人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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銀(シルバーエイジ)の風から 母の召天から半年

 

(ロゴス氏より拝借)


母が天に召されてちょうど半年になった。昨年の12月25日に、母は90歳と11ヶ月10日の地上の生涯を終えて、イエス様のみもとに帰って行ったのだ。その時、いつもは狭い天国の門もかなり広く開けられ、天のみ使いたちが総出で歓迎の歌声も高らかに、母を出迎えてくれたことだろう。

 

半年が過ぎて、感慨を新たにしている。まだやっと半年であるが、ずいぶん前のことのように思えることもあるし、つい昨日のことにも思える。茫然とすることもある。これでよかったのだと一人うなずくこともある。

 

つい数日前に、一人の友から電話があった。母のことを最近知りましたと。かつて我が家のごく近くに住んでおられたが、郊外へ越して行かれた。それから長い月日が経ってしまった。気になってはいたのだが、知らせないできてしまった。

 

友は、教会の方の墓参で霊園に行ったついでに、我が教会の墓地にも足をのばしてくださった。墓誌に母の名が刻まれていたのでびっくりしたと、わざわざ連絡してこられ、翌日遠くから訪ねてくださった。うれしかった。

友はお母さんにはお世話になりました。特に父が亡くなったとき、遠路にもかかわらず参列してくださったことは忘れられないと。ああ、そんなことがありましたかと、私は遠い記憶に思いをはせた。

 

友の来訪は、召天半年のよい記念になった。

今日は、すぐ下の妹と、かつての母の居間に座して、昼食をした。

母を永遠の都、天に御国へ迎えてくださった神様の恵みを感謝した。

 
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日々の風から 聖書の人物とのおつきあい

 ハイビスカス1


5月下旬に、我が日本クリスチャン・ペンクラブで一泊研修会をした。一つ主題《私と聖書の人々》で《あかし文章》を書き合った。
聖書の人々とは人物は、自分の信仰生活のなかで深い係わりのあった人たちである。集まった作品から、気がついたことがあった。提出者は22名、そのうち旧約聖書の人物が13名、新約からが9名であった。60%が旧約からである。

 

人物を見ると、ヨブが2名、ヨナが2名、エステルが2名、ヒゼキヤ王が2名である。なんとこれらの人物は全員旧約聖書の人々だ。ついでに、旧約からはバルク、ヨセフ、ヤコブ、モーセの母、イザヤ、エレミヤである。新約からは、カナンの女、ペテロ、アリマタヤのヨセフ、ヨハネ、ヤイロの娘、放蕩息子、マグダラのマリヤ、パウロなどである。

 

新約聖書の人物の方がずっと多いと思ったが、意外であった。

ヨブは2名だが、他にもほんとうはヨブを書きたかったと言われた方もおられた。ヒゼキヤ王やヨナに人気(?)があったのも興味深かった。旧約第一の有名人ダビデデがいないのはなぜだろう。アブラハムもである。

書きたい人物を3人まで挙げたらどのようなな結果が出るだろうとふと思った。

 

ある友人が、ヨブの妻を書きたかったが、聖書の女性を書いてきたあなたなら、どんな風に書くのか興味がある、いつか書いてくださいと言われた。挑戦してみようかという気にさせられた。妻と言えば、以前、ノアの妻を書いたことがあった。有名人の配偶者や息子、娘たちを考えるのも楽しく有益に思う。

編集作業も終わりに近づいた。印刷所、製本所を経て、一冊として誕生するのは感動である。

最近、思っていることは、《書くことのさいわい》、《読んでいただけるさいわい》

である。神様が書く意志と必要な力を与えてくださり、受け入れて読んでくださる方々をも備えてくださるのだ。

なんと感謝ではないか!さいわいではないか!

 

さて、あなたなら、聖書中の人物のだれを取り上げてみたいとお考えですか。

 

日々の風から comments(4) -
日々の風から 梅雨空の人生模様
 

 
(ロゴス氏より拝借)

このところ連日親しい友から連絡が入る。長電話、長メールである。かなり深刻な内容ばかりだ。遠方だと直接会うことは難しい。もっとも、、電話やメールだから気軽に本音が出せるのかもしれない。

80歳前後の友からは、老老介護の苦境話だった。ご主人が病気をしたり、介護が必要になったりしている。介護は、今では便利な介護制度があるけれど自主的に使わなければ宝の持ち腐れに等しい。

 

しかし、往年は社会の第一線で大活躍され、退職の頃には相当の地位にまで昇られた男性には、いくら弱くなっても他人に心身の世話をしてもらうのには大きな抵抗があるようだ。長年連れ添った妻ならばまだしも、なのだ。ところが妻の方も同じように老いていく。若いときのようにお世話できない。自分も介護してもらいたいほどなのだ。妻の苦悩は深い。疲労困憊だという。

 

一時、亭主は達者で留守がいいと高笑いしながら、自由に空を飛んでいた妻たちが、今や子供ならぬ、孫ならぬ、我が夫の守りに悪戦苦闘している。かつて、こんな日が来るとは思いもしなかったろう。夫のいない私には彼女たちの激戦は想像するほかはないが、なんと人生とは厳しいものだろうとおもう。

 

老親の介護戦線まっただ中の友からは悲鳴が聞こえてきた。それは手に取るようによくわかる。つい半年前までその中にいたのだから。介護制度の使い方も経験している。在宅で介護する場合の、当事者でなければ話せない事細かなことも、友の現況には役に立ったようだ。

 

家族と同居する人の悩み、一人暮らしの悩み、先頃、配偶者を失った嘆き、不況の嵐に見舞われて自宅まで奪われる寸前の友もいる。この深刻さは並たいていではない。かわいいお孫さんが、難病と診断されたと、二人の友から知らせがあった。聞くだけで心つぶれる思いがした。

 

4人のお子さんを育てている親業真っ盛りの友からは、思うように教会にも行けない、聖書も読めない、お祈りもできない、不信仰の自分に嫌気がさすと書いてきた。すばらしい人生ではないか、がんばれ、がんばれと、今の私は笑いながらエールを送れるけど、当人は必死だ。

 

親友は今日から10日間の海外旅行に発った。心が高まっていますとメール。今頃は文字通り空を飛んでいる。順境の日は楽しめと主も言われる。

 

梅雨空の下で、私はと言えば、不定期ではあるが係わっている団体の集いや会議に外出するが、在宅のときは寸暇を惜しんで?一日PCと戯れている。(人にはそのように思われているようだ)結構、真剣に、事務や書くことに取り組んでいるつもりなのに。

 



紫陽花は思う存分枝葉を張り、思いっきり大きな花をつけ、

空は遠慮会釈なく激しい雨で地を叩き、目もくらむ閃光と雷鳴を轟かせる。

人は梅雨空の下で、ヨブのごとき人生の苦悩に呻吟する。

 

神は『主は覚えておられる』とゼカリヤを名付けたという。

『主は覚えておられる』とはなんと慰めに満ちたことばだろう。

 私は今朝ここから無限に平安と勇気を得た。

 

 

日々の風から comments(2) -
きのうの風から 我が救いの証し



昨日の風から 我が救いの証し

 

私の所属する教会は今年創立60周年を迎えています。教会では昨年から記念行事を計画し準備してきました。そのうちの一つは、教会員全員が、礼拝の中で、救いの証しをすることです。4月からスタートしました。順番は年齢の順でも教会歴の順でもなく、牧師がランダムに決めています。

 

証しはあらかじめ原稿を作成し、それに基づいてお話しすることにしました。原稿は順次教会ニュースに掲載し、後日一冊にまとめたいと話し合っています。

 

今週の聖日礼拝は私の番がでした。救いの証しは、私が使命としている『あかし文章』の基本中の基本ですから、今までにもなんども書いてきましたし、口頭でも証ししてきました。

 

しかし、今回は、自分の教会の礼拝の中で、おなじみの兄弟姉妹を前にしてするのですから、ストックを使うのではなく、新しい気持ちで、主に感謝しながら書いてみようと導かれまして、新たにペンを握りました。

話すときは多少前置きやアドリブが入りましたが、以下のようになりました。

皆様にもご紹介し、神様がたった一人の魂を追いかけ、どんなに大きな愛で、赦し愛し守り続けてくださっているか知っていただき、主の御名があがめられるようにと願っています。

 

 

 イエス・キリストに救われて

 

私は洗礼を受けて、つまりイエス様に救われて54年になります。クリスチャン54年生です。教会は今年創立60周年ですから私は創立6年後にイエス・キリストの家族として誕生したことになります。私の先輩として今現在教会でお会いできる方は、Nさん、Tさん、Sさん、Mさんの4名です。

 

神様が私を教会に導かれたのは、妹を通してでした。

私には妹が3人おります。その妹たち3人ともそろっていつの間にか日曜学校に行っていたのです。妹たちが学校、学校と、日曜学校と言う声を耳にして、私は、内心、たいへんおもしろくありませんでした。私の知らない学校へ行くなんて許せないと腹を立てていました。それが根っこにありましたので、日曜学校がキリスト教の教会のことだとわかると、妹たちをからかったり、いじめたりしていました。私は、最初はイエス様を迫害する者だったのです。

 

中学3年生の夏休みの時でした。すぐ下の妹が「姉ちゃんも教会に行ってみたら」と言いました。たぶん、以前からそんな声かけがあったのだと思いますが、反発するかあるいは無視していたのでしょう。記憶にはないのです。

しかしその時は、妹の声が聞こえたのです。妹はさらに「姉ちゃんは中学生だから、大人の礼拝にいった方がいいよ」といいました。

その時でした。私の心の堅い大岩がごろっと動いたのです。行ってみてもいいかなと思いました。

 

こうして私は移転前の昔の教会へ行きました。家のすぐ近くでしたから一人でいきました。でも、たいへん緊張して出かけました。

 

礼拝が終わって帰ろうとすると「来週もまたいらっしゃいね」と、声をかけてくださった女性がいました。そのやさしい笑顔につうなずいてしいました。その方は今は天に帰られた故A姉妹です。

 

以後私は休むことなく通い続けました。しばらくするとF牧師先生が声をかけてこられました。

 「クリスマスに洗礼を受けませんか。ご両親と相談してください」。洗礼が何を意味するのか正確な知識があったわけではありません。

 「入学式のようなものです。学校も入ってから勉強してわかってくるのと同じです。何も心配はありません」と言われました。F牧師は威厳を感じさせる初老の温厚な紳士に見えました。早速両親に話しをすると「自分でいいと思ったらそうしなさい」というので、牧師先生に「両親は反対しませんでしたから、そうしたいと思います」と言いました。

 「ではこのクリスマスにしましょう」ということになりました。

 

受洗の日まで、特別な学びをしたわけではありません。唯一の支えは「入学式のようなものです」だけでした。しかし何の疑問も不安もありませんでした。あるのは未知の世界への好奇心と冒険心でした。信仰と呼べるものはなにもなかったと思います。

もう一つ、不純な動機もありました。私より先に教会へ行っていた妹たちを追い越せることでした。長女の私は妹たちにはかなり高圧的だったようです。。

私は妹たちに聞こえよがしに言った。「姉ちゃんはね、クリスマスに洗礼を受けるんだよ」。まだ小学生の妹たちは何のことやらわからずに 「ふーん」と言うばかりでした。

 

クリスマスの日、私は一張羅のセーラー服に白いリボンを結んで式に臨みました。頭に振りかけられた滴礼の冷たい水が首筋から背中に伝わりまました。冷たくて身震いしましたが、同時に目の覚めるような鮮烈で爽快な思いが体の真ん中を走りました。その水滴は私の魂の中心に命中したと思います。

「あなたは今日から神の子です。すべての罪は赦されました」

 先生の宣言を非常にうれしく感動して聞き、心から信じました。

 

その頃、私は自分自身に悩んでいました。自分の性格やしていることがいやでたまらず、時に激しい自己嫌悪をいだいていました。新しい自分になれたらなあと強く思っていたのです。ですから、いままでの自分がすべて赦されて新しく生まれかわり、しかも神の子になったといわれたのです。ほっとして、うれしくてなりませんでした。

 

新しく生まれ変わって清い神の子になったと言われて自分がとても偉い者になったようで得意でさえありました。これが未熟児のような私の誕生物語です。

これはわずか十代のことですか受洗後の事もお聞きください。

 

洗礼を受けて清い神の子に生まれ変わったと固く信じていましたが、しばらくして、私は、いつまで経ってもちっとも変わらない自分に気がついて、大きなショックを受けました。私は、アンデルセンの童話ではありませんが、醜いアヒルの子がある日突然白鳥になるように想像していたのです。ところがみたところ私はいつまで経っても醜いアヒルの子のままでした。

 

キリスト教に疑問を持ち始めました。神の子に生まれ変わったなんてうそじゃないか。いつになったら私は清い神の子になれるのだろう。性格も変わり、愛にあふれたやさしい人になれるのだろう。

 

そこから私の悩みが始まりました。神を求め真理を求める魂の旅が始まったのです。聖書を読み、キャンプにも行き、その他、聖会や大会などどこでも出かけていき、私の疑問に答えてくれるものを探しもとめました。

今から考えますと、これらが神様へ一歩一歩近づく道だったと思います。救われるってどういう事か、十字架の意味はなにかが少しづつわかっていきました、

 

実際生活の中から、私を神様に近づける、神様をわからせる出来事がいくつも重なりました。試練と呼ばれる患難困難を通してです。

二十代から三十代、四十代と、私は次々に襲いかかってくる苦難の中でもがいていました。初めての子を死産で失ったこと、家庭には問題が起こり、おまけにその最中に大きな交通事故に遭って、私はまるで煮えたぎったお鍋の中へ投げ込まれたような状態でした。自分も人も信じられず頼れず、泣きうめくだけでした。その中で一つのみ言葉を聞きました。それは私の葬儀に時にも読んでいただきたいと思っていますが、生涯を変えるみことばになりました。今も支えられている杖です。

 

『私は永遠の愛であなたを愛している。私はあなたに聖実を尽くし続けた』

エレミヤ書33章3節のお言葉でした。

みことばは私を長い悪夢から目覚めさせました。私のそばにぴったりと寄り添ってくださるイエス様がわかったのです。その時以来です、神様を疑うことはなくなり、平安が与えられました。

 

もう一つ私の信仰生活の中心に立つのは、義とされる事の意味がわかったことです。あるとき一つの信仰の文書を読んでいるときでした。

 

第一コリント5章21節のみことば『神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは私たちが彼にあって神の義となるためです』が激しく迫ってきました。それまでもたびたび耳にし、納得してみことばのはずでしたが、このときは目も心も魂も全部一度に開いて、体中が空っぽになり、自分が消えてなくなってしまったような気がしました。

 

自分を見ていた自分がまちがっていたとわかりました。イエス様だけを見ればいいのだ、イエス様が私の前に立ちはだかって、私の義となって、私を義としてくださるのだ。イエス様の十字架は私を義とするためだったのです。これは言い換えれば、罪赦されて新しく神の子にされたということです。

 

その喜びはたとえようもなく、まるで天にのぼるような気分になり、それが数日間も続きました。こうして、受洗以来の長い間の疑問がひとつずつ解決していきました。

 

もう終わりますが、私は生まれたこの教会、私の魂の家でこれからも暮らし続け、やがてここからイエス様のみもとに帰って行くでしょう。それを願います。そして、教会こそ我が家であり、皆様こそ私の大切な家族なのだと、最近は特に思いを強めています。                    おわり

 

 


きのうの風から comments(6) -
聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その15
薔薇
ロゴス氏より拝借


詩篇119篇を1節、1節と散策していたらまだ半分しか歩いていないのにすでに1年になろうとしている。
ずっと思索していたのではない。脇道にそれてあたふたしていた。幸いみことばの光に導かれて戻り道を見いだた。最後まで歩みきらねばと小さな意を堅くした。 



第12段 ラーメド

 

119:89 主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。

 神様は天地の造られる前から存在しておられた。天地創造はその御口から出る一つ一つのみことばだけによる単独事業であった。『初めにことばがあった。ことばは神であった』を思い出す。さらに、イエス様が『この天地は滅び去ります。しかしわたしのことばはけっして滅びることはありません』といわれたことばを思い出す。詩人は祈りの中でその真理を知らされ、確信となり告白となったのであろう。

 

 119:90 あなたの真実は代々に至ります。

  あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。

 人は変わる、愛も情けも真実も。時に口先だけの上手を言う。うかうかと喜んではいられない。そこには巧みな落とし穴が仕掛けられている。悲しいことだ。しかし主は変わらない。その真実は受けるに値しない者にまで惜しみなく注がれる。主は安心して寄りかかれる大黒柱だ。主は盤石の土台。その上に人生という家を建てたい。詩人はその家を手に入れ、その家に住んでいるのだろう。動かざる地の上に立っていると実感したからこそ、こう言えるのだろう。

 

 119:91 それらはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。

  すべては、あなたのしもべだからです。

 思えば思うほど創造のみわざは壮大で完全で調和と統一の見事なバランスの上に立つ。

一つとして無駄はない。神にとって不必要なものは何一つないとの真理を発見したとき、自分のような者はいてもいなくてもいいのではないかと、失望の淵に沈んでいた人が俄然生きる勇気を得たと、聞いたことがある。森羅万象は神の栄光をあらわすために造られた。

『天は神の栄光をあらわし、大空はその御手の業を示す』朗々と歌いあげる声に和して神をほめたたえたい。

 

 119:92 もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、

  私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。

 苦難に襲われて出口のない穴の中でもがいているようなとき、みことばは太い命綱のように頼もしい。それがなかったら心はすさむばかり、絶望は大きくなりるばかりだ。希望の光をたよりに前進するための唯一の手がかりはみことばを握り、みことばとともに歩むことではないだろうか。詩人はその経験を思い出し、改めて主をほめ、喜んでいる。

 

 119:93 私はあなたの戒めを決して忘れません。

  それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。

 みことばに助けられ、新しい歩みに導かれた経験は人生の得がたい宝であろう。人生うまくいき、笑いが止まらないような順境の時にあっても、決して忘れられるものではない。また忘れてはならないのだ。生かされているのだ。赦され、愛されているのだとわかるとき、みことばは蜜よりも蜂蜜のしたたりよりもおいしい。

 

 119:94 私はあなたのもの。どうか私をお救いください。

  私は、あなたの戒めを、求めています。

 私はあなたのものとは、最高の愛の告白である。最高の信頼表現である。主のおそば近くににじり寄って、そう申し上げ、いっそうの助けを求めたい。ますます主を求める思いが増し、焼け付くようだ。

 

 119:95 悪者どもは、私を滅ぼそうと、私を待ち伏せています。

  しかし私はあなたのさとしを聞き取ります。

 ちょっと心をゆるめると、すぐに足下をすくわれる。悪の力はあなどれない。絶えずみことばの武具をつけて身構えていなければならない。しかしそれは絶えざる緊張と恐怖ではない。主のみことばには平安があり喜びが力があるのだから。

 

 119:96 私は、すべての全きものにも、終わりのあることを見ました。

  しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです。

 

すべての全きものにも終わりがあるとの発見は、長い人生経験からでる正解だろう。それを本気で言えるものになりたい。そして《あなたの仰せは、すばらしく広い》と、心も体も一心に主を見つめ、御手の業である大空に両手を挙げて、主を讃えたい。

人生の途上で、こうした賛美が出来るとき、また新しい力で、次なる坂に向かっていける。

主を待ち望むものは新しい力を得るとあるから。

 

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日々の風から いよいよ梅雨の季節
運動会3

運動会5
 



piramiddo


先週半ばからずっと雨模様である。梅雨かと思わせるような日々であった。そして今日6月1日も曇天、時にぽつりぽつりと落ちてくるものがある。でも、梅雨はまだまだだと思う。確か、6月半ばまでは五月晴れの続きのような日があるものだ。それを期待したい。

 

昨日は運動会だった。孫たちのである。日曜日だが行かずばなるまい。礼拝は夕拝にみんなで行くことにして、学校へ急いだ。2年間孫たちは地方へ行っていたので観戦できなかった。そのブランクがあったせいか、久々に熱く熱く燃えた。彼らも2年前とは見違えるほどたくましく競技、演技した。

 

子どもたちを見ていて、気がついたことがあった。彼らの体型である。確か、数年前までは気の毒なほど重そうな生徒が目立った。メタボ最前線の大人が負けるほどの様相であった。ところが、そうした子どもが減っていた。明らかに運動不足気味の生徒たちもいないではないが、大方は敏捷で活気に満ちていた。世の中の変化を感じた。ちなみに我が家の孫たちは標準より痩せているかもしれない。私もがんばらねば……。

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