人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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心の風から 六月の憂鬱
墨田のゆり


憂鬱な6月ではない。六月の憂鬱である。いろいろ憂鬱なことのあった6月ではない。六月とは憂鬱なるときだと言いたいのだ。六月には人を憂鬱にさせるものがあると。

思い返してみると、体調が崩れるのはたいていこの時期なのだ。冬にさえめったに風邪も引かないし、酷暑にも結構強い。夏バテにも無縁で来たが、6月にはよく医者通いしている。これは私に限ったことかも知れないと思っていたが、今年は同じような声がよく聞こえてきた。

心の状態はどうかというと、この時期の空のように鬱々としている。時に薄日が差してもまた厚い雲が覆い被さってくるような気がする。具体的に取り立てる大きな問題はない。変わりばえもしないが、そこそこの日常が続き、この平穏を深く神様に感謝しているくらいだ。それなのに、ふと、心には影が横切り、風通しも悪い。希望の風には出会えない。

そこで私は卑怯かも知れないが、この月、六月のせいにした。罪人の常套手段である責任転嫁をしてみた。

つらつらと六月の顔を眺めてみた。
この時期、モンスーン地帯にある日本には独特の気候がある。梅雨である。日本列島は梅雨前線と呼ばれる文学的な雨の帯に縛られる。かくして一ヶ月あまり、降ったり止んだり、照ったり曇ったり、気温も4月頃から7月頃まで乱高下する気候となる。

弱い人間の心身がこの気候の影響を受けないはずはない。これが六月の憂鬱の正体だと思う。体調が乱れ、心も定まらないのは六月の憂鬱のせいだとしたい。

それに加えて、はたと気がついたことがある。
六月の日足の長さである。六月は一年で一番日の長い日、夏至を持つ。夕方いつまでも明るい。冬に比べてみて改めて驚く。毎週木曜日は教会の祈祷会へ出かける。先日も、あたふたと家を出てから空をみるとまだまだ明るい。とっさに一時間間違えたかしらと、踵を返した。いや、確かに7時半だと思い直して歩き出したほどだ。

日の長い夕方が何とも快く、家の戸を閉めるのが惜しくて、必要もないのにもう一度スーパーへ行ったりしてしまう。
ところが、今年初めて、いつまでも明るいこの時間に、ふっと心が揺れたのだ。揺れたのは自分をみてしまったからだ。今、生かされていることを感謝しているはずなのに、無為に徒食をはんでいる余計な人間ではないかと思ったのだ。およそ詰まらない考えだ。幼稚すぎる。イエスさまが、無きに等しい者を敢えて受け入れ愛して下さっているのを骨の髄まで知っているはずなのに、何というていたらくだろう。

6月の日足の長さのせいにしたい。汗にまみれる真夏にはそんなこと考えるゆとりはない。
4時半には暗くなり寒風の吹く初冬にも、そんなこと考える暇はない。すべては六月のせいだ。六月の憂鬱のせいなのだ。

この6月も後一日となった。早いもので2008年もちょうど半分まで来たわけである。
六月の憂鬱から脱出して、しゃきっと7月に踏み込みたい。7月には六月には出会えなかった希望の風がきりりと吹いていると信じる。
 









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聖書の風から  詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その6 
第4段落 だーレス 後半

119:28 私のたましいは悲しみのために涙を流しています。
 みことばのとおりに私を堅くささえてください。

詩人はなぜ泣いているのだろう。数節前には、わたしのたましいはちりに伏しています、とあるが、同じ厳しい状況が続いているのだろうか。

思わぬ出来事が起こったとき、涙はすぐには出てこない。パニックに陥ってしまう。そのあとは後波打つ感情に翻弄される。事の種類にもよるが、涙はそのあとではないだろうか。涙とともに悲しみの波がひたひたと押しよせる。悲しみは簡単には去らない。時が経ってもこみ上げてきて涙する。

事を聞きつけて、身近な人たちが直接に手を出し足を出し口を出し、体を動かして愛を示してくれる。しかし、それは長くは続かないものだ。悲しみが色濃く姿を現すのだその後だ。自力で涙を吹き払い悲しみの雲海から脱出するのは容易ではない。そのときこそ、神様の出番である。信仰の本領が発揮されるときである。

インマヌエルの主はだれがいなくてもそばにいてくださる。生きたみことばで、生かしてくださる。涙をぬぐい悲しみから立ち上がらせてくださる。主の名を呼びさせすれば、俊敏に答えてくださる。詩人はそこにたどり着いたのだろう。このお方に信頼すれば堅く立てると悟ったのだろう。

119:29 私から偽りの道を取り除いてください。
あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください。

自分の判断で最善と思い、人も応援してくれた道も、期待はずれだったり、失敗に気づくことがある。そうした回り道はもうたくさんだ。偽りの道を選択することがないように、また、心の奥に二心がないようにと祈るばかりである。願うことはただ一つ、正しい識別力、判断力をいただいて、御心にかなった道を歩みたいのだ。神様のおしえのとおりにできますように。

119:30 私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。

詩人は祈って確信を得たのだろう、確かにこれが主の道だと。偽りの道でなく、真実の道を選択できたのだ。無私になって神様の方法を考えるとき、それができるのだ。

119:31 私は、あなたのさとしを堅く守ります。
主よ。どうか私をはずかしめないでください。

あんな失敗はもうしたくない。しっかりあなたに従っていきますから、み前に顔を赤らめ悔い改めの涙を流さずに済みますように、自分のたましいの前にも臍をかむ思いをしなくてすみますように。さらには世の人たちから嘲られ蔑まれることがないように、守ってください。詩人はいっそう身を屈めて祈らずにはいられないのだ。

119:32 私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。

みことばに真実に従うときに、たましいに解放が与えられる。不必要な思い煩いが消され、肩に食い込む重荷も主にゆだねるので、重量に倒されることはない。心の壁のあちこちに引っかかっていたあのこと、このことも小さく見えてくる。心を広くしてくださるとは、実感あふれる表現だ。

広くなった道だから、おずおずと歩むのではなく、軽やかにランニング、走ることができる。信仰によって大きな苦難を克服した勝利の歌といえる。
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聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その5

第4段落 だーレス 前半

119:25 私のたましいは、ちりに打ち伏しています。
 あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。

たましいがちりに伏すとは、なにか大きな試練に遭遇して絶望のどん底にいるか、または事が思ったように進まず、深い挫折感に打ちのめされているときの心境ではないだろうか。

だれもが遭遇することだろうが、人生には、こんなはずではなかったと周章狼狽あるいは失望落胆することが多々ある。そんな時、襲ってくるのは強い孤独感だ。だれかに聞いてもらいたい思いと、だれにも会いたくない、話したくない、だれがわかってくれるものかと自暴自棄になり、自分の殻に閉じこもってしまうこともある。それがエスカレートして、過食症や拒食症あるいは鬱病になることもある。

救いがたい状況の中で、神様を呼ぶことができたらどんなにさいわいだろう。
詩人は、こんな無様な私ですが、どうか助け導いて、恵みのご計画の中でもう一度新しく生かしてくださいと神様にすがりついている。その率直さがなんともしなやかで初々しい。

119:26 私は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。
どうか、あなたのおきてを私に教えてください。

神様に助けを求めるとき、一方的に自分の窮状を訴え、欲求を突きつけるような祈りをしがちである。神様は願いを叶える便利な機械ではないと、よく聞く。神様は私たち以上に人間的である、熱い心と品格をお持ちだ。聞く耳をお持ちなのだ。
《私の道を申し上げた》とは、私の現状や今ここに至るまでの歩みを包み隠さず縷々とお話しすることだ。 聞く耳をお持ちのお方は、適切な答えのできる口もお持ちだ。神様は無視はなさらない。聞いて答えてくださるのだ。

いままで自分流でやってきたがうまくいかなかった。それがよくよくわかった。だから間違いのない神様のやり方を教えてくださいと身を屈める。早くからそうすればいいのだが、人は、真に自分に絶望しないかぎり神様に降伏しないものだ。

119:27 あなたの戒めの道を私に悟らせてください。
私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。

神様の深いみこころは、小手先でわかるものではない。聖霊の働きによって初めて悟ることができる。聖霊が自由に自分の内に働くためには、神様のみ前に時を忘れて静まり、一つ一つの恵みや約束をにれはむことではないか。
続きます。

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心の風から 心は熱すれど…再考させられて
大井川2


母は順調にショートステイ生活をしています。束の間のフリータイムを活用しようと、そこここと走り回っている間に自分の身体を酷使してしまったようです。自分では自覚していなかったのですが、身体のほうが悲鳴を上げたようです。

急にぞくぞくしてきました。電車の冷房がきつかったせいと思っているうちに熱っぽくなり、夜になって9度まで上がってびっくりしました。苦しい思いもしました。幸い、真夜中に発汗し、スッと熱が下がり、気分良く朝を迎えることができました。

熱の最中に『心は熱すれど、肉体は弱し』そして『誘惑に陥らぬよう、目を覚ましかつ祈れ』とのみ言葉が浮かんできました。ああ、まさにそのとおりだ、心は熱しているけれど、ほんとうに身体は弱いものだ、ああ、私も年を取ったものだ、これしきのことでダウンするとはと、自己憐憫に陥って大きく嘆息していました。

ところが『誘惑に陥らぬよう、目を覚ましかつ祈れ』が留まり続けて去りません。実はゲッセマネの箇所を開くたびに、《誘惑に陥らないように》とはどういうことかと考えてきました。《目を覚まして祈って》いれば、睡魔にも負けないでいられるのかなどと、考えたりしたものでした。

誘惑とはなにかと、考えてしまいました。そのためにいつ目を覚ましているのか、いつ祈るのかなどとも考えました。ふと、この度の自分の行状を振り返りました。実は、一番下の妹からこんな声を聞いたばかりでした。「お姉ちゃんたちは多動児みたい」と。お姉ちゃんたちとは、私とすぐ下の妹のことです。二人ともいわゆる出好きです。定住型ではなく、移動型なのです。つまり、家にじっと籠もっているタイプではなく、自由な時間があれば外へ飛び出すというのです。

多動児みたいといわれて、子どもではないから、さしずめ《多動老人》だわと開き直っていましたが、多動老人にはすぐにつけが回ってくるようです。

みことばを思いめぐらしながら、誘惑とは、あれもしたい、ここにも行きたいという欲心だと思い当たりました。倫理道徳的に照らして反することをするわけではない、小さな趣味や楽しみ事をするだけなのです。でも、でも、そこには程度問題があるのです。

信仰の光にかざして吟味し、主も許したもうと確信する範疇でも、時として過信があり、独善があり、行き過ぎてしまうことがあります。

せっかく、主のおそば近くにいながら、あのゲッセマネの祈りに参加でなかった弟子たちのように、いざというとき、眠りこけてしまいたくはありません。ここ一番というとき主の用に間に合うためには、多動は禁物だとつくづく反省しました。

よく祈れば必ず聖霊が力強く働いてくださり、その導きをキャッチし、従うことができると信じます。身体が疲れてくると祈ることもおざなりになります。そこにどうして神のきよい力が働くでしょう。たとえ働いたとしても受け止められないでしょう。その結果は歴然たるもの、弟子たちのゲッセマネの敗北に繋がります。

痛い思いをして教えられらことを大切にしたいと思います。私の悪いところは学習能力のないことです、のど元過ぎれば式なのです。こんどこそ、知恵の袋にしっかりとしまっておきます。

明日は主の日。
爽やかな目覚めをいただき、軽やかな足取りで教会へ向かえるように祈ります。
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聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その4
ばらロゴス

長い長い詩篇119篇を考えつづけます。

第3段落 ギメル

119:17 あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください。

神様が豊かに扱ってくださらなければ人は一日として生きていけない。荒々しくされたらたちどころに息絶えてしまうだろう。人はまことに弱いのだ。生かされて初めてみことばを愛し守ることができる。いや、みことばを愛するためには、暖かなみふところに抱かれ生かされなければならない。詩人はそれをよく知っていたのだ。

119:18 私の目を開いてください。
私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。
 
神様の深遠な愛と知恵は生まれながらに罪の目を持った人間にはどんなにあがいても悟ることはできない。どんな学者も瞑想者も哲学者も理解できるものではない。まして、無知なる私に何がわかるのか。神御自らが目を開いてくださらなければ不可能なのだ。人間側としては、ひれ伏して、まず我が目を開き給えと祈るのみである。目が開かれさえすれば、神様の豊かな恵みの世界を知ることができる。見ることができる。味わうことができる。人にも伝えることができる。鍵は主が目を開いてくださること。

119:19 私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。
 
半世紀以上も人間稼業をしてきてつくづく思うのは、人は旅人、人生という果てしない、しかもはかない街道を行く旅人だということだ。世に旅は道連れとある。愛する家族は最大最高の道連れだ。親しき友と楽しく行くこともある。しかし究極的には一人旅をしているのだ。だが、一人旅とはいかにも寂しくい悲しい言葉ではないか。
人生は 重き荷を 背負うて 遠き道を 行くがごとし
英雄ですらこのように結論した。
しかし、詩人はまことの同伴者を見いだしている。神がともに歩いてくださるなら、ともに生きてくださるなら、ひとりぼっちだって怖くはない、さびしくはないと知っている。だからこそ、いつもご自身を明らかに示して導いてくださいと祈らざるを得ないのだ。神様は祈りに答えてくださり、永遠にはなれない頼もしい同伴者となってくださる。

119:20 私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。

神様がともにいてくださる、私がどのように弱く小さな者であっても、受け入れてくださる。そう信じるとき神様を怖がることはなくなる。神様のなさることはいつも正しいと安心していられる。

119:21 あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、のろわるべき者をお叱りになります。
神様を認めず従わない傲慢な者は叱られても仕方がない。自分こそ知者だと思いあがってもそれは独りよがりであり、その人には真の平安も喜びもないであろう。
119:22 どうか、私から、そしりとさげすみとを取り去ってください。
 私はあなたのさとしを守っているからです。

時として、思わぬ火の粉が降りかかってくることがある。神様を信じていると言うだけでつまはじきにされることもある。そうした不本意な屈辱からはできるだけ避けたいものだ。
神様のお守りを祈らずにはいられない。

119:23 たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合ってもあなたのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます。

神様を信ずる者は、どういうわけか世の中の力のある人たちから敵視される。歴史上には迫害の嵐に遭遇した信徒たちの記録が至るところにある。苦しめられたりいじめられたりすることは、どんなに信仰があったとしても辛く悲しいことだ。しかし、そうしたときはますます神様を慕い、神様の道を粛々と進んでいきたい。

119:24 まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。

神様が私の相談相手とは実感あふれる表現だ。だれが助けてくれなくても恐れることはない。だれも頼りにならなくても悲しむことはない。神様は最高の相談相手なのだ。どんな相談にも真剣にのってくださる。しかも適切なアドバイスをしてくださり、自ら解決に乗り出してくださる。神様に相談に行くとき、まるで親しいお方を訪ねるように心が弾み喜びが生まれる。神様の家の敷居は決して高くない。(続きます)
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日々の風から もう一つのブログ『聖書の緑風』のこと
あじさい2

2月からもう一つブログ『聖書の緑風』を設けたことはお知らせしました。以前にこちらで読んでいただいたカテゴリー《聖書を愛して》を連続で編集したものです。あちらのカテゴリーは《聖書ウオーキング》としました。旧約新約全巻66巻を大きな歩幅でさっさと通過したのでそんな名前にしました。それがようやく全部終わりました。

聖書の記事だけの地味なサイトですから、はたして来訪者があるかと思いましたが、なんのなんの、当初思った以上の方々が来てくださっています。お顔ぶれは全くわかりませんが、初めて聖書の話しに接する方々がいてくださったらと祈り願っています。

一応一つのシリーズが終わりました。でも聖書からの緑風は吹きつづけていますので、それをキャッチしてまた書き込んでいこうと思います。

今度から新しく《聖書そぞろ歩き》としてみました。ウオーキングではなく、散策です。あちらこちらと視線を動かし、時に、小道脇道には入り込み、そこに展開する風景を楽しみ、快く渡る緑風を楽しみ、その味わいを書いてみたいと思います。

いつも『希望の風』を訪れてくださる皆々さま、時には『聖書の緑風』をも覗いてみてください。また、このブログがイエス・キリストのすばらしさを伝えるために用いられるようにお祈りください。天下にこの人以外に救いを与える方はいないのですから。
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世相の風から ガラスの天井は高かった
アメリカには、女性の昇進を阻む目に見えない障壁のことを表す『ガラスの天井』という言葉があるそうだ。(朝日朝刊6月11日社説から)

アメリカ史上初の女性大統領か、はたまた黒人大統領が誕生するかと、世界の注目を浴びたアメリカ大統領選挙、民主党の指名争いがついに決着した。クリントン女史が敗北を認めて座を降りていった。彼女は敗因を高いガラスの天井のせいにしたかったらしい。敗北の真相は知らないが、障壁の高さといえば、ことは違えどオバマ氏にとっても同じではいか。

女性も黒人もともに歴史では冷遇されてきた。冷遇どころではない、痛い目に遭わされてきた。その、悲劇のグループからトップリーダーが生まれることは、社会そのものが変ったことを意味すると思う。社会の進歩といえるだろう。外野席にいる者としては、女性にもなってもらいたいし、また黒人にもなってもらいたいと思う。しかしこのゆくえは、これからがほんとうの戦いだ。アメリカ社会がどのような選択をするのか、目を凝らしてみていきたいと思う。

話題は離れるが、『ガラスの天井』ということばに興味をそそられた。ひところまで、アメリカは日本の女性にとってはうらやましいほどの男女平等社会だと思っていた。レディー ファーストにため息をついたときもあった。しかし思ったほど女性が同等に扱われているわけではないと知って落胆した。性差の壁は日本だけではなかったのだ。

クリントン女史がその原因を『ガラスの天井』にしたのは、言訳に過ぎないのかも知れないが、しかし、女史はどこかで痛烈にそれを感じ、傷ついてもいたのだろう。それは男性にはわからないことだ。あの女史にしてそうなのかと、妙に納得し、ふと、自分の身辺を見まわしてしまう。女史とは比較にはならないが、至るところに高い『ガラスの天井』があるのだ。

クリントン女史は、ガラスの天井を打ち破ることはできなかったが、1800万の傷を付けることができたと言い放ったらしい。巧みな言い回しではないか。

高いガラスの天井を見上げて嘆いたりつぶやいたりしているばかりでは何も始まらない。本当の意味で、男女が理解しあい受け入れあって、お互いをかけがえのない存在として尊重し合えるためにはどうたらいいのだろう。常に意識を持っていきたい。神様は人を男と女に造られた。この奥義を探っていきたい。
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世相の風から 恐ろしや 秋葉原無差別殺人事件
平和なはずの歩行者天国が、一転して歩行者地獄になってしまいました。被害者の数の多さに息をのむばかりです。とても人間ひとりで出来ることではないと思います。悪の力とはこれほどまでに強大なのでしょうか。誰でもよかったとはあまりにひどすぎます。

秋葉原は週に2,3度は通過する駅です。電気街にはめったに行きませんが、子どもの頃から慣れ親しんだ身近な町です。それだけにショックは大きいのです。つい先日もとなりの江東区で犯人と同じマンションに住む女性が無惨な殺され方をしました。背筋の凍る思いをしたばかりです。

犯人はいずれも二十代の男性ではありませんか。これはいったいどうしたことなのでしょうか。無差別殺人とはどのように考えても同情の余地はありません。ひどすぎます。そこにいたばっかりに惨事の犠牲になってしまった無関係の人たちとご遺族に深く同情します。胸のつぶれる思いです。

今年に入って無差別殺人がすでに5件もおこっているとか。犯罪を社会のせいにするのは好きではありません。責任逃れはますます犯罪を生む温床となるでしょう。でも、こうして同じ種類の犯罪が連続すると、どこかに共通した原因があるのではないかと思ってしまいます。いかがでしょうか。
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日々の風から  梅雨の文学散歩 また楽しからずや (終り)
文学散歩3

文学散歩4一葉の井戸


5000円札の樋口一葉はいささかきれいにすぎていると思いますが、同性が堂々とお札の顔に用いられているのには悪い気はしません。それはさておき、日本を代表する女流作家を三人あげよといわれたら、紫式部、清少納言の二人にためらわず一葉を加えるでしょう。ずっと若いころから一葉ファンでした。

一葉といえば『たけくらべ』。下谷の竜泉寺町が思い出されます。本郷菊坂町に住んでいたとは知りませんでした。一葉家族は父親の破産と死去のあと、転居したようです。18歳の時です。一葉は裁縫と洗い張りをして母と妹を養います。

一葉の住まい跡はなかなか見つかりませんでした。道行く人に尋ね、お店に入って訊きます。一通り説明されてその通りに路地から路地へ行くのですが、違うのです。目立つような案内の標識はありませんでした。路地の奥のさらに小道の突き当たりに急な階段があり、その右手あたりが当地だとわかり、皆で喜び合いました。そこに、戦前のままのような古い木造の3階建てが建っていました。もちろん一葉が住んでいた家ではありませんが。階段の手前に一葉が使ったという共同井戸もありました。

21歳の時にいよいよ生活にゆきづまり、竜泉寺に転居して荒物や駄菓子のお店を開きます。ふと、雑貨屋のおかみさんをした三浦綾子を思い出しました。
生活苦と病魔に襲われながら、それでもひたすら書き続ける一葉を思うとき、その情熱はどこからきたのか、何にために身を削ってまで書くのか、訊いてみたくなりました。おそらく理屈では説明のできない作家魂のなせるわざなのでしょう。天才の宿命という他はないものなのでしょう。明治29年、わずか24歳で結核に倒れ他界してしまうとは、あまりにはかなくあわれです。もう少し経済力があったら死なずに済んだのではないかと思ってしまいます。それとも医学の限界だったのでしょうか。

『廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取るごとく、明け暮れなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらないて…さりとは陽気の町と住みたる人の申しき』

若い日に、たけくらべの冒頭をさかんに暗唱しました。源氏の冒頭、枕草子の冒頭を覚えたように。しかし、たけくらべは教科書にはなかったように思います。
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日々の風から 雨の文学散歩 また楽しからずや
文学散歩1東大赤門


文学散歩2


本の虫たち(?)と、ちょっと気取って文学散歩などと名付けたミニ・ツアーを組んで本郷界隈を歩いてきました。目指すは東大構内の三四郎池と本郷菊坂の樋口一葉居住跡です。彼らはなんと言っても明治を代表する二大文豪でしょう。梅雨空でしたが、ほとんど傘を使わずにひたひたと歩き廻りました。

お茶の水聖橋の真ん中からバスに乗って東大構内へ入りました。三四郎池は思っていたよりはるかに深い樹木の中に、ちょっと窮屈そうに水をたたえていました。三四郎池と呼ばれる前は心字池といわれたそうですが、どこから見れば心という文字になるのかわからず終いでした。東京のど真ん中とはおよそ思えない静かなたずまいに感動しました。文学的というより哲学的雰囲気を感じました。(実に曖昧で主観的な表現ですが)
日がな一日池の畔に腰を下ろして物思いに沈みたいなどと、友人たちと会話したことです。

漱石は小説【三四郎】で、この池のほとりで、魔性性を帯びる美しき女性美禰子に「stray sheep」と謎めいた言葉を使って三四郎を迷わせていましすが、池と美禰子にある種の共通性を感じました。もっとも、当時の池はこれほどまでに鬱蒼たる森林ではなかったと思うのです。

この小説は東京と大阪の朝日新聞に明治41年(1908年)9月1日から12月29日まで4か月間連載されるのですが、なんとちょうど100年経っているのです。100年間の樹木の成長はめざましいものがあるはずです。

小説の最後、すでに他の人と結婚を決めた美禰子は、礼拝をおえて教会からでてくると、外に待っていた三四郎の前で「われは我が咎(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」とつぶやくようにいいます。これは旧約聖書詩篇51篇の一節で、ダビデの悔い改めの言葉としてあまりに有名です。これを三四郎に向かっていう美禰子の心中、聞いた三四郎の思い、さらに漱石の意図など思い巡らせばいろいろに解釈されるところです。

漱石とキリスト教との係わりがどれほどであったか、調べたことはありませんが、およそ当時の知識人ならかなり深入りしていたはずです。漱石はその後の作品の中で次第にキリスト的にいえば《罪》の問題に意識を強めていきます。罪と正面から向かい合う姿勢も感じます。しかしついにキリストの信仰に解決を求めていくことはなかったのです。彼の中にも日本文学の限界を感じます。

次は樋口一葉の跡を見て、知り、考えたことを語りたいと思います。

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