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聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その14
第11段 カーフ この段は119篇のクライマックスではないだろうか。一番好きな個所である。好きというのは適切な言い方ではない。一番親しみを感ずると言い換えたほうがいい。詩人が置かれている状況に似たものを見、その心中に共鳴するからだ。こうして詩人の祈りは私自身の祈りとなる。 119:81 私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。 私はあなたのみことばを待ち望んでいます。 厳しく苦しい状況が続く時、戦っても問題の山の高さは変わらずどうにもならない時、心も体もすり減ってぼろぼろに感じる時、信仰者は一心に神に近づいていく。残された道は神様にしかないからだ。魂が一心に主に向く時、主を慕う熱い思いが込み上げてくる。主を、みことばを、求めて狂おしいほどである。 119:82 私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。 「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と言っています。 魂の渇仰を知ってくださり、満たしてくださるのは神様だけ。詩人は主からくる慰めを切望している。一時も早く主の臨在とみ声を聞きたいのだ。主と語りたいのだ。 119:83 たとい私は煙の中の皮袋のようになっても、あなたのおきてを忘れません。 皮袋とは水やぶどう酒を保存する容器である。煙の中の皮袋とは、古くなって、使われなくなって、台所のかまどの上にでも吊るされているものを指すのだろう。もう容器としての役には立たなくなり、やがて忘れられて廃品になるようなあわれな有様でも、詩人は主の御前に最後の力を振り絞るように声をからしてあなたを忘れないと告白している。 この信頼と信仰の力には驚嘆する。
119:84 あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。 あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。 自分のこの世での生はいつまでなのか。先が見えているように思われる時がある。その限界を感じるときがある。焦りを覚える時もある。現状が膠着し希望が見えない時は特にそう思う。そして、あの事件はどうなるのだ、生きている間に自分を苦しめてきた人たちの結末を見たいものだとおもう。主は必ず正しいさばきをして決着をつけてくださるお方だ。自分の生涯の終わりと敵の裁きの時を尋ねずにはいられない。 119:85 高ぶる者は私のために穴を掘りました。 彼らはあなたのみおしえに従わないのです。 詩人は抑えていた心を開けて、自分を迫害し痛めつけ、高慢にふるまう者たちの仕打ちを率直に主に訴えている。彼らは滅ぼそうと穴を掘ったのだと。彼らは神の教えには従わない不信仰な不埒な者たちだと訴えている。主にこのように祈るのは決して人の悪口を言っているのではない。愚痴を言っているのではないとおもう。彼らのしていることは単に私へのことだけではなく、主を軽視、無視しているのだ、不従順であり不信仰なのだといっている。神に訴えるのはひとつの信仰表現ではないだろうか。
119:86 あなたの仰せはことごとく真実です。 彼らは偽りごとをもって私を迫害しています。どうか私を助けてください。 神のみことばこそ唯一絶対の真実である。詩人は大胆に告白する。迫害者は嘘を言っている。嘘で固めて暴力をふるってくる。それがわかっていながら、戦うすべをもっていない。いや、あえて戦いたくはない。それよりも主に助けていただきたい。主の助けが一番である。詩人はそう確信して、主にSOSを発信している。 119:87 彼らはこの地上で私を滅ぼしてしまいそうです。 しかしこの私は、あなたの戒めを捨てませんでした。 嘘で固めて迫害し、陥れようとする。じっとしていては勝つ当てはない。このままでは命まで奪われてしまうだろう。危機的状況である。立ちあがって正義の剣で反撃したい。もしかしたら勝てるかもしれない。そうした衝動に駆られる時がある。しかし詩人は忍耐する。どんなときも主の戒めを忘れて、自分流に走ろうとは思わないのだ。その忍耐は尊いが、剣を抜くよりも強く激しい意志力がいる。信仰がいる。主への信頼が必要だ。 119:88 あなたの恵みによって、私を生かしてください。 私はあなたの御口のさとしを守ります。 ひとえに私が生きていられるのは主の恵みである。主の恵みがなかったら悪者に命を奪われ滅ぼされてしまうだろう。これからもただただ主の恵みによって生かされたい。そして、なにがあろうとも起ころうとも主に従い通すと、詩人は最後の決意を告白している。 あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。 みことばを慕って絶え入るばかりです。 冒頭のフレーズが最後にも聞こえてくる。 2009.02.27 Friday 11:28
書林の風から 『レ・ミゼラブル』銀の燭台とミリエル司教
世界の名作『レ・ミゼラブル』を再読している。子どもから大人まで、おそらく世界中で知らない人はいないほどに有名な名作中の名作だが、完訳を完読した人は多くはいないようだ。知人たちもジャン・バルジャン物語とか孤児コゼットとして断片的にあるいはダイジェスト版で読んだだけという。 私も幼いころに『ああ 無情』の題名で読んだ。そして、この本こそ私に読書の魅力を教えてくれた最初の一冊なのだ。この本との出会いには懐かしい物語がある。 数年前になるだろうか、ミリエル司教について書くことがあった。そのために思い切って初めて全巻を読んだ。こんなに壮大な物語だったとは知らなかった。 今、仲間たちと読み合っている。 クライマックスの一つである(クライマックスは本当は一つに限定されるのだろうが)場面にさしかかっている。 ミリエル司教の家から銀の食器を盗んで逃亡したジャン・バルジャンが、憲兵に連れられて再び司教の前に現れるくだりである。 ジャンは19年間の刑を終えて釈放されたが、広い世界のどこにも彼に一食の食事を出してくれるところも、まして一夜の宿を提供してくれる人もいなかった。お金は支払いうというのにである。 だが、その町の司教ミリエルは、彼の素性を知りつつも、恐れることなく差別することなく来客として扱った。思い出のあるたった一つの宝物銀の食器でいっしょに食事をした。その後はまっ白いシーツを敷いたベッドに寝かせた。 ミリエル司教はジャンをあなたと呼び、ここはイエス・キリストの家です、私の家ではなく、むしろあなたの家ですといった。 それなのに、なんということか。真夜中に、ジャンは銀の食器を全部盗んで塀を飛び越えて逃げ去ったのである。間もなく捕らえられてしまう。そしてミリエル司教の前に引き出されるのである。 ところが、ところが、である。ミリエル司教はこういうのである。 「ああ、よくきなすった!私はあなたに会えて嬉しい。ところでどうしなすった、私はあなたに燭台もあげたのだが。あれもやっぱり銀で、二百フランくらいにはなるでしょう。なぜあれも食器といっしょに持って行きなさらなかったかな?」 ジャンでなくても驚いて言葉も出ない。胸が燃えるように熱くなって涙があふれる。ゆるすとはこういうことか、愛するとはこういうことかと、たったひとつの真理が感動とともに胸に刻みつけられる。 ジャンと二人きりになったとき、ミリエル司教は彼に近づき低い声で、厳かさをもって言った。 「忘れてはいけません。決して忘れてはいけませんぞ、この銀の食器は正直な人間になるために使うのだとあなたが私に約束したことは」 「ジャン・バルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が購うのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、そしてそれを神にささげます」 第二編のおわりにユーゴーは書き記している。 『泣いたあとに彼は何をなしたか。どこへ彼は行ったか。だれもそれを少しも知らなかった。ただひとつ確かめられたことは、その同じ夜、当時グルノーブル通いをしていた馬車屋が、朝の三時頃ディーニュに着いて、司教邸のある通りを通ってゆく時に、一人の男がビヤンヴニュ司教(ミリエルこのと)の家の前で、祈るような姿をして闇の中に敷石の上にひざまずいているのを、見かけたということである』 偉大な文豪ユーゴーは実に印象深く巧みなテクニックでジャン・バルジャンの改心を描いている。ため息の出るような場面である。 ここから、ミリエル司教の(イエス・キリストの)愛と赦しによって新生したジャンの新しい人生がはじまる。今までは前奏曲と言えるかもしれない。 今年、ネット読書会『カラマの会』では『レ・ミゼラブル』(岩波文庫4冊もの)を読むことにした。現在11名のメンバーが読破の旅に進軍中である。すでに感動の声が寄せられてきている。私も楽しみに読み進めていこう。 2009.02.24 Tuesday 21:26
日々の風から うれしい訪問者
ケアマネさん、そして日々のヘルパーさん、訪問看護師さんたち、訪問入浴のスタッフたち、ホームドクターたちが、綿密に連絡し合って在宅介護という一台の車を巧みに安全に走らせて下さっていた。皆さんにとってはお仕事だろうけれど、実務の中に心がこめられていて、それが私の荷を軽くしてくださると同時に慰めにも励ましにもなった。いわば戦友のような気がしている。 そのお二人が、母の遺影を前にしばらく思い出話をしていかれた。母の晩年しかご存じない方々だが、介護を受けているときの母の言動から、良い印象を抱いてくださっていたことを知ってうれしかった。 辛抱強い方でしたよね。 余計なおしゃべりはしなかったですね。 短くはっきりとご自分の意志を言われました。 痛いとか苦しいとかいやだとか不平を言いませんでしたね。辛いことや不快なこともあったでしょうに。 介護に携わる方は毎日毎日命ぎりぎりの現場におられるのだ。息つく暇もないだろうに、仕事上ではすっかり関わり合いなくなった人まで訪問してくださることがあるのだろうか。なんとありがたいことだろう。 家族や友人たちと母の話をするのとはひとつもふたつも違った喜びを感じた。やはり同じことに手をつけ体を使って共有したという一体感だろうか。 この方々とはもう係わることはないだろう。名残惜しいし寂しい気がする。 それぞれの事業所からの書類を整理し、最後に、携帯にも入れておいたアドレスを削除した。ちょっと感傷的になってしまった。 2009.02.20 Friday 15:24
日々の風から 古いカレンダーの使い道
ここ数年、一か月毎で、半分は絵、半分はわりに数字の大きいのを使っている。絵は季節の花々をアレンジしたものに特定している。実にカラフルで美しい。用紙もしっかりして厚みと光沢がある。一か月が終わっても切り取って捨てずにめくるだけにしてきた。もったいなくてとても粗末にはできないのだ。何か再利用したいけど、妙案も浮かばないので押入れにたたんでおいた。 時々気になる。仕舞い込んだままでは能がない。といって廃棄するには惜しい。ふと、思いついたことがあった。使い捨てランチョンマットにしようと。 さっそく一枚一枚切り離して周囲に多少ハサミを入れてみた。全面花であふれた格好のランチョンマットができ上ったのである。 広さばかりが目立つ一人暮らしの食卓がにぎやかになった。今日のはチューリップである。その美しいこと! 先取りした春に浸っていい気分である。食事もすすんで感謝があふれる。ふと、何と安上がりな人間なのだろうと、自分で自分がおかしくなった。ところで、このランチョンマットは一回きりでは捨てられない。ていねいに繰り返し使おうと思ってしまった。エコ時代だもの。 もしかしたら、いろいろ有効活用されているのではないだろうか。お知恵をお持ちに方、教えてください。 2009.02.19 Thursday 14:21
日々の風から 私のバレンタイン
2月14日かっきりその日に、姉妹から一枚の大きな大きなチョコレートが宅配されてくるのだ。メーカーからの直送なのである。伺えば、メーカーの方と懇意な関係だそうだ。決して店頭には出ていない。よけいな混ぜ物や装飾のない素朴な純板チョコである。小さなピースに割るのが骨の折れるくらいしっかりしたチョコである。ケーキつくりに使うこともできるが、私は、ブラックのコーヒーを片手に、この時期しばらく楽しんでいる。いただくたびに、姉妹のことを思い祈ることにしている。 姉妹は戦後間もなく始まったある教会の信徒として、骨身を惜しまず、それこそ時間も経済も、人生のほとんどを捧げて仕えてきた。今もそれを無上の喜びとしておられる。ある時大病をしてからは、その後遺症や再発があって、数え切れないほど手術を繰り返している。それでも毎回お元気になり、今年も、私にまで忘れずにチョコを送ってくださった。 私はバレンタインには乗らない。無視している。いつ頃からか義理チョコなどと、商魂の生んだ巧みな戦略が流行りだした。そうか、日ごろお世話になっている方々にでも贈ろうかと、一瞬心が動いたが、初心を貫くことにした。そのうちにホワイトデーなるものも誕生して、私はますます外野で面白く観戦する ことに徹している。昨今孫のS君に届くと聞いて、ほのかに楽しい。 数日来の異常な陽気ではチョコも溶けてしまうのではないかと思う。私のいただいた板チョコはまだまだ当分しっかりしているだろうが。 ミニ花壇のビオラがびっくりするほど株を大きくして咲き乱れている。その間から、チューリップの芽が確実に伸びている。この分では開花が早まるのは桜だけではないだろう。 春の大胆な足音に耳を澄ませながら、バレンタインチョコをほおばっている私は何者かと考えるとおかしくなる。さらに 習慣を無視して私にチョコを贈られる姉妹も何者と思う。これがキリストにある自由というものだろう。 2009.02.16 Monday 10:18
旅の風から 桜花は見えず、つぼみかたし
長女宅を訪ねてきました。一人きりになって、今はどこへ行くのも自由です。後ろ髪を引かれることはありません。とはいえ、風に吹かれて、足の向くまま気の向くままどこへでもというわけにはいきません。小さな日常でも、定期的にすることがあって、相変わらず時間はこま切れです。 2年間、Y市暮らしをしていた長女家族が、3月末には東京に戻ることになりそうです。そうなると、もうあちら方面に行くこともないでしょう。そんな思いもあって、数日行ってきました。 昨年夏に奈良へ行きました。今回は11日の休日を使って、京都へ行きました。名古屋から神戸まで、新名神道路ができたばかりとか。時間も費用もたいへん節約できるというので、婿殿の運転で総勢5人勇んで出かけました。なんと1時間で京都についてしまいました。距離も100キロほど。びっくりでした。 S君やMちゃんの勉強のためにもと、一番ポピュラーな名所を訪ねました。シーズン・オフのため観光客はちらほら駐車場もガラガラで、すこぶる快適です。金閣寺をこんなに静かに見たのは初めてでした。竜安寺はところどころ工事をしていました。こんなに大きな敷地だとは思いませんでした。二条城はつい数年前に友人と見学しましたが、また、行ってみました。 慶喜が大政奉還を宣言した場所を目の当たりにして、孫たちはすっかり感動したようです。昨年一年間、ずっと楽しんできた大河ドラマ『篤姫』のその時の場面を見ているような気がしたのでしょう。 「将軍と大名たちがあんなに離れて座っていたとは思わなかった。もっと近いように思った」とS君は率直な感想を話してくれました。私もそう思ったのです。将軍の権威を誇示するためだったのでしょうか。そして、そこは外様大名とだけ会見したのです。譜代、親藩と相談したのは別の部屋でした。 『百聞は一見にしかず』を実体験したのは孫たちばかりではありません。私も大いに感動し、歴史への興味がさらに膨らみました。 人混みにも遭わず、静かでいいとはいえ、桜の気配さえないのはいかにも残念です。しきりに花に心惹かれてしまうのは、京都のせいでしょうか。二条城の花情報の看板に、≪つぼみかたし≫と出ていたのには苦笑してしまいました。しかし、桜満開の時期に来られるわけもありません。梅だけでは満足できない欲心を捨て、いただいた時を感謝しなければと反省しました。 与謝野晶子の歌を思い出しながら祇園の真ん中を走り、朱塗りの八坂神社を右折して、一号線から、名神道路、途中から新名神に入り、往路と同じく一時間で帰宅できました。わずか5時間の滞在でしたが、思い出に残るすてきな旅になりました。 2009.02.12 Thursday 18:40
聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その13
第10段 ヨード 119:73 あなたの御手が私を造り、私を形造りました。 どうか私に、悟りを与えてください。 私があなたの仰せを学ぶようにしてください。 自分で自分がどうにもならない時がある。こんな私ではないはずだ。習慣も性格も感情も意志も、わたしの思い通りになってくれない。変わりたいと願い、できるだけ努力してみるが効果があってもいっときだけ。思わぬ横風に吹かれると、以前の自分が大きな顔をあらわにしてくる。いつもいつもこんな経験をしている。もう、降参である。神様の御前に助けを求めるほかはない。私を造られたのはあなたでしたよね。私に対して全責任を取って下さるお方はあなたのほかにはおられません。私に悟りを与えて、もっとみこころを深く鋭く知り、それが私の血肉となり、造られた者にふさわしくなりたいのです。詩人はそういっているのではないだろうか。私にも切実なことである。 119:74 あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。 私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。 たとえ稚拙な歩みでも、まごころから主を求め、主に従っている姿は、わかる人にはわかるものだ。うわべはつくろえるし、欺くこともできる。しかし、メッキはメッキである。純金は純金である。本物が本物を喜ぶのである。私の心を心底わかってくれる、まことの信仰者と密なる理解と交わりを持ちたいものだ。主にある深い友情で結ばれたいものだ。 119:75 主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、 あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。 あの災難も、あの病苦も、あの誤解も中傷も、主が深いみこころから敢えて私に与えられたものだとわかるとき、いよいよ主の義が際立って見えてきて、ひれ伏さずにはいられない。主の義と愛の前に立ち向かうことなどできない。主は正しいお方。 119:76 どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、 あなたの恵みが私の慰めとなりますように。 この傷心をいやし慰めることができるのは主の恵みのみ。主は私をオンリー・ワンとしてご覧くださり、私だけの約束のみことばを備え、それを成就してくださる。 119:77 私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。 あなたのみおしえが私の喜びだからです。 主以外の力や考えで自分を支えようとは思わない。私を生かすのは主だけ、主のあわれみだけだ。私の喜びのすべては主を慕うこと、主の愛を信じること。 119:78 どうか高ぶる者どもが、恥を見ますように。 彼らは偽りごとをもって私を曲げたからです。 しかし私は、あなたの戒めに思いを潜めます。 こちら側には落ち度はないつもり、それどころか己を殺して立ててきたはずなのに、思いもかけないウソ偽りで曲解や誤解されることがある。何と辛いことだろう。そんなときは弁解しても無駄である。通じないから。ますます攻撃は激しくなる。主の真実に期待して口を閉ざし祈るほかはない。いつか主がすべてを明らかにしてくださることを待ち続けるばかりである。そんな日々がある。 119:79 あなたを恐れる人々と、 あなたのさとしを知る者たちが、私のところに帰りますように。 あんなに一つ心で主を愛していたのに、気がついたら自分だけ取り残され、悪者にされてしまっている。そのことが往々にして起きる。悲しい限りである。また、かつての日々のように何のわだかまりもなく、微笑みを交わしながら主をほめたたえたい。詩人は切々と祈らずにはいられないのだ。 119:80 どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。 それは、私が恥を見ることのないためです。 自分の罪咎は気付かないことが多い。主のみ前にどんなにへりくだっても、悔い改めてもこれで十分ということはない。全きものとして受け入れてくださるのは神様だけ。十字架の力で義としてくださる神様だけである。神様によって完全に清めていただきたい。清い者と認めていただきたい。全き者と承認していただきたい。そうでなかったらどうして救われていると、胸を張って言えるだろう。 ≪汝、我が前を歩みて 全かれ≫とアブラハムに言われた主は、私にとっても主でる。 2009.02.07 Saturday 13:19
書林の風から 09年『カラマの会』は『レ・ミゼラブル』で出発!
4年目に入ったネット読書会『カラマの会』はいよいよ立春の今日、成田空港から一路パリ郊外のド゙・ゴール空港に向けて出発しました。一人一人の旅のバッグには『レ・ミゼラブル』岩波文庫4冊が入っているはずです。4冊全部が驚くべき分厚さで、どれも600ページを越えています。さらに、挿絵がふんだんに入っているのも珍しい驚きです。2400ページ余を読破して帰国できるのはいつになることでしょうか。目安は立冬(11月7日)ごろが目安です。冬至(12月22日)になるかもしれません。 本書の序から 1862年1月1日 ヴィクトル・ユーゴー 『地上に無知と悲惨とがある間は、本書のごとき性質の書物も、おそらく無益ではないであろう』 2009.02.04 Wednesday 21:37
日々の風から 不要品始末記
家庭でいっとき大活躍した機器や家具や道具たちも、一時期を過ぎると不要品となる。収納スペースには限界があるのでバザーに出したり、ついには粗大ゴミの道を行かせることになる。かつては気軽にそうしていた。ところが昨今は ≪もったいない≫運動の普及とエコ精神から、不要品といえども滅多な扱いはできなくなった。自分の中でも意識改革が進んでいる。 母の生活品を整理している。ついでに、しまい込んでいた孫たちのベビー用品も何とかしなければならなくなった。 すぐにバザーもないし、友人知人を思い浮かべても、使っていただけそうな人は見つからない。どうしたらいいものか。ふと、一案を思いついた。誰でもいいから、ほしい方に使っていただければいいのだと。 我が家の玄関先に【ご自由にお持ちください】と張り紙して、不要品を並べることにした。とりあえず4つ出してみた。まず、母のシャワー用の椅子、ベビーカー2種類、新品同様の三輪車である。 一時間ほど経ってのぞいてみたら、なんとシャワー椅子が消えていた。最後まで残るかと思っていたので、ちょっと驚いた。 その後、ベビー用品は夕方まで残っていた。どうしてだろう。少子高齢化現象のせいかと思ったりした。しかたがない、一晩はそのままにしておき、明日になったまたカバーをかけ、こんどこそ粗大ゴミの手配をしようと決めた。 今朝のことである。玄関を開けたら、見事に全部なくなっていた。歓声をあげて喜んでしまった。誰かが使って下さるのだ。不要品は生かされるのだ。 捨てなくてよかった、またやってみましょう。 少しばかりスリルがあって、とても楽しかった。 皆さまも試してごらんになりませんか。 2009.02.03 Tuesday 22:41
日々の風から 春はそこまで
カレンダーを一枚めくって2月の姿を見るのはさすがにうれしい。早いものである。ここ一両日の荒々しい天気は春を呼ぶかけ声だったのか、冬が抵抗して威力を示したのか判別は難しいが、春を感じてしまうのは気が早すぎるだろうか。 近くのミニ梅園の梅が咲きだした。毎年のことながら不思議なことだ。何と律儀だろう。なんという単純さだろう。その規則正しい営みに感動する。いのちの底力とびくともしない正直さに心が正される。ほっとなごむ思いもする。 日足が伸びて西の空が思いのほか明るい。刺すような寒風の中を歩いた。頬に当たる冷気に身を縮めたが、同時に快さを感じる。生きている、生かされているという実感があふれてくる。 人生家業○○年、大したこともできず地を這うような生きざまではあるが、負け惜しみでなく、これで十分だと思う。心境において過不足なし。そう断言する。あと何年元気でいられるかなどと指を折るのは愚かなこと。人の命は主のもの。明日のことは神様の領分だ。 神様にゆだねつつ、この2月も一日一日精一杯生きていきたい。当面、担っているいくつかのことを喜んで誠実に果たしていきたい。しかし執着は禁物。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかなと、信仰の極意を淡々と歌えるようになりたい。 2009.02.01 Sunday 23:04
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