人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 我が家と私の大晦日
新年の華 

 

今年のおせちはほとんど長女が支度した。母がいたころは、孫たちの嗜好にかかわらず、私が純日本風おせちを担当したが今年はその必要もなくなった。

リクエストのあるものだけ数品手がけて、あとは長女の助手に廻った。これが自然の成り行きというものなのだろう。楽になったことは確かだ。

 

午後から、毎年元旦礼拝で配布する『聖書通読表』を作成した。ここしばらくスタイルが決まっているので、保存ファイルから出してきて、表紙のカットなどを多少変えて両面を印刷した。二つ折りにして聖書に挟む。読んだ章にしるしを付けていくのである。教会の教育を担当しているので、新年には必ず《一年に一度は旧約新約66巻を完読しましょう》と推奨する。

 

旗を振ったからには、実行しないでは嘘つきになる。義務感からではないが、長年、通読に力を注いできた。でも、反省もある。読めばいいというものはない、通読表に全部印が付いたからいいというものではない、子どものシール遊びじゃあるまいしと思うのだ。

 

スピードで通読するはいいけれど、どこまで聖書の恵みがわかったか、どこまでみことばの深みに導かれたか、思索したかと問われれば、肩をすくめ、うなだれる他はない。では、遅く読めばいいのか、そういうことでもないだろう。

 

私の大晦日は揺れている。

 

新しき年こそ、昨今のはやり言葉『新』と『チェンジ』に乗って、信仰や生活の習慣を見直し、仕分けをし、新風を入れたいと思う。希望の風は微風ばかりがいいのではない。目の覚めるような鋭風も必要だ。かといって、飛びついたニューアイデアも三日坊主の醜態で幕となることもあるが、めげずにいこう。継続しつつ改革し、改革しつつ継続していく、巧みな歩調をいただいて前進だ。

 

私の大晦日は頭脳体操のようだ。

 

夕食は恒例の年越しそばである。我が家は文字通りおそば党。今年は、半分は孫たちの好きな茶そばにした。エビと野菜の天麩羅を揚げる。大根おろしととろろも近年恒例である。

 

夕食後は家族そろって大晦日祈祷会をした。聖書と聖歌を携えて集まった。

一曲ずつ愛唱の賛美を選んで歌った。詩篇103篇を分かち合い、一人ずつ、今年うれしかったこと、いやだったことなど語り合った。SくんもMちゃんも話題が多く、進行役が舵を取らないといつまでも尽きることがない。最後にアメイジング・グレイスを賛美して祈って終えた。

 

お茶は、昼に焼いておいたスポンジにいちごを飾って華やかにデコレートしたケーキを切り分けた。気が付けば10時が迫っていた。今日はいつもより夜更かしである。ママは子どもたちをせかせて寝に連れて行った。

 

こうして私の大晦日は主の恵みに感謝しながら過ぎていく。



この一年も希望の風へお越しくださりありがとうございました。
皆様のご訪問に励まされて書く元気をいただいています。
駄文、雑文でお目を汚しましたことお赦しください。
新しき年もよろしくお願いします。
イエス・キリストの恵みをお祈りします。希望の風より



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日々の風から 年の瀬の感慨 その2 またも挫折して

今年もあと一日を残すのみとなった。

一年を振り返って、悔やまれてならないことがある。深刻になることはないと思いつつも、一笑に付してかたづけてしまうのはお粗末すぎるというものだ。実は私には何度トライしても中途止めなってしまうものがある。

それは読書ノート。

 

お恥ずかしいことだが、長年あれこれ頭をひねってはスタイルを考案し、書き始めても、しばらくすると頓挫の憂き目に遭う。パソコンを使うようになって、これは便利だからきっと続けられるだろうと意気込んで始めたが、やはり挫折した。そういえば、ブログにも『書林の風から』として一つのカテゴリーを設けた。あまり活用していない。

 

なぜだろうかとつくづく考える。

読んでいる最中は、小説であろうとその他のジャンルであろうと、あらかじめ表紙裏に挟み込んでおいた付箋を、ここぞと思うところにぺたぺた貼っていく。そこを参考にして読書ノートを作成する積もりなのだ。ところが、である。読み終わるとすぐ次の本に走ってしまうのだ。これが挫折の元凶だ。

 

そろそろこの悪習慣から脱出せねばならない。この一大課題を抱えて新しき年へ向かうとしよう。

 

数日前に読んだ一文が脳裏を過ぎる。

「私の『努力』は、見る、読む、聞く、書くに今までよりもっともう少し注意を注ぐ。見るときはちょっと凝視する、読むときは少し遅く読む、聞くときはもう少し注意を向ける。書くときはよい文章になるように、と言う意味です」

 

これを心して実行すればいいのだ。生活の歩調をペースダウンして、さらに所々立ち止まることを課していけばいいのだ。ああ、しかし、言うは易く、行うは難し、ではないか。年の瀬に同じ愚かな嘆きの声をあげてはならない

 

 

 

 

 
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日々の風から 年の瀬の感慨 その1
 

27日は今年最後の礼拝の日でした。今年2009年は元旦礼拝も入れて、主日(日曜日)礼拝の日が52回ありました。自分の出席状況を確かめてみました。3回はよその教会の礼拝に出ました。(礼拝のメッセージご奉仕などで)残りの49回は自分の所属教会へ行きました。

 

考えて見ますとこれは何という恵みでしょうか。教会に行けたというのは、なんと言ってもその日の健康が支えられ、外出できたということです。たとえ大病でなくても、風邪を引いたり、腹痛を起こしたり、めまいが出たり、腰が痛かったり、足が痛かったりしたら動けません。一年365日すべての日が壮健であったとは言えませんが、少なくとも主の日に礼拝できたことは、生身の、しかも老いを感ずる今となってはただただ主のあわれみとしか思えません。

こんな年がいつまで続くかわかりませんが、とにかく、今年を感謝します。

 

そんなわけで、担当している礼拝前30分の成人科クラスも継続でき、これもまた感謝の一言に尽きます。doingばかり追いかけているわけではありませんが、主の恵みに生かされつつの行動はうれしいものです。

 

礼拝後は、元旦礼拝を迎えるためにもういちどざっと大掃除をしました。すでに帰郷しり、大型旅行に出発したファミリーもいましたが、いつも奉仕するメンバーが残って働きました。終了後はインスタントの年越しそばとクリスマスの残りのお菓子を囲みました。ではまた元旦にと挨拶を交して、暮れの町に散じていきました。新しい年も、礼拝の民にふさわしく、主日ごとの礼拝を基本に、教会生活を最優先し、さらにいただいている使命に向かって走りたいと願っています。それを充実させるための知恵をいただきたいと思います。

 

最近ある文章に心捕らえられました。ガンと命尽きるまで壮絶な戦いをしたある科学者の手記の一節です。

「私の『努力』は、見る、読む、聞く、書くに今までよりもっともう少し注意を注ぐ。見るときはちょっと凝視する、読むときは少し遅く読む、聞くときはもう少し注意を向ける。書くときはよい文章になるように、と言う意味です」

 

 

 

 

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日々の風から クリスマス・イヴの不思議

 

教会のクリスマス礼拝の日はその年のカレンダーによって、19日から25日の間の日曜日に行われますが、燭火礼拝は毎年おなじ24日、イブの夜に行われます。

 

そして、この日に、一般に方々が多く教会に出かけるようです。イブの夜に街を歩いていて、教会から聞こえてくる讃美歌やイルミネーションに誘われて入ってくる方もおられます。また、この日だけは教会に行きましょうと決めている方もおられます。こうした形で教会が用いられるのは教会にとって本望であり、いつも祈り願っていることです。

 

今夜はだれが来られるでしょうか。ほんとうに、思いがけない人が来られるのです。ずっと教会を休んでいた方、休みすぎて敷居が高くなっていた方、以前に一度だけ来た方、教会員の家族の方、日曜の朝にしか来ない方がやってこられます。驚きの再会や初対面のドラマが展開するのです。

 

イエス・キリストがベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったとき、駆けつけたのは、仕事中の羊飼いたちや異国の賢者たちでした。それは、思いがけない顔ぶれでした。

 

この、イブの日を楽しみにしながら、悲しい事情で来られない方々がいます。

今週からまた抗がん治療の始まった60代の姉妹

ついに車いす生活になってしまったまだ60代の姉妹

つい最近、体調不良で老人病院に入院した87歳の姉妹

病床で洗礼を受けて予断のできない状況の81歳の姉妹

厳しい就労状況の中で遅くまで仕事をする働き盛りの兄弟たちです。

 

そして、このイブにも喪失の悲しみを抱えている友人知人がいます。

先頃、ご主人を天に送ったばかりの70代の姉妹と娘さん

最愛の奥様を突然亡くした80歳の兄弟

一人息子が結婚して家を離れ、独り暮らしになってしまった友人。

 

先に紹介しました『クリスマスに贈る100の言葉』(女子パウロ会)にこんな一文がありました。

 

クリスマスは贈り物。

自分だけ独りでいてはなけない。

光に信頼せよ。

あなたのためにも輝いた、ベツレベムのあの光に。

そして、あなたの心の呼びかけに従うがよい。

あなたの心は、

自分を与えることができたとき、

いつでも、いちばん幸福なのだ。

 

クリスマス・イブの礼拝に来られないあの人に、大きな喪失の悲嘆にくれている人に、今人生最大の難関と戦っているあの人に、取りなしの祈りをもって私のささやかなプレゼントとしたいと思います。

 

 

 

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日々の風から クリスマス礼拝
  

1129日から始まった待降の日々が満ちて、クリスマス礼拝の日となりました。

たいていの教会では25日に最も近い日曜日をクリスマス礼拝の日にします。そのほかにも、教会では、婦人クリスマス、子どもクリスマス、青年クリスマスなどを行います。なんといってもクリスマスはいちばん大きな行事です。

 

クリスチャンでなくてもクリスマスには教会へ行く人たちがいることは、教会にとって大きな喜びです。教会はいつもより力を入れてPRします。どのように時代が変ろうと、文明が発達しようと、人が真に求めているもの、探しても、探しても見つからない真理があるのは教会だけです。イエス・キリストの中に満ち満ちているのです。このイエス・キリストに出会っていただきたいために、教会は懸命に世に向かって発信しています。

 

我が教会では、この礼拝で二人の方が洗礼を受けました。お二人とも高齢の女性です。78歳と81歳です。お二人とも息子家族や娘たちがすでにクリスチャンになり、ずっと親たちの救いのために祈り仕えてきました。長年の祈りを主はかなえてくださったのでしょう。あるとき、彼女たちの心に強く働いて、イエス・キリストを信ずる信仰に導かれたのです。

 

78歳の女性は、ある出来事を通して、息子家族の信じている神様が本当の神様だとわかりました。信じて天国へ行きたいと思いますと証ししていました。

81歳の女性(車いす生活でホームにおられます)は、娘は毎週ホームに迎えにきて教会へ連れて行ってくれます。ホームへ帰って別れ際には、耳元で「イエス様、この一週間も母を守ってください」と大きな声で祈ってくれます。私もだんだん神様がわかるようになり、信じる決心をしましたと、補聴器を使いながらしっかりしたお声で話されました。お二人とも、長い人生経験の中からイエス・キリストを信じることを、最終結論として出されたのだと思います。

 

ひとつのみことばとみことばの真実を感謝しました。

『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』

(使徒・16章31節)

 

 

 

 

 

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日々の風から  クリスマスを待つ日々 その4
  シュトーレン


 年内に終わらせたい事柄のいくつかにめどが付き、胸のつかえが少し下りました。これからは教会クリスマスと我が家のイベントに向きを変えられそうです。我が家のイベントなどとちょっと物々しい言いようですが、今夜は母召天一年の記念会をすることにしました。集まるのは父母の直系の者たちだけです。具体的には我が家と私の妹たちです。

 

次女は教会のクリスマス諸行事のため欠席です。デザートにと、シュトーレンとマフィンに腕を振るって送ってくれました。日曜の夕方からは次妹の息子の結婚式があります。これは無条件で大きな慶事です。喜びつつ、正装して出席しようと思います。新郎新婦の晴れ姿が楽しみです。

 

 

クリスマスに贈る100の言葉』(女子パウロ会)から

 先日の続きです。

 

降誕節とクリスマスは

鍵穴のよう。

その穴を通して、

天上のふるさとの光が降り注ぐ

わたしたちの地上の暗い小路の上に。

  フリードリヒ・フォン・ボーデルシュヴィング

(ドイツ人。ナチの優生学的政策に対し患者を守る)

 

光が輝くとは

絶望の夜がないことではない

それは、夜が照らされ、

それが超えられるということ。

  ハインリヒ・フリース(ドイツ人、カトリック司祭)

 

ベツレヘムの星は

今日もなお

暗い夜に輝く星である。

  エディット・シュタイン

(ドイツ人。イエズス会士。反ナチの抵抗運動に加わり、逮捕、死刑)

   

私たちの人生は

飼い葉桶の幼子から始まる。

 ヨヘンネス・ハイゼルマン

    (ドイツ人、ルター派教会バイエルン州司教)

 

飼い葉桶の幼子を見て、

だれが神の子と思ったであろうか。

神は幼子のうちに隠れておられる。

神は「お忍び」で来られた。

この矛盾は、クリスマスの秘義の本質。

神の威厳は、卑しさのうちに、

神の力は、弱さのうちに、

神の永遠は、死すべきからだのうちに現れる。

神は静かに来られる。

神はその力を言いふらし、見せびらかせることはない。

家畜小屋と飼い葉桶のうちに、

ゴルゴタの十字架はすでに、ひそかに予告されている。

 カール・レーマン(ドイツ司教協議会議長)

 

 

 

 

 

 

 

 

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日々の風から クリスマスを待つ日々 その3



 
アドベント第3週の主日は次女の教会で礼拝を捧げてきました。早朝の東京駅から二階建て16編成のMAXに乗車しました。驚いたことに、駅は閑散としていて、私が乗った車両にはなんとたった二人しかいませんでした。上野でも大宮でも乗り込む人はまばらです。これは一体どういう現象でしょう。

 

真っ白な浅間山と黒々と聳える妙義山に迎えられ、すっかり冬の休みに入った田畑と、広い大きな空を楽しみながら教会へと急ぎました。前回は8月だったでしょうか、決して遠い距離ではないのになかなか行けないものです。

 

アドベントのこの時期にどうして出かけたのかと言えば、私にとってはこの上なく心弾むイベントがあるからです。礼拝後午後からの子どもクリスマス会です。子どもクリスマス会は日にちのちがいこそあれ、どこの教会でも盛大に行われる大きなクリスマス行事です。教会は全員にプレゼントを配り、趣向を凝らした楽しいプログラムを用意します。あらかじめ地域の子どもたちにチラシやダイレクトメールなどでPRします。まことの神であるイエス・キリストを子どものうちから知り、信じてもらうためです。

 

この日教会では教師や生徒が一緒になって劇を演じる事なっています。そのシナリオに、私の童話が用いられるのです。以前に書いた童話をシナリオに作り直しました。『マロンとフロンの水くみ』という題です。聖書にある、ベツレヘムの家畜小屋でイエス・キリストが誕生する場面を題材にした創作です。私はそれがとても楽しみでした。どうしても見たくてたまりませんでした。

 

さて、いよいよ上演です。大きなスクリーンに、物語の場面場面を描いた絵が映し出されます。その絵をバックに出演者が演じるのです。ところどころに生のバックミュージックも流れて、たいへん立体的なドラマになりました。

絵はパソコンを使って描かれました。教会の一人の兄がPCの技術と彼の芸術性を生かして創りました。私が思い描いた以上の画風で、すばらしい背景になりました。大勢の子どもたちが静かに見入っていました。これも感動でした。そのデータと、使用許可をいただきましたので、折りがあったらご覧いただきたいと思います。

 

劇のあと、クリスマスメッセージが語られ、その後に、工作タイムがありました。今年は、モールと羊毛を使って羊のマスコットをつくりました。材料をもらった子どもたち(小学生と中学生)は、スタッフの説明を聞きながら懸命に取り組んでいました。私も作りましたよ。簡単ではありません。我を忘れて没頭しました。30分くらいの後、色とりどりの可愛い羊が部屋いっぱいに誕生しました。泣き声が聞こえてくるようでした。最後にお菓子のたくさん詰まった袋が配られました。私も一ついただきました。

 

久しぶりに教会学校のクリスマス会に出席して(我が教会では、すでに奉仕の座を降りています)一昔前の自分を思い出し、心が熱くなりました。そして、なんと言ってもクリスマスの場面には子どもがいなくてはならないと痛感しました。クリスマスの主人公イエス・キリストが子どもの王様、赤ちゃんなのですから当然のことと言えます。この日だけは、子どもを探しても仲間に入れてともに喜び合いたいものです。

 

 『羊飼いたちは互いに話し合った。さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとをさがしあた』(ルカ215、16節)

 

 

 

 

 
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日々の風から クリスマスを待つ日々 その2

 

ブログが上がっていない、もしかして希望の風さんは病気かもーーーと心配してくださるお声が聞こえてきました。こんなにうれしいことはありません。でも心配をおかけしては申し訳ありません。

 と、言うわけでいいわけを書きます。

 
師走なのでしょう、師でもないのに走り回っています。主のあわれみによって風邪にも罹らず、まあまあ元気を与えられています。ただし、以前より仕事をこなしていく力が減少しているのは確かです。たとえば、少し前は、一度の外出で、数カ所の用足しができました。しかし最近は一つだけしかできません。

 
昨日、ある団体のクリスマス祝会に出席しました。親交の長い友人たちと帰途につきました。ホームに電車がいたので大急ぎで階段を駆け下りました。ところが友人の一人がだいぶ後ろからやってきます。電車は出てしまいました。

姉妹は「医師から、決して急がないで。心臓に負担をかけてはいけないから」ときつく申し渡されているとのことでした。これは姉妹だけのことではありません。慌てたばかりに転倒して骨折したお話しは尽きません。

 
今年は例年より早くからクリスマスカードを作ったり、エッセーをしたためたりできまして、余裕のあるクリスマスシーズンになると思っていましたが、計算違いでした。みっともないいいわけです。

 

さて、クリスマスに関する一冊を楽しんでいます。『クリスマスに贈る100の言葉』(女子パウロ会)。すてきなハードカバーの本です。

 

 いくつかを書き抜きます。

 

人類の歴史の中でもっとも偉大な日は、

人間が初めて月に立った日ではなく、

神の子がこの世に生まれた日。


   (ジェームズ・B。アーヴィン。

  アメリカの宇宙飛行士。アポロ15号で月に着陸した人)

 

この聖なる日があったときから

神はこの世のうちにあり

この世は神のうちにある。

       
    (オド・カーゼル・ドイツ人/ベテディクト会修道士)

 

クリスマスプレゼントの中身が

クリスマスの真の内実なのではない。

                
     (クルト・マルティ/スイス人、牧師)


                     またご紹介します。 
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日々の風から クリスマスを待つ日々 その1
 

 毎年迎えるクリスマスですが、迎える心は毎年違っています。

毎年同じ聖書箇所を読みますが、感じることや気づくこと、教えられることは毎年違います。その時の私の側の状況や心情の違いから来るのでしょうか。

自分のことながらその違いがおもしろくて、童話やエッセーやシナリオが書きたくなります。私のクリスマス歴史とも言えますので。

 

今年もひとつエッセーができましたのでご覧ください


ベツレヘムへ

 
                    09年クリスマス・エッセー

マリヤ★ゲッセマネから待降へ  


   
御子のお生まれを最も待ち望んだのはだれであろう。

    十人の人に質問したらどんな答えがでるだろう。

    何人の方が、それはマリヤと声をそろえるだろう。

   

御子のお誕生を前にして、マリヤほど大きな感情の揺れを経験した人は、古今東西一人もいないであろう。


 およそ、女性にとって初めての出産ほど大きな出来事はない。新しい命が宿ったと告げられてから、胸に我が子の体温を感じるまでの十月十日は、不安と喜びの両翼を激しく行き来する劇的日々なのだ。


 マリヤの場合、それは世にも特異なものだった。

いきなり、御使いが入ってきて、告げるのだ。

『「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」しかし、マリヤはこのことばにとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

(ルカ1・28、29)。御使いはさらにたたみかける。

「『あなたはみごもって男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。生まれる者は、聖なる者、神の子です』」(31節〜35節)

マリヤは未曾有のパニックに陥ったのではないか。


 ショックは不安や恐れに直結する。一瞬にしてマリヤは暗闇に突き落とされたにちがいない。時にマリヤはまだ可憐な少女であった。

後世、この場面は受胎告知と称されて、芸術家の創作魂を大いに刺激したようだが、何も知らないマリヤは一人でこの大難事に立ち向かうことになる。


 しばらくの後、

「わたしは主のはしためです。おことばどおりこの身になりますように」と鮮やかに返したが、ここまで意志が固まるには、壮絶な心の修羅場があったろう。想像をたくましくするに、ゲッセマネのイエス様と同質に近い、血の汗したたる苦闘があったと思えてならない。

一つの慰めは、ゲッセマネでもイエス様のそばには御使いがいたが、マリヤのそばにもガブリエルと名乗る御使いが始終マリヤを見つめていたことだ。


 御使いはマリヤにはやさしかった。エリサベツの例を挙げながら

「神にとって不可能なことはひとつもありません」とオールマイティーのカードをみせてしまう。マリヤはどんなに力づけられたことか。

マリヤは闇の穴に差し込んだ光の綱にすがってはい上り、光の道を歩きだした。光はマリヤの心に希望を産んだ。マリヤは希望の杖を頼りに出産の日を待望できるようになった。


 マリヤの待望をさらに後押しするものがなお二つあったと思う。二つではなく、二人と言うべきであろう。一人はエリサベツである。

マリヤはエリサベツに会いに行くのである。

親類のエリサベツは、ナザレからおよそ南に100キロ、ユダの山地に住んでいた。神殿に仕える祭司ザカリヤの妻であったが、うまず女と呼ばれて蔑みの歳月を重ね、老女になりはてていた。


 ところが、神様は御子を世に送るに際して、この悲しき女性にも光を送られた。神様は御子の歩む道備えをする大役を、エリサベツの胎の実に託し、天地創造以来初めての壮麗な舞台に引き出したのだ。なんと深々としたあわれみであろう。


 マリヤは半年早く懐妊したエリサベツと邂逅し、神様の御業を自分の目で確かめた。マリヤにとってこれ以上の励ましはなかったろう。マリヤの心身は力強く降誕を待ち望んでいく。


 もう一つはベツレヘムへの出産紀行である。

臨月のマリヤにとって、二千年前の旅は決して快適ではなかったろう。しかしである、最愛のヨセフといっしょなのだ。マリヤの心はむしろ弾んでいたのではないだろうか。プラトニック・ハネムーンと呼びたいほどだ。

ヨセフは、御子出産というマリヤの十字架を担って、ゴルゴタならぬベツレヘムに同行した。ここにもマリヤに対する神様の細やかな配慮を感ずる。


 こうしてマリヤは、御使いやエリサベツやヨセフに支えられて、待降の思いを膨らませていったのではないか。やがて誕生するイエス様が、インマヌエルの主、ともにいてくださる神様と呼ばれるほのかなしるしを見る思いがする。

 

一方、イエス様を思わずにはいられない。

ゲッセマネを出られたイエス様は敢然と十字架への道を行かれる。御顔をまっすぐにエルサレムに向けて。ところが、十字架のかたわらにはだれ一人寄り添う者はいなかった。愛し抜いた弟子たちに見捨てられた。それどころか、父である神様にまで捨てられた。

《我が神、我が神、なんぞ我を捨て給いし》

イエス様の悲痛な叫び声を自分の魂に聞き取った人が一人でもいただろうか。

神様はこの過酷な使命を最愛の独り子のみに課し、人類救済の偉業を完了された。

 

今、神様は、

マリヤのように、御子を自分の魂に宿せよ、

マリヤのように、御子の誕生を待ち望めと、

呼びかけておられるのではないだろうか。

その声が聞こえてくるではないか。

さあ、羊飼いといっしょに、

ベツレヘムの家畜小屋へ駆けていこう。

 

      神の御子は 今宵しも 

ベツレヘムに 生まれ給う

いざや友よ もろともに 

急ぎゆきて 拝まずや

急ぎゆきて 拝まずや

 

 

 

 

 

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