人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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旅の風から 五島福江島、雲仙、天草へ。キリシタン殉教の旅 その1
羽田から福岡空港、乗り換えて福江空港へ

旅で一番気になるのは空模様。予報はあまりよくない。先週は台風が走っていた。搭乗前に団結式を行なった。チャプレンのS牧師が詩篇121篇を朗読し旅の安全を祈った。『行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる』。主とともに行く旅であることを思うと、喜びが倍加してくる。一行は19名。(1名は福岡から参加される)

私の喜びを曇らせる一つのことがある。参加を切望していた友人のN姉が参加できなくなったことだ。闘病中なのだが、心強き勇敢な女性で、それこそ、死んでも行きたいと固く決意していた。私はN姉の志に強く打たれた。なにかできることがあればと、同室を申し出ていた。N姉の所属教会のH牧師が姉妹の願いをかなえてあげたいとまっさきに誘ったのであった。

病は一進一退であった。半月程前までは希望があったが容体悪化で入院されてしまった。じきに退院したものの、皆さんにご迷惑はかけられないと自ら断念された。残念でならなかった。N牧師は断腸の思いを抱えながら、急きょビデオカメラを買い、始終撮影しまくっていた。私も何度かカメラに収まった。

さて、心配していた天候であるが、福江空港に降りたつと、強い陽差の下はなんと30度だったとか。福江島は五島列島の中でいちばん大きくいちばん南にある。下島とも呼ばれる。東京23区ほどの広さだそうだ。とても島とは思えない。黄金色の稲穂が続き、畦にはコスモスや彼岸花が咲き乱れていて、大平野の田園風景と少しも変らない。東シナ海に浮かぶ無人島めいた孤島のイメージを抱いていたが大違いであった。

中型バスに乗り込んで早速見学が始まった。訪問先のトップは北東の先端にある堂崎天主堂。キリシタン禁令が解かれた後、五島に建った最初の教会である。庭の隅に長崎西坂で処刑された26人の殉教者の一人、ヨハネ五島の像があった。昨年の旅で西坂に立った時のことが鮮烈によみがえってきて、胸がきりきりと痛んだ。彼は弱冠19歳であったという。次は楠原教会、三番目は水の浦教会を見学した。

どこも会堂内には自由に入れる。たいてい靴を脱いであがる。長いベンチが並んでいるので、おもいおもいに座することになる。座すれば、自ずから頭が垂れ、祈りの姿勢となる。みな、しばらくは静かに祈っている。楠原教会であったろうか、全員で主の祈りを祈った。何とも満ち足りたすがすがしい思いになった。

その日は福江の中心街の旅館に宿泊となった。さすがに小さな素朴な宿で、玄関を入ったとたん、焼き魚のにおいがしてきた。夕食は海の幸ばかりで、めったに味わえない豊かなお膳であった。(つづく)
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旅の風から キリシタン殉教の旅を終えて
堂崎教会

水の浦教会

会堂内

<あっという間に、2泊3日の旅が終わってしまいました。旅装を解き、荷物整理をし、キャリーバッグをクロークの奥にしまい込み、洗濯機を廻し、自室の机に座ってしまうと、飛行機に乗ったことも高速船やフェリーで海を渡ったことも、雲仙の湯煙の中に立ったことも、夢のようです。しかし、見たこと聞いたことは未消化ですが体内に宿っています。これから少しづつメモや資料を見返して、文章化していきたいと思っています。

チャプレンとしてごいっしょしてくださり、みことばと祈りを持って支えてくださったS先生のご労と羽田の団結式、熊本の解団式で朗読されたみことばの真実に感謝します。


詩篇121篇 都上りの歌

私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。

主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。

見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。

主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。

昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。

主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。
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旅の風から いざ、五島列島へ

明日から2泊3日の旅をしてきます。行き先は五島列島、雲仙、天草です。ご賢察の通り、キリシタン殉教の旅です。昨年9月の旅の姉妹篇というところです。昨年は長崎、平戸島、生月島と巡りました。その忘れられない感動が、再び旅へ向かわせる原動力となりました。

ところで、皆様よくご承知の通り、私の現状は非常に危ういのです。母の体調にすべてが係っています。行こうが行かざるべきか迷うのは当然ですが、行きたい一心の私は、後先をも顧みず意を決し、早々に申し込んでしまいました。しかし、そのためには母をショートステイさせねばなりません。ところが9月分はこの日が取れなかったのです。うーん、これは行かない方がいいということかと半分諦めていました。

しばらくして、ホームから、キャンセルが出ましたのでどうぞと連絡があり、ハレルヤ!と小躍りして予約しました。夏真っ盛りの間は母の体調に乱高下があり、確実に体力は低下していますが、緊急事態ではありません。かくして、車いすの人となった母は、久しぶりに戸外へ出て秋の陽差しを浴びながら、ホームの送迎車に乗り込んで行きました。

さあ、明日からの九州地方の天候はいかがでしょうか。先週でしたら台風13号でどうなっていたでしょう。ここ数日は穏やかでありますようにと、まことに勝手なお祈りをしています。
予備の学習もそこそこにいきなり現地入ですが、第一印象を大切にしたいと思います。
旅程は、羽田から福岡空港、乗り換えて福江空港へ。バスで島内の教会を次々に訪問しその夜は福江島で一泊です。翌日午前中はさらに福江島の教会巡りをし、午後から高速船で長崎港、島原の乱の原城跡を見て、雲仙で一泊。最終日はフェリーで天草へ。殉教公園やキリシタン館見学。帰路は熊本空港から羽田です。

参加者は全員が聖書学院の仲間たちと関係者です。ちょっとした修学旅行気分になっています。恩師がチャプレンとして同行してくださいます。信仰の友たちとの交わりも大いに楽しみです。参加者19名の内、一番遠い姉妹は仙台からです。羽田まで一番近いのは私でしょうか。
リアルタイムの旅日記アップは無理ですが、心に書き記しながら見聞きしてきます。
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書林の風から 漱石三昧
コスモス


月に風の仲間たちと文学散歩なるものをしました。このことは2回ほどブログにも書きました。『三四郎の池』が目玉で、ついでに本郷界隈を歩いたのでした。

あれから、今に至るまでずっと漱石を繰っています。一度に3冊ほど岩波文庫を買ってきます。ただの読書ですから、解説の部分を最初に読んだり後に読んだりしながら、楽しんでいます。漱石は若い日にも次から次へと読破しました。今は再読なのですが、記憶にある印象とずいぶん違うのに驚きます。一体どこを読んだのだろう。何を感じたのだろうと、滑稽にさえなります。といって、今の自分が成熟した読書人になったなんて、とんでもないことですが。ただ、本の持つ力には考えさせられます。本もまた自分を写す鏡だと思うのです。

今は小説をストップして、『漱石俳句集』と高浜虚子の『子規と漱石』を読走中です。
『漱石』の方には虚子に宛てた手紙が多く紹介されていて、普段着の漱石の姿が見え、生の声が聞こえてくるようです。漱石はよく手紙を書く人だったのだと感心します。連絡も全部手紙かハガキ。当時は通信手段の主役は手紙だったのでしょうから当然かも知れませんがよく書いています。本著の著者高浜虚子は子規の一番弟子で、子規亡きあと俳句雑誌『ホトトギス』主宰として、大活躍します。教科書に俳句がよく載っていました。

あの『我輩は猫である』が誕生する前後のことが虚子自身の筆で書かれています。たいへん興味深く読みましたのでところどころ引用します。ついでながら、虚子の文章はさすが俳人だけあって、簡潔明瞭、淡々とした中にもリズムが躍動し、日本語が冴えていると感じました。


『連句を作ったことがもとになって、私と漱石氏とは俳体詩と名づくるものを作ることになった。…その頃われら仲間の文章熱は非常に盛んであった。殆ど毎月のように集会して文章会を開いていた。それは子規居士生前からあった会で、「文章には山がなくては駄目だ」という子規居士の主張に基いて、われらはその文章会を山会と呼んでいた。

漱石氏は連句や俳体詩にはよほど油が乗っているらしかったので、私はある時文章も作ってみてはどうかということを勧めてみた。遂に来る12月の何日に根岸の子規旧廬で山会をやることになっているのだから、それまでになにか書いてみてはどうか、その行きがけにあなたの宅へ立ち寄るからと言うことを約束した。

当日、出来て居るかどうかをあやぶみながら私は出掛けて見た。漱石氏は愉快そうな顔をして私を迎えて、一つ出来たからここで読んで見てくれとのことであった。見ると数十枚の原稿紙に書かれた相当に長い物であったので私はまずその量に驚かされた。

この『我輩は猫である』――漱石氏は私が行った時には原稿紙の書き出しを三、四行明けたまま事であった。私は『我輩は猫である』の方に賛成した。――は、文章会員一同に、「とにかく変っている」という点に於いて賛辞を呈せしめた。
そうして明治38年1月号の『ホトトギス』の巻頭に載せた。この一篇が忽ち漱石氏の名を文壇に嘖々(さくさく)たらしめた事は世人の記憶に新たなる所である』


以上があの『我輩は猫である』誕生の物語なのです。初めて知りました。ひょんな所から突然生まれたように思います。虚子は漱石より5,6歳年下のはずです。はじめて虚子が漱石に会ったのは、明治24,5年頃、漱石と子規が大学生、虚子が中学生の時で、松山の子規宅でした。帰省中の子規は和服姿、漱石は大学の制服でした。その後漱石は教師として松山、熊本で勤め、帰京したようです。明治33年9月には文部省から2年間の英国留学を命じられます。留学中の漱石についてはすでに多くの方々の知るところです。

漱石が教師を辞めて朝日新聞社に入り、本格的に作家活動をするまでには、なおいくつかの曲折があったのです。

一つの作品が世に出るまで、一人の人間が天職に立ち上がるまでには、不思議といえる物語があるのだと思いました。そこには、本人の意志だけでなく周囲の人たちの賢い助言や支えがあるのだとも、理解しました。

漱石の手紙から生の声をお聞かせするはずでしたが、筆先の方向が変ってしまいました。いずれの日にか、時が与えられるのを願いつつ、ひとまず擱筆します。
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書林の風から
img src="https://img-cdn.jg.jugem.jp/6be/111482/20080919_489729.jpg" alt="コスモス" width="240" height="320" class="pict" style="float:right;" />
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日々の風から 希望の風は多忙の風に巻かれて
9月がスタートしたときに、この月の名を多忙月と変えたいなどと叫びましたが、その予想どおり雑事に追いかけられ、翻弄されているうちに9月は早くも終盤に向かっています。

数日ブログが上がらないと、健康ですか、お母様になにか?と、ホットなお声がかかり、思わず感涙です。感謝だなあと、幸いを味わっています。私はどうにか走り回れますので、元気といえるでしょう。

母ですが、最近夕方になると発熱します。高熱にはならないのですが、首から背中にかけてひどく汗をかいています。着替えが必要です。体温調節が正常に機能できなくなっているのではないかと、素人判断しています。もちろんホームドクターの診察を受けていますが、異常はないようです。母が一番すっきりしているのは朝、目覚めたとき。表情も昔と変らず、ひとこと、ふたこと、話しをします。その後はだんだん無口、無表情になっていきます。これはどうにもなりません。体力がなくなっていることは確かな事実です。

最近は食事に時間がかかるようになっています。なかなか口を開かず、一口の量も少なく、呑み込むまでにも時間を要します。これが三度三度です。その分、私の係わる時間が多くなっているのかも知れません。

教会では、10月半ばにこの年最大の集会に取り組みます。外部から講師をお招きして、土曜、日曜と3回の集会をします。その準備が大きな音を立てて進んでいます。その中に加わっていますので、委員会やら讃美練習やらで、楽しい中にも大きな緊張があり、それこそ多忙です。

こうして、短い秋がいっそう短く、飛ぶが如くにすぎていきます。私の人生の秋も同じです。これらの一つ一つが、主のご計画の中で、無限の愛の中で、進められていることに、慰めと平安をいただいています。それこそ希望の風。浮き世の風に揉まれながらも、存在感を明らかに示してくれます。

最近、味わっているみことば。

詩篇118篇24節
『これは主が設けられた日です。この日を喜び楽しもう』
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銀(シルバーエイジ)の風から ああ1321万人の物語

1321万人とは、敬老の日にちなんで発表された日本の75歳以上の方々の人数である。総人口に対して10.3%という。ざっと10人の一人が後期?高齢者なのだ。史上初なのはいうまでもない。この人たちが何らかの形で老いと戦っておられるのだ。一人一人にかけがえのない大きな人生物語がある。我が母を筆頭に、知り合いの人々を思い浮かべてしみじみとそう思う。そして人が生まれてから地上を離れるまでの歩みは決して簡単でははなく、特に老後はあらゆる面で厳しいと実感する。

母の最近を物語りたい。
皆様にはいつもお心遣いをいただき、お祈りしていただいて、感謝でいっぱいです。

2月に、大腿骨骨折、緊急入院、手術して人工骨を挿入した。4月に寝たきりで退院。以後、自分の足で立つことができなくなった。立つどころか寝返りもできなくなった。母の生活圏は畳一畳ほどのベッド小宇宙である。三食ともとろみ食を介助で摂取している。

日々と言えば、朝8時から1時間は訪問ヘルパーによるモーニングケアー、その後朝食。午後5時にヘルパーさんによる身体介護。水曜日は訪問入浴日。お風呂屋さんが大きなバスタブと看護師さんを連れて3人のチームでやってくる。月2回はホームドクターの診察、最近は週1回、訪問看護師さんが巡回してくださる。

先月から、エンシュアリキッドという総合栄養補助食品、一日一缶250ccが加わった。
薬もだんだん増えている。すこしづつ介護の種類が増えている。以前はなかった体位交換も2時間毎にさせなければならない。軽くなったとはいえ、大人一人の体重はかなりである。腰を痛めかけている。その時だけ、コルセットをシッカリ着装してとりかかっている。

母は昼も夜もほとんど眠っている。発語もめったにない。しかし声をかけるとシッカリうなずく。わかっているのだ。痛いところも苦しいこともないらしい。それだけが感謝。
この9月に介護度の更新があった。やはり要介護5であった。介護で使える点数がいちばん多いランクだ。ケアマネさんとよく相談し、計算して、目一杯使っている。

たびたび書かせていただいているが、介護制度の恩恵に十分に浴している。皆さん、プロの知識と経験でほんとうに熱心に介護してくださる。もし介護制度が無くて、今の状態の母を世話しなければならないとしたら、どうなっているだろう。

月に10日くらいはショートステイに託することができる。この時は時間を気にしないで外出することができる。これは何という幸いだろうか。申し訳ないほどだ。

かつて、私の愚かな人生観の中に母の介護はなかった。思いがけないことだった。否応なしに割り当てられた、正直いって避けて通りたい役目である。だが、老いていく母と密着する中で、老いの正体をしっかり教えられている。未知の世界の学習をしているのだとおもう。負け惜しみに聞こえるかも知れないが、貴い体験だとおもう。

命を生み育てる母としての役割と、子としての親の介護は、神様が人に与えた人生の大仕事だと思えてならない。神が創造したいのちに直接係われるのは、もしかたしら、たいへんな特権なのかもしれない。最近そのような思いに導かれている。
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聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その9

我が祈りとしての詩篇119篇 その9

第6段 ワーウ

119:41 主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、
みことばのとおりに、私にもたらされますように。

神の恵みと救いがどんなにすばらしいものであるか、よく見聞きして知っている。それが
確かに自分にも及んでいることを信じている。救いに与り、恵みに満たされていることもわかっている。でも、神の川は水で満ちている。そのとおりに、もっと豊かにもっと深くもっと熱くもっと鮮やかに私の上に現されたらと、詩人は願い求めている。詩人は義に飢えているのだ。

119:42 こうして、私をそしる者に対して、私に答えさせてください。
私はあなたのことばに信頼していますから。

信仰者として妥協なく生きるとき、あちらこちらからそしりの声が聞こえる。嘲笑や妨害がある。「お前の神はどこにいるのか」「みせてもらおうか」と、詰め寄られることもある。彼らへの唯一の答えは信仰姿勢にある。どこから誰が見ても、神の恵みと救いに満たされ、神を信頼し続けている姿である。イエス・キリストの平安と愛と希望の輝いていたい。それは神から与えられるもの。それ故に祈らざるを得ない。求めざるを得ない。

119:43 私の口から、真理のみことばを取り去ってしまわないでください。
 私は、あなたのさばきを待ち望んでいますから。

神が私に与えた真理のみことばを取り去るはずはないと、わかっているが、世の攻撃が激しいとき、立ち往生することもある。不安に駆られる。自分の内から恵みと救いが消えてしまったような恐怖に襲われる。思わず詩人は主にすがりついて、主への信頼を告白し恵みを求めている。

119:44 こうして私は、あなたのみおしえをいつも、とこしえまでも、守りましょう。

主のみもとに駆け込んだとき、平静心が戻ってきて、穏やかな思いで主への真実な思いを告白できる。いつまでも、とこしえまでも、守りましょうと高らかに言えるとき、心は澄み渡る秋の空のように明るく美しい。

119:45 そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。
それは私が、あなたの戒めを求めているからです。

主のまえに曇り無き愛と信仰があるとき、まるで王道を行くように、大きな歩幅で、大手を振って、力強く歩いていける。歩くだけでなく小躍りするような喜びさえある。ひたすらに主をしたい、みことばを慕い求める者への主からの贈り物であろう。

119:46 私はまた、あなたのさとしを王たちの前で述べ、
しかも私は恥を見ることはないでしょう。

詩人はなんと確信に満ちていることだろう。この世の最高権力者である王の前でも恐れることなく主を証しすると断言するのだ。決して恥辱を受けることはないだろうと見通している。これは主への信頼がもたらすものだ。信じる者に与えられる勇気である。
この46節は16世紀の宗教改革者たち、特にマルチン・ルターを励ましたことは有名である。

119:47 私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。

詩人の魂は天に飛翔する。主のへ信頼は喜びを生み、燃える愛となる。主よ、私はあなたを愛しますとの詩人の声が聞こえてくるようだ。私も詩人とともに声を合わせたい。

119:48 私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、
あなたのおきてに思いを潜めましょう。

主をほめたたえる言葉は絶えることがない。あとからあとから噴水のようにたましいの底から吹き上げてくる。あなたの仰せ、あなたのおきて、つまりみことばは、ことばである神、イエス・キリストと一つになる。私には同意語と思える。
義に渇き、主を求めるとき、祈りは答えられる。不安や恐れに沈んでいても、惜しみなく与えられる恵みと救いによって立ち上がることができる。意気揚々と胸張って人生の戦場に出て行ける。旗印はみことばへの愛、イエス・キリストへの愛である。信仰生涯はなんと楽しくうれしいことだろう。

     秋空に 愛と書きたや 神たたえ





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日々の風から 初秋の研修会 『オータム ジョイフル』
寄居

所属して20年になる日本クリスチャン・ペンクラブの一泊研修会に行って来ました。今回は秋にちなんで『オータム ジョイフル』。テーマは『私とあかし文章』です。

クリスチャン・ペンクラブは、文章によってイエス・キリストを伝えることを使命とする文書伝道の団体です。伝える文章の内容は《あかし文章》といいます。あかしとは、証しのことで、信仰生活を通して体験したイエス・キリストを書き表すことです。信仰体験記とも言えましょう。神学論文や説教ではありません。

会員はそれぞれ自分の所属する教会を持っています。ほとんどプロテスタントですが、信仰歴の長短、老若、もちろん男女の違いもあって豊かなメンバー構成です。私にとっては第二の教会です。

埼玉県寄居にある、かんぽの宿が会場でした。寄居は上野からJR高崎線熊谷で秩父線に乗り換えて30分に在る地方都市です。普通電車で手軽に行けるのですが、秩父連山を眼前にする自然豊かな土地柄にびっくりしました。

交通も池袋から東武東上線、八王子から八高線が敷かれているのにも驚きました。この町を流れる荒川は東に向かって流れ流れて東京湾に注ぐことや、荒川から、かの隅田川が分れ、また、我が家のじきそばを行く中川も本流は荒川にあるので、遠い親戚に出会ったような親しみを感じました。

研修会は文章修練の場です。それぞれが持参した課題文『私とあかし文章』が読み上げられ合評するのです。初日の夜と翌日の午前中の2回にわたってふだんの集いではできない詳しい作業が進められました。

同時に、基本的な文章の書き方や作法、あかしの文章論が説かれました。また、埼玉県に導かれましたので、埼玉県とキリスト教、この地ゆかりのクリスチャン偉人、賢人を調べて発表がありました。クリスチャンの団体ですから、まず開会礼拝、最後に閉会礼拝があり、集会ごとに全員で高らかに讃美し、祈りをささげます。書くことを一つ志とする仲間同士ですが、イエス・キリストへの信仰を共有していることが、何にもまさって大きな喜びです。

ペン一色に切り取られた濃密な時がまたたく間に過ぎて、はや解散です。皆さんの散り方は様々です。タクシーを呼ぶ方、マイカーに乗り込む方、それに便乗する方、宿の定期バスを使う方などなど。合い言葉は次回はお茶の水でと、再会の約束です。

最後の最後に、寄居在住の心優しいK兄の車に乗せていただいて寄居に急ぎました。まだまだエレベーターのない駅の階段では、頼もしきナイトY兄が私のキャリーをかかえてくださいました。列車を待つ間にいただいたコーヒーのおいしかったこと!もちろん、くゆる香に希望の風を感じて。


風に乗れ あかしのペンに 魂そそぎ (今回も駄作)
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日々の風から 今日は敬老歓迎礼拝
教会バンド

今月15日は敬老の日。教会では毎年この付近の日曜日には、高齢者を招いて特別のプログラムを計画します。今年は地域の行事と重ならないように早めにしました。歓迎の対象者はまず教会員で70歳以上の方、次いで教会員の家族、さらに、まだ教会員ではないけれど、時々教会へ見える方々です。

礼拝では、ジュニア・青年合同の讃美がありました。ギターのほかにクラリネットとドラムが加わりました。このドラムについてはいきさつがあるのです。2か月ほどの前の役員会に、ジュニアの代表がぜひ話を聞いてもらいたいと、たいへん緊張してやってきました。

ドラムが欲しいというのです。彼らはクリスチャン2世、生まれる前から教会生活をしてきました。バンドを作りたい、目的は、音楽で友人や地域の若者にキリストを伝えたいと
のこと。ドラムについての資料を用意し説明し、アッピールしました。
私たちはよくよく話し合って、若者がそう言うなら快く買ってあげようと決議しました。
楽器に詳しい役員の一人がアドバイスしながら、まもなくドラムがやってきたのでした。

今日はバンドのデビューの時になりました。ドラムの音も全く違和感なく、若々しい女の子の澄みきった歌声が素朴で美しく、たいへん新鮮でした。ちょっと早めの初なりのフルーツの味とでも言えましょうか

我が子どもたちにはこの若さはない、といって、孫たちはまだまだ青い実です。十代の子どもたちをいつも目の当たりにし、時におしゃべりできるのは、考えてみれば幸いなことです。教会ならではの特別風景です。キリストを中心にした大きな神の家族の豊かさをしみじみ感謝したことです。

もうひとつ、今年はじめて興味深いシーンがありました。教会を建てあげてきた草創期の方々が、全員お祝いの席に並んでいるのです。びっくりしました。皆さん後期?高齢者前後になっていしまいました。壮年時代は猛烈社員あるいは事業家でしたから、礼拝の後の食事にいたことなどめったにありません。第一線を退いてからも、老人呼ばわりされたくないと避けていたくらいです。

その皆さんが、敬老対象者として紹介されても自然体で近況を話していました。かつての気負いや突っ張りや自負心が消えてきたように感じました。老いを受け入れることができたのでしょう。

私ですか、まだまだ彼らの仲間ではありませんよ。遠くから拝見していただけです。

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