人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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旅の風から 私の夏休みスペシャル 青森、秋田探訪・五能線に挑戦

疾風

はやて1号 

十和田湖
十和田湖

乙女の像
高村光太郎の乙女像


急に話がまとまって三番目の妹と旅に出かけた。私にとってはかなりな冒険の旅である。未踏の地青森は奥入瀬と十和田湖、八甲田山。それに五能線を完走する。

 

足取りは以下のようです。

 

27日月曜日 東京発いわて1号で八戸へ。

八戸からJRバスで十和田湖へ。途中、バスは奥入瀬渓流をゆっくりと登っていく。遊覧船で十和田湖周遊。高村光太郎の乙女の像を観賞しする。

JRバスで八甲田山ふもとのロープウエイ駅へ。

寒水沢温泉一泊。

 

28日 ロープウエイで八甲田山の一つ田茂泡岳山頂へ。

山麓1324メートル、山頂2459メートルまでを101人乗りの大型ゴンドラが10分で結ぶ。山頂は視界30メートルの濃霧。山々は霧の中。

遊歩道を囲む青森とど松の新芽と霧の中の幽然と立つシルエットを楽しむのみ。

 

JRバスで青森駅へ

駅前のビルの7階から眼下に青森レインボーブリッジを見下ろし、青森港を眺める。前方は青森湾。正面は下北半島の南側らしき一筋の線、右手遠くに夏泊半島の海岸線が伸びている。左手は津軽半島東岸が湾を囲んで伸びている。曇天のため水平線と海との境目は判然としない。

 

青森から白神4号(途中から五能線)で津軽半島の首を切るように横断し、鰺ヶ沢へ。津軽半島西岸を右手に、日本海が広がる。

鰺ヶ沢で一泊。

 

29日 いよいよ本命の五能線(リゾートしらかみ2号)で鰺ヶ沢から秋田へ。(80分)。この列車は3両編成、真ん中の一両が個室に分かれている。通常なら両側に分かれて、少なくとも8人は座席を設けるところを四人分である。真ん中に細長い木製のテーブルがある。4人が仲間同士ならいいけれど、見ず知らずの人と一つ部屋でテーブルを挟んで対面するのは何となく落ち着かない。よく調べもせずに切符を買ってしまったこちら側に責任があるのだが。

 

五能線は次回に。


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聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その17
 

第14段 ヌーン

 

119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

暗いところを歩くとき、上からの光りもいいが、足下が明るいのはなんと言っても確かな安心を与えてくれる。また、行く手に灯火が見えるのもうれしいが、一歩一歩の近いところが明るいのは心強い。最近は家の中や室内にもフットライトと称してコンセントに差し込める小さなランプがある。

詩人は神様のみことばこそ心と人生のフットライトだという。かつて、今のように夜道に街灯のない時代は、提灯で足下を確かめながら歩いた。今日も、人生の小道にみことばのフットライトをともして、安心と希望を持って進んでいきたいものだ。

 

 119:106 私は誓い、そして果たしてきました。

  あなたの義のさばきを守ることを。

 詩人は今までの人生を振り返ってしみじみという。貴い救いに与り、神とともに歩み初めた時からみことばを愛し従おうと決心し、そのように精一杯してきたと。誓ったとおりできず、御心を痛め悲しませることもあったけれど、とにかく、みことばから離れることなく、その道を継続してきた事実は動かしがたいものであり、自分の人生は丸ごとそれ一色であったと。みことばのみを人生の杖とし剣としてことはまことに価値ある生き方ではないか。

 

 119:107 私はひどく悩んでいます。

  主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。

 また、また、詩人の行く手に灯火を消してしまいそうないじわるい強風が吹いてきたようだ。悩みの闇に取り巻かれている。みことばを喜び蜜のようだと楽しんで味わい、義とさばきを守ってきたのに。だが、みことばに完全には従い得ない罪深い自分と、試練の逆風には弱い自分がいる。いのちと希望にあふれたみことばの約束を信じ、生かされていることを感謝して、突き進んでいきたいと、彼は主の御前に己を投げ出して懇願している。

 

 119:108 どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。主よ。

  あなたのさばきを私に教えてください。

 口のささげ物とは祈りであろうか、さんびであろうか。悩みの日にこそ深い祈りや賛美がまごころから生まれるものだ。魂は引き上げられ、さらにみことばへの渇きが生じ、みことばの奥義を慕い求めずにはいられない。

 

 119:109 私は、いつもいのちがけでいなければなりません。

  しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。

 いつもいのちがけ、とは特別なときだけでなく、一見して、平凡で平穏な日々でもということだ。信仰者としてこの世を生きようとすると、どんな小さなところにも罪を犯させようとする悪の力や誘惑の手は伸びてくる。油断したらあっさりとサタンの罠に陥ってしまう。だからこそいつも目を覚ましていなさいと、イエス様は愛の警告をなさった。どんなときも緊張感を忘れないで、みことばを求め、主を愛しますと告白し続けることが大切だと思う。

 

 119:110 悪者は私に対してわなを設けました。

  しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。

 いつもいのちがけで目を覚ましていると、悪が巧みに近づいてきて罠を設けるのがわかる。罠のありかがわかればむざむざと足を取られはしない。みことばの光があれば、揺れたり迷ったりすることはない。

 

 119:111 私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。

  これこそ、私の心の喜びです。

 信仰は一生の宝、子孫に残す最高の遺産である。それは主を喜ぶ者に無条件に与えられる財産である。

 119:112 私は、あなたのおきてを行うことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。

 詩人はみことばを足のともしびとし、永遠の嗣業との確信に立って悩み多き人生の旅を

続けていく。心は強められて、主とともに行くことだけを願っている。それは短期間のことではない。いつまでも、終わりまでもである。この終わりはこの世に生きることの終わりという意味であろうが、とわに、永遠にの意があるのはいうまでもない。

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世相の風から 中高年者の山の遭難に思う
 

 



夏は海や山の遭難事故がよく報道される。その度に胸が痛むがこの度の北海道大雪山系トムラウシ山の遭難事故はあまりにも悲惨ではないか。事故は突然のことだから事故というのだろう、だれにも予測できなし、避けられないことなのだろう。でも、でも、である。遭難した方々が中高年ばかりというのが何ともやりきれない。

 

私の親類や友人にも長年登山を趣味にしている人たちがいる。百名山を全部征服するのだとうれしそうに話す人もいる。私は33才の時の交通事故で左足関節に傷害を負って以来、ハイキング程度で本格的な登山には無縁になった。

友人たちがこの夏はおそらく最後の登山だろうと、大きな計画に挑むのを聞きながら、私だって可能なら挑戦するのにと思わないでもない。

 

事故に遭われた方のうちには、昔年の望みが実現できて、ようやく喜びを味わったている方もおられるだろう。そのお気持ちはよくわかる。

 

夏山の怖さを知らないとか、旅行社が悪いとか、後からはいくらでも言えるし、もちろん反省材料もあるだろうが、10名もの方々が一夜にして命を失うとは、あまりにも痛ましい。ちょうどその時、悪天候に遭ってしまったのがいかにもお気の毒である。

 

どんな人でも事故とはいつも隣り合わせにいる。都会にいても田舎にいても山でも海でも空の上でも、一瞬にして事故は起こる。

 

この夏がどんな人にもすばらしい時になりますようにと祈らずにはいられない。

学校はいよいよ今日から夏休みに入る。孫たちもサマースケジュールで生活する。そこに係わり合いながら、気持ちのよい汗を流したいものだ。

 

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日々の風から 夏は来ぬ
rogosu
    ロゴス氏より拝借

 

 すでに真夏。つい数日前まで梅雨開け宣言を待っていたなんて嘘のよう。ずっと前から暑さが続いているような気がする。早くも、もうたくさんと悲鳴が出そうである。が、これから約2ヶ月、炎暑の中を喘ぎいかねばならない。

 とはいえ、往年の自称夏女(夏が大好き、夏に元気)の血?が騒ぐのである。

炒られるような日差し、明るく透明に澄み切る大空、
ときどき悠然と姿を現す積乱雲、
大胆に天を仰ぐ向日葵やカンナの花、
近頃はハイビスカス、
都会でも聞こえる蝉の合唱、
働き続ける扇風機の羽音、
トマトやきうりやスイカの匂い、
数え切れないサマーグッズを惜しみなく見せてくれる。

 風鈴にうちわは、郷愁の中の夏風景。


この数年は加齢のための体力減退から、夏女の看板は下ろしているが、それでも厳冬期よりは心も体も活動的である。守られて、良い一夏を過ごしたい。なにしろ、2009年の夏は私の人生で今年一回しかないのだから。

 

明日は終業式。孫たちはこれから四十数日、多少の夏行事はあるにしても、基本的には家にいる。夜が明ければ、その日一日3度のお食事だけは欠かせない。洗濯も、掃除もスペシャルプラン。

さあ、たいへん。ママの体力が持つように、おばばなる私も出っ張らねばならない。

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世相の風から わからないことばかり

 



昨日13日A紙夕刊一面には『総選挙8月30日』トップ記事の下に同じ活字の大きさで『成立』と縦書きの見出しがあった。二つとも日本中に騒風を巻き起こしてきた記事だけに、この二つを一度に見るのには衝撃を覚えた。総選挙はさておき、脳死の判定のことである。

 

思えば《脳死》という言葉に初めて出会ったのはいつだろうか。その時も少なからずショックだった。《生》と《死》の境は心臓が止まった時だと単純に信じていたのだから、《心臓》ではなく《脳》が先だと言われてもどう考えていいかわからなかった。理由を聞いたり読んだりして、知識としては多少わかったが、私の中では100%納得したかというと、はっきり、ノーであった。

 

そこへ《脳死》のそばに《臓器移植》というこれまた単純には論じられない途方もなく深く大きな分野が大きく口を開けて待ち構えていると知って、ますます難しくなった。

 

さらに、この度は《脳死は人の死》だと、国が、議員たちが、賛成、反対と言うだけで決めたのだ。そこに多大な違和感を感ずる。決まってしまった以上は、この一言は、力を持って社会に足音高く歩き出せるのだ。

 

政治も医療も深く知らない者が、こんな重大問題に口出しすべきでないとはよくわかっている。黙って口の中でぶつぶつと独り言していればいいのかもしれない。(そして、この一文も、ミミズの戯言、ごまめの歯ぎしり、独り言にすぎないとわかっている)

 

この法案が成立したことで、ようやく明るい希望をいただいた人もいるだろう。我が子の生死に関わることだから、親の気持ちは痛いほどよくわかる。親は自分の命に替えても子どもには将来を与えたいのだ。

 

法律は両刃の剣だと言われる。使い方次第ということなのだろう。希望の窓が開いたと同時に、その何倍もの大きな恐ろしい罪の扉もまた、さっと自動ドアーのように開いてしまったのではないだろうか。結局底知れない社会悪が増殖することになる。新型インフルどころではない恐怖の世界が。

 

ほんとうに光りを求めていた方々だけに喜びを提供する法律でありますようにと、切に祈らずにはいられない。

 
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聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その16
碓氷川

 

 第13段 メーム 

 

詩篇119篇は176の小さな節で構成されている。それが規則正しく8節ずつに区切られ、22のグループに分かれている。この箇所で半分が過ぎた。ずっと詩人とともに旅をしてきたような気がする。しかし時とすると、詩人と自分が一体となり、詩人の祈りが私自身の祈りになったこともある。ここまで来て、一息ついてみるとこの旅は長い歳月をかけた旅であったように思える。人生の旅の詩(うた)と言ってもいいのではないか。

 

119:97 どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。

これが一日中、私の思いとなっています。

 

 第一篇にある『主の教えを喜びとし、昼も夜もこれを口ずさむ』を思い出す。さらに申命記6章にあるモーセの遺言とも言うべき命令を思い出す。『私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。…あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい』

しかし、詩人は命令してではなく、みおしえを愛するがゆえに、一日中、思っているという。ここには、みおしえというよりも、神への人格的な愛を見ることができる。詩人は神様を慕っているのである。だれよりも親しいお方として、恋しいお方として、焦がれているのである。この神様は新約の今の時代ではイエス・キリストである。

 

 119:98 あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。

それはとこしえに、私のものだからです。

神のことばにはいのちと力がある。みことばに立つとき、内側から大きな力が生まれてくる。『神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう』ローマ8章からパウロの太い声が聞こえてくる。

 

 119:99 私は私のすべての師よりも悟りがあります。

それはあなたのさとしが私の思いだからです。

神のみことばを全身におびるとき、敵だけでなく、時として教えを乞うた先生よりも深い知恵を与えられることがあると、詩人は主のさとしの深さを実感しているのだ。

 

 119:100 私は老人よりもわきまえがあります。

それは、私があなたの戒めを守っているからです。

年を取っただけでは若者に勝てない。神を知らない老人は、老いの刃に心身を攻撃され、若いときより弱く劣ってしまうことがある。詩人は決して傲慢になっているのはない。神のことばの強さと正しさを盾にしているからこんな大胆な発言になるのだ。

 

 119:101 私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。

  あなたのことばを守るためです。

神のことばに本気で従うとき、罪にも悪に誘惑にも引き連られることはない。みことばは悪と隔絶させる強固な防御壁になる。

 

 119:102 私はあなたの定めから離れませんでした。

それは、あなたが私を教えられたからです。

みことばによって勝利を経験すると、ますます離れることができなくなる。教えの貴さが身にしみるからだ。またみことばの威力を知るからだ。

 

 119:103 あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。

蜜よりも私の口に甘いのです。

上あごに甘いとはおもしろい表現ではないか。しかしこれは口に甘いという意味と考えていいだろう。その甘さは蜂蜜よりも甘いという。熟読玩味、味読と言う言葉もあるから、みことばは心や魂や感情や意志などに働くだけでなく、五感で体感もできると言うことだ。

蜂蜜のことだが、確かに蜂蜜の甘さは、果物の甘さや、白砂糖の甘さよりずっと濃厚で風味がある。もっとも当時は今のように精製された砂糖はなかったであろう。蜂蜜も巣から直接集めた、いわば原液だったに違いない。詩人は甘いという言葉に、みことばのおいしさを託したのであろうが、蜂蜜は単に甘いだけでなく、体を元気にする働きがあるのも知られている。サムエル記にある、ダビデの親友ヨナタンの蜂蜜事件を思い出す。

 

119:104 私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。

それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。

詩人はみことばの力を体験しているので、すこぶる自信を持っている。みことばの光りに照らせば、物事への識別力、判断力が与えられ、理非曲直がわかると言い切れるのだ。これも一見傲慢に聞こえそうだが、あなたの戒めがあるので、を見落としてはならない。こうして詩人は罪を離れ、罪を嫌い、罪を憎み、主の喜ばれる歩みができる。 

 

 詩人とともにさらに詩(うた)の旅を続けたい。この詩(うた)は祈りである。祈りは主にささげる愛である。愛と祈りの詩(うた)を歌いながら人生の旅を続けていきたい。

 

 

 

 

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旅の風から グリーンベルト中山道を行く
鮎釣り

 

旅の風から グリーンベルト中山道を行く



中山道と大きな名をつけたが、新幹線で群馬県のA市と長野県の入り口軽井沢町に立ち寄っただけである。お茶の水聖書学院恒例のサマー・スクーリングと同窓会に出席するための旅である。途中、碓氷峠手前のA市の教会で牧会する娘宅に一泊した。半年ぶりである。教会周辺の田野は緑一色。すでに田植えを終えた水田が可憐な苗を抱えて、霧にかすむ妙義山の足下に広がっていた。磯部温泉街の脇を走る碓氷川には鮎の釣り人たちが竿を下ろしていた。東京からわずか一時間足らずなのに驚くような別世界が展開する。

 

翌日は軽井沢の会場へ急いだ。今回は講座には参加しなかったが、すでに前日から学びが始まっていて、お馴染みや懐かしい方々の笑顔がはじけていた。同窓会会場は施設内の喫茶室。みどりの芝生と大樹に囲まれて、ここもグリーン一色であった。先生方を交えて、予定の時間はあっという間に過ぎてしまった。

梅雨時と山間地であることから、天候は定まらず、前日は猛烈な雨だったそうだが、この日は時々陽も差すまずまずのお天気。しかし雨の名残か、木立の間を歩いていると、突然滴が落ちてくる。これもまたこの時期の趣の一つだろう。

 

同行の友と、帰途の列車の合間に旧軽散策に出かけた。久しぶりである。最近はアウトレットに行くことが多かった。軽井沢銀座にはどこからか歴史の風が吹いていた。歓迎ムードあふれる店構えにつられて一軒一軒出たり入ったりして、観光客気分を満喫。この商店街が商戦のたけなわを迎えるのはもう少し先だろう。大宮で下車した友を見送って東京駅まで、居眠りの時間もなかった。











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光(キッズ)の風から 孫に牽かれて舎人ライナー探訪
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土曜日の午後、孫のS君(小6年生)と電車の旅(?)に出かけました。Mちゃんはママの勉強会にくっついていきました。ちかごろS君は電車の旅に凝っています。電車が停まる度に駅名をメモっていきます。電車に乗るときは先頭車両の運転手さんのすぐ後ろに陣取ります。立ちっぱなしです。

 

この度は、かねてから一度乗りたいと思っていた新線、舎人ライナーに挑戦しました。我が墨田区のお隣さん、荒川区と足立区を南北に走る新交通システムの機関です。S君は電車を一目見るなり、あっ、ゆりかもめと同じだと言いました。なるほど、そうでした。13駅を20分で行く空中バスのような電車です。東京湾を一望するゆりかもめとは景観が違いますが、とても快適でした。開通して一年少しのせいか、観光気分の人が多いようです。デジカメをフル稼働していたS君のフォトを数枚借りましたのでアップします。












光(キッズ)の風から comments(4) -
日々の風から 7月の風は希望の風
 とまと

 (ベランダのトマト)


いよいよ7月。神様がくださっている2009年の半分が過ぎたのだ。思えば、いつも日を数え、月を数え、年を数え、記念日が来るとかつてのその日その頃を思い出し、今日、ここに居る不思議に感動し、感謝にあふれる。気がつくことは生かされている事実である。御手の業を誉めたたえずにはいられない。

 

ここしばらく、朝の祈りの時、2冊の霊想書を開いている。一年365日分の小さな読み物が記されている。一つはロイドジョンズ『一日一言』、もう一つは

『エマオの道で』(デニス・F・キンロー著)である。両方とも再読であるが、新鮮な勢いで魂を揺すぶり、しみ込んでいく。

 

『エマオの道で』にこんな記事があった。

『使徒行伝に記された証人たちはみな、主イエスの受肉、生涯、死、昇天について証言しています。イエスこそ教会歴史の中心だからです。イエスのうちに、イエスにあって、イエスを通して、この世界に真の救いと希望が到来したからです。… 唯一の神は主イエスのうちにご自身を明らかに示されたのです。すべてのものを支える人格的な神です。この方はご自分の名前を持ち、イエスを通して私たちに御自身を現しておられます。

主イエスを私たちの証しの中心に据えているでしょうか』

 

イエスこそ教会歴史の中心、そして私の人生の中心でもある。今日も、今月も、このイエス様を愛し、従い、証しの中心に据えていきたいと願う。取るに足りたい小さな日々であるが、飲むにも食べるにも、主の栄光のためにを、最優先することだ。その具体的な方法は、聖霊の神が一瞬、一瞬教え示してくださるだろう。

 

『一日一言』7月1日を見ます。

 

みことばはヨエル書2章25節

『いなごが食い尽くした年々をわたしはあなたに償おう』である。

 

ロイドジョンズ氏は言われる。

空費された年々、不毛の年々、いなご、ばった、食い荒らすいなごがむさぼり食らい、見たところ何一つ残されなかった年々、そうした年々について神は言われる。「いなごが食い尽くした年々をわたしはあなたに償おう」と。神がおいでになれば、一年のうちに十年分を埋め合わせるような収穫をお与えになることができる。それが私たちの神である。それゆえ、二度と現在におけるあなたの時間を無駄に費やしてはならない。二度とあなたの精力を無駄に費やしてはならない。過去を忘れ、神の恵みによって今の自分になっていることを喜ぶがいい。喜ぶがいい。……』

 

ロイド氏の熱弁はとどまるところを知らない。天に達する勢いである。ところが、ロイド氏の説得にいや増さるのは神様の約束である。それは『いなごが食い尽くした年々をわたしはあなたに償おう』。

 

過去を振り返れば、まさに『いなごが食い尽くした年々』としか思えない時期もあった。だが主は言われるのだ『わたしはあなたに償おう』と。自分のことでありながら、自分ではどうすることもできなかったあの日々、あの年々。それを主は償おうと申し出てくださるのだ。この、もったいない愛はどこから出てくるのだろう。

 

この貴い愛の進言に応えるのはただひとつ、二度と過去を振り返り、過去にとらわれて時間と精力を費やさないことだ。二度と決して。

主の約束に希望を置き、

希望の風の両翼に今年後半を託して、いざスタートだ。

 

 

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