人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- - -
日々の風から 数日来の雑事と雑感
ロゴス氏カサブランカ



地方に在住している妹が母の見舞いに上京、数日逗留していった。在宅の時と違って入院中なのでさほどすることはない。昼に夜にと食事介助に通ってもらった。主治医の話を聞く機会が設けられた。母の状態は、入院以来よくなってはいない。熱も上がったり下がったりである。点滴はしばらく離せないだろう。だから家には帰れないでしょうと。

病院が、よくなるまで無期限で入院させ、治療してくれるなら安心だが、今の制度では最長3か月だそうだ。その後は転院しなければならない。それが一大問題だそうだ。家で医療行為はできないとすると、病院と名の付くところに居なければならない。都合よく受け入れ先があればよいが、困難を極めるそうだ。

しかし、今の私には先の先まではとうてい考えられない。その時はその時のこと。一日、一日を真剣勝負で送っていきたい。こんな時こそクリスチャンの得意技 《明日のことは思い煩うな》を発揮しなければ、である。

午前中は、かねてからの予約で、お茶ノ水にある眼科に行って来た。目のかすみがずっと続いていて、どうにもならない。年齢から白内障は当然であろう。しかし検査すると、まだ手術するほどではない。眼鏡をかけての矯正視力も正常だから、このまま何もしないで様子を見ましょうと、前回と同じ診断であった。そういわれても不快さは変らない。老いのひとことで受け入れることはできないのだ。なんとかならないものだろうか。

ついでに書店に廻って来年のクリスチャンダイアリーを買った。すでに2009年の方に書き込むべきことが出てきている。
郵便局へ行ったら、明日から年賀状の発売です、よろしくと、ちらしとティッシュを渡された。そういえば、書店の入り口には真新しいクリスマスツリーがお目見えし、クリスマスカードやグッズの特設コーナーができていた。駅ビルのフラワーショップには真っ赤なポインセチアが並んでいた。巷はすでにクリスマスシーズンなのだ。

毎年、クリスマスの時期には、エッセーか童話を書いてきた。はたして今年はできるだろうか。取り組む気持が生まれるだろうか。しかし考えてみれば、作品は順境の中だけで生まれるのではない。厳しい欠乏の中でも思いさえあれば書けるはずだ。ここしばらく、環境や現状のせいにして、ずいぶんと怠慢風に翻弄されてきたように思う。勤勉を孕む希望の風に乗らなくては。
日々の風から comments(10) -
日々の風から さあ、日常の現場へ
上野公園

今週は10月の最後の週。早いものである。神様がくださった最高の季節(どの季節も最高であるが)秋も、日に日に深まっていく。周辺の木々はまだ色づいていないが、これも日に日に姿変わりしていくだろう。

10月の教会は多忙を極めた。大きな特別集会を終えて、主の恵みを数えて感謝しながら、クリスマスへ向かおうとしている。昨日も今日もそして明日へ、永遠の昔から変わりなくスキッとしなやかに歩まれるイエス様のあとについていこう。どんなに忙しくても、イエス様を追い越していくことはないのだ。こんな当たり前のことに気がついて、ほっとする。

数日会わなかった母は、落ちついてはいるが、またほんの少しいのちの光が翳ったように思える。主治医の話ではCTに、今までにない症状が出てきているとのこと。
意識の方は、発語はあまり無いが、声を掛けるとうなずく。聞こえているし理解しているのだ。病室にはほかの人もいるから、大きな声が出せない。いっそ、家に連れて帰りたいと思う。

病院は治療が主体である。もちろん介護もしてくださるが。在宅になれば治療が十分にできない。介護は行き届くだろうが。治療(Cure)と介護(Care)について考えてしまう。正真の病人でなくても、超高齢者にはこの二つが同時に必要でないか。

今週はどんな戦いが待っているのだろう。
恒例だった月初めのショートステイ申し込みは、もうしないでおこう、そんな思いになっている。

ピリピ人への手紙4章6、7節
『何も思い煩わないで、あらゆる場合にささげる感謝と祈りによって、あなたがたの願いを神に聞いていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって、守ってくれます』
季節の風から comments(4) -
光(キッズ)の風から 孫たちからの光を浴びて
 名古屋で団体の会議に出席、その足でY市の長女宅を訪問しました。母が入院中のこの一大事の時にと、心身裂かれるような思いもありますが、どうしても素通りするわけには行きませんでした。毎日の病院通いを妹たちに頼みました。それで万全というわけではありません。もちろん私がそばにいても万全などは絶対にありません。医療の専門家達に取り囲まれていてもです。

私は最近こんな祈りをしています。

神様、私は母を医師に託したのではありません。あなたに、あなたの御手に託します。母を愛してくださっているあなたが、母にとって最高のことを、それは私にとっても最高です、なしてくださることを信じます。何よりも神様の栄光があらわされ、尊い御名が崇めらるように祈ります。

主は私の重い心を担ってくださり、孫たちに会いに行かせてくださいました。

「改札を出たら、そこで待ってて。荷物を持って階段を下りなくてもいいよ。僕が行くから」
携帯に5年生のSくんから歯切れの良い声が響いてきてほどなく、Sくんがダッシュしてきました。スーツケースを抱えると飛ぶように階段を駆け下り、こっち、こっちと合図、ロータリーに待機していたママとMちゃんに迎えられて車中の人になりました。

彼らの生活スケジュールの真っ直中へ入るのですから、特別待遇はありません。すぐにMちゃんは教会の英語クラスに、Sくんは自転車を飛ばしてスイミングスクールです。ママが夕食の支度をしている間はさっそく勉強の指導をさせられました。夕食後はMちゃんに今、夢中になっている児童書を1冊渡されました。パディントンシリーズです。引き込まれた私は真夜中まで読みふけっています。

彼らはまさに光の子です。光で出来ているのではないかと思うほど、まぶしく輝いています。神様が今の私に処方された最高の特効薬です。

さあ、明日は早々に帰京し、母の病院に行きましょう。戦いの最前線へ雄々しく出かけていきましょう。光(キッズ)の風の中に希望の風をみつけましたから。
光(キッズ)の風から comments(6) -
銀(シルバーエイジ)の風から 母の容体

母が入院して半月経ちました。母のために多くの方々が心配し、何よりも貴いお祈りをしてくださっていること心感謝します。この間の様子を記してみます。

母は夏以来次第に食欲が無くなり、熱も上がったり下がったりしていました。ホームドクターの配慮で、半年前に大腿骨骨折で入院手術した病院に入ることができました。点滴や特別食で炎症を押さえ、体力をつけようと、病院では適切な治療をしていただいています。

私は食事時には付き添って介助をしていますが、ますます食が細くなってきています。そのぶん点滴が増えています。熱は収まってきているようです。担当医から、状況を聞かせていただきました。

よくはなっていないのです。年齢と母の限界もあるのでしょう。しかし、病院は療養型の老人病院ではありません。緊急病院と指定され、救急車が絶え間のないほど入ってきます。母のように体力をつけるために入院している人はいません。周りの人たちは怪我をしたり、内臓の手術をした人たちばかりです。ということは、早晩退院を迫られることになるのです。よほど容体が悪くなれば別ですが、今の状態では置いてもらえそうにありません。

まだ、告げられてはいませんが、そんな気配を感じます。もともと在宅介護では無理だと判断されて入院になったのですが、いっときの症状が収まれば帰宅しなければなりません。退院できることは、ふつうで言えばめでたいことでしょうが、このまま帰されたらと思うと不安がいっぱいです。ショーステイはとても無理でしょう、せっかく大騒ぎをして予約したのもキャンセルしました。

信頼できる病院で、手厚い治療や介護を受けることなど、いまの日本の制度では夢物語です。介護制度と医療制度があって、その区分が微妙です。同じ事をしていても、在宅なら介護保険、病院なら医療保険で、その手続きも厄介なものです。その間に立って、ケアマネさんがよく動いてくれます。

今、私は病院に日参するだけで、在宅介護のときのように心身を酷使することからは免れています。しかし、何とも言えない気分なのです。日に日に弱くなっていく母を目の当たりにするのはとても辛いのです。辛いと言う表現もぴったりではありません。まして悲しいとか苦しいとか、そういう感情でもないのです。とにかく、重いのです。これは一体なんでしょう。

母はクリスチャンですから、行き先も決まっています。ちっとも心配は要らないのです。それなにの、気が滅入り、悄然とするばかりです。眠りも浅く、力が出ません。
母はほとんど食べられずうつらうつらとしていますが、声を掛ければ聞こえるのか目が開きますし、うなずくくらいの反応は示します。家にいるときと同じように淡々とした表情です。それは安心なのです。しかし、です。私が鬱々としているのです。困ったことです。
自分のたましいの奥底には、静かにひそやかにキリストの慰めが満ちているのを覗き見ることができます。ですから、パニックになったり混乱したりすることはないのですが、自分で自分がどうにもなりません。これを愚痴というのでしょうか。


銀(シルバーエイジ)の風から comments(6) -
風の仲間たち こんなお見舞いがあるのか
大平のぶどう園

先だっての五島列島の旅には、死んでも行きたいと、命をかけて準備したが、ついに体調悪化で断念したT子姉に、ようやく会いに行った。私たちの関係であるが、長年の知己とは言えない。懇意にしているH牧師の教会員である。先年H牧師の出版のことからたびたびH牧師ご夫妻を訪問したことがあった。その折り、何度かT子姉が同席していた。H牧師の片腕、教会の宝と言える方である。T子姉の人生史が私と似ているところもあって、互いの理解や親しみが深まった。文章を書くことが好きで、よくあかし文章を送ってこられた。

これからいっしょに文章活動をしましょうと言いあった矢先、昨年末であったが、入院してしまった。難しい箇所に難しい病巣があって手術不可能となり、余命一年と宣告され、自宅療養となった。通院の傍らH牧師夫妻の手厚い看護が功を奏して、一進一退ではあるがかろうじて主婦としての日常もこなしながら今日に至っている。

一度お見舞いに行かねばと思いつつ、夏が過ぎてしまった。五島の旅は昔から夢にまで見ていたので、ぜひぜひ行きたいと張り切っていた。ところが最近いままでにない痛みに襲われるようになった。モルヒネも使うようになった。強気のT子姉も、旅先で急変したときの迷惑を考えると無理はできないと、泣く泣くキャンセルしたのである。H牧師から逐一様子をお聞きし、電話や手紙で励ましてきた。とても残念で、何よりもお気の毒でならなかった。

旅から帰ったらぜひ訪問しようと決めていた。H牧師を通して日取りを決め、時間を決めた。そうしながらも、私は悩み始め、すっかり考え込んでしまった。彼女と向き合ったとき、何を言ったらいいのだろう。どのようにしばしの時を過ごしたらいいのだろう。



彼女は自分の病状を詳しく知っている。信仰の強い方だから、イエス様のもとに行けるのをむしろ楽しみにしている。その気持はよく理解できる。しかし、である。どのように声を掛けたらいいのだろう。どのような祈りをしたらいいのだろう。

楽しそうに得々と旅の話などできない。と言って、無理に感情を抑えて淡々としたら、自分を気遣っていると感ずかれるだろう。体調についてもどのくらい訊いたらいいのだろう。訊かないのもおかしいが、訊かれすぎても迷惑だろう。私が彼女の立場であったら、どう感じるだろう。どうしてもらうのがいちばんうれしいだろう。何がいちばん嫌だろう。
なにひとつよい案は浮かばなかった。こんな時は祈りしかない。彼女を傷つけず満足していただけるいちばんふさわしい態度が取れますように、一つ一つ導いてくださいと祈って、まったくの白紙で出掛けた。

まず、どこでT子姉と会うのだろう、それすらわからなかった。ご自宅だろうか、それとも教会だろうか、よく訪ねたH牧師宅だろうか。駅まで迎えてくださったH牧師は、T子姉宅の前で車を止めた。と、手にバッグを提げて外出の支度をしたT子姉が立っているではないか。ぜひ、ぶどうを差し上げたいからとのことで、車は一路山裾に広がるぶどう園に向かった。

姉が懇意にしている農園に入った。白い袋をかぶった巨峰の棚の下で、もぎたてを食しているうちに、袋を外した見事な房がかごに詰められていった。東京まで持って帰れるかしらと思うほどの量だった。T子姉はそれを私に渡して、次は行きつけのレストランへ車を走らせた。ご自慢の郷土料理を注文し、ご自分から率先して箸を付け、ほとんど完食された。食欲などないにちがいないと思いこんでいたので、びっくりしてしまった。

次は牧師宅へあがった。H牧師がぜひいっしょに祈ろうと言われたのだ。私はまだ迷っていた。どのように祈ったらいいのだろうと。するとT子姉が言った。「わたし、あの時余命一年と言われたから、数えると今月中には死ぬことになってるんです。でも、そんな気がしないわ」。実は彼女に直接会って、今日の行動力と配慮力をみて、死が間近に迫っている人とはとても思えなかったのだ。守られている、生かされている、癒やされていると確信した。だから、そのように祈ることができた。偽らざる本心からの祈りであった。

もう、帰りの列車の時間が近づいていた。T子姉は家に寄ってください、今年の梅干しを用意してあるからと言う。もう一度とって返して玄関をくぐった。毎年20キロは漬けるけど、今年はそこまではできなかったと言って、一包みを渡された。それもずっしりと重かった。

私何しにきたのかしら、まるで遊びに来たようだわ。すっかり楽しんでしまってと正直に心境を述べ、感謝のお礼を言い、おみやげを抱えて別れたのであった。

こんな爽やかなお見舞いをしたことはない。いいえ、お見舞いではなかった。親しいお交わりのひとときであった。彼女の応対の見事さにただただ圧倒されてしまった。
彼女の生き方を目の当たりに見たような気がした。こうやって今まで見事に生きてきたのだ。女の意地もあったろう。強気と勝ち気も総動員したことだろう。何よりも明日を神様の御手にゆだねきっている潔い信仰がきりりと聳え、秋の陽に輝いていた。

今、行く前に抱いた迷いや不安はまったくない。行ってよかった、会えてよかった、ともに祈ることができてよかった。主がすべてを最善に導いてくださったと確信しているから。いただいた梅干しと巨峰を堪能しながら、祈りに力を注いでいる。


     ゆだねきる 姉の信仰や 秋の空

     空わたる 希望の風は 癒し主
風の仲間たち comments(17) -
日々の風から 教会は秋の特別集会
昨夜から我が教会では今年最大の行事である《秋の特別集会》が開かれています。土曜日の夜、今日、日曜日の礼拝、午後の集会と3回に渡って、お招きした講師によるお話しが続きます。これらの集会のために、夏の内から教会をあげて準備してきました。大きな目的は、伝道です。地域に住む方々に教会へきていただき、イエス・キリストの福音を知っていただき、信仰を持ってほしいと願っています。

そのために、昔からの方法ですが、ちらしを配布してきました。ダイレクトメールも送りました。友人知人たちに招待状を配りました。今年初めて、駅前でティッシュを渡しました。ティッシュ伝道です。ちらしは受けとってもらえませんが、これなら手を出す人さえいました。ありがとうとお礼を言う方もありました。ティッシュが役に立つからでしょうが、差し挟んだ集会案内を取り出して見入っている方もあって、配る方は喜びを感じました。効果のほどはまだまだわかりませんが。

昨夜の集会は新しい人向けの集会でした。昨今は、悲しいことですがどんなに宣伝しても、多くの新人がおいでになることはありません。いろいろと手を尽くし知恵を絞って、教会の入り口を広くし、お待ちするのですが、期待はずれが多いのです。

今回も祈りつつ我が教会にとってははじめての新しい方法で集会をセットしました。
名付けて『音楽とコーヒータイム』。講師のメッセージはもちろんありますが、半分ほどを音楽を聴いていただくときにしました。会場作りも考えました。レストランか喫茶室のようにテーブルを配置し、クロスを掛け、最初にお客様をお好きなお茶とケーキセットで歓待しました。バックミュージックでしばらく同じテーブルの方々と歓談します。その際、教会員がテーブルマスターを務めて雰囲気を作ります。

やがて、最近結成したジュニアバンドが舞台?に表われて、これも最近購入したドラムを叩き、ギター2本、エレクトーン、クラリネット、ボーカル2名で賛美が始まりました。練習の成果があって、すばらしい賛美でした。

その後は教会員でミュージシャンのカップルが、ピアノとトロンボーンで演奏しました。ポピュラーからクラシックまで、幅広いジャンルから数曲が披露されました。心くつろぐ癒しのひとときになりました。

講師もテーブルの一画に座してお茶と音楽を楽しんでおられました。この度の講師は40代の若手牧師をお招きしました。講壇には上らず、小さなテーブルに聖書を載せて、スーツではなく、ノーネクタイのシャツ姿で、巧みに私たちの日常に、そして、心の奥に切り込んでこられました。

この3回のメインテーマは【希望、明日への約束】です。私たちで考え抜いた末、これを掲げました。講師はこのテーマを受けて3回の集会に臨むのです。第一回は『赦しによるいこい』、今朝の礼拝では『和解によるいこい』午後は『共に生きるいこい』です。

メッセージの内容はまたにします。そろそろ教会へ行きますので。今朝は聖歌隊の特別賛美をします。まもなくリハーサルがあります。曲は聖歌692番『見よや 十字架』です。
全世界の今日の主の日が祝されますように。教会の主、イエス・キリストが崇められますように。


日々の風から comments(9) -
聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その10
殉教公園内

詩篇119篇から

第7段 ザイン(49節〜56節)悩みの時の慰め
119:49 どうか、あなたのしもべへのみことばを
 思い出してください。
 あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。


苦境に陥ったときや絡みついてくる失望や悲憤で悲鳴を上げたくなるとき、何をおいても神の膝下に駆け込むことが出来るのはクリスチャンの特権であろう。そこで主のみことばを聴きさえすれば、胸のつかえが下りるのだ。以前からいただいているみことばをもう一度与えてくださいと祈らずにはいられない。《思い出してください》とは《思い出させてください》とも言えるのではないだろうか。。

119:50 これこそ悩みのときの私の慰め。
 まことに、みことばは私を生かします。

119篇のなかでも特に有名な箇所である。多くの人が実感を持ってこの節を祈り歌い上げている。詩人は悩み苦しみながらも、ふっとこの賛歌が口をついて出たのだ。誰に慰められるよりも、みことばこそ最高の慰めである。《これこそ》に真実があふれている。慰めを感じたとき、生きる力が湧いてくる。みことば、すなわちイエス・キリストの永遠の愛といのちが傷を癒やし、たましいを慰め、険しい道を登る杖となる。

119:51 高ぶる者どもは、ひどく私をあざけりました。
 しかし私は、あなたのみおしえからそれませんでした。

キリスト者の道は決して平らではない。信仰者であるための特別の苦しみがある。信仰をあざ笑い、攻撃してくる者は多い。神を冒涜する声さえ聞かねばならない。愛する主が辱められるのは自分が苛められる以上に心痛むものだ。でも、詩人は一時の激情に負けることはなかった。心に蓄えているみことばを静かに汲み上げて耐えることが出来たのだ。
みおしえからそれなかった勝利の喜びはいかばかりだろう。

119:52 主よ。私は、あなたのとこしえからの定めを思い出し、
 慰めを得ました。

前節に続いての詩であろうか。《みおしえ》は、天地創造以前から存在している確かな約束であり愛である。雄大な天地、月、星を見るだけでも、主のみわざに感嘆し、心が広がっていく。まして、御子イエス・キリストの十字架による贖いのみわざを思うとき、慰められないことはない。
 
119:53 あなたのみおしえを捨てる悪者どものために、
 激しい怒りが私を捕らえます。
私を蔑み攻撃する者への怒りではない。この貴い救いを意に介さず平然と捨てる者への怒りは大きいものだ。神はわずか一人でも滅びるのを見逃すことができないのだ。独り子を給うほどに世を愛しておられる神なのだから。

119:54 あなたのおきては、私の旅の家では、
 私の歌となりました。

人生は旅である、とは誰もが当たり前に口にする。ちょっと感傷めかして。この世からあの世へまでの旅と言うことだろうか。あの世とはどこか、死後の世界のことか。そこはどんなところか。はっきり確信をもって、しかも喜びと希望を持って答えられる人は希有であろう。

詩人は行くところを知っている。神がおられる御国である。そこへ行くことが生きることの最大の目的である。だからこの世は旅なのである。父の家にたどり着くまでの、旅路であり、この世の家は旅の家なのだ。旅の家で、また道中は悲嘆の道ではない。《重き荷を背負うて遠き道を行く》あえぎの旅ではない。みことばを楽しみ喜び、力とし杖として行く旅である。みことばは単に教えられ聴かされた教えでない。もう私自身のもの、私の血肉に溶けこんでいるも、私の歌になっている。なんと幸いなことよ。
詩人の心境をそっくりそのまま自分のものとして、私の旅を進み、私の旅の家に住まいたい。

119:55 主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し、
また、あなたのみおしえを守っています。

詩篇一篇が思い出される。『まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ』
また、夜とは心が暗くなるときかもしれない。その時、すぐに旅の歌となっているみことばを思い出し、主イエス・キリストの愛を思い出して、平安と満ち足れる喜びに浸りたいものである。

119:56 これこそ、私のものです。
私があなたのいましめを守っているからです。

いまや我が旅の歌こそ、私のもの。これこそが、これだけが、私のもの。いましめを守り、みことばを愛し、みことばとともに歩む人生しかない。そう言いきりたい。
聖書の風から comments(2) -
日々の風から 10月の風はいかに吹くか、母ついに入院
五島のケイトウ

旅の風に乗りすぎてしまいました。10月もすでに6日。日々に吹く風をも好意と誠実をを持って迎えなければと思います。9月の風は恵まれた旅の風で終わりました。さて、10月はどんな風が吹くのだろう。秋もたけなわ、一年でいちばんすてきな月にちがいないと胸をときめかせながら、また、ひそかに欲張りなことを考えながら迎えました。

ところが、大きなハプニングが起きてしまいました。母が入院したのです。母はこの夏以来少しずつ食事の量が減ってきていました。暑さのせいかと思い、涼しくなったら食欲も出てくるにちがいないと期待していたのですが、ますます下降線です。ホームドクターや訪問介護師の診察や見守りの中で、エンシュアリキッドという高栄養剤を用いるようになりましたが、もとより万能ではありません。さらに微熱が続くようになりました。

ついに医師が入院を勧めました。すぐに前回骨折で入院手術した病院との話がついて、許可が下りました。救急でも入院先が見つからずたらい回しされるご時世なのに、すんなりと入れるとは何と感謝でしょう。ずっと母を看てこれらた我がドクターの力があったのは確かですが、神様の恵みが先行していたと信じます。

ところで、入院ですが、前回は救急車でした。でも今回は一刻を争う緊急事態ではありません。と言って、タクシーに乗せることは無理です。歩いても行けるところなので車いすを押して行くしかないと考えていました。そこへケアマネさんから連絡があり、電話口から歯切れのよい声が聞こえてきました。

介護タクシーが行きますから、支度して待っていてください。介護タクシー?とは…。
介護にそんな制度があったのです。運転手の方は、介護の資格があるのでしょうか、車いすを持ってきてひょいと母を乗せ、慣れた手つきでリフトを操作し乗り込ませてくれました。私と妹も荷物を持って同乗しました。病院に着くと、すぐに病院専用の車いすを運んできて母を載せ替えてくれました。料金ですが、利用者は走行料金だけをその場で支払い、その他の諸費は介護保険の適用となるそうです。

待合室にはあふれるほどの人がいましたのに、まもなく以前の主治医の診察室に呼ばれて、状況を訊かれました。その後、前回の時と同じフロアーがいいでしょう、看護師たちもだいたい同じ顔ぶれなので、覚えているでしょうからと、暖かい配慮をいただいて、程なく母はベッドにつくことができました。

病院のことですから、まして救急病院のことですから、ただじっと置いておくわけがありません。様々なプログラムが組まれていくことでしょう。薬づけ、管づけ、切ったりはったりは避けたいと願いますが、どうなることでしょう。祈るのみです。


雨が上がって、そこはかとなく金木犀の香りが漂ってきました。10月早々の心重き入院風の中にようやく安らぎを見つけました。どんなところにもキリストからの希望の風は吹いているのだと、大きく深呼吸したことです。



日々の風から comments(14) -
旅の風から キリシタン殉教の旅 その3 島原の乱 原城趾
天草四郎像


2日目の昼食後バスは福江港へ向かい、まもなく私たちは高速船に乗船し長崎港へ入った。すぐにバスに乗り込んで島原半島へ進んだ。ところで、目を丸くするような楽しいことがあった。ガイドさんが、なんと昨年2泊3日長崎、平戸、生月の旅を案内してくださった方だったのである。まったくの偶然だとのこと、ガイドさんもたいへん驚いておられた。経験豊かな方で、昨年、みんなで感心し、感謝したのであった。

さて、この日の最後の訪問地は原城趾である。世に有名な天草島原の乱の表舞台となった場所である。城趾は有明海に乗り出すように位置した丘であった。バスは変哲もない畑を両側にした道路脇に止った。そろそろ夕方が近づいていた。ガイドさんは「みなさんは3万7千人の人骨が埋まっているその上にいるのです」と案内する。ぞくぞくとはしなかったが、悲しみがこみ上げてきた。

徳川時代最大の一揆といわれる天草島原の乱は、領主の圧政に耐えかねた領民がいのちをかけて蜂起した悲しい痛ましい乱である。原城趾に立てこもって12万4千人の幕府軍を迎え撃ったのは武士だけではなく悪辣な政治の犠牲者である民衆全員であった。そこには多くのキリシタンがいたという。彼らは3か月篭城し遂に全員討ち死にしたという。
全員白装束に身を固め、月代は十字に剃り上げられていたそうだ。陣中旗は全部ラテン語で書かれており日本語は一つもなかったという。

総大将は弱干16歳の天草四郎である。彼の指揮の下に3万7千人が一つになったのである。天草四郎に初めて興味を抱いた。ずっと昔から島原の乱=天草四郎の図式で頭に入ってはいたが、心に止ったことはなかった。一つには、神を信じる者が乱を起こして戦争をするとは何事かと、納得できなかったからだ。

彼について、またこの乱について、新しい知識を得たわけではないが、3万7千人が討ち死にしたといわれる場所に直接立ってみると、理屈ではなく、知識ではなく、事実そのものが五体五感から直に語りかけてくるのだ。ガイドさんの言葉ではないが、自分の足の下にしみ込んでいるであろう人々の血や肉片が、たましいを揺さぶってくるのだ。

ふと、天草四郎が、あのオルレアンの少女ジャンヌ・ダルクと重なった。純粋な一筋の信仰が非情な為政者に向かうエネルギーとなったのだ。しかし四郎もジャンヌも周囲の人たちによって民意を一つにするシンボルとして使われたのではないか、そんなことを考えてしまった。

原城趾には、イスラエルのマサダの砦を思い出した。地形的には天と地ほども違う。原城趾は討ち死に、マサダは自決だが、篭城の末全員果てた世にも悲しい出来事であることには間違いない。こんな記事を読んだ。

この乱で一人だけ生存者がいた。絵師であったそうだ。彼が陣中旗を描いた。それは現存しているという。その後彼は口述書を残しており、そこには一揆の様子が記されている。
マサダでは投降者があった。その一人がかの『ユダヤ戦記』を書いたヨセフスであることはあまりにも有名である。
旅の風から comments(2) -
旅の風から 五島福江島、雲仙、天草へ。キリシタン殉教の旅 その2
高浜ビーチ

福江島の素朴な旅館には宿泊者は私たち一行だけであった。朝食用の食堂に行くと、テーブルにはすでにきっちりと配膳がされてあった。お箸を取る前に、デボーションタイムがあった。ソングシートが配られて、《ああ、十字架》を声高らかに賛美した。
S牧師によって、マタイ5章44節、16章24節が読まれた。
『自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい』
『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい』
 プロテスタントはカトリックを再考しなければならない。また、信仰のために自分を捨てる覚悟が必要ではないかと鋭く迫られた。

昨日のバスに乗り込んで、島巡りが始まった。バスは海岸線を西回りに南へ走った。
ところで、この島にはプロテスタントの教会は一つだけと聞いた。やはりほとんどカトリックなのだ。人口の一割が信者だという。これは驚くべき偉大な数字ではないか。旅館のすぐそばの福江教会の信者数は1200人だそうだ。プロテスタントの力なさを突きつけられたようで胸が騒ぎ恥ずかしくなった。

五島列島には長崎県内の4割に当たる教会があるそうだ。迫害の嵐を逃れ、信仰の自由を求めて対岸の外海から3000人の信者たちが渡ってきたことが始まりだと聞いた。260年あまりの苦難の歳月を耐え抜いて、明治の解禁令とともにいっせいに表へ出てきた人たちが次々に待望の教会を建てていったのだ。その信仰力が今も生きているのであろう。それが信徒数になって表われているのであろう。

バスは北西端の三井楽教会にエンジンを止め、堂内に入った私たちにしばし祈りの時を与えてくれた。都会の教会のように近代的でおしゃれであった。
まもなく、バスは海岸線を南に下った。貝津教会を見学、しばらくして高浜ビーチで下車した。

こんなに美しい海岸が今もあるのかと目を疑った。白にほんのりと茶色を混ぜた砂浜には透き通った白波が静かに寄せている。少し沖は緑に乳色を溶かした明るいパステルグリーンなのだ。(形容のしようがありません)正に南国のカラーである。周囲は自然のまま。建物一つない。なによりもそれがよかった。神様の創造のままだと思った。日本で一番遅い夕陽がみられるところだ。かなり風が強く、Wさんの帽子が吹き飛んだ笑いのシーンも加わって、忘れることのない場所になるだろう。そして、願ったとしても再訪はないだろうと思い、目に、心に焼き付けた。

ひた走っていたバスが何もない道路脇に止った。はるか眼下の大瀬崎灯台を見せるためであった。もちろん予定表にはない。しかし、今思うに、この灯台を見ないでは五島の旅も画竜点睛を欠くというものだ。(残念ながら我が小さきシャメールでは撮れませんでした)

息を呑む絶景であった。この島の最西端に位置している。最近ついに無人になったばかりで、日本では最後の無人灯台だそうだ。灯台はめったに近付けない突き出た岸壁の尖端に屹立していた。あまりにも遠景のためか大きさが実感できない。その分だけ、白亜の全身が気高い痩身の美女のように見えた。余談であるが、私は灯台に非常な興味を抱いている。正確には灯台を含む岬や小さな半島が何とも好きである。夢は日本中の灯台を訪ねること。まだ10カ所にもなっていないが。私の隠れネームに、岬の風がある。

車内ではいっせいにあのなつかしい灯台守の歌声があがったが、同時に私は聖歌523番《とうだいは はるか》を思い出した。
3番
照らせ 汝がひかり みなと口にて 道を失いし 船もや助けん
手にあるともしび 照らしつづけよ 悩む船びとの 目印とならん

一人勇ましく世界の荒海の尖端に立つのは、我らが救い主イエス・キリストである。
主の手にあるいのちの光りに助け救われた我が身の幸いを、しみじみと感謝した。
(つづきます)
旅の風から comments(6) -
CALENDAR
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< October 2008 >>
PROFILE
MOBILE
qrcode
COMMENT
ARCHIVE
RECOMMEND
美しき姉妹たち
美しき姉妹たち (JUGEMレビュー »)
三浦 喜代子
最新本です。
ぜひお読みください。
SPONSORED LINK