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書林の風から 上野韻松亭でネット読書会『カラマの会の集い』
5年目に入るネット読書会『カラマの会』のメンバーが久しぶりに一堂に会しました。場所はそろそろ定番になりそうな上野の《韻松亭》。固有名詞をむき出しにしましたが、他意はありません。個室が取れるのでじっくり話し合うのには今のところ最適だと思っています。 メンバーが一堂に会するといっても、わずかに6名です。もともと総勢11名なのです。欠席者は現役でお仕事中、子育て中など、多忙を極める方々です。もともとコミュニケーションは気軽にネットでとの合意からスタートしたのですから、これで十分なのです。 昨年は、ユゴーの『レ・ミゼラブル』(岩波文庫4冊)でした。ジャン・バルジャンと孤児コゼット、銀の燭台のミリエル神父に代表される美しい物語を思い出しながら読み出したのですが、どうして、どうして、ユゴーさんのペン先は読者をナポレオンの戦場やパリの市街戦に導き、あるいは修道院や、さらに棺桶の中にまで閉じ込め、さんざんな目に遭わされたというのが正直な感想でした。それでも、終わってしまえば、こんな大作をよくぞ読破したものよと、甘美な読書の饗宴に大満足した次第です。
新潮文庫で4冊。かなりの量です。一冊に2,3ヶ月を当てて、今年中に読み終える予定でスタートします。感想はメンバーのみですがネット上の所定のサイトに書き込んでいきます。自由に閲覧、意見交換もできるようにしてあります。 もし、参加したい方がおられましたら、私までお申し出下さい。また、他のメンバーにお声をかけてください。原則として存じ上げている方、多少でも、直にお交わりのある方に限るのですが。 一応新潮文庫を使います。もちろん他のものでもかまいません。 昨夜、アマゾンを調べていましたら、未読で中古になっている全巻がありましたのですぐに注文しました。どんな本が来るのか多少不安がありますが、今日にも届くそうです。 小さなものを書くことを自分に科していますが、書かれたものを読む、つまり読書はなんと楽しいことよとつくづく思います。書くことは苦しいことです。遠藤周作氏が創作活動を「楽苦しい・たのくるしい」表現したのを思い出します。 読書する人がすなわち書く人とは限らないが、書く人で、読書しない人はいないとも聞きました。読書は書くことの必須科目だということでしょう。 とはいえ先人たちの名作の世界に浸れるのはなんと幸いなことでしょう。新しい本はさておき、まだまだ鬱蒼たる古典の森に、足腰を鍛えて踏み入りたいと欲ばっています。 2010.01.27 Wednesday 09:59
聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その18
しばらく中断していましたが、また思い立って続けます。119篇は22の段落に別れています。今回は15段です。やっとここまで来ました。とにかく終わりまで頑張ります。 第15段 サーメク 119:113 私は二心の者どもを憎みます。 しかし、あなたのみおしえを愛します。 二心の者とは、二枚舌をつかったり、状況や出会う人によって態度を変える卑怯な悪人のことを言うのだろう。単純な者はいいようにたぶらかされ翻弄されてしまう。しかし、そんな悪辣な者のことであっても、ひどい仕打ちにあって、傷つき悩まされても、神様の前で《憎みます》と大きな声ではなかなか言えない。 新約の時代に生きる私たちはイエス様の『あなたの敵を愛し……』を前にしているので、たとえ悪人のことであっても祈りの中で《憎みます》とは言えない。しかしその二重人格的偽善の罠にかかって、裏切られたり傷つけられたりすれば、人知れず憎んだり恨んだり、時に罵りたくなるものだ。感情を抑えるのに苦労する。まして《愛します…》、《赦します》などと言えるものではない。いっそこの詩人のように憎みますといった方が正直かもしれない。主は心の内の隅々までとっくにお見通しなのだから。 詩人はまことに素直に、二心の悪人は憎むけれど、主は愛すると言う。透き通った声が聞こえてきて爽やかになる。 119:114 あなたは私の隠れ場、私の盾。 私は、あなたのみことばを待ち望みます。 前節で、二心の者どもを憎むと祈った詩人は、おそらく彼(彼ら)から耐え難い暴挙を受けたのであろう。もちろん直接に暴行を受けたわけではないかもしれないが、暴言、あるいは否定、無視され、騙されたのだろう。そんな現場にいたくないのだ、身を隠して、逃げてしまいたいのだ。しかし状況によってじっと身を晒さねばならないこともある。行くも退くもできないとき、詩人は主のもとに隠れ場のあることを知っている。主のみふところに駆け込んで、主に盾になっていただけば、実際には苦境の矢面に立たされようと、凛としていられるのである。詩人は主の助けを待ち望み、それを確信し、祈り続けているのだ。 119:115 悪を行う者どもよ。私から離れて行け。 私は、わが神の仰せを守る。 詩人は大胆に主に刃向かって悪を行う者を追い払う。祈っている内に、詩人は強められていったのだ。まごころからの祈りには主の臨在がともなう。主がおられることがわかると、魂は俄然、息を吹き返したように立ち上がることができる。たとえ我は弱く惨めであっても、弱さの内に働く御霊の勢いによって強くされるのだ。断固として悪者に立ち向かい、たとえ千人を敵に回しても、敢然と主に従うことができる信仰が与えられるのだ。 119:116 みことばのとおりに私をささえ、私を生かしてください。 私の望みのことで私をはずかしめないようにしてください。 詩人は主の隠場に身を委ねながら、主に安心して哀願している。同じことを繰り返す幼子のように、主の支えと、生かしてくださること、希望が失望に終わらないことを、願い続けている。 119:117 私をささえてください。そうすれば私は救われ、 いつもあなたのおきてに目を留めることができましょう。 悪者を追い払い、敵が消え失せて、勝利したとしても、主の支えがなかったらほんとうの救いではない。単なる救出は一時的だ。臨在の主のそばで主に従うとき、まことの救いと平安と喜びをいただけるのだ。詩人はそれを願っている。 119:118 あなたは、あなたのおきてから迷い出る者をみな卑しめられます。 彼らの欺きは、偽りごとだからです。 詩人は、主は公平でどんな悪も見逃さないお方であると知っている。主の戒めを軽んじ、その愛を軽率に扱う者を主も喜ばず、主の祝福にあずかることはない。どんなに体裁を繕っても主を欺くことはできない。 119:119 あなたは、地上のすべての悪者を金かすのように、取り除かれます。 それゆえ私は、あなたのさとしを愛します。 前節に続いて、主が背く者や悪を行う者をほってはおかず、溶解炉で不純物を取り除くように、捨て去ることを確信している。それは思うだけで実に痛快である。詩人は、胸を張って正義を貫く主を愛しますと告白している。心が燃え、喜びがあふれている。 119:120 私の肉は、あなたへの恐れで、震えています。 私はあなたのさばきを恐れています。 神様が決して悪を見逃さない、大いなるさばきの方であると知るのは胸のすく思いがするが、ふと、自分の罪汚れを見るとき、手放しでは喜べない。主の正義の前に恐れが生まれる。それは身震いするほど強いものである。もし、自分がさばかれたらと思うと居ても立ってもいられない。純な詩人はそうした恐れを率直に主に申し上げている。しかし主は微笑みながら詩人の訴えを聴き、おそらく直ちに平安で満たすことだろう。 2010.01.25 Monday 10:24
ああ、消えゆく日本航空
会社更生法適用を申請とは、早く言えばあの日本航空は倒産したと理解していいのでしょうか。戦後最大の負債金額だとか。なんとも感無量です。 日本航空には何一つ縁もゆかりもありません。関係するただ一人の友人知人もいません。一株だって持っていません。利害関係は皆無です。それだけに純粋に私の中の日本航空を惜しむのです。 飛行機に乗るなんて、夢のまた夢だったのが、実際に飛行機で海外に行く人たちが増えてきて、夢が手の届くところまで近づいてきて、自分にもいつかそのチャンスが巡ってくるかもしれないと身を焦がすように思っていたころ、そうした熱い願いのあこがれの象徴が日本航空だったのです。(長いおかしな一文になりました) 私にはJALというより日本航空のほうがより快く響きます。そして、なによりも、日本航空はイコールFM東京真夜中ちょうどから始まるジェットストリームなのです。時折しか聴きませんでしたが、最近あのなつかしのテーマミュージックと城達也さんのナレーションを耳にしたとき、忘れていた当時が一度によみがえって来たのには驚きました。ごく自然に、記憶の大広場に引き出され、悲喜こもごも懐古の時を過ごしたのでした。おそらくどなたの胸にも日本航空がもたらす思い出があるのではないでしょうか。 初めて海外への旅が実現したとき、飛行機がとても気になりましたが、安価な団体旅行ではとてもJALを使えなかったのでしょう、外国の航空会社でした。JALだから安心、の一言で、多少費用が嵩んでもJALを選んだ方は多いのではないでしょうか。私はいつもJALよ、という人に、妙な劣等感を抱いたこともありました。それほど、JALの存在は大きいものだったのです。 どうしてここまで落ちぶれてしまったのか、深い事情は知りませんが、情けない気がします。栄枯盛衰は古今からの世の習いとはいえ、公式通りに悲しい答えが出るのは見るに偲びません。栄枯盛衰を戒めの言葉として謙虚に受け入れ、壇ノ浦の悲劇を繰り返さないでほしいと、今、絶頂にある方々に言いたいほどです。 この度の悲劇を見ながら、時代は変っていくのだなあとつくづく思います。夢を与え、夢を売り続けたあの華やかなJALの時代は終わったのです。しかし時の流れにはピリオドはありません。次のJALが現れるでしょう。そして、世の中は一時騒ぎも収まって、しばらくすると何事もなかったように機能し、進んでいくでしょう。 しかし、世界はいつまでも輪廻するものではなく、歴史の主人公である神様が、初めを創造した以上必ず終焉があるのです。初めであり終わりであると言われる神様の宣言を固く信じます。時々社会に現れる一時代のエンディングシーンは、すべてには終わりがある、滅びの時があるとの神様からのメッセージではないでしょうか。 2010.01.20 Wednesday 09:54
日々の風から 子どもは風の子
孫たちに、来てよねと言われていたところへ、ママからも携帯が入ったので、おばばも腰を上げた次第です。しっかり防寒対策をして。ところが校庭はさんさんと日が降り注ぎ、思ったほど寒くありませんでした。 目玉はお餅つき。町内の青年団が臼を二つ用意して張り切っていました。校庭に響き渡きわたる杵の音を聞いたとき、ふと郷愁を感じ、思わずじーんとなりました。 お餅は無料。生徒たちは家からタッパーとお箸持参で列をなしています。そこに父兄や地域の人たちが混じり込み、長蛇の大行列になりました。 大声で名を呼ばれて振り向くと、テントの中から一人の女性がつきたてのお餅を入れたお雑煮のお椀を差し出しています。見れば、かつて私の塾で学んだ生徒のお母さん。あれから十数年が過ぎているのです。白髪が目立っていましたが、OB父兄として手伝っているとのことでした。 子どもたちは思い思いに食べたり遊んだりで、文字通り風の子になりきっていました。
我が家からわずか5分のところですが、数十年の歳月を思うとき、地球の裏側よりも遠い地にいるような気がしてきます。二度とその時代には帰れないのですから。しかし、そこに現在と過去を重ね合わせると、深い豊かな感慨に満ちた新しい地に思えてきます。御国のように慕わしくさえ思えるのです。肌を刺す寒風もすでに希望の風をはらんでいるようでした。 2010.01.16 Saturday 21:25
日々の風から のんびりウオーキング
(伸びゆくスカイツリー/A氏より拝借) 新年が明けて仕事や学校が始まったと思ったら三連休。定期の関わりがないものにとっては、おやおやまたお休みと言いたいところだが、お正月は疲れるものと決まっている。疲れたまま仕事や勉強に入った方々にはこの三連休こそ、得難い休養になるのだろう。 我が家は久しぶりにそろって散歩に出た。思えば孫たちと純然たるウオーキングなんてあっただろうか。いつもと一人歩きする道と逆のコースを選んだ。 地理で言えば(わかる方にはわかるでしょうが)墨田区を南に行くと江東区、東に行くと江戸川区である。両方とも小さな川が区境である。江東区と江戸川区にはJR総武線の駅、亀戸と平井がある。今日は平井駅に向かった。区境には旧中川が小さく流れ、平井橋が架かっている。
この川は昭和24年のキティ台風の時、決壊し、大水が出た。我が家も被害にあった。その後強固に護岸工事が行われ、高い堤防が築かれた。そのために橋を渡るためにはかなり急な坂を登らねばならない。自転車の人は降りて引いていくしかない。(上流に向かうと土手の下が遊歩道に整備されている。そこは先日一人で歩いた) 蔵前通りを渡るとJR平井駅である。わずか隣りの駅なのに用がなければ一年に一度も来ない。もっとも、50年ほど前は、この先の荒川沿い建つ高校への通学路であったから、毎日重い鞄を提げてせっせと歩いたものだが。駅周辺が姿代わりしたのも無理はない。新しい道もできていて、かつてどの道を行ったのかもわからないほどだ。 冷たい風の吹く曇り空であったが、手袋もショールも外して汗ばむほどであった。それでも万歩計はたかだか6000歩ほどしか記録してくれない。孫たちは前に行ったり、後ろに回ったり、走ったりで、およそウオーキングではない。大人につきあわされて気の毒であったが、彼らなりに楽しんでいたと思う。途中立ち寄ったおそば屋さんがいちばん気に入ったようだった。 2010.01.11 Monday 21:10
聖書の風から 新しく生まれること
久しぶりにこのカテゴリーを使います。おそらく三日坊主になる気がしますが、新年には新年らしく、新しい決意や、過去の決意の再開などが似つかわしいと思うからです。 今朝開いた信仰書の一ページを紹介します。 新約聖書の中に記されている新しいことに着いての記述です。 新生(第一ペテロ1・3) 『イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました』 新しいいのち(ローマ6・23) 『罪からくる報酬は死です。しかし神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです』 新しい人(エペソ4・24) 『真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした』 (コロサイ3・10) 『新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです』 新しい心(エペソ4・23) 『また、あなたがたが心の霊において新しくされ』 新しい戒め(ヨハネ13・34) 『あなたがたに新しいいましめを与えましょう。互いに愛し合いなさい』 新しい生ける道(ヘブル10・20) 『イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい道を設けてくださったのです』 新創造(第二コリント5・17) 『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました』 (ガラテヤ6・15) 『割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です』 新しい天と地(第二ペテロ3・13) 『しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます』 (黙示録21・1) 『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない』 聖書は新しいことへの言及で満ち満ちています。そもそもイエス・キリストによる救いは、古き罪人から罪赦された新しい人への新創造のみ業から始まるのです。 『人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない』と説かれたイエス様のおことばを思い出します。
今でも50数年前のことが思い出されます。自分というものを意識すするようになった十代の初めごろのことです。自分の欠点にたいへん苦しめられ、何とかして改善しようと努力したり切望して、もがきました。でもどうにもなりませんでした。 教会に導かれてイエス様を受け入れ、しばらくして洗礼をいただいたとき、牧師先生が「あなたのすべての罪は赦されました。今日からあなたは清い神の子になったのです」と言われたました。このときほどうれしかったことはありません。 これで昨日までのいやな自分でなくなる、新しい自分になれる、私は神の子なのだと、それはそれは単純に信じました。もっとも、しばらくしていっこうに聖人君子になれない自分、それどころかますます罪深い自分を再発見して悄然としたのでしたが。 しかし、長い歳月を経て振り返ってみるとき、聖人君子には今でもほど遠いのですが、心の持ち方や価値観、生き方等の人生への対処法が全く変えられているのをはっきりと知ることができます。
2010.01.07 Thursday 22:22
日々の風から 私の新年
(スカイツリーただいま254m) 本年も書く力をいただきイエス・キリストの恵みを『希望の風』
近くの中川放水路 新しいとは、うれしいものです。 新年が来たからといって、昨日とほとんど同じなのです。 自分も、家も、家族も、教会も 相変わらずです。 でも、新年ってすてきです。 新しいとは、心弾むものです。 昨日と同じ自分が、同じ部屋にいるのだけれど、 同じ顔ぶれの家族だけれど、 同じ兄弟姉妹たちとの教会だけれど、 新年のあいさつを交し合うと 自分も、家族も、教会も 新年の光を浴びて、輝いてみえるのです。 裸の街路樹も枝先がピンと空に伸びています。 いちばんよくわかることは、 新年を喜んでいる自分がいることです。 新しいことに挑戦しようとする自分がここにいることです。 見よ、わたしはすべてのことを新しくすると言われる神様が 今年もともに歩いてくださるとささやいておられます。 三日坊主でもいいから、試みてごらんと背を押してくださいます。 だから、新年っていいものなのです。 神様と連れだって、冒険の旅に出発できるからです。 2010.01.02 Saturday 16:00
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