人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 私のゴールデン・ウイーク その1
公園のツツジ


昨日は驚いた。日が高くなってとっくに一日が始まっているのに通りが静かなのだ。車が走っていない。そうだった、ゴールデン・ウイークが始っているのだと気がついた。我が家の脇を走る大通りに車の音が無くなるのは、お正月と8月半ばとGWの、年3回である。ほんとうにウソのように、おかしくなるくらい静かになる。

桜に気を取られている間に、芽吹きの時も早々に過ぎ、今や新緑は日に日に青さを増している。銀杏並木も堂々たる姿になった。季節の足は速い。一気に、もう、初夏である。ツツジがいっせいに花開き、称賛を浴びて女王の座を占めている。藤の花房も美を競っている。春は花に事欠かない。なんとうれしく麗しい季節だろう。

私のゴールデン・ウイークなどと、もったいぶったタイトルを付けたが、特別なプログラムはない。いつものように日常をこなしていくことになる。

とは言え、日本中を包み込むこの大型休暇に背を向け、無関係を決めこむつもりはない。
辺りが静かだと不思議に気持も落ちついてくる。ふと、時間が緩やかに流れているのに気がつく。時のスピードは個人の生活状況だけによるのではないと思った。周辺事情に影響されるのだ。

見なれない光景があちらこちらにくり広げられている。
いつもは家の中にいるようなお年寄りが玄関先に出て、お隣りとおしゃべりしている。
通りがかりの人が、我がミニ花壇の前で立ち止まり、いつも楽しみにしているのですよと笑顔を振りまいていく。
すずめたちのさえずりが驚くほど力強く空一杯に響き渡っている。

私のささやかなGWの一こまです。希望の風はいつもそよいでいます。
皆さまのGWはいかがですか。
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日々の風から 母国・祖国というものは…

ブラジルへ宣教師として遣わされている牧師ご家族が教会に来られました。礼拝のメッセージをされましたが、その中で、ブラジルでの日常が紹介され、たいへん興味深く伺いました。そのうち特に考えさせられたものがあります。

ブラジルには日本からたくさんに人々が移住していることはよく知られていますが、初期の人たちで残っている方々もたいへんな高齢者となり、今は二世、三世、四世の時代だそうです。大きな問題なのは母国語、日本語です。二世はまだ日本語がわかるそうですが、三世、四世となるとまったくわからない。

初代の方々はポルトガル語がお得意ではない。ですから、同じ家族でも意思疎通がままならず、おばあちゃん、おじいちゃんは孫たちと話が出来ないそうです。これは想像しただけでもたいへんな問題です。お年寄りにとってはどんなに悲しく寂しいことでしょうか。

宣教師はイエス・キリストの福音を伝えるために出かけていく人たちですが、特に、外国に住んでいる日本人を対象にすることが多いのです。彼らも、ブラジルの日本人教会でご奉仕しています。

日本から宣教師が来たと聞いて、クリスチャンではない二世、三世の方が教会に来られて、ぜひうちへ来ていただきたいと依頼されるそうです。その目的は、うちのおじいちゃん、おばあちゃんと日本語で話しをしてもらいたい、日本語を聞かせ、日本語を使わせてあげたいとのことだそうです。宣教師たちは喜んで出かけていき、彼らのお話を聞き、おしゃべりをしてくるのだそうです。

胸が痛くなるような切ない思いがこみ上げてきました。今年は移民が始まって100年の記念の年だとか。今、宣教師ご家族のいる地域は、100年前は原生林だったのを、移民たちが想像を絶する苦労を重ねて開拓したのだそうです。

その国の人となっても、心の中には祖国が生きているのでしょう。母国語を忘れることはないのでしょう。人間って不思議だなあと思います。

先ごろ、長野市のオリンピック聖火リレーのおり、在日中国人たちが祖国の旗を振りかざして応援していました。あの大きな赤旗にはいささか辟易しましたし、心には穏やかならぬ思いが生まれましたが、これも誰もが持っている素朴な祖国愛なのかと思うのです。
もちろんその表現方法はT・P・Oをわきまえねばなりますまい。
話題が曲折しました。このまま進むと大きく脱線しそうですので、ひとまず擱筆。
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銀(シルバーエイジ)の風から ついに母は要介護5

母が退院して20日経ちました。自宅に戻った母は介護制度のおかげで、たいへん行き届いた介護を受けながら、静かに静かにベッド生活をしています。退院時に、病院側から、すぐに再入院になると言い渡されたものですから、最初はおそるおそる見守っていました。何か急変するようなことがあるかも知れないと、妹も泊まり込みで、いわば緊急体勢を取りました。

ところが、母は心配をよそに落ちついており、次第に顔に表情が出てきました。発語はしないのですが、しっかりと頷き、なによりも三度三度よく食べます。食事まではずっと寝ており、昼でも寝入っています。寝過ぎるのではないかとそれも不安なのですが、いまはまだ病院から指示されたたくさんの薬を服用しています。それが原因かも知れません。

ケアマネさんのアドバイスで、介護のレベル見直しを申請しました。調査員が来られよくよく見ていきました。昨日区役所から文書が届き、要介護5という段階に決まりました。これは最高です。とうとうここまで来てしまったかと、ちょっと重い気持になりました。2年前の今ごろはまだ介護制度のことすら私も母もよく知りませんでした。母はまだシルバーカーを押してスーパーに出かけていましたし、食事も整え、入浴もひとりでした。

この2年の間になんと要介護5になってしまったのです。急速に老化が進んだのです。特に2月の骨折と手術、入院生活は大きなダメージになってしまいました。とはいえ、いまのところ特別な病的症状はなく、平穏です。手厚い介護を受けて幸せなのではないでしょうか。この度のレベルアップで、使える枠も広がりました。今は私も全面的に介護制度に寄りかかろうと思うようになりました。公的にも私的にも多くの人に手伝っていただいて、在宅介護を続けていきたいと思っています。それでも限界に達したら、また道が備えられるでしょう。

大きくトータルしてみると、神様の愛の御手が鮮やかに働いているのがよくわかります。神様は母だけでなく、私をも等しく配慮してくださっています。さらに、直接介護に手を出さなくてもいつも気にかけている娘たち、孫たち、特に、愛の祈りを捧げてくださっている方々にも主の祝福が及んでいると信じます。

詩篇27篇4,5節
『主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる』
季節の風から comments(12) -
日々の風から 朗読番組とブログ

すでにお知らせしましたが、キリスト教放送局FEBCから、拙著の朗読番組が始まりました。番組は『小説・聖書の女性』とタイトルされ、4月9日からスタートしています。今放送されているのは『天の星のように』です。昨夜、3回目がありました。放送は電波の関係で聴けないというお声もありますが、同時にネット放送していますので、アドレスを開きさえすれば24時間いつでも聴けると、こちらのほうが重宝がられているようです。

とは言え、友人たちが今晩を楽しみにしていますなどと、お声をかけてくださり、感謝するとともに喜びを味わっています。

私のブログ名も紹介されているので、今までにない大勢の訪問者がおられ、たいへんびっくりしています。うれしさとともに、緊張をおぼえています。これだけの未知の方々が開いてくださっていると思うと、書くことへの責任を強く感じます。

最近のブログは、初期のころと比べるとすべて薄味になっているように思いました。薄味は高齢者の食事には歓迎されるでしょうが、文章となると考えものです。劣化の法則を放置していてはいけないと、そんな反省をさせられました。

とはいえ、気負ったところで名シェフのような料理さばき、いや筆さばきができるわけではありません。自然体でいくしかないな、と、身をすくめたりしています。

春夏秋冬のそれぞれに、希望の風を感じたい。
喜怒哀楽のアップダウンの中にも、希望の風を見つけたい。
生老病死の経験に、希望の風を仰ぎたい。

日に日に勢いづく新緑に筆を浸して、いのちの力をいただきながら、書き続けたいと強く願っています。

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日々の風から  愛しやマイ・チューリップ
我がチューリップ

ようやく、ようやく咲いてくれました。マイ・チューリップが。愛しいのです、ひときわ。
花を育てることに年期の浅い私です、鉢を買ってきて移し替えるだけが多いのです。種や球根から育てることはまだまだできません。唯一しているいのは、初冬にチューリップの球根を埋めること。

昨年は大分遅れてしまいました。そのせいか、友人たちから咲き誇るそれぞれの写メールをいただいても、マイ・チューリップはいっこうに咲いてくれません。来年はもっと早く準備をするぞ、などと先に立たない後悔をしたりして気を揉んでいました。

私の心を知ってか知らずか、マイ・チューリップちゃんは、遅ればせながら、しっかり咲いてくれました。それも、うすピンクの八重姿で。みとれているのです。訪ねてくる人があると、見て、見て、と叫んで足を止めさせてしまいます。まあ、親ばかのたぐいですね。

写真を撮ることも相変わらずお粗末なのですが、笑いながら見てやってください。
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日々の風から 今日の教会生活
会堂の花

日曜日がくると教会へ出かけていく生活が何十年と続いている。一年52回のこの日を逃すことはめったにない。おおかたのクリスチャンは日曜日を中心にして歩んでいる。カレンダーは日曜日が週の最初に来ているが、手帳はそうでないのがほとんど。そこで、クリスチャンダイアリーと銘して作られているものを使うことにしている。日曜日から週が始まる。日曜の欄は特別に大きなスペースを取っている。書き込むことも多いのだ。

今日は礼拝後、年に一度の教会総会が行なわれた。一年の教会行事や決算や予算が議決され承認されていく。1時間足らずでいくつかの議案がスムーズに審議可決された。

その後、久しぶりで長いおつき合いの教友たちとお茶に出かけた。教会は兄弟姉妹と呼び合って家族意識を持って親しい交わりをしているが、男女の違いや年齢差、住んでいる地域などからいつの間にかあちらこちらに仲良しグループができている。大教会になればなるほど、その傾向は強いと思う。

同じ地域に住み続けている昔からのお仲間である。年齢差は12歳。いつごろからか、集まるようになった。近くのレストランで食事をしたりお茶したりする。ずっと誕生日を祝い合ってきた。4人だから年に4回は集まった。ところがここ数年、回数が減ってしまった。年を取ってきて時間の余裕があるはずなのに集まれない。なぜだろう。

今日は4人とも総会に出席したので、声を掛け合ったら成立。歩いていけるデニーズへ集合した。それぞれにお好みのスイーツとコーヒーを並べて、話しに花を咲かせた。
4人の境遇はバラエティーに富む。夫のある人はいない。子どもがいるのは私だけ。親がいるのも私だけ。一人暮らしが2人おられる。持病を患う友もいる。同じなのは大富豪でないこと。

教会を中心にして30年、40年、50年と週に一度は顔を合わせる関係なのだ。思えば貴重である。かけがえのない人生の宝ではないか。そして、この関係はこの世限りではない。地上の生を終えても天国で再会できるのだ。楽しみはつきない。

お茶が無くなったところで、じゃ、また来週、教会でと交わし合って散会となった。

教会の礼拝説教はこのところ連続で山上の説教が語られている。

マタイの福音書5章から
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。


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心の風から 我が人生は単純カラー

聖書学院での半年に渡る講義が始まった。早速宿題が出た。これからは毎回リフレクションペーパーなるものの提出も要求されるらしい。

最初の宿題は『私の人生』。つまり自分史の年表作成である。先生が配布された用紙には自分の年齢からはじまって、クリスチャン生活まで、11の項目が掲げられている。

自分史はあかしの文章を書くにあたって常に確認してきたし、年表もある。しかしこの度の項目にはいままでは触れなかったものもあって、書き込んでいくのはかなりたいへんである。

項目の中に、目印となる出来事、主要な人間関係、中心的価値観、権威などもある。こうした項目で焦点を絞って自分の人生を顧みると、いつくかのことに気がつく。

私は今まで自分史を見るとき、出会った出来事、それも嵐のような大事件が強く思い出され、受けた衝撃や苦悩や苦痛に再び涙したり傷の痛みを感じたりした。そして複雑で、込み入った人生をよたよたと歩いてきたと、そんな思いになっていた。

今回の作業もさらりと事務的にはいかない。しかし、気がついたのだ。私の人生は実に簡単で単純カラー一色ではないかと。

15歳でイエス・キリストに救われ、以来私の神様はただお一人。自分の醜さ、弱さのために信仰から外れることも多く、神様の御心に背いたり、神様に喜んでいただけなかったことは数限りない。

しかし、私の人生は一言でまとめればイエス・キリストと歩んだのであり、今も歩んでいる。言い換えれば、歩んでくださっているイエス・キリストといつもいっしょ、それしかないのだ。なんと単純だろう。波乱万丈、激動の荒波をかいくぐってきたのだと、英雄気取りになることは少しもないのだ。

違う視点から『私の人生』を振り返ってみて、たいへんよい光景を見たと、早くも不思議な感慨を覚えている。そして感謝でいっぱいである。

詩篇23篇を賛美したくなった。 

ダビデの賛歌

【主】は私の羊飼い。
 私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、
 いこいの水のほとりに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ、
 御名のために、私を義の道に導かれます。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
 私はわざわいを恐れません。
 あなたが私とともにおられますから。
 あなたのむちとあなたの杖、
 それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
 私の頭に油をそそいでくださいます。
 私の杯は、あふれています。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
 恵みとが、私を追って来るでしょう。
 私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。

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世相の風から 街行く女性群に異変あり
近年、ウイークデイのレストランは熟女たちであふれていた。熟女の年代は50代全般。子どもが手を離れ、夫は定年前。ようやく家庭から解放された女性たちがおもいおもいに友人たちと連れだって街に繰り出した。商魂は彼女たちをターゲットにし、レディースと特別に銘打って、セールス戦線を張り巡らした。

ところがである。最近ふと気がつくのであるが、街行く女性たちの年代が高くなっている。気軽な食事グループも、旅装のグループも70代前半と見受ける方々が多いのである。以前とは違うと思う。高齢化の一現象なのだろうか。私は自分を含めて、友人たちの状況を知るにつけ、こんな事を考えてしまった。60代の女性たちは、孫たちの世話と親たちの介護でてんてこ舞いの時期なのではないかと。仲良しグループも、一人都合がよくても他の人は無理、そうしたことが続発して、結局群れをなして街へ繰り出すことができない。まして旅などとんでもないのだ。

今、おしゃれをして優雅に街行く女性たちは孫も大きくなり、親たちの介護から解放された、いわば、人生の大仕事をし終えた方々ではないだろうか。彼女たちは数人よっても語り合う声はわりに小さく、周囲の迷惑にはなりがたい。一様に背中が少し丸くなって前かかみである。10年と経たない内に、かつての親の道を行くことになるだろう。嬉々としておられる背後に悲しみの薄い陽が当たっている。

日毎に勢いを増す春の陽、いっせいに芽吹き始めた木々、毎年春になれば大地のいのちは満ち満ちるけど、人の一生は一回きり。人生の春は二度はない。

伝道者の書12章1節
『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに。また、なんの喜びもないという年月が近づく前に』



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日々の風から 春のフレッシュスタート その3 冒険の学び・久々の半年間の受講
緑陰


やせ衰えていくのを感じていた。もちろん私の身体のことではない。私の魂が、である。
知的にも霊的にも充電しなればと、内側からのSOSを感知しながらも、厳しい現況では物理的に無理だった。しかし狙っていた。

可能性が見えてきた。すぐしたの妹が3月でめでたく定年退職した。ウイークデイにも母の介護をすると言ってきた。この日を待っていたのである。ずっと係わっているお茶の水の聖書学院で、クラスの一つを受講しようと思い立った。

聖書学院では卒業後もずっと研究科に在籍して学び続けてきた。だがこちらは月に一回である。これも継続するが、本科を受講したかった。週一回で15回、約半年である。
折しも学院初めての新進講師のクラスが開講した。渡りに舟とばかり申し込んだ。

その心積もりをしていたときに母の事件が起こった。これではとても無理かなと半分あきらめかけたが、第一回はなんとか受講できた。15回皆勤できるとは限らないが、一回、一回祈って与えていただこうと思っている。

ファイルを作り、大きな聖書を提げて出かけた。この18年間、週に1度はでかけてきた学院だが、今回は気分が違う。新入生のように心が弾み、爽やかな緊張がある。なんと幸いなことだろう。

ところがクラスでは私が最年長。ちょっとひるんだがしかたがない。先生もお若い。娘の友人なのだから。講義のタイトルは『豊かな霊的成長を目指して』である。どんなクラスが展開するのか、期待に心が躍る。久々に希望の春風に吹かれている。
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書林の風から 春のフレッシュスタート その2 ネット読書会【カラマの会】08年スタート
 
ネット読書会【カラマの会】を始めて3年目である。初年は『カラマーゾフの兄弟』を読み合った。【カラマの会】の名はそこに由来する。昨年は『エデンの東』。そして今年は『クオ・ワディス』である。岩波文庫で3冊もの。4月、5月の2か月をかけて上巻を読み切ることにする。それぞれが自分のペースで読めばいいのである。一人では力尽きて中途挫折もありうるが、みんなで声を掛け合えば無事ゴールインできるのではないかと相互依存方式を利用しての試みである。

思ったとおり、願ったとおり、過去2年は全員が全巻を読了した。今年だって楽勝と信じている。昨年からミクシイに仲間だけのコミュニティを設けた。連絡や感想文はそこに書き込んでいく。じつに上手に機能している。コミュニティの性質からか正面切っての固い感想文はない。おしゃべりでもするように素顔のままのコメントが綴られていく。

今、メンバーは10名である。ネットを使ってはいるが、身元の不明な方はおられない。少なくとも私は全員を存じあげている。安心してどんな発言でもできる友人関係が築かれている。

今年の課題本『クオ・ワディス』はクリスチャンにとっては親近感の持てる書物である。なにしろ、聖書の時代、聖書の世界が重なってくるからだ。さらに聖書の主役たち、ペテロやパウロが登場してくる。ローマ皇帝ネロのキリスト教徒迫害を描いた歴史小説である。

タイトルの『クオ・ワディス』とは、迫害にたえかねてローマを脱出した使徒ペテロが、アッピア街道を急いでいたとき、イエス・キリストに出会う。(もちろんイエスはすでに十字架で落命したあとのことである)ペテロは思わず「主よ、何処に行き給うーークオ・ワディス・ドミネ」と尋ねるのである。この、ペテロの言葉がタイトルになっている。

イエスは「おまえがわたしの民を捨てるなら、私はローマに行ってもう一度十字架にかかろう」と答えた。ペテロは深くわが身を恥じ、やがて身を翻して「ローマへ」というと、今来た道を引き返していくのである。もちろん殉教を覚悟の上である。そのとおりにペテロはまもなくネロの魔の手に陥ることになる。

これは史実ではなく作者シェンキェーヴィチの創作である。しかしこの物語の与える感動は大きい。先年ローマを訪れたとき、アッピア街道を走った。その途中に、ここでペテロがイエス様に出会ったとして、記念の会堂が建てられていた。説明を聞きながら胸が熱くなって涙が止らなかった。

これから半年かけてこの本を読んでいく。今、全員でスタートしたところである。
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