人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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書林の風から  09年≪カラマの会≫スタート 
お知らせ二つ

コゼット

ネット読書会≪カラマの会≫4年目スタートです。

今年で4年目に入ります。今年の課題本はビクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に決まりました。子供向けダイジェスト版では『ああ無情』。これを知らない方はいないでしょうが、岩波文庫4冊を一人孤独に読破するにはかなりの根気、根性が要ります。ですから、今回もまた、みんなで……すれば、怖くない 方式で行きます。なにしろこの読書会の特色は、一人では読めない本を選びましょう、ですから。

この読書会は、不肖希望の風が旗振りをします。旅になぞらえて、ツアコンと言います。今年の旅先はフランスということになります。メンバーのお一人から、時に国内もいいじゃないかとの名案をいただきましたが、なぜか、あっという間にフランスに決まってしまいました。ごめんなさい。

過去三年間に読み合あった本と旅先は以下の通りです。
 『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー ロシア
 『エデンの東』スタインペック アメリカ
 『クオ・ワディス』シェンキェーヴィッチ ローマ
 みな、名にし負う超大作です。よくがんばりました。

 ≪カラマの会≫では、メンバーはネット上だけのお付き合いです。直接の会合は年に一度ほどです。ミクシイをご存じでしょうか。ミクシイにコミュニティーが設けてあります。メンバーにはそのサイトからお知らせなどが報じられますし、メンバーは自由にコメントを書き込みます。ちなみに、メンバー同士は本名も名乗りません。ミクシイのハンドルネームで通します。

今年こそ、参加したいと希望される方は、このブログ希望の風にお声をかけてください。≪カラマの会≫入会は管理人(私)の許可が必要です。特別な資格など全くありませんが、今の時代は何かと物騒ですから、慎重にしています。



もう一つのお知らせ
希望の風にはもうひとつブログがあります。聖書の緑風と言います。リンクしてあります。現在は、『ルツ記の賢女たち』をアップしています。過去に書いたものですが、訪ねていただけたら幸いです。アクセスしてくださる方が増えているのは感謝です。ここでも、主の御名があがめられますように。
書林の風から comments(4) -
日々の風から 母の召天から一か月

あの日からもう一か月が過ぎてしまいました。母のいない日々にも慣れてきました。ひところはまだ病院にいるような気がしましたが、それも薄らいできました。母の部屋からは時々送られてくる花のかおりが漂ってきます。遺影と遺骨を毎日何度となく見ますが、立ちつくすことも少なくなりました。日に日に寂しさが募るでしょうという方もおられますが、まだまだ日が浅いのでしょうか、その実感も強くはありません。

神様は何とお考えなのでしょうか、私が立ち止まらないように、座り込まないようにとのお計らいなのでしょうか、新しい活動を日々に与えられるのです。
過去一年はふっつりと途絶えていた奉仕の声がかかってきました。もっと不思議なのは、ストップしていたミニ学習塾へ入塾依頼があったことです。誰にも声をかけたわけではありません。これにはびっくりでした。
神様、働けと言われるのですか、御心ならそうしますと祈りつつ、受け入れました。

昨年4月から、キリスト教放送局FEBCで私の著作を朗読する番組が始まりましたが、このほどいよいよ最終録音になり、スタジオに招かれました。録音室に座して、じっくり拝聴しました。番組は3月で終了です。全部で52週にわたります。10枚のCDができました。
介護で埋めつくされた一年でしたが、作品が放送されていることがどんなに心を楽しませてくれたことでしょうか。慰めと励ましになったことでしょうか。FEBCのご厚意に感謝は言い尽くせませんが、こうして私を支えてくださった神様にもただただ感謝するばかりです。

新年早々から日曜毎に我が教会で『あかし文章講座』するように依頼があり、今日まで3週間続けました。準備に追われたのも、心を立て直す特効薬になったと思っています。

昨年末に、親友IT兄の奥様が大きな交通事故に遭われ、大変驚きましたが、日々容体をお聞きしながらほんとうに真剣に祈りました。仲間たちに連絡し、祈り合い、ようやくこちらも一か月を経過しました。一時の危機を脱して快方に向かわれ安堵しました。先週、友人たちと病院の近くの教会に集合しIT兄を囲んで祈り会を持ちました。IT兄にたいへん感謝され、うれしい思いをしました。

昨日は朝から夕方まで、ペンクラブの委員会や例会で走り回り、充実した一日でした。帰り際にみなでコーヒーショップに寄り道して、おしゃべりの続きをし、心癒される時になりました。

今日の午後は、礼拝を終えた教会の女性たちが我が家に来られて、ひととき交わりの時を持ちました。母のアルバムを広げながら皆さんが思い出話をしてくださり、たいへん慰められました。

こうして、母のいない一か月が飛ぶように過ぎていきました。納骨式は桜の花下でと決めましたので、遺骨はまだしばらく我が家にいることになります。
日々の風から comments(2) -
旅の風から 小さな旅 母の故郷へ 
銚子電鉄
灯台


妹たちと母の故郷を歩いてきました。たくさん歩きました。海岸線を。母の生まれ故郷は千葉県銚子の先にある犬吠崎から少し南に下った町、銚子電鉄の終点外川という漁村です。訪問は久しぶりではありません。母が老いて遠出ができなくなってからは、親類の冠婚葬祭は私が務めてきました。昨年は母の兄嫁の葬儀がありました。この伯母を最後に、母の兄弟たちはすべてこの世を去り、今や、甥や姪(私にはいとこ)の時代になりました。そして彼らもすでに老年です。母の葬儀には代表して甥が二人きてくれました。

母は独身時代にすでに東京へ出ていましたし、東京人である父と結婚したので故郷へ帰ることはありませんでした。ただし、3年間だけ実家の世話になったことがあるのです。終戦の年の秋からです。軍需工場に徴用されていた父はすぐには戦前の職場に戻れず(会社は閉鎖し、まだ再開できなかったのです)、東京には入れなかったようで、やむなく私とすぐ下の妹との家族4人で母の里を頼ることになりました。
私にとっては今現在までで、よその土地に暮らしたのはこの3年間だけです。私にとっても故郷なのです。それだけに思い出は鮮明です。300枚くらいは書けるのではないかと時々思うほどです。

日帰りできる距離ですが、今回は一泊しました。子供のころから知っていた灯台のそばの老舗旅館を選びました。銚子電鉄を途中下車して、海岸を歩きました。波打ち際や磯にも下りてみました。太平洋の海は真冬だというのに明るく、水も冷たく感じませんでした。

母は幼い日々のことや、自分の両親、祖母、祖父、そして兄弟たちのことをよく話してくれました。すっかり覚えるほど聞きました。母は私たちを寝かしつけながら延々と話をしたのです。泣き言めいたことは一言も聞きませんでしたが、きっと、たまらなく恋しかった時もあったでしょう。

あるとき、たった一人で行ってみたい、夫も子供も一緒ではなくて、自分ひとりで行ってみたいと言いました。そのとき私はふーんと、聞き流しただけで気にも留めませんでしたが、今になると痛いくらい理解できます。母の願いはかなえられたのかついに知りませんが、いつしかすっかり老いてしまい、ひとりではおろか、付き添われても、車に乗せられても、行けなくなりました。

潮風に吹かれながら、妹たちと母のこと、父のこと、ここで暮らした日々のこと、夏休みが来ると毎年子供たちだけで本家や、母の姉の家に長期滞在したことなどを語り続けました。

二日間歩き続けた海岸線に昔日の風景はありません。あのころ、家から一気に海まで駆け込めた浜には当時は見たこともなかったテトラポットが積み上げられ、荒海で名高かった浜には沖のほうまで防波堤が築かれ、はては津波予防の堤防までそびえ立っていました。母が泳いだころの海はどうだったのか想像することもできません。

変わらないものがあるのに気がつきました。潮の匂いです。鳴りとどろく波の音も、です。砕け散る真っ白な波しぶきも変わってはいないでしょう。

私たちは時折口をつぐんでは部屋の窓越しに果てしなく広がる海を見続けました。航行中の船舶がはるか水平線にいくつ点のようなしるしをつけていました。灯台は無人ですが、夕闇が迫る頃には早々にライトをともし、規則正しい弧を描き出していました。海のいのちの象徴である潮騒は分厚いガラス戸に遮断されて微塵も聞こえず、物足りなさを感じましたが、母を送る締めくくりの旅になったと、心満ちる思いをしました。



中年過ぎてから町の短歌会に入った母の作品を拾ってみます。

久々に 故郷の浜に 立たずめば 幼き日の海 青く変わらず

ふるさとの 岬に立てば 潮騒は 荒々しくも 胸にひびけり

故郷の 潮のかおりの ただよいし 魚売り場に 今日もたたずむ

ただ一人 残りし姉も 逝きしいま 故郷につづく 空を眺めむ

故郷より 電話かけくる 兄嫁の なまり楽しく じっと聞きおり

昨日は焼き 今日は煮つけて サンマ食む 海辺に育ちし 我の性かも

テレビより 流るる唄と 菜の花に 幼きころの ふるさと見ゆる(83歳)


犬吠の磯

キャベツ畑有名なキャベツ畑


(まもなく母が召されて一か月です。ずっと母のことばかり書き続けましたが、次回からは話題を変えるつもりです)
旅の風から comments(7) -
心の風から 唯一の慰め 母、召天のあとに 

1月17日は母の誕生日。生かされていれば満91歳になるはずでした。天に帰る日を感じつつも、この日は家で迎えられるだろうと思っていました。迎えさせてあげたいと願っていました。その一方で、点滴だけでなにひとつ食べられず、身動きもままならない姿を見ると、イエス様のおそばに行ったほうがどれほど楽だろう、自由で楽しいだろうと何度も思いました。

今、私の唯一の慰めは母が天にいることです。もし母がクリスチャンでなかったら、私は嘆き苦しみ、自分を責めておそらく心身ともに病気になったに違いありません。

こんな物言いはキリスト者でない方や、ご家族にまだ救われていない方がおありの方には、傲慢で独善的に聞こえるかもしれません。傷つく方もおられるでしょう。私がその立場であったら憤慨するかもしれないことです。しかし、それを承知の上で、言わせてください。

母がイエス・キリストを信じたのはつい最近のことです。二年半前なのです。ブログの2006年7月にそのいきさつを記しました。母が88・5歳の時でした。父を先に天に送って8年余、母は私や長女家族と同居してはいましたが、たいていのことは自分でできました。85歳までは旅行も、娘宅へも行けました。風邪ひとつ引かないほど元気でした。

ところが2006年7月初め、突然体調が乱れ、大木が折れるように寝込んでしまったのです。以後、介護制度を使うようになりました。その境目の日、いままで、かたくなに拒否してきたイエス・キリストを受け入れ、救い主として告白し、まもなく自室で洗礼を受けたのでした。神様の時と愛の計らいをどんなに感謝したが知れません。

家族でただ一人残っていた母がようやくクリスチャンになり、やがての時は神様のみもとに帰れると思うと、厳しい介護の日々の中にも希望がありました。

最近、しきりに天国のことを思います。聖書にはその様子が説明されていますが、想像力の及ばないところもあってなかなか実感できません。それはそれとして、母はいまどうしているのかと思うのです。先に天に帰った父と会っているのだろうか、などと思います。

天の御国は地上のように娶ったり嫁いだりしないとありますが、お互い同士、どんな人のことも分かるのではないかと思います。歴史上で名前を知っていた有名人もわかり、交わりができるのではないかと、勝手かもしれませんが想像します。それは実に楽しいことです。

天国には涙も叫びも、痛みも苦しみもないそうです。何年いても加齢もなく、したがって老いの弱さも病もないのです。魂がすっかり清められますから、人間関係の軋轢もないでしょう。天国にはストレスがないのでしょう。
完全な理想郷、ユートピア、栄光のイエス・キリストを実際に拝しつつ、永遠に生き続けるのです。何と幸いでしょう。私は天国に憧れます。母が、父が、そこにいること、これ以上の喜びと感謝はありません。

偉大な使徒パウロのあかしが胸に迫ります。
『私にとって、生きることはキリスト、死ぬことも益です。…私の願いは、世を去ってキリストともにいることです。実はそのほうがはるかに勝っています』
ピリピ1章21節、23節


心の風から comments(6) -
心の風から 悔やむこと 母の旅立ちの間際で

まだ、母が入院しているように思えてなりません。今日13日は退院日だったのです。再び在宅介護をするべく手はずを整えていたのでした。ところが、肺炎になってしまい、それが、母を天に導く直接の原因になったのです。

母の最期のことでは悔やむことがあります。一晩や二晩は病室に泊まり込んで、そばにいてあげたかったということです。しなかったのには理由があります。
肺炎になってすぐに母はICUに移されました。ベッドサイドには心拍数や血中酸素量や血圧などを示すモニターが設置されていました。刻々と変わる数字に一喜一憂しました。一週間ほどすると数字が安定してきたので元の病室に戻ったのです。肺炎は治ってはいないけど悪くなっていないと聞かされました。ただし、心拍数が下がらない、心臓への負担は大きいから油断はできないとも聞きました。

10年前、父も同じ病院で最期を迎えたのですが、その時は2日ほど前から個室に移されました。それは死期が近づいている証拠だったのです。それを思い出して、母はまだ個室に入る状況ではないから大丈夫だと思っていました。

ところが25日の朝、呼吸が荒くなっていますからすぐ来てくださいと連絡があったのです。走れば5分ほどで行けますので、時間はかかりませんでした。
到着したのと母の呼吸が止まったのとほとんど同時でした。医師も予測できなかったほど、急激に容体が変わったのでした。

私は母の死を受け入れました。そこに神様の介入があったことを確信したからです。どんなに重篤であっても、その日その時は突然なのだと悟りました。
出生と死の瞬間は神様の領域のことであり、神様が直接御手を動かす厳粛な時なのだと信じます。

神様のみ業だと納得し受け入れはしますが、25日の朝が旅立ちの日だとわかっていたら、もう少しゆっくりと最後の時をいっしょに過ごしたかったと、そのことだけが悔やまれてなりません。

思い返せば、前日の夜、別れ際に、また明日ねという私の言葉が全く聞こえていないかのように、母は目を閉じました。その閉じ方がいかにも深く思えました。二度と開かないのではと思うほどでした。明日は面会時間を無視しても早くから来ようと決心しながら退室したのです。

ま夜中に目が覚めてしまし、起き上がって祈りながら、激しく泣いてしまいました。明日かもしれないと、かすかに感じました。きっと25日、クリスマスの日に違いないと、心の片隅で悟りました。でも、一方で、空ごとにも思えました。

葬儀は家族葬にしようと決めましたので、身近な方々にしか知らせませんでした。母をいつもの部屋から送り出したかったのです。型破りの葬儀だったと思います。牧師にはなんども我が家に出向いていただきました。
あの日から、早くも20日が過ぎようとしてます。私の日常はすでに始まっています。3か月一人でいたせいでしょうか、母がまだ病院にいるような気がするのです。母の部屋に入って、花かごに囲まれた遺骨と遺影を毎日見ながらもまだ病院にいるように思えるのです。
心の風から comments(12) -
心の風から 母の召天 生きているということ

母のいない生活が始まって実感しているもう一つのことは、存在する、いる、肉体を持って地上で生きていることの、重さ、貴さ、その迫力です。

3か月近く、私が家に一人でいる時も、母は病院にいたのです。病院の2階の6人部屋のあの位置のベッドに臥していたのです。離れていても母を思えばすぐにその姿が浮かびました。浮かぶどころか頭にこびりついていました。そこには、目を開けている時もあれば、声をかけると目を開け、呼びかけるとうなずく母がいました。毛布の下には暖かい手と足がありました。骨ばってしまった肩や胸を摩ると、視線を合わせてうなずいてくれました。
ところが今は、もう、そこにもいないのです。どこにもいないのです。

母はいないんだ、病院にもいないんだとおもった時、一瞬、自分の体がふわっと宙に浮くような、手ごたえのない、妙な衝撃を受けました。母のベッド姿が掻き消えて、無人のベッドが見えるばかりでした。

初めて、霊肉を備えた一人の人間として、この世に存在することがどれほど大きなことかよくわかりました。神様がわざわざ御自ら手を使って肉体を造ってくださったことは、簡単に読み飛ばすことのできない深い大きな意味を含んでいるのだと思います。神様はちりから造った人間にご自身の息を吹き込まれたのでした。霊と肉を合わせてはじめて、生きた人間なのです。そして、人の存在はどんな形であっても、すさまじいばかりのエネルギーと迫力を有しているのだと思います。

入院中の母を見ていて、よく思ったものでした。ちょっと見るだけでは、衰弱もひどくなり、やせ細ってしまい、明日にでも消えてしまうのでないかと。しかし、しばらくそばにいてじっと見ていると、生命力というのでしょうか、たくましい命を感じるのです。もう一度元気になるかもしれないと思いました。私の思いはその二つの間を絶えず揺れ動いていました。そのたびに生と死は完全に神様の領域のことなのだと実感しました。

肉は有限です。一時的です。でも神様はその弱さをまとった人間をこよなく愛してくださったのです。存在そのものを貴く思ってくださったのです。
それがよくわかりました。神様にとっては、たとえ意識がなくても、寝たままでも、何もできなくても、いるだけで十分なのです。その人の価値は変わらないのです。ここに『私の眼にはあなたは高価で尊い』との真理の実態があるのでしょう。

母の魂は天に帰って、永遠に神様のみもとに存在すると信じ切っていますが、何といっても次元の違う遠い世界です。この地球上にあるのは、息もしない、物も言わぬ、わずかな遺骨だけです。からだを持った生きた人間としての母の存在はもうどこにもありません。その寂寥感、喪失感はたとえようもありません。
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心の風から 母の召天 そのあとさき 深い静寂の中で
昨年末25日クリスマスの朝に、静かに天に帰った母の葬りが一段落しました。
今日から世の中も動き出しました。私も新しい日常に入っていきたいと思います。新しい日常とは、09年を歩みだしたこと、母なきあとの新しい生活が始まったことです。

今、一番実感していることが2つあります。
ひとつは静寂の深さです。

母は10月の初めから衰弱が激しくなって入院していました。病院は徒歩で10分足らずでしたので、日に一回、二回と訪ねていました。しかし、家に戻れば私一人です。その一人暮らしにもだいぶ慣れました。なんといっても静かでした。時の流れも緩やかなものでした。

母の在宅時は、朝に昼に夕にヘルパーさんや訪問看護師、時にホームドクター、そして夜には妹たちがかわるがわる訪れました。いつも時間を気にし、玄関のチャイムに耳をそばだてていました。

それと比べると病床の母を思いやりながらも、身体的には正直なところ楽でした。母は病院で、プロの命の管理人たちに囲まれていると思うと心配も小さくなりました。私は与えられた心身のフリータイムを不自由なく使いました。いつもの活動をストップさせることはありませんでした。そんな一人暮らしがいつまで続くのかと、綱渡りをしているような思いもありましたが、イエス様にゆだねることができ、平安をいただきました。ただし、再び在宅介護が始まれば、それは以前にもまして厳しいものになり、私は24時間母の命の見張り人になるのだと、緊迫した思いは捨ててはいませんでした。

今、母をはるか遠く天に送ってしまって、切実に感じるのは静かさの深さなのです。家の中で息する者が私一人であることは、母が病院にいる時と同じはずなのに、私を取り巻く静寂は何倍も濃く深いのです。寂しいとか悲しいなどの感情は、時に強く時に収まり、寄せては返す波のように絶え間なく動きますが、静寂はじっととどまり続けます。静寂は私を包んで下に深まり、頭上に広がり、右も左にも広がり続けています。

この家にこんなに深い静寂を運んでくるものは何でしょうか。私はその正体を追いかけています。小さな空間に収められた母の遺骨のせいでしょうか。そのそばで、ひたすら明るくほほ笑む遺影のせいでしょうか。母の部屋に満ち満ちる白百合の香りのせいでしょうか。

静寂は私に害を加えはしません。静寂の底にじっと座していても心騒ぐことはありません。
体に異常もありません。むしろ、私を起こそう、立たそうとするいのちの働きを感じます。静寂の中にイエス様がおられることを感知するのです。
心の風から comments(13) -
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