人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その12
今日から教会暦ではアドベントに入ります。12月25日まで、クリスマスまっしぐら、クリスマス一色です。クリスチャンにとっては一年でいちばん心弾む時期です。しかし、弾んだり躍ったりの原点である、イエス・キリストのご降誕を厳粛に静かに深く思いめぐらし、感謝したいと願います。


第九段 テース
119:65主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。

就寝前のひと時、主のみまえに正座し頭を垂れ、祈りの手を組み、一日のあのことこのことを思う。心乱すこともあり、主に不真実な言動もあったけれど、主は忍耐をもって恵みを注ぎ、過分な待遇をしてくださったことがよくわかる。
良くしてくださったとは、自分の足りなさが分かる時の実感ではないだろうか。

119:66 よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。

主が良くしてくださったことは、今日一日だけのことではない。むしろ過去のあの苦難の日々にどんなに良くしてくださったことだろう。身から出た錆び、自業自得、蒔いた種の刈り取りであったとしても、主は放ってはおかなかった。ご自身を犠牲にしてまでも滅びの穴に飛び込んで助け出してくださった。主にある分別と知識をもっともっと教えてくださいと乞わずにはいられない。信ぜずにはいられないからだ。

119:67 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

人は逆境にあって初めて、自分の真相を知る。順境の日に、どんなに傲慢であったか、主をどんなに軽んじていたか、はっきりと悟らされ、悔い改めに導かれていく。そこで、主の真実と初めて出会うことができる。主の永遠の愛がわかる。主の十字架が分かる。だから人生の苦難はすべての人の必需品なのだ。
そう言い切って諾々と主を仰ぎ従う信仰がほしいものだ。詩人はそれを得たのだ。

119:68 あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。
どうか、あなたのおきてを私に教えてください。
主を思うとき、前から見ても、後ろから眺めても、右から左から視線をはせても、わかることは主のいつくしみ深きこと、それを無代価であたえてくださることだ。その恵みの奥義をもっともっと教えてくださいと願い求める詩人の魂の渇きがよくわかる。

119:69 高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、
私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。

高ぶるものとは、神様を認めず御前に身を低くしない者であろう。サタンといっていいかもれない。そうした悪に取り囲まれることがある。陥れられることもある。悔しい思いをすることもある。心騒ぎ、心乱れ、傷を負って苦しむこともあるが、詩人は、うろたえ騒ぐことなく、いっそう心を尽くして主に従うと告白している。そうありたいものだ。

119:70 彼らの心は脂肪のように鈍感です。
しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。
詩人は悪の正体を喝破している。高ぶるものは心がメタボ現象を起こしている。よけいな脂肪がつきすぎて真実をすばやく感じることができないのだ。脂肪のように鈍感ですとは、実に事実を言い当てた巧みな表現ではないか。スリムにならねばいけない。
心の貧しい人は幸いですとのイエス様の教えが聞こえてくる。

119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。

この一節こそ、119篇中の最高峰ではないか。真実こめてこの一節を告白できるものでありたい。しかし、苦しみの渦中では決して出てこない。涙が涸れ、うめきが消えて久しくならなければ、こうは言えない。苦難が大きければ大きいほど、乗り越えた後の幸せは大きいと信ずる。おきてを学んだとは、イエス・キリストの愛を知ったともいえよう。
水野源三さんの詩を思い出す。
 『もしも 私が 苦しまなかったら 神様の愛は 知らなかった』
 美しいメロディーがついて新聖歌に収められている。(292番)

119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

第九段の締めくくりにまことにふさわしい一節ではないか。登山家がついに頂上を極めて感嘆の叫びをあげているようだ。
私にとって幾千の金銀に勝るものとはよくぞ言ったものだ。決してオーバーではない。
主が金銀財宝に変えられようか。たとえ全世界を儲けても、である。
私も及ばずながら詩人と声を合わせて、愛する主にそう申し上げたい。
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日々の風から 珍しいツリー
青山のツリー
青山つりー


町がときめいているように思います。華やいでいるようです。クリスマスデコレーションがお目見えしたせいです。クリスマスが商魂にせっせとたくましく使われるのを嫌う方もいます。大いに一理ありですが、私は好きなのです。クリスチャンの看板を下ろしなさいと言われそうですけど、銀座和光のクリスマスツリーを見ないでは、私のクリスマスは始まらないのです。
あの大きなツリーのそばで、なんども携帯をかざしたのですが、点滅する光りは写らず、うまくいきませんでした。残念!
用事のついでに、高級住宅とブランド店が混在する、私には場違いの通りに入り込んで、きょろきょろと覗きまわりました。気おくれしてお店には入れませんでしたが、通りのデコレーションがたいへん珍しいので写しました。どうやら撮れたようです。ごらんください。

それにしても我が教会のツリーは見劣りがします。商魂ではないからしかたがないでしょう。教会員総出で、汗を流して、賑やかに、和やかに、飾り付けしたのですから、イエス様はよしとして微笑んでくださったでしょう。町の人たちの評価が多少気にかかりますが。

日々の風から comments(4) -
日々の風から 今日はブログ記念日 丸3年の継続

昨年の今日、こんな記事をアップしたのでした。
『思い出しました、今日がブログ記念日であることを。これで丸2年続けたことになります。三日坊主の性癖はないとしても、継続力だけが数少ない特技の一つだと密かに自負しつつも、よくも続けられたものよと、感慨深く思いました。とはいえ、最初のペースは持続できていません。明らかなペースダウンです』

あれから一年が経ち、ブログ3年生を終えたことになります。明日からはブログ4年生のスタートです。4年生と言えば小学生では高学年に入るのです。ところが高学年の自覚は全くありません。今日も、一年前と同じ心境です。ペースついては、今年のほうが甚だしくダウンしています。

ペースダウンについて、昨年は怠慢ではなく体力の低下だと理由づけしましたが今年もまったく同じです。決して身辺多忙を挙げるわけにはいきません。
私が隠れ蓑にする多忙とは、母の介護です。しかし、母は今年2月の半ばから50日入院しました。退院して半年、―――この間は猛烈に多忙でしたがーー、また、10月初めに入院、50日を過ぎて今も病院です。母のいない間は全くの一人暮らし。工夫次第でフリータイムはかなりあるはずです。

しかし、振り返ってみると、まともに書きものや読書につかっているとは言い難いのです。ハッキリいって時間の使い方が下手になりました。なにをしているのだろう…と、ときどき自己嫌悪に陥ることがあります。

同じ年代の友人たちも口をそろえて、なにをするにもスピードがなくなったと言われます。
それが、年をとるということよと納得しあったり慰めあったりするのですが、さて、さて、私はまだ老いを受け入れかねているのです。抵抗しているのです。足掻いているのです。

ブログアップペースの話題からずいぶんわき道に逸れてしまいましたが、一年、一年がとても貴重です。そして、ブログはその貴重な日々の記念品です。

ブログ四年生はどんな成長曲線?になるでしょうか。ますますの右下がりでしょうか。それも人生の記念塚としましょう。気持ちだけは新しく、ブログ街道を進むとしましょう。イエス・キリストという頼りがいのある杖を握りしめて。≪希望の風≫はどんな所にも吹いているはずです。それを見つけるのを楽しみにして、主が与えてくださっている日々を喜んで生きていきたいと思います。

『これは主が造られた日である この日を喜び楽しもう』詩篇118篇24節


日々の風から comments(12) -
日々の風から 教会はクリスマスに備えて大掃除
リース


クリスマスはキリスト教界にとって最大のイベント、お祭りといえるでしょう。もちろん、この世のお祭りとは似ても似つかぬもの、飲めや歌えの騒ぎをするわけではありませんが、クリスマスの厳粛な意味を味わいつつも、心楽しく、待ち遠しいものです。

昨日はクリスチャン・ペンクラブのクリスマス会が行われました。12月はそれぞれの教会のクリスマス行事に追われるので、出席しやすい11月のうちにするのです。クリスマスはいつだってうれしいのです。主イエス・キリストの降誕物語は季節を限定しません。真夏に『きよし このよる』を歌っても胸が熱くなりますから。

そんなわけで、はやばやとクリスマスページェントを上演しました。全員参加です。スペシャルゲストはふた組のミュージシャン。一組はご夫妻の演奏者でトロンボーンとピアノ、もう一組はソプラノとピアノの女性演奏者でした。そこに牧師のメッセージ、詩の朗読、聖書朗読、全員の賛美が入り、おおいに盛り上がり、たいへん感動し、満ち足りた思いに浸りました。

開けて今日、我が教会は礼拝後に、来週に迫ったアドベント(待降節)を前に、恒例の大掃除をしました。雑巾と手袋を持参しました。今年はいつもより大勢の教会員が参加し、指揮者がいるわけではないのに思い思いに勝手知ったる我が教会を、拭き、掃き、片付け、磨きました。85歳の姉も80歳の姉も雑巾を手に楽しそうに生き生きと働いておられました。

一群は屋外にクリスマスツリーのセッティングをしました。倉庫からいくつもの段ボールが運ばれてきて、毎年お馴染みですがのオーナメントが飾られました。外壁に沿ってイルミネーションも付けられました。これから一か月、通りすがりの人々が関心を寄せてくださるでしょう。楽しんでくださったら感謝です。さらに、クリスマスの行事に参加してくださったら、これこそ教会の本望です。

来週の日曜日はアドベント第1週です。講壇の前にしつらえたクランツに赤いキャンドルが1本灯されることになるでしょう。

我が家も玄関のドアーにリースを飾って待降節を迎えましょう。

ルカの福音書2章15節
『さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見てこよう』

今年はこのみことばに強く惹かれています。

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日々の風から 聖書朗読の学び
箱根

4月からO聖書学院研究科ではたいへん珍しい学びをしています。タイトルは『話し方・朗読の基礎と実習――基礎発声からボイストレーニングまでーー』。講師はプロのアナウンサーで、Fテレビ局の新人アナウンサーを指導しておられるS先生です。10回シリーズの6回まで終わり、今日から来年2月までの4回は聖書朗読の実践です。

今までは発声・呼吸の理論から日本語の特徴などを講義いただき、その間にアイウエオから始まって日本語一つ一つの発音を学びました。準備体操も毎回します。一人一人順番に発音させられたり、読まされたりします。小学生になったようです。いつも当たり前に使っている言葉でも、安心して聞いていただくためには、口の開け方一つから訓練が必要なのだと強く実感しました。

教会生活、クリスチャン生活を長くしていると、礼拝や集会の司会、聖書朗読、あるいは証しをしたり、時に奨励やメッセージを受け持つこともあり、また、大方の信徒は教会学校の教師としてこどもたちにお話をしています。

話し上手になるのは容易ではありませんが、せめて、聞きやすい話し方をしたいと、常々願っていますので、今度の講座ははじめから大きな期待を抱いて参加しました。

今日からいよいよ聖書朗読の実践が始まりました。先月、それぞれに朗読の箇所が割り当てられました。よくよく練習してくるようにとの宿題でした。

さて、座席の前の方から朗読が始まりました。注意するところあると先生がそこを指摘され、正しい読み方で再度読んでいきます。それが、それはそれは大変なのです。先生には注意すべきところが山のようにあるのです。私たちは気がつきません。言われてみて、なるほどとうなずくことばかりです。なんと有益でまた面白かったことでしょう。

ひとつだけ挙げてみますと、イエス・キリストを指す≪イエス≫という言葉ですが、最初の≪イ≫にアクセントがあるのです。それをほとんどの方が≪イエス≫、真ん中の≪エ≫を強く発音しました。それを正されました。マリヤもマにアクセントです、これを間違える方はいませんが、イエスは、エを強く発音してしまうのです。
そして、慣れてしまっていることを変えるのは至難の業なのです。頭では分かるのですが、いざ直そうとしても、同じ間違いをします。時に大爆笑になりますが、四苦八苦です。

私の箇所はルカの福音書2章8節から14節、羊飼いの礼拝の場面でした。息継ぎの場所を注意されました。また、平和をへいわとはっきり読みましたら、へーわにするようにとのことでした。栄光はえいこう、ではなくて、えーこーだと、これは以前に教わりました。
同じ個所をまた来月実践します。なおりますかどうか、頑張らねばなりません。

神様が下さった聖書、神の言葉である聖書を、大切に思いながら、魂にとどく朗読ができるようになりたいと強く願います。また、文章表現はもちろんですが、語るときも、言葉を大切しながら発音や口調、語調にも気をつけていきたいと願っています。

22日にはペンクラブの例会でクリスマスページェントを上演します。その総合司会をすることになっています。学んだことを生かせるでしょうか。
日々の風から comments(5) -
日々の風から パソコンの嵐が去って

先週のパソコン騒動が感謝なことにまことにスピーディーに解決し、ほっとしたとたんに、あの沈黙の数日間に、反省したこと、考えたこと、決意したことが早くも朝霧のように消えていくのをどうすることもできません。

あの時私は、死んだようなパソコンの蓋を開けたり閉めたり撫でたりしながら、これからはパソコン漬けにならないぞと固く固く決心したのでした。さらに一日24時間を表にしてバランスの良い使い方を書き込んでみました。また、抱えている仕事を一つ一つ思い浮かべ、その量を減らすことなども考えました。なによりも、これから先、何を優先すべきか、その順位を思案しました。

一応、心が落ち着き整理もでき、真新しいキーに触れることができ、感謝と喜びを味わっています。自分ながらその単純さにあきれていますが。今は元の木阿弥にならないように、自制するばかりです。さて、どうなりますか。

 もう一つのブログ『聖書の緑風』にクリスマスの女性たちをアップしています。かつて冊子にまとめたものを順次連載しています。ぜひお訪ねください。
日々の風から comments(2) -
日々の風から パソコン異変

水曜日の朝、いつものようにメールチェックが終わって、さあ、朝食にしましょうと立ち上がろうとしたとたん、どうしたわけかフリーズしてしまいました。いやな予感を感じながらしばらく画面とにらめっこ。でも、どうにもなりません。強制終了してしばらく放っておくことにしました。家事をしながらも心がざわざわとします。

再び電源を入れた時はもう、いつもの画面ではありませんでした。見たことのないシーンが現れ、黒い画面に白い英文の大文字、小文字が見えたり消えたりするばかりです。変わり果てた我がパソコンに大きなショックを受けました。ぞーっとしました。万事休す。ギブアップ、お手上げです。送らねばならない文書、書かねばならない文書など、早急に取り掛からねばならないいくつかが胸元に迫ってきました。私の狼狽ぶりは、まあ、ご想像にお任せしますが、一刻も早く解決の手を打たねばなりません。

幸い、助け人が、我が家にきてくださいました。
落ち着きましたらこの間の様子を書きたいと思いますが、とにかく、今日、土曜日の夕方、真新しいパソコンがやってきて、使い始めることができました。

数日ブログもミクシイもアップできず、ご心配くださった方もおられると存じます。そんな事情でした。もしかして、母の異変かと案じてくださったかもおられるでしょう。

次いでながら、母は入院して、間もなくひと月半になります。一段と衰弱していますが、発熱もなく落ち着いています。たぶん、点滴が外れたら退院させられるでしょう。それも近いと思っています。できることなら、病院でお世話いただけたら安心なのですが、今の医療制度はそれを許してはくれません。
日々の風から comments(8) -
聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その11
第8段 ヘース
119:57  主は私の受ける分です。 私は、あなたのことばを守ると申しました。

受ける分とは、聞き慣れない表現であるが、宝、財産、地所などと置き換えると理解できる。詩篇16篇5節にもある。文語訳で『主は我が嗣業、我が杯に受くべき分』とある。
主こそ私の宝、私の財産、私の地所、受け継いだもの、私のいのち、つまり私にとって最も大切で価値あるもの、私のすべてだと、詩人は断言する。《あなたのことばを守る》とは、あなたがわたしのすべてです、わたしはあなたを愛しますとの告白とも聞こえる。
詩人のように脇目もふらずに一筋に主を愛し、慕う者でありたい。

119:58 私は心を尽くして、あなたに請い求めます。
 どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください。

あなたは私のすべてですから、あなた以外に私が心を寄せることはないのですから、あなたの愛で私をあわれんでくださいとは、これも切々たる求愛ではないだろうか。
119:59 私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。

日々の歩みを振り返ると、心の隙に不信仰や誘惑の風が吹きこむのを感じる。気づいたらすぐ主を思い出し、主のほうに歩みを切りかえる。その転換が決め手ではないだろうか。

119:60 私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。

主の道から外れそうなことがわかったら、即刻、ぐずぐずしないで、まっしぐらに主の方へ駆けより、みことばの中へ飛び込んでいくのである。そこには敗北はない。

119:61 悪者の綱が私に巻き付きましたが、私は、あなたのみおしえを忘れませんでした。

罪は絡みついてくる。振り払っても振り払っても巻き付いてくる。魔の手から逃れる唯一の方法は、みことばを思い出すこと、主に向くことではなだろうか。祈ることではないだろうか。そこに勝利がある。

119:62 真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します。

真夜中に起きて、とは、なんと麗しい行為だろう。
苦悩による睡眠障害で目が覚め、うめきつつ祈ることもあるが、そうした切迫した理由でなく、夜の静寂の中で、主を思い巡らし、御業の一つ一つに感謝するとは、何と豊かな時だろう。これこそ至福の時にちがいない。

119:63 私は、あなたを恐れるすべての者と、あなたの戒めを守る者とのともがらです。

信仰には仲間がある。信仰の友がある。一人で神様にしがみついているのではない。神様と二人きりの親しい交わりは例えようもないが、信仰者は自分一人ではないのだ。詩人の心は大きく広がっていく。信仰者の集まりが教会である。ともに主を崇めることこそ最も豊かであり、また、主の喜ばれることなのだ。
『天にますます、我らの父よ』を思い出す。神様は私の父だけではなく、我らの父なのである。

119:64 主よ。地はあなたの恵みに満ちています。あなたのおきてを私に教えてください。

信仰の友を思い出すと、さらに心は広がって、神の創造された天地宇宙万物を思い、そこにまで主の恵みが満ちていることを知る。神の恵みは大きくて計り知れない。知らないことがまだまだたくさんあるにちがいない。もっともっと主を深く知るのだ、求めていくのだ、と詩人の魂は主を慕い求めていく。渇仰という言葉を思い出す。また『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は飽き足りるからです』を思い出す。

詩人の思いに、祈りに、引き込まれていきます。我が祈りとしての詩篇119篇です。
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世相の風から 書かずにはいられない
五島

アメリカ大統領選挙のことである。あのアメリカに,黒人初の大統領が誕生したのである。まさにアメリカの歴史に全く新しい一頁を加える一大出来事ではないか。

予想通りだったのだろうが、もしかして、そうはならないのではとの思いもかすかにあった。お隣りとはいえ、遠く太平洋を隔てたかなたのこと、世情に疎い私には実情を喝破できる目はなかった。アメリカが、はたしてそこまで変われるのかと訝っていた。女性のクリントン氏が否定された時、ああ、この国はまだまだだなあと落胆した。そして、性差よりも人種差のほうがもっと根深いのではないかと推測してしまった。

ところがである。アメリカはあの悲惨な過去を見事に変えてしまった。オバマ氏の変革が始まる前に、変革に望みを託したアメリカが変わったのだ。そのすさまじい変革力よ。アメリカを見直してしまった。詳しいことは知らないし、このことが世界にとって、日本にとって、どのような影響があるのかも知らないが、かつて迫害した人たちの子孫を、国の最高責任者とした、その変りように驚くばかりだ。比較できることではないが、かのローマ帝国が、迫害の限りを尽くしたキリスト教を受け入れ、国教にまで定めたことを思い出した。

かつて砲弾に倒れたあのルーサー・マーチン・キング牧師が「私には夢がある」と胸に迫るスピーチ残したが、オバマ氏の誕生はキング牧師の夢をはるかに越えてしまった。アメリカの進歩なのか、時代の勢いなのか。

宗教的には現大統領のブッシュ氏はネオコンと言われるがオバマ氏はリベラルだそうだ。この違いは政治の上でどう表われてくるのだろう。

ともあれ、確かに今日はアメリカだけでなく、世界大の歴史的な日ではないか。

世界に巨大な力を持つアメリカが、神様に導かれて、自国の利益のためだけでなく、世界のために役に立つ国になれますように。オバマ氏はそのための使者でありますように切に祈ります。
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日々の風から 柿食えば…
超多忙の尊敬するY氏から柿の一包みをいただいた。ご自分の庭の柿である。葉がついている。店頭に色よく形よく並んでいるのとは大違い。大きさもふぞろい、色の濃淡も激しい。それでいて生き生きとしている。この柿たちを撫でたであろう風や日の光や、木の上の空や雲まで見えるようだ。なによりも、ない時間を捻出してもぎ、包装し、宅配に出したY氏の心がうれしい。もったいない。友情が伝わってくる、愛がにじみ出ている。

おりしもネットの友が柿エッセーを載せていた。
『この私が大好きな柿を、熟すのを待って先ずヒヨドリが狙い、目白がつつきます。慌てて採ると、渋さに弱りはてますから大方は観賞用と心得ています』(無断拝借)
鳥たちのおやつに、大好きな柿を譲る友のひろやかな心に感動する。

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

枯れ枝に 烏のとまりけり 秋の暮れ

有名な句はついと口に出るが、さてさて、いつになったら私の一句が生まれるやら。

読みかけの『漱石俳句集』(岩波文庫)に柿の句があるかしらと、首をつっこんで探してみた。
意外にない。漱石の俳句は明治22年から大正5年までに約2600あるという。
この文庫本にはそのうちの846句が収められている。

柿の句を拾ってみた。

明治29年
    この里や  柿渋からず 夫子(有徳者)住む

明治30年
    樽柿の  渋き昔を  忘るるな

渋柿や  あかの他人で  あるからは

明治31年
    能もなき  渋柿どもや  門の内

明治33年
    渋柿や  長者と見えて 岡の家

明治43年
   渋柿も  熟れて王維の 詩集哉

漱石の柿は渋柿ばかり。渋柿がふつうなのだろうか。そのあたりの知識は皆無である。

渋柿と言えば、こちらは地方の知人だが、まもなく干し柿を作るから、年末頃には送りますと、うれしい一文があった。干し柿は大好物。それもお手製とは、もったいない。

いただき物の話しばかりですみません。愛を受けたら愛を返さねば。
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