人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 去りゆく10月 おまけもあって
オリーブ

秋たけなわの10月に一年越しで計画し準備してきた大きな行事が次々に終わって、今日は31日。月末に思いがけないおまけまであって、悲喜哀楽のぎっしり詰まった10月が終わろうとしています。

この2日ほど、10月のおまけに翻弄されました。
Y市に在住の長女宅へ飛んでいきました。一年生になる孫のMちゃんが、体調に異変が出て、再検査になり、それも厄介な病のような気配があるとのこと。長女から連絡があってすっかり動転してしまいました。月曜日は紹介状を持って市立病院へ検査に行くとのこと。
急遽、妹を呼んで母を託し、飛んでいきました。

病気は老人だけがなるものではない、幼い子どもだって容赦はしない、現に世の中にはどれほどの子どもたちが、ご家族が、凄惨な病と闘っていることか、自分の孫だけは例外と言い切れるものではない。もし、そうだったらと、思いたくないことまで次々に考えてしまい、夜も眠れないほど心配しました。

我が子の体調のことは、産み落として以来小さな風邪から始まってどれほど心配してきたことでしょう。自分の病の悩みなど軽いものです。孫への思いも子どもとまったく同じだとつくづく思います。

祈りしかありません。どうにもならないことには、祈りだけがたよりです。祈れることは何と幸いなことでしょう。祈ることを教えてくださった神さまに感謝するばかりです。いままでそうしてきたように、神さまの膝下に駆け込んで祈り続けました。祈っていると、不安や恐れが消えて平安が与えられるのでした。

大好きな新幹線に乗っていても落ちつきません。窓外に目をやるゆとりもありません。いったい帰りはどんな心境を抱えることになるのだろうと、体をこわばらせていました。

近鉄Y駅に着くと、ちょうど病院を出たばかりのMちゃんが階段を駆け上がってきました。
何でもないって、あとはママに聞いてと叫ぶと、私の重いキャリヤーを曳いてどんどん
走ります。一気に胸が詰まって、こちらは歩くことさえできませんでした。

よくよく聞きますと、よくある成長過程での一現象とのこと。町の医師は大事を取って市立病院に廻したようでした。

長女夫婦の思いは私をはるかに越えて深刻だったでしょう。結果によってはすぐに東京へ戻ってくることも考えたようでした。

なんと体が軽くなったことでしょう。重荷を背負うとは実際こんなにも重いものかとしみじみと実感し、この重荷を取り去ってくださった恵み深い主に、ありったけの心を注ぎだして感謝しました。10月のおまけなどと、ジョークを言えるのも主のおかげです。


ああ、Mちゃん、Sくん、それに、世界中の子どもたちよ、みんな、みんな、すくすくと元気に育ってください。
たくましく、やさしく、きよく、ただしく、元気に成長してください。
ひとりひとりに神さまが用意しておられる使命をはたして、よい実をつけてください。 


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日々の風から 台風20号にも負けず コンサート大盛況
時ならず台風20号が生まれて、いたずらっ子のように暴れました。私にとって二つの大事な集会があるので、内心困ったものだと案じていました。

お茶の水クリスチャンセンターで、聖書学院のコンサートがあり、先ごろの長崎ツアーの絵画と写真展も行なうので、準備のために朝早くから出かけました。ところが、信号トラブルで乗っていた電車がストップ、一駅行っただけで下ろされてしまいました。
さて、どうやってお茶の水まで行こう。遠回りして東京駅へ出ました。中央線もだめなら、タクシーかなと覚悟しつつ駅員さんに尋ねたら、走っているとのこと。ああ、感謝とばかり、中央線に飛び乗り、わけなくお茶の水へ行けました。30分のロスがありましたが。

雨風が強くなってきましたが、参加者の足はそれにもまして強かったのです。コンサートは大盛況でした。ロビーは人であふれかえり、展示の絵画や写真に見入り、こちらも大評判で、私たちは主に感謝しつつ、たいへん気をよくしました。準備にはほんのわずかの時間しかなく、どうなることやらと、これも案じていましたが、主のお導きと、先頭に立つ男性たちの力が結集されて、みごとな花になりました。

直接奉仕には携わらないけれど、遠方から駆けつけてくださった方々、久しぶりの方々、友人たちを誘って来られた方々など、みんなで盛り上げたコンサートだったと思います。
それ以上の方々が陰で祈ってくださったのだと、それも実感しました。

改めて聖書学院の底力を知り、老人力もたいしたものだと、妙な?確信を得ました。最高齢の学院長がことのほか喜んでおられ、教え子としてはまたひとつ親孝行(恩師孝行)ができたと思って感謝でした。

同時並行で行なわれたもう一つの集会にも出席して過不足なく用が足りました。神さまは私に二つの体を与えられたのだとたいへん楽しく思ったことでした。
 


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日々の風から 体はふたつはない・重なる行事
明日は出席しなければいけない行事がふたつみごとに重なってしまった。
ペンクラブの学び会とお茶の水聖書学院のチャペルコンサートである。場所は同じお茶の水クリスチャンセンター内の4階と8階、時間は午後1時半から3時までと、これはぴったりと重なってしまった。

コンサートのほうは卒業生としての奉仕がある。それに、コンサートにかけて先だっての長崎殉教者の旅の絵画と写真展をするので、旅した者としては知らぬ顔はできない。なにかしら手伝うことがあるだろう。そこにいるべきであろう。

ペンクラブのほうは、童話とエッセーの集いをする。それぞれの作品を持ち寄って、学び合う。隔月で行なっている。こちらもメンバーとしての責務を果たさねばならない。

困ってしまった。同じ場所にいるとは言え、一つに出れば他方には行けない。当たり前のこと。体は二つはない。

さて、どうしましょう。あちらもこちらも立てたいのである。欲が深いだろうか。体がふたつ欲しいとである。

きっと私のことだから、コウモリのようにあちらに飛び、こちらに座してひとつ体をふたつ使うでしょう。秋は本当に多忙です。疲労だけが残らないように、よい収穫をしたいものです。

 
 
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日々の風から 最近の母のこと
私が在宅で母(明ければ満90歳)を介護しているのを、多くの方々が知って、ことある毎に声をかけてくださいます。「お母さん、いかがですか」「お世話たいへんですね。あなたも健康に気を付けて」などと、励ましやいたわりの温かいおことばをいただきます。そして一様に「祈っていますよ」と結んでくださるので感謝でいっぱいです。

最近の母の様子はといえば…
心身の衰えはとめることができません。いまのところ急を要する病気はありません。月2回の往診でも異常はないようです。しかし、です。いちばん目立つのは足腰の力の減退です。家の中では洗面やお風呂場に移動するだけですが、伝い歩きをするときも支えがなければ進めません。それも、昨今は危うくなりました。

いちばん困るのは、デイーサービスやステイのために外出するときです。玄関の外に車いすを準備して乗せるのですが、そこまで行くのが並大抵ではありません。これまではどうにか支えられたのですが、今では腰に力が入らず崩れてきます。支える私も倒れそうです。途方に暮れてしまいました。

思案の末、施設の方に手伝っていだだこうと思いました。玄関の中に車いすを入れて坐らせました。玄関から道路へ出るまでに段差があり、私一人では越せません。サービスはドアーまでらしいのですが、事情をお話しして玄関に入っていただき、職員2名に私も係わって3人がかりで運び出しました。これならわりあい楽です。ほっとしました。帰りもそうしていただきました。

その他にも衰えていくのが目に見えてよく分かります。そんな母を見ると悲しく、むなしくなるのですが、ますます介護現場が厳しくなるのは心細い限りです。
この先どうなるのだろう…と暗い思い捕らわれます。いやいや、先のことを心配したってどうにもならない、その時はその時のこと、一日一日をがんばっていこう、そう思い直します。イエス様も明日のことは思い煩うなと言っているのですから。

ふだんの母は三食をきちんと喜んでいただき、ほとんど坐って、付けっぱなしのテレビに目を向けています。ときどきテレビの報じることを話し、お天気の様子を言い、淡々としています。肉体の苦痛を訴えたり、愚痴めいたことや苦情などはひと言も出たことはありません。分かっているのか、もうそんな判断力もないのか、見当もつきませんが、私としてはありがたいことです。
『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』マタイ11章28節
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日々の風から 大きな夢が実現するとは
先般証しをさせていただいたキリスト教放送局(FEBC)から、先に勝る光栄なお話しをいただいた。私の書いてきた聖書の女性の朗読番組を設けてくださるというのだ。
朗読者を交えて顔合わせということで、三鷹のオフィスへ出かけていった。FEBCのトップ吉崎恵子氏、担当のM氏、朗読者のMM氏(女性)それに私の4人が一堂に会した。
始めて本を出版したころ、私は大胆にも、ラジオ番組で朗読してもらえたらどんなにすばらしいだろうと、途方もない夢を描いたことがあった。そのころキリスト教放送局FEBCの存在も知った。だが、どうにもならない。歳月の流れのなかで夢も忘れていた。

友人のI兄の紹介で図らずも証しの番組に出演となり、聞き上手な吉崎代表とお話ししているうちに、ふっと、かつて描いた夢がよみがえってきて、そんな話しをした。と、吉崎氏が即座に乗ってくださった。いくつかのプロセスがあったのだろうが、このたび、具体的なお話しをいただくことができた。

放送は来年の4月から週1回15分ほどで1年間の連続ものとのこと。言葉も出ないほどびっくりした。これはほんとうに、ほんとうのことなのだろうかと、認識も感情もしばらくはついていけなかった。

『系図に咲いた愛』『天の星のように』『イエスの愛に生きる』が、全編朗読されることになった。朗読者はかつてプロとして放送局で活躍された方、今は御自分の賜物を主のために使いたいと祈り願っていたという。不思議なお導きではないか。

朗読者MMさんとはすぐに10年来の知己のように自然体でお話しができ、帰りの道々も話し続け、改札口の前でもなお続き、固く握手して名残惜しいお別れとなった。こうした交流が朗読の上にもよい影響力になると信じている。

会見の余韻覚めやらずで心が宙に浮いていたのだろうか、電車を乗り過ごした。お茶の水で下車するところを、気がついたら東京駅であった。

このたびのことは、私の仕事の大きな一区切りだろうと思う。書いて、本になって、読者の手に渡る。ここまででも十分だし、たいへんな恵みである。それが、さらに発展して電波に乗ってより広範囲に届けられるとは、正に、夢のまた夢の成就である。これはひとえに主のあわれみである。主はあわれんでくださったのだ。主のあわれみに浴したのだ。なんと幸いなことであろう。


私をFEBCに紹介してくださったI兄に心から感謝します。
ありがとうございました。おかげさまで、こんなに大きな主のお恵みにあずかりました。兄の上にもさらにさらに主の祝福がありますようにお祈りします。

『主の恵みふかきことを味わい知れ。主に寄り頼む人はさいわいである』詩篇34・8
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日々の風から 秋は楽し その3 秋たけなわの群馬路
秋の安中

読書の秋、思索の秋がにこやかに招きの手を振っているのを尻目に、10月は走りっぱなしです。今日はもう下旬。10月のブログは長崎殉教ツアーとペンクラブの記事だけになりました。残務整理もおおかた片づいて、振り返れば、神さまの恵みの跡がありありと見えてくるのです。

在宅で母を介護している状況下で、旅行に出たり、大きなイベントに携わることは冒険です。無謀と思われるかも知れません。無責任と言われそうです。そうかもしれないのです。
突然はいつやってくるか予測がつきません。それを恐れつつも、こうして、参加でき、奉仕できたことは、すべて神さまのあわれみであり、お守りのおかげであり、恵みいがいにありません。つくづくそう思います。いちばんの恵みはあの激戦のショートステイが計画通りゲットでき、母をプロの手に託すことができたことです。

わずかに残った一泊を、秋たけなわの群馬路に走り、次女宅で過ごしました。長野新幹線でわずか時間足らずなのに、8月の始めに行ったきりです。すっかり秋の佇まいでした。
教会脇のたんぼは、あの時、稲がすくすくと伸びていましたが、すっかり刈り入れも終わっていました。一仕事終えた土壌が秋の陽を楽しんでいるようでした。

浅間山が冠雪したと報じられ、妙義山がいつもより鋭く秋空に聳えていました。豊かな自然を見て、すがすがしい空気を吸いこんで、心身がらくになりました。
読書の秋、思索の秋の招きに素直に応じて、神さまのくださる季節を楽しみたい、そんな心の高揚を抱いて現実へ戻ってまいりました。
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日々の風から 秋は楽し その3 ドストエフスキーを聴く

クリスチャン・ペンクラブ55周年記念の集いのもう一人の講師は黒川知文氏。先生は愛知教育大教授を務めるかたわら、プロテスタント教会の牧師先生もされています。この日の演題は『ドストエフスキーの信仰と文学』ですが、副題は《クリスチャンはどのような小説を書くことができるか》とありました。先生はご自身小説を書かれます。

永遠の?大文豪ドストエフスキーについては、彼の生涯も作品も多くの人が豊富な知識を持っていると思います。文学や書くことに興味のある人なら、必ずや一度や二度はこの巨人と四つに組んで悪戦苦闘した経験があるのではないでしょうか。

昨年私はネット読書会『カラマーゾフの兄弟』読破ツアーなるものを発足し、有志たちとこの大作に取り組んできました。隊を組んで体当たりしたおかげで全員読破でき、快感いまだ覚めやらずですから、演題が来たときからワクワクしていました。彼には新鮮な思いを抱いており、また並々ならぬ思い入れがあり、親近感もあふれているのです。また、あかし文章を綴る者として、副題には大いに期待しました。

講演は【起承転結】形式でいきますと言われて、分厚いレジュメに沿って整然と進められました。起は内村鑑三の文学論と遠藤周作の文学論 承はドストエフスキーの生涯における原体験、転はドストエフスキーの文学、最後の結は、クリスチャンが書くことのできる小説となっていました。講演の全容を述べることはまたの機会をさがすことにしますが、彼の信仰の話しには強い興味が沸きました。

ドストエフスキーはキリスト教(ロシア正教)の家庭環境で育ちました。祖父は司祭、母親は熱心な信者でした。彼は「私たちの家庭では、ごく幼少の時分からみな福音書を知っていた」と言っています。しかし若いときの彼は神学には無関心で、キリスト教による社会改革を望んでいたようです。

ところが28歳の時、ある政治集会で仲間とともに逮捕され、死刑の判決を下されました。ところが、劇的恩赦によって処刑寸前で一命は取り留めるのです。しかし、シベリヤへ流刑となります。その道すがら、デカブリストの妻から一冊の聖書をわたされ、これが以後の彼の信仰に大きな影響を与えることになります。獄中では唯一の書物である聖書をむさぼり読んだようです。また、45歳の時に再婚したアンナ・スニートキナが熱心なロシア正教徒であったことから、信仰が強められて教会に復帰しました。

やがて、「キリストよりも美しく、深遠で、好感の持てる、理性的で、男らしく、完璧なものはなにひとつ存在しえないのだと熱烈な愛情を込めて自分で自分にはっきりと言い切るのです。私は真理とともにあるよりは、むしろキリストとともにあることを望む」と告白するようになりました。

ロシア正教がどのようなキリスト教なのか深くは知りませんが、彼の作品からうかがい知る彼の信仰は、私に違和感を抱かせるものではありません。それ以上に、彼はキリストを愛しており、今の聖書の通りの福音を信じ、それを喜んでいたと思うのです。それ故に、彼の作品には魂の深いところで共鳴できるのです。新訳の『カラマーゾフの兄弟』が最近、異常なほど読まれているのはその辺りに理由があるのだと思います。

黒川師の講演は今の時にふさわしく有意義でした。ペンクラブでは近い将来、再び師をお招きできると思います。そのときは、興味のある方はぜひどうぞご参加ください。
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日々の風から 秋は楽し その2  山本周五郎を聴く
クリスチャンペンクラブ55周年記念の集いではお二人の高名な文学者を講演者としてお迎えしました。一日目は大田正紀先生。演題は『祈りとしての文芸 山本周五郎と聖書』でした。

ずっと、周五郎を時代物作家だと思ってきました。いつごろになるでしょうか、テレビで『樅の木は残った』を真剣に見た記憶があり、歴史上の人物の捉え方が全く違っているのに驚いた覚えがあります。周五郎の作品は、数年前に文庫本を何冊か次から次へと読み続けました。でも、深入りしていく魅力を感じることができなくてストップしました。

今回の講演では、周五郎の机上にはいつも聖書があり、彼ほど聖書を読んだ人はいないと教えられました。周五郎はクリスチャンであった父に連れられて、日本メソジスト横浜教会の日曜学校に熱心に通ったそうです。また、就寝前には必ず主の祈りをもとにして熱心に祈りをしていたそうです。
周五郎の編集記者とつとめた木村久邇典は「山本の作品はすべてが神への問いかけではなかったか」と言っています。

周五郎はいわゆる常識的なクリスチャンではありませんでした。洗礼を受け、教会生活をしたわけではなかったようです。彼を表面切ってキリスト教作家と呼ぶ人はいないでしょう。しかし、彼の魂は神さまを求め、その作品の主題は聖書の説くところに深く根ざしていました。ですから、彼の作品からは、単なる倫理道徳や義理人情を越えて、内面を深く突き動かす激しい力が噴出していて、読み手を圧倒するのです。

ただし、私の信仰感性とはいささかずれるところがあり、接点も見いだせず、結局私は彼を放り出してしまったのです。周五郎は罪を知り、熱心な求道者であり、聖書のように生きようと真面目に努力したのでしょうが、イエス・キリストの救いの光のうちを歩んではいなかったように思うのです。救いの喜びを知らなかったように思うのです。救われた魂の自由を楽しんだと思えないのです。当然それが作品に反映します。ですから感動はするのですが、魂を揺さぶられるような感激はありませんでした。

しかし、祈りと聖書を引っ提げて文学したことは、私たちキリスト者にとってはうれしいことですし、貴重な作家だと思います。まだ読んでいない作品を、新しい思いと目で読んでみたくなりました。クリスチャンの研究者大田正紀先生が、大きく広い温かいハートで周五郎を包み、紹介してくださったおかげです。











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日々の風から 秋は楽し その1
ペンクラブ55周年

日々の風から 秋は楽し

一年のいちばんいい気候、10月半ばにしましょうと、2年前の理事会で決定した『日本クリスチャンペンクラブ創立55周年記念の集い』が、願ったとおり、祈ったとおり、高く晴れ上がった15日午後から始まりました。場所は御茶の水クリスチャンセンターです。

クリスチャンペンクラブは、《イエス・キリストのすばらしさを文章で伝えよう》を合い言葉に、文章活動をしてきた文書伝道団体です。会員制です。資格はクリスチャンで、教会に所属し、日々の信仰生活に励む者たちです。戦後まもなく創立したと聞いています。私は今年で所属して20年です。

地味で小さな団体ですが、全国に会員がいて、地域でブロックを形成して活動しています。今回は創立55周年ですので、みんな一堂に会することにしたのです。関西の方々、中部方々は列車を乗り継いで上京され、関東近辺を合わせて50名ほどになりました。
ほとんどの方と、二十年来のおつき合いですから、遠くの親戚と会うような気持です。いや、親族よりもっと親しいでしょう。お互いに気心が知れているので安心感があります。

今年1月早々に、関東の者たちで実行委員会を結成し、毎月委員会を開いて計画を練ってきました。私は本部事務局、関東事務局を預っていますから、当然、実行委員に加わり、実務をこなしてきました。講師の選定から当日夕食会の献立まで、一つ一つ机上で組み立ててきました。

それがこの2日間、きちんと形になって成就したのは実に感動でした。時間の配分もプログラム通り、オーバーですが、一分の狂いもなく、計画通りに実行できました。ずっと係わってきた者としては、播いた種がだんだんに育って、ついにみごとな大輪の花を咲かせてくれたような喜びを味わいました。

参加した方々が喜び楽しんでおられるのを見ることも無上の喜びでした。
準備の途中では、時に不安になり、果たして幕を開けることができるのだろうかと落ち込んだこともありました。参加者の人数がつかめなくて暗い気持にもなりました。背中に大きな重い荷物をくくりつけられたようで、もがいたこともありました。

大きな幕が張られ、講壇に華やかな盛り花が据えられ、3時間前から集合した実行委員たちの熱気を感じながら、祈りを合わせているうちに、私自身の内側にも一筋の力が走って、すきっと整えられていくのを覚えました。

メイン講師お二人の講演の様子はあとでまとめたいと思っています。ふだん、できない貴重な学びでした。

とっておきの出来事は、念願だった2人の姉妹と3人で、夜半まで歓談したことです。関西からブログ『メメント ドミニ』をあげている優子さんと、同じ関東の『生かされて』の裕子さんです。互いのブログを読み合い、時にメールでの交わりが続きましたが、一度ゆっくり話しがしたいと思うようになりました。でも、なかなか実現できないものです。

このたびは絶好のチャンスとばかり、宿泊のホテルに落ちついてから集まりました。女3人寄れば時も進まず、ではないのが残念でした。あっという間に3時間が過ぎていました。最年長の私の目が霞んできたのを、若いお二人が察して、フィニッシュになりました。名残惜しい修学旅行の夜のようでした。




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旅の風から長崎・平戸キリシタン殉教の歴史ツアー その8 祈りの風に包まれて
祭壇

長崎、平戸島、生月島と、迫害と殉教の跡地を経巡っていると、時と場所が混沌としてきます。2007年に生きる自分ではなく、歴史の出来事のすぐ近くにいるような気がします。また、カトリックの教会を次から次へと訪ねているうちに、ほんとうに日本にいるのだろうかと、場所さえ疑いたくなるのです。

長崎の坂は有名ですが、平戸も生月も道は急なアップダウンのくり返しです。しかも教会堂はたいてい坂道を上りきった高台にあり、眼下に紺碧の海が広がり、或いは変化に富んだ入り江が見え隠れしています。植物の種類も東京あたりとは大違いです。

まだ行ったことはないけれど、ポルトガルやスペインの海岸地方はこうではないだろうかなどと、オーバーな想像が走ります。南国めいていて、異国的なのです。外国旅行をしている気分なのです。そう思う一番の理由は教会の多さでしょう。よくもこんなに建てたものだとただただ感動するばかりです。宣教師と信者になった方々の意気込みが手に取るように伝わってきます。

教会堂はどこも出入り自由です。無人ですけれど。私たちはかならず靴を脱いで礼拝堂に入っていきました。素朴なものもあれば、ステンドグラスに見とれてしまうようなりっぱな会堂もありました。ベンチが整然と並んでいます。ほっとして腰を掛けているうちに、
いつのまにか祈りに導かれています。みなさん、一様に頭を垂れて祈っていました。

そのうち、礼拝堂にはいると期せずしてすぐに祈りが始まりました。打ち合わせも申し合わせもしたわけではないのです。が、めいめいが思い思いに、無言の祈りをささげているのでした。

礼拝堂の最奥には十字架上に磔殺されたキリスト像が掲げられています。もちろん、私たちはプロテスタントですから、例えキリスト像といえども、像そのものを拝むことはしませんが、内住の主、臨在の主を濃密に感じて、しばし祈りに導かれていきました。
気がつくと、私たちは旅するうちに霊的に整えられ高められていたのでした。

この旅では、目に見える収穫もさりながら、肉眼では測れない、殉教者たちの燃えさかる信仰の炎やイエス様への聖い愛を、魂のうちにしっかりといただきました。それは身を揺るがすばかりの希望の疾風でした。(旅日記はひとまず終わります)
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