人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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研修会課題文『私と聖書の人々』によせて【 異国に散った星エステル】       
 

 異国に散った星 エステル       

 

日本クリスチャンペンクラブ初夏の研修会ではテーマにちなむ課題文を持ち寄り、時間をかけて評価し合いました。以下は私の作品です。

 


 聖書   旧約聖書 エステル記

 聖書箇所 私は、死ななければならないのなら死にます。
                 (4章14節)

 

 エステルとは、ペルシャ語で星を意味するという。

娘たちが教会学校から『エステル』の絵本をいただいてきた。年子の二人が相次いで就学したころだったとおもう。

 二人はすっかり気に入ってしまった。明けても暮れても、国語の教科書のようにくり返し音読していた。

 エステルのどこが二人のハートに響き、どこに捕えられたのだろう。

 
 当時、我が家庭は崩壊の嵐に直撃され、母娘三人の暮らしが始まったばかりであった。幼いとはいえ、彼女たちはそれなりに傷つき、心細い思いをしていたことだろう。エステルの境遇に深い共感を覚えたことは確かだ。

 

エステルはユダヤのバビロン捕囚民の子である。異国ペルシャで父母を失い孤児となった。従兄弟モルデカイに育てられたものの、うら寂しい日々を送ったことだろう。そのエステルが、なんと、王妃に選ばれてきらびやかな宮殿に住まうようになるのである。娘たちにはもうひとつのシンデレラ物語だった。   

エステルは心の夜空を照らす希望の星になったにちがいない。

もちろん、私にもそうであった。

 

時流れて、娘たちが直接聖書からエステルを読むようになったころ、子育てを終えた私は、第二の人生を祈り模索していた。

 足もとに見つけたのが《あかしの文章》だった。神様の置かれた捨て石だったとおもう。


 忽然と、書きたい思いが目覚めた。あるキリスト教雑誌の証し作品募集案内が目にとまった。

「エステルを書こう」即座に決めた。
『異国に散った星』と題して五十枚のエッセイを書いて応募した。

 

エステル記のクライマックスは、モルデカイがエステルに「あなたがこの王国にきたのはこのときのため」と迫ると、エステルが、「死ななければならないのなら死にます」と応じて、命を賭して王に直訴する場面であろう。


 エステルは、歴史の主である神様に助けられてユダヤ民族を救い、一躍光り輝くアルファー星となった。

が、エステルは遙かユダヤの地を恋い慕いながらも、異教の色濃い宮殿を去ることはなかったにちがいない。エステルは異国ペルシャの夜空に散った星といえる。

 

しかし神の物語はそれで終わらない。

数百年を経て、明けの明星と呼ばれるイエス・キリストは十字架上に一身を犠牲にし、全人類を滅亡の淵から救った。

そのきらめきの中に、エステルの星のかけらを見る思いがする。
                          おわり


 
 ★規定は原稿用紙3枚1200字ほど。 原稿には一行明けはありません。


                           

きのうの風から comments(2) -
旅の風から 潮来一泊研修会 

 ayame

 
25日、26日両日とも願った以上の上天気になりました。

あやめで有名な水郷潮来へは初旅です。わりあい近いのに、ついに今まで訪問の機がありませんでした。あやめ祭りは始まったばかり、お花はこれからだということです。でも十分に目を楽しませ、心を和ませてくれました。

 

さて、研修会です。文章を書く会は世にごまんとありますが、日本クリスチャン・ペンクラブには特別なモットーがあります。それは、イエス・キリストを証しする文章を書くことです。私たちはそれを『あかし文章』と呼んでいます。

『あかし文章』を書く会員たちは、当然のことですが、イエス・キリストを我が救い主と信じる者でなければなりません。

 

一篇の詩でもエッセーでも、人様に親しく読んでいただけるような文章を書くことは生やさしいことではありません。あかし文章も、クリスチャンだからといってだれにでも書けるわけではありません。第一に作文の基本をしっかり学ぶ必要があります。

 

クリスチャン・ペンクラブはまもなく創立60年を迎えますが、先輩たちが宣揚してきたあかし文章のモットーと、文章作法の学びを、熱い思いで踏襲してきて、今日があります。そのための研修会です。リーダー格の数名が、自分の日頃の文章道を紹介し、文章作法の定説をレクチャーし、その後、持ち寄った作品の合評にたっぷりと時間を費やしました。

終わりがあるのが惜しいほど、充実した時になりました。

 

閉会の礼拝で、理事長であるI牧師が詩篇119篇176節(最後の1節)を取り上げてメッセージをなさいました。たいへん印象深く、心に留まりました。

 

『私は滅びる羊のように、迷いでました。

どうかあなたのしもべを捜し求めてください。

私はあなたのおおせを忘れません』

 

 詩人はこの119篇の1節から175節までずっと主の御前に真実に生きてきたいわば信仰の達人。神様の恵みも真実も十分に知り味わい尽くしているはず。それなのになお、最後の最後に、私は迷える一匹の羊だとさとり、神の前にひざまずく。滅びに向かって迷い彷徨う私を捜してくださいと嘆願する。

 私ではなく、私を捜し続けてくださる主こそ私たちの主体である。どんなに信仰の年月を重ねても、文章道に生きても、主体はいつも神様、私たちは捜して救われなければならない滅びる羊である。それを忘れないでいこう。

 

 クリスチャン・ペンクラブのバックボーンは『文は信なり』です。イエス・キリストへの愛と信仰こそ、あかし文章をペンを走らせる純粋燃料です。書くことの意義をしっかり確認したときにもなりまし
た。感謝!

itako

旅の風から comments(8) -
旅の風から グリーン・ジョイフル
 

 

20年来所属している日本クリスチャン・ペンクラブの初夏の一泊研修会に行ってきます。題してグリーン・ジョイフル潮来です。潮来は茨城県南東部にある水郷景勝地として有名です。シンボルはあやめです。折しもあやめ祭りの最中とか。

 

観光旅行ではなくあくまでも研修会です。浮き浮きとしてはいますが。

1泊ですが、到着早々に開会礼拝です。まず神様をほめ讃えてからスタートです。午後は早速学びに入ります。今回のテーマは『私と聖書の人々』。

各自が、聖書中の人物との出会いや関係を記したあかし文章を持参します。作品の合評や文章上達のための学びをします。

 

潮来は距離的には東京近郊から遠くないのですが、アクセスがよくありません。同じ茨城県に住む友たちも3時間くらいはかかります。私を含めて数名は東京駅から高速バスに乗ります。90分ほどで着くそうです。朝の9時には乗り込みたいので8時半に東京駅八重洲南口に集合です。

 

月曜日のラッシュにかかりますので、ちょっと心配です。仲間は60代、70代ですから。若い方もおられますが。電車で行く方、埼玉の数名は一台の車に乗り合わせて行きます。長野県諏訪から駆けつける方もおられます。

ふだんの会合では出来にくい学びや交わりを十分に味わう時になればと、心から願い、祈りを込めて出かけて参ります。

 

旅の風から comments(2) -
世相の風から 蛇足、駄弁ですがーー
 

ついに都内にも新型インフルエンザが現れた。時間の問題だとは誰しもおもっていただろうが、いざとなると、心中穏やかではいられない。過度に神経を逆立てることはないが、無関心はひとつ地球上に住む者の一人として取るべき態度ではないだろう。手洗いやマスクは最低のエチケットともいえる。

 

近所を歩く限りではマスク姿は花粉の季節ほど多くない。電車の車内でざっと数えてみた。10人に一人くらいだろうか。それよりも少ないかもしれない。お年寄りや女性が着装している。マスクが万能ではないといわれているからか。

 

病気の症状が普通のインフルエンザ程度だとわかったのはたいへんありがたい。これが、ばたばたと死者が出るようであったらどうなっていただろう。考えるだけでも空恐ろしいことだ。

 

感染経路や感染者の種々相からたくさんの説が飛び出してたいへん興味深い。どうして高校生が多いのか、一番に標的にされるはずの高齢者が少ないのはどうしてなのかなど、説かれればなるほどと思う。

 

ある人たちはこの機をお金儲けのチャンスと考えているらしい。第一、マスクがない。あるものは高価なものばかり。薬局の店員さんは盛んに除菌剤や風邪薬を進める。まだ何も症状がないのに使いつけない薬を使えようか。でも、言葉巧みに言われれば心が動かぬこともない。一抹の不安があるからだ。

 

予防にも限度がある。外出を控えていればそれでいいというものでもない。今や敵はどこに潜んでいるか見当もつかないのだから。日常をそのまま続けるしかない。

 

これ以上広がることがないように、さらに一刻も早く鎮静するようにと願うばかりだ。教会でもみなが一つになって祈っている。個人的にも朝な夕なに祈っている。感染者が体力を回復していつもの生活に戻れますようにとも祈ります。

 

 

 

季節の風から comments(2) -
日々の風から 正夢の20年
 クレマチス

 ロゴス氏より拝借


夢が現実となるのを正夢という。夢と反対のことが起るのを逆夢(さかゆめ)というのだそうだ。この夢は睡眠中にみる夢を指すのであろうが、キング牧師の《I 
have a dream. 》のような希望や願望と広く解釈して考えてみたい。いわゆる、夢がかなった、希望が現実となったという意味である。

 

正夢とは非常な幸福である。自分の人生を振り返って、夢がかなっととか、正夢だと歓声をあげるようなことはあまりない。然し全くないわけではない。

その一つが、聖書の学びを続けていることである。

 

私の夢をかなえてくれたのは『お茶の水聖書学院』である。

15歳で救われ、聖書を読み続けているうちに、聖書を学びたい思いは年々強くなっていった。神様をもっと知りたい、イエス様にもっと近づきたいと、知的にも霊的にも激しい飢え渇きがあった。

 

家庭があり、子どもがいて、仕事もしていた私の欲求を満たしてくれるところはなかった。聖書講座を受講したりセミナーに出かけたりと、単発の学びのチャンスはあったが、心は満たされなかった。

 

1991年4月に、お茶の水聖書学院が開校した。新聞の広告でそれを知ったとき、夢ではないかと思うほど大きな感動を受けた。お茶の水なら遠くない。折しも、子どもたちはそれぞれの道を歩み始め、同居の父母はまだまだ健在だったから、仕事以外に私を拘束するものは何もなかった。

 

ためらわず、飛び込むようにして学院に入学した。教会の牧師からのお墨付きをいただいて。夢のような3年間が過ぎて卒業した。この間に遭遇した一つ一つの恵みを書いていたら、切りも果てもない。

 

学院と学びにピリオドを打ちたくないクラスメートたちと、学院に申し出て研究科を設けていただいた。そこに属して今年は16年目、学院生活は来年で20年になる。つまり、学院は来年創立20周年を迎えるのだ。これは私にとっては正夢の20年なのだ。

 

感謝と喜びを込めてお祝いの年にしなければとの声が高まって、記念行事をするための委員会が結成された。20年をいっしょに歩んだ友たちと、最後のご奉公ね、がんばりましょうと、委員会に加わった。

 

委員会はこれから会合を重ねていくだろう。この舟に、先生方も同窓生といっしょに乗り込んでくださった。旗印は過去への感謝、現在の喜び、将来への大きな希望である。神様はこの航行をほほえみながら見守ってくださるだろう。

 

『福音が宣べ伝えられる所なら、この…事も語られて、…記念となるでしょう』(マルコ14章9節)S先生のお奨めに用いられたみことばより。

 

 

 

 

 

 

日々の風から comments(6) -
日々の風から 臨時母親役
 

 同居の長女が2泊3日で研修会に出かけた。彼女にとっては母になって以来初めてのことだろう。10年の念願がかなったというところか。

 

さて、その間の母親の役をさせられることになった。つまり私が孫たちを預かるのだ。Sくんは6年生、Mちゃんは3年生、もう赤ちゃんでも幼稚園児でもない。たいていのことは自分でできる。衣服の着脱も、食事も、入浴も、歯磨きも、登校の準備も、一人でできる。

 

おぶったり抱えたりミルクを飲ませたりしないで済むのだから、大丈夫だろう。むしろ楽しい3日間に違いない。楽観的に考えて軽い気持ちでいた。

 

確かに、孫たちとの密着2日間は楽しかったといえるのだが、一言にまとめれば、たいへんだった、疲れた、に尽きる。

 

定刻に朝食を支度し、定刻に登校させ、帰宅を待ち、夕食を支度し、食事させ、入浴させ、定刻に就寝させる。これが、指示がないと次に進まないのだ。プログラムは自動的に流れてはくれない。

 

学校からの印刷物、宿題の点検もある。音読はしっかり聴いて評価し、サインをする。Mちゃんは毎日B5一枚作文がある。その合間にママが科した自主学習がある。ピアノ、ヴァイオンの自主練もある。

 

過密スケジュールのようだが、帰宅後は遊び時間がとれる。家の前の路地で自転車や一輪車で汗びっしょりになって走り回っていた。

就寝前、テレビゲームに熱中する時間もあった。

 

二人とも特に寂しがる様子もなかったが、就寝前にママから電話がかかると、Mちゃんは電話口でわあわあと大泣きである。大粒の涙がしたたり落ちる。どこかで我慢していたのだろう。よい子を頑張っていたのだろう。すばらしい人生勉強だと思った。

 

それにしても、孫を預かるのは神経を使う。自分の子どもとは大違いだ。人の宝物を預かるのだから、無傷で返さなければならない。そのあたりの緊張が疲れの原因かもしれない。

 

予告時刻より2時間ほど早く長女が帰ってきた。やれやれ。これで役目は終わった。もう二人を返したよと宣言すると肩が軽くなったからおかしなものだ。

 

 

 

 

日々の風から comments(4) -
日々の風から いつものように
めぶき

 

日々の風から いつものように

 

大型と呼ばれた今年のゴールデン・ウイークも風のように過ぎ去って、またいつもの日常が始まった。孫たちはいつものようにせき立てられながら朝食を済ませ、歯を磨き、校帽をかぶり、ランドセルを背負って登校していった。

 

昨日まではわりに自由で楽しかったろうが、今日からは学校という枠の中でみんなといっしょにプログラム通りにしなければならない。そのギャップをどのように消化するのだろうか。子どもなりに戦いがあるのではないだろうか。それはひとえに自分との戦いであろう。

 

5月病という病がある。新しい生活が始まって出会う第一関門だ。子どもたちも学生も新社会人も、ここを乗り越えて、さらに先に向かって進んでほしいと切に願う。

 

社会の第一線を退いたいわゆる老人組の毎日はどうだろう。

同じ年代の仲間たちを思い浮かべるに、その生き方は千差万別だ。まだ現役の方もいる。属託やパートの方もいる。ボランティア活動に熱心な方もおられる。趣味の世界に夜も日もないほど没頭している方もいる。まさに第二の人生の花盛りといえる。だが、花の命はいつの時も短い。

 

もう少し高齢になると、またちがった生き方をせざるを得なくなる。加齢による体力気力の減退、思わぬ闘病など、かつては人ごとだと無関心だったことが否応なしに自分めがけて襲いかかってくる。今や、無関心だった事が最大の関心事となり問題となり生活の中心に居座ってくる。

そうした外側の状況で心が暗くなり、希望や喜びを見いだせなくなるとしたら、

万物の霊長と豪語する人間としてはかなりお粗末ではないだろうか。

 

以上は自戒の思いである。そうであってはならないと切に願う。自分との戦いはますます苛烈だ。『天地は滅び行く、しかし我が言葉は滅びることなし』と言われて敢然と十字架につかれたイエス様の御生涯を思う。

 

いつもでないことが起っても、《いつものように》泰然自若の境地でいたいものだ。落ち着いていれば、希望の風と出会えるだろう。

 

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられる
ことです』

第一テサロニケ5章16−18節

 

日々の風から comments(2) -
日々の風から あれから5年
 

 


5年前のGWを、毎年忘れることはないが、今年は今さらながらにあれから5年になるのだと大きな感慨の中にいる。ときどきブログの中でも触れてきたことだけれど、その年はがんによる臓器摘出手術を間近に控えたGWであったのだ。ゴールデン、などとはどんなに頑張っても言えなかった。休み明けを待って、かねてから宣言されていた6日に入院、翌7日に手術したのだった。

 

5年も経つとあの頃の心境を忘れてしまうものだ。あの時の緊迫感や不安は薄らいでいる分、無事に退院していつもの生活が始まった大きな喜びや、思ったほどの支障もなく今日に至ったことへの感謝も薄らいでいる。不信仰なことである。のど元過ぎれば式の自分にあきれてしまう。イエス様は苦笑しておられることだろう。主よ、申し訳ありません。改めて心から感謝します。

 

   わがたましいよ。 主をほめたたえよ。
   主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

   主は、あなたのすべての咎を赦し、
   あなたのいのちを穴から購い
   あなたに、恵みとあわれみの冠をかぶらせ
   あなたの一生を良いもので満たされる
   あなたの若さは、鷲のように、新しくなる
                 (詩篇103篇)   


医師は、転移や再発の危険は3年、そして5年が山です。でも7年、10年、20年経っても発病することがありますと言われる。やっかいなことである。

当初、3年間は服用してくださいと言われた薬は、今は5年に延長されていますとのことで、しかたなく続けている。親友のS姉は5年過ぎたのに、今度は新薬を薦められて使っておられる。

 

病とは一生のおつきあいということかもしれない。そのうち、新しい病気にかかるかもしれない。こんなこと考えていたらきりがない。発想の転換だ。私たちは生かされているのだ。命は創造主である神様の御手に握られている。神様のお心一つなのだ。主は与え、主は取られるのだ。しかし神はむごいお方ではない。人の不幸や災難を喜ぶお方ではない。ご自分のいのちを代償にしてまで救ってくださった完全愛のお方である。神様を信頼して、今日あることを心から感謝するばかりである。

 

一日一日生かされていることを認識して、命をくださる神をほめたたえることが、生きる基本的な姿勢だろう。そして、何か、あっても愛の主が愛のうちになさることだと納得したいとおもう。5月半ばには5年目の詳細な検査がある。

 

今、身近に、このGW明け早々に診断を待っておられる方がいる。これからの一生を左右する大きな診断が下るかもしれない。言いようのない不安と恐れの中におられることだろう。主イエス様の平安を祈るばかりである。

日々の風から comments(2) -
日々の風から 五月の風は希望の風




なんとさわやかな風であろう。今年も最高の季節になった。あっという間であったが桜花も楽しんだ。その後の芽吹きにも胸が躍った。そして、今、人の心を独占しているのは新緑を吹き渡る風であろう。

 

2年ぶりに娘家族が戻ってきて以前のように同居生活が始まった。ちょうど1ヶ月になる。地域の小学校へ通い出した孫たちは、転校生として紹介されたようだが、初めての土地ではない。顔見知りも多く、瞬く間に溶け込んでごく自然体で学校生活を送っている。これは、親はもちろん祖母たる私にも感謝なことである。

 

私の生活で、変わったことといえば、時間の流れにスピードがついたことだ。各駅停車の鈍行から特急へ乗り換えたようだ。しかし、その分時間が余るわけではない。おもえばおかしな現象である。とにかくどんどん時間が消えていく。

 

とはいえ、孫たちが登校して帰宅するまでは、家の中は森閑としている。3年生と6年生だから、帰宅は3時過ぎになる。娘はその間書斎に閉じこもって教会の仕事をしている。時に外出する。私も自室で係わっている2,3の団体の事務処理などにいそしむ。そのために外出する日もある。

 

娘たちが転勤し、一人で母の介護に明け暮れた2年間とはまったくちがったあたらしい生活スタイルになった。あの、緊張の連続だった日々が遙か遠くに思われる。渦中の時はパニックになって、助けてくださいとまで祈ったが、今はあの体験はなんと貴重だったろうと、しみじみと思う。それは感謝に変えられている。

 

始まった娘家族との生活は、孫たちが主役を演じるドラマのようだ。日々新しいストーリーが繰り広げられていく。私は脇役で出演しつつも、時に客席で楽しんでいる。私の席はロイヤルボックスである。劇場にはさつきの希望の風がそよいでいる。


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