人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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光(キッズ)の風 孫台風状況 その2
いざキャンプへ


2週間の予定で上京した長女家族、名付けて孫台風の現在の状況はと言えば…

昨日の朝、卒園した幼稚園の教会学校キャンプに参加して2泊3日で山中湖へ出かけていきました。大きなリュックに3日分の生活用品を詰め込み、小さなバックにはたっぷりのお弁当をいれて、お菓子も持っていざ出発です。4年生のSくんはリュックを背負って走っていましたが、細くて小柄なMちゃんは重みで後ろへひっくり返りそうです。往復とも専用バスですが、さてさてどうなることでしょう。親元を離れての団体生活は、彼らの成長にどんなにか大きな糧になることでしょうか。彼らは幸せだと思います。

かくして孫台風はただいま山梨県に上陸中です。どんな風が吹いているでしょう。
光(キッズ)の風から comments(4) -
世相の風から  自民大敗・ 人は見ている、神は知っておられる。
ひまわり

政治音痴の私ですから、声高にもの申すことはできませんが、昨今の政治の風には気がかりなことがたくさんありました。選挙の行方にもいままでになく関心を抱きました。とにかく多少でも流れが変わればいいなと願いつつ、神様に祈りをささげながら投票所へ向かいました。

選挙結果がこんなにも激変したとは驚きでした。みんな見ているのだとまっさきに思い、なぜかほっとしました。権力の力も、民衆の力も、まかり間違えば恐ろしい事態を招くことになりますが、相対して争うのではなく、日本の国はもちろん、世界のどこででも、一般庶民が平和で安全に暮らせるような地球村であるようにと、これからも日々祈り続けたいと思います。

聞いたようなことしか言えない者ですが、天地宇宙万物を創造し、究極のところでしっかりと歴史を支配している神様の御前で、真実に祈り続けたいと思います。





世相の風から comments(4) -
日々の風から 孫台風ついに上陸
東京駅八重洲口出口 width=



女と孫たち2人の3人が上京してきました。いよいよ孫台風上陸です。台風の規模はいかばかりでしょう。中心の気圧は?瞬間最大風速は?。さてさてどんな影響力を及ぼすのでしょうか。分かっていることは丸ごと希望の風であること。

3か月ぶりの我が家に飛び込んで、Mくんは、早速昨日一足早く到着した2個の段ボールを2階へ運び上げました。Mちゃんは3階の子ども部屋にいってみて、通っていたスイミングクラブのバックを見たとたん、懐かしくて涙が出そうになったと言いました。

折しも今宵は隅田川の花火大会。東京駅までの行き帰りに出会ったのですが、いたるところに浴衣姿の女性たちが溢れ、中には男性も浴衣を着込み、うちわ片手に花火会場へ急いでいました。昨年は電車に乗って近くまで行きましたが、さすがに今年は家の外の道路へ出て、見えるものだけ楽しみました。
振り向けば十三夜でしょうか、ふっくらと楚々たる月が静かに上っていました。
日々の風から comments(2) -
心の風から 生きるとは
谷川俊太郎詩選集1より『生きる』(集英社文庫)

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ



生きるとは単純な現在と、美しい過去と、正常な意志や感情表現と、分にふさわしい生き方の総合体だと、詩から思う。自分の辞書には載っていない異種の突風に翻弄されてあわてていたら、この詩にであって、傾きかけた心身が立ち直った。詩が新鮮ないのちの風を吹かせてくれた。そこに希望の風の匂いがした。

私の思いはさらに上昇する。生きるではなくて、生かされているのだと。創造主のみこころのままに、鳥ははばたき 海はとどろき、かたつむりははうのだ。そして、人は愛し、互いの手のぬくみを分かちて喜び合うこと、それが生きることであり、こうして神に生かされているのだと。

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日々の風から 一銭もない
行きの車中で気がついた。お財布がないのである。落したのではない。バッグを変えたとき、携帯電話、キーケース、定期入れ(スイカ、JRの回数券が入れてある)、手帳まではしっかり確認した。お財布は当然入っているものと思いこんでいたのだ。

目的地までは回数券で行ける。目的の用事もお金の必要はない。だから、何事もなければ家に帰り着けるはずである。
しかし、なんと頼りないことよ、一銭も持っていないとは。
カードもお財布の中である。バックのポケットに現金をいれておく習慣はない。現金の出し入れはお財布オンリーなのだ。

落ち着かない。どうしたのか体が浮いている。どうしてもしなければならない買い物はない。しかし、帰り道に駅ビルによって、地下室をひとまわりし、果物や野菜まで買うこともある。それは、今日は我慢すればいいのだ。だから、お金がなくても済むはずなのに、私全体を支えているもの、例えば足一本を外された気がするのだ。

ふだんはちっとも感じないが、こんなにもお金に支配されているのかと、唖然たるおもいになった。時に定期入れを忘れたこともあるし、携帯を忘れて、失敗したと悔しがることもあるが、お財布を持っていない事に比べたら、動揺は小さく、不安は少ない。

電車が動かなくなって違う交通を利用しなければならなくなったら、切符が買えないではないか。それが最初で最後の心配であった。
途中、キリスト教書店がセールをしていたので、会場に入ってあれこれ眺め、心動く本があったのでレジまで運ぼうとして、ああ、買えないのだと、ぎくっとした。本を置いてすごすごと出てしまった。知人に出会って、セールしてますよ、見ましたかと声をかけられ、どぎまぎしてしまった。

一目散で我家に駆け込み、玄関で、無事に帰れました、主よ感謝しますと祈ってほっと息をついた。暑さだけでない汗がどっと噴き出た。とんだ失敗談である。
娘にメールしたら、この頃その手のこと多いんじゃない、でもよけいな買い物しなくてよかったねと妙な慰め方をされた。

確かに最近こんなミスが多い。が、老化のひと言で済ませたくない。老化からのミスを防ぐためにももっと注意深くならねばと、自戒したことであった。
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日々の風から ねぎらい
栃木家の竹庭

東京に住む二人の妹が(もうひとりは八ヶ岳南麓にいる)食事に招待してくれた。母を介護する私をねぎらう意味らしい。日頃から、子供時代とあまりかわらないくったくない係わり方をしているから、あらたまった言葉を使っての招きではない。老舗の日本料理のお店を予約したからどう?くらいである。

おばあちゃん(我が一族はみんな母をおばあちゃんと呼ぶ)を一人にして私たちだけ出かけるのは気がかりだから、デイサービスの日にしよう、安心していけるからね。ということで今日の日が決まった。

東京と千葉県を分ける江戸川を越えて、手児奈で知られる市川真間にある江戸時代から続く料亭である。当時市川は、日本橋界隈の豪商たちが四季折々の安らぎを求めて繰り出した別荘地であったとか。
伝統料理は大胆かつ豪快さを秘めたもので、それを継承しているという。そういえば一見して京懐石とはちがうなと感じたが、江戸料理の名残と知るととたんに妙に親しみを感じた。お国贔屓をおゆるしあれ。

青々とした竹庭が目に入り、すぐそばに国道14号が走っているのを忘れるほど清楚で静閑な佇まいであった。ほっとして心身がほぐれるのを感じた。

妹たちはそれぞれに仕事の合間に毎週一回は我家を訪うてくれる。ほんの僅かな時間ではあるが母を世話するつもりなのだ。役割が決まってきて、一人は必ず母の部屋を掃除していき、末の妹は手足の爪を切る。時に私と組んで母の髪をカットする。

それでも、本格的な介護の役には立たないと私は時々腹立たしく思うこともあるが、彼女たちが来ることは私の慰めにもなっている。なにしろ、人が出入りするだけで、母と二人っきりの緊張がほぐれるのだ。それを感じるようになった。

妹たちは私の代わりはできないと思っているようだ。もっとも、私が看るのは当然とも思っているのだが。その分、私に借りがあるような思いをしているようだ。私は何も非難がましいことを口にはしないが、妹たちには大きな貸しがあるぞとばかり、このような招待は大きな顔をして受けることにしている。
日々の風から comments(4) -
心の風から 近ごろの自分のこと
過ぎゆく時のスピードが、ある時から2倍以上に速くなったと、最近とみに強く実感する。加齢による感覚だとはよく聞くが、そればかりではないと思う。長女家族が転勤して、家の中から4人分の流れが減ったことになるのだから、時間もスピードダウンしたはずだ。家は静寂だから、畢竟、時ものろのろと緩慢なはずだ。

だが、以前よりいっそうスケジュール帳に目を走らせる。母の分も、とうとう別に書き込みカレンダーを作った。二つを見比べ、漏れのないように確認する。
そうだ、母のスケジュール管理と、そのスケジュールに私の毎日が係わってきているから、つまり、二人分の生きることを同時進行させているから、めまぐるしいのだ。

週2回の入浴日、毎週のデイ・サービスの日、月2回の往診日、時にショートステイに出かける日、迎える日、月初めのステイ申し込み、おむつ配達の日、レンタルベッド料振り込みの日、ケアマネさんの訪問日などなど、私の時間にそれらがぐいぐいと割り込んで、私の時間を奪っていくのだ。かなり強引な時間泥棒なのだ。だが泥棒だと分かっていても追い出すわけにはいかない。

私一人でもかなり立て込んだ日々を送ってきたはずだ。教会の他にも、定期的に外出したり、在宅で処理する団体や組織に係わっている。母が元気な頃ずっと、私は息せき切って自分だけのスケジュールを走っていたのだ。とろこが、今は二人分を生きている。時間が足りず、時が飛び去っていくわけである。

相変わらず家の中は静かである。このところ母も静かにしている。元気がなくなったのだろうか、階段の下まで歩いてきて、しっきりなしに私に声をかけていたのが、めっきり減った。
日がな一日、テレビの前に腰をかけ、見入っている。時に居眠りをしている。
家は静かだ。けれど、静かさの中を、時間が、日が、駆けていく。無言で走っていく。ところが、私は平静心で彼らの後ろ姿を見ている。やり過ごしている。
時に明るさを、さらには希望の風すら感じている。
心の風から comments(6) -
日々の風から また腕をつかまれて
郵便局を出たところで、知人にばったり出くわしました。知人と言っても名前さえうろ覚え、お住まいもたしかこのあたり、という程度のおつきあいです。以前に、我が家の近くにあったブティックのスタッフでした。オーナーとの義理で、ちょくちょく立ち寄りましたが、たいした買い物をしない私なのに、彼女は気持ちよく応対、歓待してくれました。小柄ですらりとしておられ、どんな服装も似合う可愛いらしい女性でした。

太りました?開口一番こんな失礼なことを言ってしまいました。太ったと言うより浮腫んだ感じ、お化粧もなく顔色が冴えず、髪もあまり手入れされていません。ちょっと驚きました。今、お仕事は?とまたプライベートに立ち入った質問に、なにもしていません…ははを介護していますので…とうつむくのです。
あら、私もよ、母がこの一年で急に弱くなって、と言いかけるやいなや、彼女はハッと顔を上げ、体をぐっと近づけて私の腕をつかんだのです。
 
お母さんって、お姑さん?またまた私はぶしつけな問をしました。
そうです、主人の母です。半分痴呆が入っていて、……。
さあ、それから約30分、彼女は介護の惨状を話し続けました。話すというより、訴えていました。時々私が、私の母もね、と入れるのですが、そんな言葉はひきちぎられてしまうのです。

義母には若いときから言葉の暴力でさんざん苛められてきたこと、長男夫婦から戻されて次男の我が家にきたこと。実の娘は義母の経済をしっかり握っているだけで介護はしない、介護制度を使おうとすると、主人からそんなひどいことがよくできると、非難され、どうにもならない…。

よくある話かも知れませんが、こうして知人から直に聞かされると、驚いてしまいます。ちょっと目には皆さん何事もないように振る舞っていますけど、内情はいろいろあるのだなあと、あらためて知らさせれる思いでした。

でも、わたし、前向きに考えて、一生懸命やっていこうと思います。悪く考えたらきりがありませんから、それに何の解決にもなりませんから。
彼女は私の手前、言いつくろったのかも知れません。でも、自分自身に言い聞かせたのかも知れません。一呼吸できたのか、かつての笑顔に戻って、自転車を引いて歩き出しました。ふと、この人、心身病んでいるのではと思いました。

お年寄りの介護そのものも並ではないのに、そこへ家族親族の問題が絡み合ってくるのはどういうことでしょうか。私には経験がないだけに、怒りがこみ上げてしまいました。この際、双方の言い分など知りません。ただただ知人に味方したい気持なのです。

彼女に、ぎゅっとつかまれた腕に、しばらく感覚が残っていました。以前、全く同じ事をされて、義母の介護を涙ながらに話した友人が思い出されました。二人とも、私が母を看ていると聞いたとたんに、私をつかんだのです。二人とも同じ心理作用だったと思います。

同じ経験をしている人なら、きっとわかってもらえる、そう直感したのでしょう。理解してもらえそうにない人には(経験だけが決めてではないでしょうが)例え張り裂けそうな思いがあっても心は開けないのもです。
そういえば私も、母のことを真剣に話し相談するのは、介護経験の大先輩と、今戦いの最中にある人です。意識下ですでにその選択があります。


今度は誰に腕をつかまれるでしょうか。ストレス解消の一助けになれたらと思いながら、私も誰の腕をつかもうかと、ちらちらと考えたことです。
日々の風から comments(4) -
日々の風から 前ぶれ
ハガキが飛び込んできました。孫のS君からです。
「夏に東京に遊びに行きます。お母さんが新幹線を取ってくれました。新しい新幹線N700系なのでうれしいです。AYANA(教会の子どものプログラム・注はおばば)のことを紹介しましょう。Y日市キリスト教会のことも教えます。楽しみにしていてください。
ついしん・AWANAと勉強の道具を持っていくので荷物は多いと思います。よろしく」
真ん中にスイカのシールが貼ってありました。

来週末から2週間ほど、長女と孫たち3人が、帰ってきます。ところがS君は遊びに行くと言います。彼にとってはすでにY市が我が家なのでしょう。私は妙な気分です。

友人たちに話しをすると、うれしいでしょう、うれしいでしょうと、そればかりです。心の内をズバリと言い当てられてしまいました。もっとも、心の内なんてものではなく、ありありと顔に出ていたからでしょう。

冷凍庫はすでに氷菓で一杯です。昨日、生協にいつもの3倍ほど注文しました。娘に話しましたら、キャンプに行くんだから、家で食べるのは少ないわよと言われてしまいました。
今日から段ボールに入れ始めるとのこと。まもなくはち切れそうな荷物が到着するでしょう。
来週は、家中大掃除です。梅雨が明けてくれなければ困ります。暑くて少々辛くても、強烈な夏の日差しといっしょに彼らを迎えたいものです。
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世相の風から 名前を呼ばない病院
野の花を生けて

2か月ぶりに定期検診に行きました。都立の総合病院です。最近事務的な部分で改良?が進んでいました。受付のしかたも変わりました。採血の時も番号だけがモニターに表示されるようになりました。

この度は、待合室から先生のおられる診察室へ行くまでが変わっていました。これまでは、先生がマイクを通してですが、直に名前を呼びました。「○○さん、2ばんへどうぞ」と。
今回は、待合室の前にカラフルな横長のモニターが掲げられ、先生の部屋番号に続いて、次々に番号が表示されていました。

えっ、これはなんだろう、と思って自分の受付表を見ましたら、今まではきちんと漢字で私の名が記されていたのに、なんと3桁の番号のみではありませんか。ちょっとショックでした。その番号が次々にアップされていたのです。

いざ診察室に入る時も、先生ではなく、女性の声で番号が呼ばれました。番号だけではうっかりしていたら聞きそこなってしまいます。 緊張して、私は○○○番、私は○○○番と確認して待つ有り様です。もう先生から大きな声で名を呼ばれることもないのです。

私は番号にすぎないのか、私は番号化されてしまったのか、まるでロボットのようではないか、そんな寒々とした思いになりました。プライバシー保護のためか、事務の簡素化のためか、そのどちらも、なのでしょうが、人格を否定されたような、人間性を無視されたような、なんともむなしい思いになりました。

思えば、番号化などとは今に始まったことではないのでしょう。大勢の人を間違いなく管理整理するためにはそれがいいのでしょう。年金の管理の問題が騒がれていますが、ああしたことは、番号できちんと整理するに限ります。

批判とか非難ではないのです。時と場合に寄りますから。でもお互いに何の心配もなく精一杯の親しみと愛を込めて、名前を呼び合うのは、もうかなわぬことなのであり、単なる郷愁でしかないのでしょうか。寂しい世の中になりました。

ふと、聖書のことばを思い出しました。『わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ』(イザヤ45章4節)とあるのです。これは容易ならぬ貴いことなのだと、今更のように思い返しました。神様だけは、私がいくつになっても、世の中がどのように変わっても、私の名で私を呼んでくださるお方なのです。名を呼ぶとは、絶え間ない愛の告白と言えます。
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