学びたいと言われました。姉妹の偽らざる心情であろうと深く納得して拝聴しました。 ご主人様を突然亡くされてから体調を崩したと聞いた姉妹が、まだ冴えない面持ちではありましたが、ここに慰めがあると思ったのでしょうか、参加しておられました。近くの皆さんが学舎にいたときと同じように交わっておられましたから、きっとなにがしかの力をいただいたことでしょう。 リストラに遭って就活中、時間があるので来られましたと、笑いを取りながら話された方もいました。大人数ではないのに、荒々しい世相の風が容赦なく吹き込んでいましたが、そこにはまた、世にない、イエス・キリストによる希望の風が暖かくそよいでいました。心洗われ、新しくされ、喜びに満たしていただいた恵みのときでした。 学院は今年20周年をお祝いします。20年間、さまざまな難問に立ちはだかって来られた真の大勇士であられる学院長が、この日初めて欠席なさったのは何とも胸の痛むことでした。検査日と重なってどうにもならなかったと伺いました。20年のよき年は、学院を文字通り主のものとして、主に仕えることと、学院に仕えることをひとつにして戦ってこられた学院長の最高の喜びになるようにと、祈り願って、係わっています。 2010.04.27 Tuesday 22:41
日々の風から 近況報告
生きることも、今は神様によって生かされていると強く実感するようになりました。 死ぬことは、かつてはかなり遠方に観念的にぼんやり見えるに過ぎなかったのですが、ぐっと近くなり、その顔を見たような思いになりました。いざその時は、神様だけしか知らないのだから、神様にお任せすればよいのだと最高の対処法を知り、備えられるようになりました。一言で言えば死生観が変ったということでしょうか。 とはいえ、7年目の検診が気になりました。まな板の上の鯉にはまだなれていません。この冬、一時期とても体調が悪く、どこかに転移しているか、再発かなどと、ちらちらと頭をかすめていましたから。 一通りの検診メニューが済んで、主治医の宣告をいただくとき、それまでもですが、体中に力を入れて祈ってしまいました。願わくは問題なしにしてくださいと。 その通りに、いくつかの数値もまったく正常値で、全部のハードルをクリヤーできました。 この6年の間でいちばん気になっていた肝臓の数値も血小板の数も、一年ごとによくなり、昨年を更新しました。祈ってくださった皆様に感謝します。取り敢えず今年は異常なしで進めるようです。 主治医の宣言を聞いて、心の中で、すぐ主にハレルヤと感謝しましたが、目の前の先生にもしっかりお礼を言いました。でも、それだけでは足りない気がして、「先生、握手してください」と、とっさに手を差し出しました。先生は、コンピューターの画面から離れて私を見て、目を丸くしたり細くしたりしましたが、椅子からさっと立ち上がって、応じてくださいました。しかも両手でしっかり握り返されました。片手でいいのになあと、おかしくなってしまいました。 不思議なものです、体が軽くなり、心も強くなり、やる気というのでしょうか、積極性が出てきたのには自分ながら驚きあきれました。もし、反対に、なにか異常を言われたら、どうなったでしょうか。そのとたんに、体は重く、心は陰鬱になり、目の前の小さなことすらやる気がなくなり、食欲までなくなるでしょう。もちろん、間髪を入れず主に助けを求めますが、それを受け入れて覚悟するまでにはかなり激しい戦いがあるはずです。
2010.04.21 Wednesday 15:03
日々の風から 新しき隣人
老いが進んで、一人暮らしは無理だと誰もが判断しました。そこで牧師夫妻を中心に一大プロジェクト(?)ができ、家探しが始まりました。皆が一様に納得し、K姉も大喜び、それがなんと我が家と背中合わせの家でした。いちばんの利点は教会のすぐそばであること、また私の住まいのそばであることでした。 教会の働き盛りの女性たちが毎日のように出かけていって移転の準備をしました。何十年と積もりに積もり、貯まりに貯まった荷物を選別し、そのほとんどを廃棄し、必要最低限にしました。この際だからと家具もコンパクトな新品にしました。 ところが、K姉の以前のお住まいの近くに、数人の教会の姉妹たちがおり、これまでなにくれとなくお世話をしてきましたが、その方々が新居の方にも毎日のように出かけてこられるのです。長年に亘る交わりは遠慮のない家族のような関係をごく自然に作り上げています。自分の家のお総菜を運ぶことから、掃除、洗濯、入浴、ゴミ出しまでよく気をつけておられます。すばらしい関係です。私は大いに安心しました。 時々、食い違うことが出てくるので、係わる者たちは連絡ノートに書き込んだり、電話やメールで確認し合っています。おかげで、私たちの交わりも深くなりました。 時に我が家に招いて食事の交わりをします。これは、時々していこうと思っています。 我が家の2階のキッチンの窓から、K姉の窓が見えます。夜には必ず確かめます。明かりが見えるとほっとするのです。新しい隣人の新しい生活が守られ祝され、いつまでも健康で教会生活が出来るようにと願い、祈ります。 神様は旧約の時代から、孤児、やもめ、在留異国人を手厚く扱うようにと何度も命じておられ、新約ではテモテへの手紙に『やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい』とあります。教会が身よりのないほんとうのやもめを助けることは、イエス様が何よりも喜ばれることなのです。我が教会が主のご命令を実践していることに、感謝と喜びを感じます。 2010.04.16 Friday 11:17
日々の風から ぴかぴかの一年生たち
町に出ると、真新しい制服を着た子どもたちに出会う。この数日、幼稚園、小学校、中学と入学式があったようだ。幼稚園や小学一年生がお母さんと連れだっている姿はほんとうにほほえましくつい見とれてしまうが、新中学生が母親といっしょなのもまた見応えがある。 孫が中学生になったせいだろうか。やたらに新中学生らしき子どもたちに視線が行く。 S君は地域の中学校ではなく、同じ区立だが、電車通学する学校に通うことになった。真新しい定期入れにスイカ付きの定期を入れて、ポケットに鎖で繫いた。いかにもうれしそうに取り出しては眺め、眺めては入れて楽しんでいる。だいぶ大きめの制服を着込だ姿には小学生の面影はない。昨日は教科書をいただいてきた。なんと8キロ。持ってみたが私にはとても電車には乗れない。ヤングパワーをまぶしく眺めた。 Mちゃんは新4年生。一段と自発力が強くなった。その日の服装も自分で選ぶ。タイツから靴下までトータルでコーディネイトする。それがまたびっくりするような奇抜な恰好なのだ。 でもふつうらしいのだけれど。ヘヤースタイルも自分の好み。シュシュという髪を束ねる飾りも自分好み。もちろん服装に合わせる。そして、春の突風のように飛び出していった。 彼らは洗礼を受けたばかり。吹き出た新芽のようなクリスチャンだ。 起床してすぐにそれぞれデボーションをしている。聖書通読もしている。 S君は今はヨシュア記だそうだ。今朝の箇所はグロかったとママに感想を言ったそうである。グロいとは、なるほど、聖絶や戦争場面の感想としてはぴったりだと思う。 そしてMちゃんは、今、ヨブ記だそうだ。ちっともおもしろくないとのこと。 思わず笑ってしまった。率直ですばらしい感想ではないか。
この春、急転直下、事態が好転した。冬枯れの野に、一夜にして春の花がいっせいに咲き出したのだ。そこには主の不思議があった。友も、何人かの関係者も、首をかしげた。喜びつつもその謎が気になるほどであった。これが主のなさることなのだ。今でも主は不思議なお方なのだ。 春はいい。ぴかぴかの一年生から、ぴかぴかの恵みをいただいた友まで、春の喜びは満ちあふれている。主の愛はあふれ流れている。
雅歌 2:11 ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。 2:12 地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。 山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。 2:13 いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。 わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。 2010.04.09 Friday 10:59
日々の風から ほんとうの希望の風
先週一週間はイエス・キリストが十字架につけられるという大きな受難を受けられたことを記念して受難週と名付けられ、私たちの教会では毎朝、祈祷会が開かれた。開かれる聖書箇所も、受難に関するところであった。早朝の祈祷会だから出席できる人はわずかであったが、中には半日休暇を取って一日だけ参加した方もおられた。 墓の中にいとひくく 葬られたり 我が主 よみよりかえり 死と悪魔に勝ちし 君こそ 勝利の 主なれ 君こそ まことの 主なれ イースター礼拝で、聖歌隊はこの讃美を献げた。私もその末席に加わり、讃美した。 この度は無伴奏なのでいつもより心配であった。教会へ行く前にしばらく練習してみた。 今日は60歳の男性の洗礼式もあって、ほんとうにうれしいイースターであった。 先週、受洗した孫たちは、今日が聖餐式デビューである。思えばこれは聖書的に見るとたいへん意味深いことだ。聖餐はイエス様が十字架にかかる前夜の過ぎ越しの食事、いわゆる最後の晩餐に起源を持つからだ。長女ファミリーは、昨日おおわらわで用意したイースターエッグをたくさん抱えて早くから出かけていった。 復活祭はクリスマスと並ぶ大きな記念日である。ふだんの礼拝にはあまりお顔の見えない方々も、教会から誘いのダイレクトメールが届くせいもあって、出かけてこられた。 礼拝後の愛餐会(昼食会)にも大勢の方々が参加し、いつもは多少残るのに、作り手の女性たちの分がなくなってしまうほどであった。クリスマス並と言ったらいいのだろうか。教会としてはまことに感謝なことであった。 開かれた聖書はルカ24章。有名な『エマオの途上』であった。 師イエス様を失った弟子たちのうちの二人が、エマオという村に行く途上、一人の旅人と道連れとなる。旅人が復活した師イエスであることに二人は全く気が付かない。二人はエルサレムに起きた一大事件十字架刑のことを話す。旅人はそこ手がかりにして、旧約聖書から神の預言を語り聞かせる。その夜、三人は同宿することになって、夕食の席上、旅人が食前の祈りをしたとき、二人は初めて、旅人が師イエスだと気が付く。気が付いたとたんイエス様は見えなくなった。 肉の目はあてにならない。霊の目を開いていただき、復活の主(内に住まれる聖霊)を見上げつつ、主とともに歩もうと奨められた。 聖書には復活のイエス様に出会った人々の物語が記されているが、この二人の弟子の話もまた感動に満ちている。同行者がイエス様であったと気が付いた彼らが『道々、お話しくださった間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか』 と語り合う箇所を読むと、こちらの心も燃えてくるから不思議である。 人類の救いの成就のために地に降られたイエス様は、今は栄光のみ姿に変えられて、父なる神様の右の座についておられる。さらに地上には、イエス様の代わりとも言える、いや、イエス様そのものである聖霊が自由自在に偏在し、臨在し、内住してくださる。 イエス様の復活こそ、最大、最高の希望の風である。 2010.04.05 Monday 12:29
日々の風から エイプリル・フールから
新年度に入りました。3月31日は、年度大晦日の名残を惜しむ暇もなく飛んでいきました。 4月1日を迎えて、しばらく前から、エイプリル・フールと言う言葉が消えているのに気が付きました。昨日の会合でこの言葉を使われたのはかなり年配の先生。笑いを取ろうとしたようですが、場は何の反応もありませんでした。私はその方がおかしくて、笑いそうになりましたが。一頃は世界中で大流行し、大きなニュース種でした。使いすぎて言葉の持つ力や鮮度が落ちたと言うことでしょうか。いわゆる賞味期限切れでしょう。 賞味期限と言えば、友人たちと、身辺の高齢者の情報交換をしていたときに、ある几帳面なNさんの生活の一面が話題になりました。88歳を迎えて独り暮らしをなさっています。 最近老いが進んできたので、周りからいろいろお手伝いしています。 そのNさんの食生活は一日一回は給食サービスを受けていますが、その他はもっぱらコンビニを使っています。ところが、おにぎりやお総菜に表示されている賞味時間が、1分でも過ぎると、もう食べないで処分してしまうのです。忠実に守っています。ちょっと守りすぎではないかと思うのです。夏場ならいざしらず、寒中ですから、多少オーバーしても腐敗してはいないと思います。かつてはちょっと怪しいものでも、においを嗅ぎ、舌に乗せて、見分けたものでした。今は印刷された小さなタイムがことを決するのです。 高齢になるほど一度思い込んだら絶対に変えません。また、Nさんは薬はよくないとあるとき思い込んだのでしょうか、病院からたくさんいただいてくるのですが、ほとんど飲みません。症状が出てきて不快を訴えるので、じゃ、お薬をと勧めても、体によくないから飲みませんの一点張り。そして、しきりに不調を訴えます。う〜ん。こちらも迷い、考え込んでしまいます。もっともNさんのこの姿勢が88歳まで独り暮らしを続ける力になっているのかもしれません。ところがNさんの口癖は、私は長生きし過ぎた、一日も早く主人のもとに行きたい、なのです。人間とは矛盾に満ちた不可解なる生き物だとつくづく思います。 決して他人事ではなく、私自身がそうです。自分で自分の矛盾に気が付く以上に、傍目からは多くのものが見えるでしょう。先日もごくごく親しい友に最近の心境を話しましましたところ、へえー、いつもすぱっと決断するあなたが、こんなことで迷っているなんて信じられないわーと言われてしまいました。さっさと決行しなさいよ、と。肩を叩かれ、背中を押される思いでした。 私の判断力、識別力も、迫り来る老いの力に押されて、後ずさりしているのでしょうか。 人生にも賞味期限があるとしたら、もう、タイムオーバーかもしれません。 しかし、キリスト者には、現実にたいして、いつも、《しかし》、《でも》、と切り返す神様からの宝剣があるのです。『ですから私たちは勇気を失いません。外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています』なのです。(第二コリント4章16節) 神様のくださる永遠のいのちには賞味期限はありません。なんとうれしく感謝でしょう。 自己矛盾や老化に失望落胆していても、じっと内なる人、聖霊にすがり、委ねて黙し、祈っていると、希望の風が吹いてきて、心と体を強め、立ち上がらせてくださるのがわかります。神様は、私たちを賞味期限切れとして、簡単に処分などなさらないのです。この永遠の愛にすがって、今月も、この年度も、一日、一日大切に歩んでいきたいと祈り願います。 ― 2010.04.02 Friday 12:14
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