人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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きのうの風から 時を知って散った佳人
前回の記事に細川ガラシャの辞世の歌を載せました。2年ほどに前彼女について一文を書きました。8月の最後の日に、夏を惜しみつつ、お読みいただければ幸いです。ブログの一回分としては少し長いですが、ご辛抱を。


細川ガラシャの志・散りぬべき時知りてこそ  

細川ガラシャの生涯には二つの巨大な出来事がある。
一つは、丹後半島の山中味土野(みどの)に幽閉されたこと、一つは、関ヶ原の前夜、大阪玉造にある細川家の屋敷内で自害したことである。
味土野幽閉は夫細川忠興の手によって行われた。忠興はなぜ最愛の妻を死地に追いやるように深山に幽閉したのか、その理由は明白である。

ガラシャ、実名玉子は、明智光秀の娘である。
天正十年(1582年)六月二日、光秀は主君織田信長に謀反を起こし、京都本能寺で弑逆した。細川家は逆臣の娘を抱えたことになった。こうした場合、荒々しい戦国のならいでは、玉子は即刻殺害されるか、離縁であろう。
ところで、細川家と明智家は人も知る盟友の間柄であった。光秀からは自分に荷担してくれるように再三催促があった。窮地に追い込まれた藤孝、忠興父子の苦悩は深かった。が、細川家は親友を捨てた。信長の命を弔うとして父子は剃髪して幽斎、三斎と名乗った。戦国大名の身のこなし方は非情である。
 
さて、玉子のことであるが、忠興は離縁と見せかけて、領内の山中味土野に幽閉したのである。忠興は気性の激しい武将で、残忍な振る舞いも多かったようであるが、妻玉子の命をこよなく惜しんだ。おそらく深く愛していたのであろう。玉子の美貌だけの故ではない。玉子は人格も魅力的であったようだ。その夫婦関係はかなり近代的だったと思われる。そして、息子忠興の心中を察する幽斎、藤孝も、人間理解の深い紳士ではなかったか。
 こうして玉子は死を免れ、わずかな従者とともに味土野に落ちのびたのである。
 
若いころから、ガラシャにはひとかたならぬ興味を抱いていた。外国語の名前を持つとはどういうことだろうと、単純な疑問が興味の初めだった。ガラシャとはグレイスつまり恵みの意味であり、彼女がイエス・キリストを信ずるキリシタンと知ったとき、太い綱でぐっと引き寄せられる気がした。と同時に、彼女の死に方に不審を抱いた。クリスチャンなら自殺は罪だと知っているはずなのに…、どうしてなのだろう。
永井路子の『朱の十字架』と三浦綾子の『ガラシャ夫人』がおおよその事情と背景になる情報を聞かせてくれた。

先年、思い立って隠棲の地、味土野に行ってみた。我ながらよく行ったものだと思う。アクセスが悪いのである。悪いどころではない、鉄道は丹後鉄道峰山までで、そこから現地へはタクシーしかないのである。峰山までは東京から新幹線で京都、山陰本線に乗り換えて福知山、近畿タンゴ鉄道で宮津、天橋立を通って峰山である。一日の旅では無理なので、ガラシャが嫁いだ細川のお城があった宮津という小さな町に宿泊した。

翌朝、宮津から峰山まで列車を使い、その後タクシーで山中に入った。
車一台がやっとの細い山道を40分上った。運転手氏によれば、昨今は半年に一人くらいしか訪れる人はいないという。
そこには跡地という目印の立て札が二、三ヶ所立っているだけ。道もそこで行き止まりになっていた。驚くべき深山であった。聞こえるのはうぐいすの声のみ。その時は風さえなかった。一面の新緑の中に溶けてしまいそうだった。

味土野に随行した者の中に清原マリヤというキリシタンの女性がいた。彼女はガラシャの精神生活に多大な影響を与えた。マリヤはガラシャの苦しみを温かく見守り、祈り続けながら、折に触れ、時に触れて神のことを話題にしたのではないか。ガラシャの心はすぐには開かれなかったが、山中での二年におよぶ孤独な生活は、神に到る、なくてならない道筋となったことは確かである。 

さて、天下人となった秀吉は、忠興にガラシャを戻すように命ずる。ガラシャは晴れて新築なった大阪玉造の細川屋敷に帰ることができた。
が、幽閉事件を通して地獄の底を見てしまったガラシャは、以前とは別人であった。一直線に神を求めた。秀吉のキリシタン禁制も、夫の立場も反対も信仰の炎を増すことはあっても消すことはできなかった。
やがてマリヤから洗礼を受け、ガラシャと名乗った。
三浦綾子氏のガラシャは、城中でかいがいしく伝道し慈善に励み、充実した信仰生活を送っている。

戦国の荒波はいよいよ猛く、まるでガラシャを標的にするように襲いかかってきた。さもあらん、世は信仰篤き者を見逃しはしない。時代は豊臣と徳川の二者択一を迫っていた。機を見るに敏な細川家は、今度はなんと家康を選んだ。
敵将石田三成は陰湿な手段をとった。
関ヶ原の前夜と言える16005月、忠興は家康の命で会津へ向かっていた。その留守宅に、石田方から夫人ガラシャを城中に差し出すように使者がきた。つまり人質である。わかっていたことであった。

出陣に際して忠興は、三成の命には決して従うことならずと申し渡した。それは死ねということであった。ガラシャも、人質は意ではなかった。生き延びても、いつか辱めを受けて棄教を迫られ、命も取られることは明白である。 信仰と夫の両方を立てる道は死しかないと判断した。ガラシャの決意を支えたのは強烈な信仰である。

ガラシャは忠興にきっぱりと言うのである
「デウスを信ずるものには肉体の死はありましても、霊魂の死はありませぬ」ガラシャは永遠のいのちを信じたのだ。

「御恩寵の日が来たと、わたしは今思っております。キリシタンの御禁制は日を追って厳しくなるとも和らげることはありますまい。私がキリシタンであることは細川家のために大きな障りとなることは明らかです。かといって、私にはキリシタンの御教えを棄てることはできませぬ」
永井路子は、ガラシャの死を恩寵によって与えられた恵みだと理由付けしている。
三浦綾子は、ガラシャが永遠のいのちを信じ、そこに希望のすべてを託して敢然として死んでいったと強調して、キリスト教の福音を明確に示している。      
 
ガラシャの辞世の歌は生き死にに対する決意を痛烈に物語っている。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ



伝道者の書の一節『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある』を彷彿とさせる。
またパウロの声も聞こえてくる。
『私にとって生きるはキリスト、死ぬこともまた益です』
 
こうしてガラシャは積極的に死を選んだ。決して逃避や自殺ではなかった。死ぬことに志を見いだし、自分の全存在を賭けて死んでいった。 
三浦綾子は、死を間近にして『私にはまだ死ぬという大切な仕事がある』と言って、死に対する考え方に新しい領域を見せてくれたが、ガラシャの死もまた彼女にとっては最後の大きな仕事であった。

人の抱く志は十人十色である。しかしほとんどの場合土俵はこの世である。生きて志を果たしたいのである。的を死そのものに置く人は稀であろう。
ここに見えてくるのはイエス・キリストの十字架の死である。
神さまはガラシャの死をどのように判断されるであろうか。

日本クリスチャンペンクラブ発行 あかし新書27より
きのうの風から comments(2) -
日々の風から 時を知るとは
一つの季節が移ろうとしている。だれに背中を押され肩を叩かれたのでもないのに、自分の時を知っているのだろう。
夏は退却の一歩を大きく踏み出した。その歩幅の大きさと確かさに目を見張る。賢いなあとさえ思う。

次の季節が待ちかまえている。秋は遠慮会釈もなくぐいっと姿を見せる。
真昼はさすがに自分を押さえているが、夕方ともなれば涼風を引き連れて現れ、人の賞賛を欲しいままにする。草花も一時の勢いはない。

そそくさと日は沈み、夜のとばりが降りると、至るところ虫たちのコンサート会場。
人は感傷にふけってしばし思索する。秋も賢いなあと思う。

時を知るとは偉大なことだ。この難事を淡々とこなすのは自然界だけだろうか。創造主に忠実だからだろうか。
人間だけが時を知らない。一番下手ではないだろうか。どうしてなのだろう。創造主なる神様に従順ではないからだろう。

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なり 

細川ガラシャの辞世の歌を思い出す。つくづく彼女は偉いなあと思う。

彼女のように文字通り命を絶つことだけが、時を知るということだとは限らない。しかし、自分の進退の時をきちっと見定める力を持ちたいものだ。自分のバウンダリース(境界線)を認識する知恵を持ちたいものだ。

時を知って、最高の生き方死に方のできたお方はイエス・キリストのみ。十字架の死が物語る意味をもう一度反復してみる。それがわかれば、もう少し時を知った生き方、死に方(己に死ぬこと)ができるのではなだろうか。政治家を皮肉っているのではない。自分を見つめているのである。
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心の風から 心の噴火
確かに彼女の口をついて出た話題はその場所には適当でなかったと思う。今日一日頭から離れなかったから、私の思い過ごしだとは言えないと思う。その時、部屋には十数人の人たちが思い思いに小さな群れで雑談をしていた。彼女の回りには私を入れて3,4人はいた。

例によって健康の話題が中心だった。ふと、40代半ばの彼女が、わりに大きな声で言いだした。「うちの義弟ちゃん、この春からぷっつり作業所にいかなくなって閉じこもってるの。夏だというのに外へ出ないから白い顔をしていて、そのうえ食べるだけ食べて運動不足だからどんどん太っちゃって…」

賢い女性で、今の時代には珍しく大家族に嫁いだ。義父母にも小姑家族にもよく仕えてきた。義弟が心身に障害のある方だとは私も聞き知ってはいた。よくできたご主人と肝っ玉母さんのような姑さんに囲まれながら4人の子を育て、長男はもう高校生になった。
姑さんも80歳を過ぎて弱くなったとも聞いた。そして、彼女の言うには、義弟が一日中家にいるようになったのだ。こうなる以前も、さぞや言うに言われぬストレスがあるだろうとは察してはいたが、人前で愚痴を言うような彼女ではない。年のわりに落ちついていて常識家。特に弱さを抱える方々への接し方は抜群で、尊敬してしまう忍耐の女性でもある。

その彼女が、その場には関係の少ない、しかも家の内情を、わりに大きな声でづかづかといったのである。いつもの彼女らしからぬ物言いだと感じたのは私だけでははあるまい。だれもそれ以上その話題に深入りする人はいなかった。みな、口をつぐんでしまった。小さな沈黙が生まれた。だが、まもなく、話題が変わってしまった。

それからというもの時間が経つにつれて、彼女の話がいよいよ鮮明になってきて心から離れなくなった。

彼女、言いたかったのではないか。いつもの冷静さを変えてしまうほどに、心にしまっておけないほどに、ストレスで一杯なのだ。何処にも持って行き場のない、愚痴とひと言で片づけるにはあまりに重い煩悶が渦巻いているのだ。どさくさに紛れて口にしてしまったとしか思えない。
しかしよかったのではないか。周りの連中は気心の知れたものたちばかりだ。その顔ぶれが彼女の心のたがを外させたのではないと思う。

あらたまってだれかに、どこかに、相談に行くようなことではない。そんなことまでは考えてはいない。でも、心の叫びをだれかに聞いてもらいたい。いや、口に出して叫んでしまいたい。そうしたことは誰にでも多かれ少なかれあるのではないか。

彼女の心の噴火を目の当たりにして、いままでより一歩深く彼女を理解できたように思う。
彼女ももちろん日々に神様の前に祈りをささげているだろうが、私もまた彼女の苦境を思いつつ祈ろうと思う。環境に負けないで、押しつぶされないで、しなっても折れないで、たおやかに、悠然と、キリストの平安をもって、家族を包んでいけるように祈ろう。
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日々の風から 夏の終わりに
鈴鹿の花火

空から大きな音が聞こえる。雷? いや、花火だとっさに聞き分けた。夏の終わりにわりに近くの公園で毎年花火を上げる。隅田川や名のある花火大会には比ぶべくもないが、結構楽しめる。外へ飛び出した。広い通りへ出るとすぐ上の夜空に次々に花が咲き出す。あっという間にかき消えていく、と、また、大きな音と同時に重なり合って花が開く。

道路の両側に人が出てきて空を見上げている。通行人も振り向き、自転車の人も降りてそのまま見ている。みんな一心に空を見ている。おかしいほどに同じ方角を見つめている。
わずか30分足らずだが大満足。この爽快さがいい。夏のフィナーレを飾ってくれた。

部屋にはいると長女からメールが入っていて、今鈴鹿の花火を見てきたとあった。鈴鹿サーキットのスタンドから見た、音楽入で花火が打ち上げられたそうだ。こんな花火を見たのは初めてと、写真がついてきた。アップしたのは鈴鹿の花火です。
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書林の風から こころよい驚き
『カラマーゾフの兄弟』の新訳本が26万部を突破し、古典文学としては異例のベストセラーとなっていると、ある誌が報じていた。まさに青天の霹靂、へえっーと声をあげてしまった。次の瞬間なぜかニヤリととしてしまった。

皆さま、ご記憶でしょうか。
昨年夏、私はふと思いついて『ネット読書会』なるものを立てあげ、ブログを通してお仲間を募った。取り上げた本が『カラマーゾフの兄弟』なのだ。10名ほどのメンバーが、岩波文庫、新潮文庫で4か月かかって読破した。ついに私たちはネット読書会『カラマの会』
を発足させ、この夏、2度目の古典に挑戦している。

今回話題になっているのは光文社古典新訳文庫のもので昨年9月に第1巻が出版された。私たちが『カラマの旅』に出発してからのことである。こちらは4巻ものだそうだ。

新潮社営業部によれば「光文社の新訳が出版される前から、ブームの兆しがあった」とのこと。これにも思わずニヤリである。私たちがいっせいに買いに走ったからよ、今日のブームに先鞭を付けたのは私たちよ、などと独り言をいってまたニヤニヤしてしまった。

なぜ今カラマーゾフなのか、新訳がいいのと、若い頃に読んで挫折した団塊の世代が読み直しているともに、ミステリーとしてのおもしろさが若い人に受けているのだそうだ。
ドスト氏の筆になる男女の愛憎、幼児虐待、テロリズム、父子、兄弟関係や、貧困、宗教、国家など、テーマが現代にも十分通ずるからだともいう。以上の記事はネットで読んだものの要旨である。

それにしてもちょっとした快感である。今ごろカラマを読もうなんて、時代錯誤、老人たちの暇つぶしと嘲笑されるのを覚悟してのことであった。時代遅れのことは上手だけれど、時代の先端を行くことなど、逆立ちしたって不可能なのを知っている。それにそんな大欲はない。しかし、この度の現象はいかにもこころよい。
いっしょに読んだ皆さんの思いはいかがですか。 
書林の風から comments(6) -
日々の風から 雨の朝 生き返る
おやっ、雨ではないかしらと外を見ると、傘を差して歩いている人がいた。忘れかけていたなつかしい風景におもえた。窓から涼風が入ってくる。これもなつかしい気がする。昨日は36度、今日の予報は27度とか。聞いただけでうれしくなる。

このところ、私は自分を不安の目で疑って眺めていた。いつもと同じ自分だと思っているのに、思考が途中で止まってしまいそれ以上奥へ進まない。文章を書いても言葉が萎れている。鮮度がない。しようと思うことも、もうすこしいいかなと、怠惰なおもいばかりが先行する。そのうちに、やらなくてもいいのではないかと、変な決断をしている。

今朝は久しぶりにスッキリと目が覚めた。目が昨今の2倍くらい大きく開いたような気がした。しっかりした声でお祈りを始められた。開いたみことばが立ち上がって歩いてきてすっと心に入った。みことばのいのちが心身にしみわたり、エネルギーを起こしている。

暑さのせいで心身が傷んでいたのだ。人は弱い。外界からの影響力はすさまじいものだ。しかし、気候ばかりではない、世相の風にも、人間関係にも左右される。一人しっかり立ち続けることなど不可能だろう。人間は環境の動物だとはよく言ったものだ。

使徒パウロはその弱さの中で偉大な真理を発見した。キリストのゆえに、弱いときにこそ強いのだと。だから弱さを誇ろうと。

『私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい冨を異邦人に宣べ伝え、また万物を創造した神のうちに代々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです』エペソ3・7、8

『キリストの測りがたい冨』とはなにか、思いめぐらしてみたい。弱さを誇ろう、弱いときにこそ強いのだからとは、キリストの測りがたい冨の一部分であろう。
日々の風から comments(5) -
心の風から 蝉は知っていたのか
蝉の鳴き声はまだまだ勇ましいのに、ところかまわず亡き骸が転がっている。よく目につくのだ。死に場所を選ぶ暇もなく息絶えたのか、一様にお腹を上に向けて干からびている。無惨としか言いようがない。蝉は知っていたのだろうか、自分の死に姿を。

蝉は七年間も地中の深いところで樹木の根から液を吸って成長するのだそうだ。蝉は暗い地中生活に耐えているとき、地表生活のあるのを知っていたのだろうか。

七年後、夏の気配に誘われて地表に現れ、強烈な太陽の光りの中で鳴き始める。人間たちはその声で梅雨明けを知り、夏を実感する。時に愛でる人もいる。
子どもたちは虫取り網をふりかざして追いかける。蝉は自分たちが夏のシンボルだと知っていたのだろうか。

我が世の春(夏?)とばかりに威勢良く声を張り上げているとき、蝉は、わずか7日のあとに死がやってくることを知っていたのだろうか。

蝉はわずか7日間、生き生きと歌い、次世代の命を準備すると、使命果たせりとしてたちまちに息絶えていく。蝉は自分の生涯を知っていたのだろうか。

蝉は、創造主から与えられた本能によってすべてを知っていたに違いない。


閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 

俳聖芭蕉にそう詠まれたことだけは知らなかったかも知れない。

蝉の一生を通して、創造主なる神様は、人間たちに何を語ろうとしておられるのだろうか。自分の人生と重ね合わせて、よき教えを引き出したい。

皆さまはいかがお考えになりますか。


心の風から comments(8) -
日々の風から 夏休み冒険の旅終了
16日夕方に三重県Y市の長女宅に到着した。熊谷と多治見で40・9度の最高気温が出た日である。名古屋駅に降りたったとき、熱い湯に浸かっているようであった。Y市も暑さは変わらない。

つい数日前にさよならしたばかりの孫たちと熱い握手の再会。17日は志摩半島を走り、さらに南下して尾鷲まで行き、熊野古道の一つにほんの少し足を踏み入れた。夕方にはテーマパークスペイン村に寄った。あちらこちらとつまみ食いのような旅であるが、旅気分は満腹(満喫)。志摩の海は凪いでいたが、津波警報が出ていて少々不気味であった。小さな旅でも危険はつきまとい、その意味では冒険の旅であった。

志摩の海岸志摩の海岸B
花火

熊野古道A熊野古道B

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日々の風から 私の夏休み・冒険の旅になるか
ホームから連絡があってキャンセルが出たのでどうぞということで、母は思いがけなく15日から19日までショートステイできることになった。私の夏休みかも知れない。そこで次々に計画を立てている。

明日15日は午前中に母を送り届け、その足で栃木県へ行くことにした。H氏宅訪問である。H氏については以前もブログに、風の仲間たちとして紹介した。奇跡の人である。未曾有の危機の時、想像を超えた救済を得て文字通り九死に一生を得た世にも幸いな人である。彼はそれを神様の愛と恵みだと受け止め、このキリストの働きを何とかして世に知らせたいと思い立った。縷々と書き込んだ一冊を出版した。その編集に係わらせていただいた。

神様の奇跡はその後も氏を追いかけ続けている。まもなく第6章を加えて再版した。ところがこの度、さらに第7章を加えたいという。明日はその準備のために行くのである。この春から原稿を整理しましょうと掛け合ってきた。やっとフリーになれたので、思い切って栃木の氏宅へ伺うことにした。H氏をがっしりと支える信仰の人、賢夫人に会いたいのも目的の一つである。

16日は横浜県民ホールへ行く。所属している日本同盟基督教団の宣教大会が開かれている。全国から1500人もの同盟人が集まってくる。長女も、次女も加わっている。16日は最終日だが、駆けつけたいと思っている。そこで長女と合流し、そのままY市へ行くことにした。わずか2日間ではあるが再び孫たちと会いまみえ、ちょうど夏期休暇に入った婿殿も交えて、小さな夏休みをエンジョイしようということになった。今夏の冒険の旅になるだろうか。

ネット読書会カラマの会も第2回目のツアーが催行される。『エデンの東』文庫本で4冊読破目指して、アメリカはカリフォルニア州モンテレー郡サリーナス渓谷への旅である。これは間違いなく冒険の旅である。人生という巨大な旅には比ぶべくもないだろうが。











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光(キッズ)の風から  孫台風状況 その5 東京ステイ終了
2週間に渡って東京のおうち(孫たちはそう呼ぶ)に逗留した長女と孫たちは、朝食を済ませるとあわただしく発っていった。国立市の自分たちの教会で礼拝をささげたあと、午後の新幹線でY市の家に帰っていく。昨日は朝から荷物をパックし、宅配に手配。なぜか一個増えている。最後の荷物がまた一つの箱になって、私があとから送ることになった。

この2週間、民のかまどはにぎわい続けた。洗濯機は昼夜を問わず動きっぱなしだった。なんど牛乳と野菜ジュースとパンと玉子を買いに走ったことか。掃除機もうなり続け、孫たちは汗を流して床や階段を水拭きした。ある日は、家の外壁を水洗い、車庫もデッキブラシをかけ、久々の大掃除となった。孫たちは水着になって奮闘した。

孫台風と名付けたが、いうまでもなく被害は零。その意味では台風ではない。しかし彼らのうちに渦巻き沸騰するエネルギーは正に台風である。子どもはこんなにもいのちに溢れ、活気に満ち、生き生きとしているものかと、あらためてまぶしく眺めた。

方や、90歳になんなんとして、日に日にいのちの灯火を小さくしていく母を見る。母もいただいているいのちを精一杯生きているのだが、嬉々たるものは見付けがたい。母にも砂浜を走り回った子ども時代があり、私を産み、抱き、背負った時代があったのだが、今は母の像をトータルして理解するために、無理に想像するしかない。

孫たちと母との間に横たわる80年以上の年月の海原を考える。母に近い方に私がいる。否応なしに人の一生とは何かを考えさせられる。

2週間前と同じ森閑とした家に座していると、階段を下りてくるSくんの力強い足音、Mちゃんの風のような足音が聞こえてくる気がする。笑い声、歌う声、喧嘩する声、孫たちの置きみやげを思い出しながら、またまた私は叫んでいる。Sく〜ん、Mちゃ〜ん、寂しいよ。今度東京のお家へ来るのはいつ?
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