人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 2006年よさようなら
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あと20分ほどで2006年が終わるでしょう。
今年はブログで開け、ミクシイやe−メールを含めて、ネットに係わる割合がかなりを占
めた年でした。新しいことをした年でした。楽しく興味深い体験をしました。
一年間、ご愛読くださった皆々さま、ありがとうございました。お疲れ様でした。

2007年もおなじペースで続けられるか、本人にもわかりません。意志だけはあります
が。なによりも私の歩む道の先頭に立つイエス・キリストに聴きながら、従いながら、一
歩一歩主とともに冒険の旅をしたいと思います。


ヨハネの福音書14章6節
『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』
日々の風から comments(0) -
書林の風から ネット『カラマーゾフの兄弟』読破ツアー 旅日記その6
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8月15日に出発したネット『カラマーゾフの兄弟』読破ツアーは、12月25日クリスマスの朝、予定より10日をオプションして、全員無事に帰国いたしました。無事にとは、全員があの大作『カラマーゾフの兄弟』を読み終えて、4回に渡る旅日記(感想文)を提出したことです。

途中帰国する方が一人もおられなかったことが、なによりも第一の収穫です。かなりの強行軍でしたが、さすが長年鍛えた健脚がものを言ったのか、弱音を吐く人もなく、かえって終りに近づくほど、意気盛んでした。皆さんが異口同音に、参加してよかったと言ってくださったこと、ツアコンとしてはこれ以上の喜びはありません。

最終旅日記は合計でA4版19ページの圧巻となりました。回を追うごとに感想文もりっぱになり、一冊にまとめて出版したいような気持になりました。

最終旅日記から、9名の抜粋文をご披露します。


Fさん(女性50代)
12月4日にようやく読み終えました。最後はアリョーシャの言葉を読んで号泣。
『カラマーゾフの兄弟』読破ツアーに参加してよかったと心から思いました。ひとりなら完読しなかったでしょう。
最初読みづらかったのと、内容が理解できないので、ツアーに参加したことを後悔しました。感想などとても書けないと思って、ツアコンの希望姉に途中下車します!と書き送ると、「空の旅ですから途中下車はできませんよ」とお返事をいただき、悲鳴を上げつつ読み進めていきました。

4か月のツアーの間に父の葬儀と息子の結婚式があり、激動の時を過ごしました。つらいときでも本を読むと『いま自分はロシアにいるのだ』という気になり、(現実逃避かもしれませんが)気がついたら悲しみの波が去っていたという感じでした。旅の仲間たちの存在も心強く、同時期に9人が同じ本を読んでいるのだという連帯感が孤独から救ってくれました。
イリューシャの埋葬で小説が終わっているのは意味深いことだと思いました。
父の死を目の当たりにして、人の命のはかなさを感じ、『生きるとはどういうことなのか』深く考えさせられたこの時期に読むには、あまりにもぴったりすぎました。主のくすしい導きを感じて、心が震えています。
アリョーシャが石の傍らで語った言葉は、遺された者にとってなんと慰めに満ちた愛のあふれる言葉なのでしょう。読むたびに涙があふれ出ます。
「美しいひとつの追憶がわたしたちを大いなる悪から護ってくれるでしょう。」「われわれの心のよき記憶を捧げようではありませんか。永久に変わることなく!」
天国で再会するという希望のメッセージにドスト氏の信仰を見、ヨハネ12:24のみ言葉が書かれていた意味をようやく見いだしました。 


Sさん(70代男性)(S氏は全巻を一節ごとにまとめてくださいました)
  第三 イリユーシャの埋葬 アリョーシャの別辞
少年イリューシャを埋葬する場面が詩のような美しい文章で書かれています。特に、
「いったい楽しい日の思い出ほど、殊に子供の時分親の膝もとで暮らした日の思い出ほど、その後の一生涯にとって尊く力強い、健全有益なものはありません。諸君は教育ということについていろいろ喧しい話を聞くでしょう。けれど子供の時から保存されている、こうした美しく神聖な思い出こそ、何よりも一等よい教育なのであります。過去においてそういう追憶をたくさんあつめた者は、一生すくわれるのです。もしそういうものが一つでも私たちの心に残っておれば、その思い出はいつか私たちを救うでしょう。 以下略」
と書かれたアリョーシャの別辞が素晴らしく、読む人の心を強く打ち、ドストェーフスキイの子供に対する愛と願い、そして復活を信じる強い思い等がひしひしと伝わってくるように思われました。


Mさん(70代女性)
裁判について
こんな風に裁かれたら堪ったものではない。科学捜査はなし。お江戸が舞台の捕り物帳でも、もう少し理詰めにやっている。これでは正に、心情的感想の発表会だ。
控訴の制度はなかったらしい。現代の日本なら、一審の判決が二審で覆ることもある。それも不服なら、地裁から高裁にという道もある。そして、一事不再理となれば仕方がない。それに、なによりも、確たる証拠の品が大切。

私事ですが、夫の退職直前、部下が詐欺事件に巻き込まれ、裁判になりました。一審は負け、その筋のお方に、証人を頼まないと勝てなくなりました。が、そのお方は成功報酬を要求されました。それはまずいので、証人は断りましたが、二審では勝ちました。
そのお方が書いたメモが有力な証拠となったのです。それには、資金の経路が説明されていました。一審は二億円の支払い。二審はゼロ円。高裁は門前払いで終わりでした。
そのメモは、震災後の神戸へ、瓦礫を踏み分けて行き、得てきたものでした。


Nさん(70代女性) 
 面白かった!もう一度辿り直しながら細かく検討し、読んでみたいと思う書物の一つとなりました。
 ドストエフスキーは、この大作を書き終えて八十日後に亡くなっていることも考えさせられることです。彼自身は後二十年後も生きて書き続けるつもりだと言っています。そして、アリョーシャを主人公に続編を書くという約束もしていたそうです。残念な気もしますが、書いてくれなくて良かったと思います。十三年後のアリョーシャの構図は、この後の続編には精神の病に冒された(イヴァンのみでなくドミートリイも)兄たちだけでなく、アリョーシャさえも救いのない末路を辿るのではないかとの危惧を抱かせるものだからです。「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん。もし死なば、多くの実を結ぶべ
し」                           ヨハネ伝第12章24節
 ドストエフスキーの視点から、主人公の一人アリョーシャの生き方は、この御言葉の真の意味が成就される方向に展開されるでしょうか。少し不安感を持ちます。
 
読破ツアーのお蔭で、楽しい旅の終着となりました。一人きりではない、同乗者が居るという心強さに支えられて来ました。ありがとうございました。


Yさん(50代女性)

今回はこの大作に挑戦する意欲はよかったが、自分の能力を改めて考えさせられる経験となった。自分の能力と今の状況を考えるべきだった。せっかくのネット読書会のチャンスなのに大急ぎの読み方で、じっくり考えることなく義務と化してしまったことを告白したいと思う。故に細かい感想は述べられないが、何よりも感じた事は大作家たるものは深く悩み、深く求めいく魂を持つからこその器であり、傑作であるということだ。

人類最大の難問であるところの神の問題を問うていて、これこそが「神の沈黙」という終わりのない問いかけであり、深い苦悩である。これこそが究極の苦悩であり、その問題を書いたドストエフスキーこそが徹底して悩みぬいた人だということである。「大審問官」における思想劇を読んでいると、まさに自らの軌跡でもある。
 
 私にとって『カラマーゾフの兄弟』は読んだことにはならない旅の終わりであった。ただ、大きな収穫はツアコンさんとの関わりである。途中下車させてはいただけなかった。
ここに自分の姿勢が正される思いがした。一度決めたことは、日常の忙しさということぐらいのことでは中断してはならないということである。私の意志の弱さが暴露され、55年間を悔いてもいる。今後に活かし、収穫ある人生としたいと思っている。


Aさん(40代女性)
「カラマーゾフの兄弟」4巻読了後、私はさらに亀山邦夫著「ドストエフスキー父殺しの文学」上下巻(NHKブックス)を読むことにした。インターネットで見つけた本だったが、良い本と出会った。これも赤鉛筆を持ちつつ読んだ。興味のある方は是非お読みいただきたい。
「カラマーゾフの兄弟」は、私にドストエフスキー流のノンフィクションと小説の関係というものを教えてくれたが、また文豪と呼ばれる人達が、なぜ男であることが多いのかもわかったような気がした。非日常と観念の世界に、強烈なリアリティとシンパシーを感じられる鋭い感性や、人に同化してしまう稀な才能、開き直らない繊細さ。こういったものは、日常の暮らしを生活感を持って逞しく生きる女にはない、まったく「ロシア的」な資質なのではないだろうか。作品の中の登場人物たちと共に生きていたような作家の人生を知って、逆に平凡な毎日の中にある幸せを思った。

偉大な作家の最後の作品から読み始めたことは、読者としてすごいことだった。ただ読むだけでなく、定期的に感想文を書かなければならないこともまた大したことだった。無神論者や悪者達(悪魔と呼んでもいいのかもしれない)といっしょの旅は、私の今後にとって、とても良いことだった。この作品に今出会えた意義があり、今の自分だから自由に受け止められたことも多かった。他の作品を読んでから、また必ずこの作品を読み返したいと思っている。

みなさんといっしょだったから最後まで続けられた旅だった。いっしょに旅して私が得たものはとても大きかった。読書の楽しさ、感想文を書いている時のまた違った楽しさ。2006年は「カラマーゾフの兄弟」をみんなで読み、ドストエフスキーに出会った1年として、いつまでも記憶に残るだろう。
一度はゴミ箱に捨てたのに…「カラマーゾフの兄弟」は戻ってきて私をつかみ、新しい文学の扉を開き、豊かな世界に招き入れてくれた。


Mさん(60代男性)
No.7 最終章 ニヒリズムの超越   
長い旅、5ヶ月に及ぶ読書生活。思い返すに、暑さの中、また秋風の中、そして木枯し吹く中と読み来たった「カラーゾフの兄弟」感動です!
最初、旅出するにあたって本書に掛けた課題が答えられたからです。十分かどうかはこの方の責任ですが、ニヒリズムは克服された!万歳!主に感謝!ハレルヤ!
結論;ニヒリズム否、ニヒル(無)はニヒルを受け入れる事です。本書を読み始めた最初から、私はイワンに注視、注目してきた。ドストの思想は、登場人物に万遍と無く与え表されていますが、取分け中心はこのイワンにこそ注がれていると私は考えてきました。彼をして、「全ては赦されている」と語らせているからです。これが本書の中心主題であると確信します。
今回皆様と読書の旅すがら、その内容理解を深められた事を厚く感謝申しあげます。ドストの思想は、今一度ニーチェの超人思想、「神は死せり」に結実。不安の哲学者ハイデガーにより「実存哲学」に普遍化された。そこからサルトルの「人は自由であるべく呪われている」と自ら自由の道を全うした。彼ら、カインの末裔たちも神の赦しのもとにあることは聖書が保証しています。(創世記:4章15節)
19世紀最後の予言となったニーチェの言葉通り、20世紀は正に”戦争と革命の世紀”(レーニン、毛沢東、金日成、ヒットラー、昭和天皇、・・・・)の世紀でした。私たちもその証人です。現在、ペレストロイカロシアの再建にドストの著作が再び光を受けていると耳にしますが、スラブ主義を超えた超現代の思想「全ては赦されている」を生かしてもらいたい。ロシアンオーソドックス(正教)の枠を超えた実存として、神につながり「全ては赦されている」と実感したいものです。


Sさん(50代女性)
ツアーの皆様、その後いかがですか。
わたしは、終了後、本を開くことなく年末を迎えました。
1ヶ月ほど前、椎名麟三の「信仰というもの」昭和39年を見ていたらイワンのことが出てきました。「自由の不合理」でドストエフスキーの「未成年」のアルカージイと我々のイワンを取り上げていました。アルカージイは孤独の自由について、イワンは社会主義的な自由についてです。とくに「大審問官」を取り上げて論じていました。
椎名氏の経歴からして、そのような論は推測されます。また、時代もあることでしょう。あそこを信仰の面から読むか、政治の面から読むかは、読者次第です。人が自由なのはキリストによるのか人の力によるのか、と問う。彼はクリスチャンですから信仰的な解釈をしていましたが、なるほどそのような読み方をあるのかと思いました。
お目にかかっての読書会があったら、参加したいです。


Kさん(60代女性) 
終りに近づけば近づくほどイヴァンが気になった。一般的には彼は無神論者だとかニヒリストと呼ばれる。しかし、そうだろうか。そうは思えないのだ。彼は苦悶する人だ。鋭敏な魂を持ったむしろ宗教的な人なのだ。彼こそドスト氏を反映しているのではないか。
よく長男ドミートリーはロシアを、イヴァンは西欧を著していると言われるが、アリョーシャは宗教であろう。宗教であるアリョーシャにありったけの光を当て、人々の賞賛を与え、終焉をかぎりなく感動的に飾る役を与えたドスト氏は、ここにどんなメッセージをたくしたのだろう。ロシアも裁かれ、西欧も裁かれる。勝利はキリストの信仰だけだと言いたいのではないか。
それにしても、本書が冒頭に掲げた聖書の一節、ヨハネ12章24節の一粒の麦は本当のところ何を意味するのか。多くの実を結ぶために一粒の麦になって死んだのは誰のことなのか、ふと、あの少年イリューシャではないかと思えた。彼の死は多くの人の心によきものを芽生えさせた。アリョーシャの信仰によって、未来への希望の光となった。惜別の辞には忌まわしく悲しいいくつかの死を越える希望の風がそよいでいたはずだ。

最後に、最近興味ある話を知った。
あの日野原重明氏は、1970年の赤軍によるハイジャックのとき、よど号に乗り合わせていたことは有名であるが、その機内で、赤軍は本をぎっしり詰め込んだトランクから、好きな物を読めと乗客に促したそうである。日野原氏は『カラマーゾフの兄弟』を手に取った。そしてページを繰って、冒頭の聖句を読んだ。
ああ、自分はここで一粒の麦になって死ぬのだろうかと思ったそうである。
日野原氏は死なずに、生きながらにして多くの実を結んでいる。希望の風を吹かせている。


あわただしい年の瀬に、大量の文書をアップしますが、おゆるしください。このツアーの行方を興味を持って見守り密かに応援してくださった皆さまのご好意に対しても、果たすべきだと信じて敢行しました。ご声援ありがとうございました。
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日々の風から 最後の一葉はなかった
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まさに冬、今日は本当の冬の顔がみえました。つい数日前まで黄葉をまき散らしていた銀杏の木が今朝は丸裸になっていました。
実は最後の一葉を見たいと願っていたのです。オー・ヘンリーのあの名短篇を思い出しながら。
木枯らしの厳しい揺さぶりに耐えて、最後まで残るのはどの葉だろう。
それを見たら、私もすばらしいインスピレーションを受けて、名作が書けるのではないかと(皆さま、笑わないでください)期待していたのです。

無惨にも、木枯らしは一葉も残してはくれませんでした。私はただぼう然とするのみで、想像力も胎動せず、創作のペンは停止したままというわけです。


銀杏の木はよけいな物をことごとくそぎ落として身一つになりました。一糸もまとわずにこれから数ヶ月、じっと寒風に耐え抜くのです。神の助けを求めるように、梢の細枝まで天に向かって手を差し伸べています。木枯らしの中にもおられる神様は、そっと希望の風を送って木の内のある生命を守り育てるでしょう。

銀杏に倣って、まとわりつくよけいな物を振り捨て、スリムな姿で新しい年を迎えたい
ものです。奇しくも、我が内にさえ宿りたもうイエス・キリストを見つめながら。


へブル人への手紙12章2節
『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい』
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光(キッズ)の風から 冬休みは折り紙ゴジラで
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冬休みに入って、孫たちはいっそう生き生きと、一日中次から次へと遊びを考え出してはエネルギッシュに熱中しています。5歳のMちゃんは小3のS君と互角で遊ぶのです。今日は折り紙で作ったゴジラ(写真をご覧ください)を使ってのゲームです。

10匹ほどのゴジラを並べて、割り箸と輪ゴムで作った鉄砲?で撃って倒すのです。弾は輪ゴムです。リビングの床に並べ、這いつくばってねらいを定めます。距離を遠くするとなかなか命中しません。倒しては並べ、並べては倒して、時間など眼中にありません。見ていると思わず仲間に入って競争したくなりました。結構むずかしいのです。練習して、命中の快感を味わって見ようと思っています。

今、我が家には至るところ折り紙ゴジラでいっぱいです。私の部屋にも侵入してきます。ちょっと見ると、不気味で、ぎょっとします。
さあ、明日はどんな遊びがくり広げられるでしょうか。
遊びすぎて時にママの雷が落ちます。冬休みはまことに賑々しいことです。

光(キッズ)の風から comments(5) -
書林の風から 日野原重明『いのちの言葉』春秋社
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ここ数年、知らない人はいない時代の寵児日野原重明氏の一冊を読み出している。今年95歳であろうか。まだ現役で、若い人も及ばないハードスケジュールをこなしている超巨人である。希有な方である。本著は氏の講演や書物の中から、特別に光る文章を拾い出して出版社が編集したものである。

あとがきのなかで氏が語るに、91歳を迎えるまでに、一般の読者を対象として出版した単行本は73冊を超え、共著、分担執筆、監修、編集の本を含めると235冊にものぼるそうだ。ただただ驚くばかりである。しかも氏は著作家ではなく、本業はお医者さまなのだ。それだけでもどんなにかご多忙であろう。その上に執筆である。その力はどこから生まれてくるのだろうか。ぜひその秘密を知りたい。


本著の目次を掲げます。その中から、日を追って少しづつ、ご紹介していこうと思います。

一部
生きがいを持つこと
愛すること
健やかであること
病と上手につきあうこと
老いを楽しむこと
永遠を想うこと
二部
学ぶこと
未来を志向すること
いとおしみの心を持つこと
心を贈ること
ともに歩むこと

目次をご覧になってどの項目にいちばん興味を持たれましたか。

今日は一つだけ取り上げてみます。目次に従ってまずは『生きがいをもつこと』から


垂線を立てる
『人生を深く生きようとするときに大切なのは、長さよりも質である。長く水平的に生きることは、近代医学の恩恵によってある程度果たせるが、私たちが人間の特権として与えられている宝を、本当の意味で天に積むためには、人生のどこかの時点で、自分の人生に垂線を立てるという考え方のもとに、新しい次元の行動を開始しなければならない』


人間の特権として与えられている宝とは?宝を天に積むとは?垂線立てるとは何を意味し、どうすることなのか?新しい次元の行動とは?そして私は、開始しているだろうか。

一つの思想に触れて、その前でたたずみ、じっと思いめぐらす。これは人間として与えられている特権の一つではないか。

しばらく考えてみることにします。
どなたか口火を切ってくださり、ご意見を書き込んでください。




書林の風から comments(10) -
風の仲間たち ネットお手柄、10年ぶりの再会
クリスマス礼拝になんとYちゃんがやってきたのです!もう、Yちゃんだなんて気安く呼べないりっぱな女性、3人のお子さんのママさんになっていました。とはいえ、私の中ではやっぱりYちゃんなのですが。

Yちゃんは私の幼稚園奉職時代の教え子であり、教会学校教師時代の生徒であり、私の学習塾の生徒であり、親しい友人のお嬢さんでもあります。
成人し、結婚なさり、ご主人の勤務から東京を離れ、次第に交流が疎になってしまいました。年賀状のやりとりがやっとでした。

昨年からブログをするようになったとき、ある日突然コメントをよこしました。ハンドルネームだけですが、ああYちゃんだと直感しました。ネットではこんなことがあるんだと感動しました。ところがまたまたミクシイで再会となりました。メールの交換もはじまり、まことに手軽に旧交を温め合うことになりました。

おせっかいにも、どこか自宅近くの教会へ行きなさいよと促していましたが、まさかまさか、かなりの時間をかけて、就学前の3人のお子さんたちを引き連れて、クリスマスの朝に、かつての教会へ来るなんて、思いもしませんでした。

教会の玄関先でYちゃんを見かけたとき、タイムスリップして幼稚園時代の彼女が立っているような気がしました。大声を上げて駆けより、私たちはしっかりと抱き合いました。
彼女を知る人も大勢いて、Yちゃんじゃないの、Yちゃんよねと、大騒ぎになりました。さらに真ん中の女の子が当時のYちゃんにそっくりで、またまた歓声が上がりました。

Yちゃんとの再会はイエス様のクリスマスプレゼントにちがいありません。こんなにすてきなプレゼントをくださるなんて、イエス様ってなんと粋なお方でしょう。
しみじみと喜びを噛みしめ、熱い涙を流しながら、クリスマスの讃美歌を歌いました。

次の再会がいつになるのか、それは神様以外にはわかりません。人の勢いでできるものではありません。聖霊の神の力強い導きに信頼し、委ねるのみです。

Yちゃんと私を結ぶ絆は、一つは祈り、一つはネットです。祈りは天地創造以来変わらない方法ですが、ネットもまた有益です。一番古いものといちばん新しいものが神の働きのために使われているのです。こんなに楽しいことはありません。


Yちゃん、またいらっしゃいね。遠いけど、近いわ。

『神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいてくださいます』
                      ヤコブ4章8節
季節の風から comments(4) -
風の仲間たち R姉の涙の結晶
クリスマス礼拝で二人の少年が洗礼の恵みに与りました。中学3年生と2年生の兄弟です。洗礼は教会にとっても大きな喜びですが、彼らの受洗はとりわけ感慨深いものがあるのです。二人は四、五歳のころから教会学校にきていました。最初はお父さんが連れてきました。その後はお母さんといっしょでした。

お父さんは日本人ですがお母さんはフィリピンの方です。ほとんど日本語が話せませんでした。お二人ともクリスチャンですが、お父さんは我が教会員ではなく、お母さんは母国でカトリックの信仰を持たれたようです。ご夫婦の母国と信仰の違いからでしょうか、夫婦円満とはいえませんでした。なによりも言葉の壁が厳しく立ちはだかっていました。


お父さんは日本人男性の宿命で、仕事一筋、家庭を顧みるゆとりはないようでした。ご夫婦の溝はますます深くなり、姉妹はいつも泣いていました。心の内を話したくても日本語で十分に表現できません。よく話を聞きましたが、どうがんばっても50%くらいしか真意が伝わってきません。彼女にはもどかしく辛い悲しい日々であったと思います。

いつのころからか息子たちはお母さんと来るようになり、姉妹もすっかり教会に溶けこんで、婦人会では積極的に奉仕をし、時にお国料理などを作っては私たちを楽しませてくださいました。お父さんはぱったりと我が教会には来なくなりました。ご自分の所属教会に通っているとのことでした。

二人の少年はすくすくと成長し、日本語は達者、お母さんをとっくに追い越してしまいました。学業の成績もよく、父親は学校選びや進路には強い力で係わっているようで、今度は息子たちと父親の関係が濃密になり、母親としての彼女の出る幕が少なくなってしまいました。それはたまらなく寂しいことで、ひとりで国に帰ってしまおうとまで思い詰めたようです。


神様は母の涙を見ておられました。母のうめきを聞いておられました。
彼らは今年、キャンプで信仰告白と受洗の決意に導かれ、この秋いっぱい受洗準備クラスでしっかり学びをしてクリスマスの洗礼式に備えました。

洗礼に際して母は息子たちに言ったそうです。お父さんの教会を選んでもいい、お母さんの教会を選んでもいい、自由に自分で決めなさいと。
息子たちは一も二もなく小さい頃から慣れ親しんだ母の教会に属すると公言したそうです。昨日の洗礼式に父親の姿はありませんでした。朝から母親は泣きっぱなし。息子たちの晴れ姿へのうれし泣きと、夫婦そろって喜びの席に座れない寂しさや怒りが涙となったようです。

私は教会の役員として二人の少年に祝辞を述べました。そのとき、今日の主役はもう一人おられます。お母さんのRさんです。姉妹に心からの拍手を送りましょうと添えました。会堂いっぱいに拍手が響き渡りました。拍手は彼女の現状を変えてはくれないでしょうが、少なくとも心の慰めになったのではないかと思います。


私は一つのことを祈っています。子どもたちがそれこそかすがいとなって、このご家庭が祝福にみちたクリスチャンホームになることをです。神様はきっとそうしてくださるでしょう。
『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます』使徒一六章三一節
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日々の風から 一年のクライマックス
クリスチャンにとってクリスマス礼拝は一年のクライマックスです。この日を境に新しい一年に向かって新しい歩みをスタートすることになります。クリスマスが年の最後にあるのは意味が深いと思います。

礼拝のプログラムもスペシャルです。いつもの礼拝にはないものが組み込まれています。我が教会の今日最大のトピックは洗礼式です。礼拝の中で二人の少年が、それも兄弟で受洗しました。中学3年生と中学2年生でした。彼らのことについては後で少し詳しくお話ししたいと思います。母である姉妹が初めから終りまでハンカチを目に当てていたのが強く胸を打ちました。

特別讃美が3つありました。教会学校の幼稚科、小学科の生徒たちが器楽合奏をし、聖歌隊が4部合唱をし、一組のご夫妻がピアノとトロンボーンの演奏をしました。

出席者も多く、久々の方々もこの日ばかりは来会して、神の前にひざまづき、旧交を温めました。10年ぶりの再会もあったりして、感動しました。ずっと気にかけていた方が思いがけなく来られたのには、涙があふれてとまりませんでした。このことも別に書くつもりです。

牧師のメッセージは『let it be』(みこころのままに)でした。
マリヤが神のご計画に従順に従って自分自身を差し出し、イエス・キリストの母となったことが語られました。

さて、今日は24日、クリスマス・イブでもあります。この日は日曜日でなくても、教会は必ず燭火礼拝をします。今年はクリスマス礼拝とイブが重なったので、夜にはまた燭火礼拝があります。文字通キャンドルライトだけにして、みことばと讃美で礼拝を捧げます。なかなかステキな雰囲気です。ふらっとこの時、教会を訪ねる方々もおられます。

私は教会に近くに住んでいますのでいったん帰宅しましたが、遠方の方は朝からずっと教会に居続けます。一年のクライマックスの日ですから、それもいいでしょう。

さあ、そろそろでかけましょう。礼拝の後はティータイムとなり、コーヒーとケーキが振る舞われます。それも楽しみの一つなのです。

ふだんキリスト教に無縁の方も、世界をあげて行われる教会最大の行事に、おいでになりませんか。きっと、あたたかい清々しい思いに満たされることでしょう。世界の平和を祈る思いが生まれるでしょう。


『マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です』マタイ1章21節
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日々の風から 長女とはついに筆談に
長女が喉を痛めてしまいました。過労になると出てくる厳しい症状です。いちばん使う、そして使いたい声が出ないのです。

幼稚園のクリスマス会では、ここ数年お母さんたちのコーラスとハンドベルを指導してきました。最後の数日は連日の練習。これも体に応えたひとつでしょう。それに、本業の教会の諸奉仕。これは当然しなければならないことですが、師走の言葉のように、一般信徒である私たちも走り回るのですから、まして師と名の付く人たちの仕事量はかなりなものでしょう。

クリスマス礼拝の24日までに是が非でもなおさなくてはなりません。一切声を使わず

に、家も外もマスクをつけっぱなし、話も筆談です。子どもたちを呼ぶときは、手をたたいて合図です。娘が辛そうにしているを見るのは、親としてはたまりません。子どもがいくつになっても、親の思いはかわらないのです。どうにもならない情なのです。おかしなものです。



Mちゃんのクリスマス会

Mちゃんの幼稚園最後のクリスマス会は盛大にできました。Mちゃんのマリヤさんはとてもりっぱ。セリフも歌も落ちついて余裕いっぱい、朗々と歌い、堂々と演じました。拍手、拍手。ババばかの独り言ですが。

母親たちは皆ハンカチで目を押さえています。いつもの風景ですが。母ならぬおばばも胸が熱くなります。どの子もどの子も正に天使です。こんなにかわいく、こんなに、かわいがられている子どもたちはなんと幸いでしょう。不幸な境遇の子どもたちが思い出され、大人たちはもっともっと子どもたちを愛し、子どもに真実を尽くさねばと思ったことです


さあ、明日はいよいよクリスマス礼拝と燭火礼拝です。
私の奉仕は、燭火礼拝のあとのティータイムのケーキ作りです。60人分ほどは必要です。
それに、午後と、夕食はささやかなホームクリスマスもはいります。戦闘開始!
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聖書の風から 詩篇を愛して その10
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詩篇第18篇 叫び求めれば、助け出してくださる神

主のしもべダビデによる。主が、彼のすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、この歌のことばを主に歌った。


彼はこう言った
主、わが力。私は、あなたを慕います。
主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。
わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。
よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。
私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。
主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。

主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。
主は、ケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた。

主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた。
主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。

神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
まことに、主のほかにだれが神であろうか。
私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
あなたは私を大またで歩かせます。私のくるぶしはよろけませんでした。

主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。
あがむべきかな。わが救いの神。
それゆえ、主よ。私は、国々の中であなたをほめたたえ、
あなたの御名を、ほめ歌います。


ダビデは旧約聖書中最大の英雄と言っていい。しかしその人生は波瀾万丈であった。平穏なときより危険と苦難のほうが多かったのではないか。百戦百勝の戦士であったが、どんなときもまず神の助けを求めた。危機一髪のところで救われたこともたびたびあった。ダビデはその一つ一つを思い出して神の真実を確かめ、感謝し、証している。

《主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩
わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら》
ダビデをまねて、感動と信仰を持って我が歌として告白するとき、心は燃え、勇み立つ。

《主は、天を押し曲げて降りて来られた》
経験者でなければ表現できない言い方ではないか。

《あなたは私を大またで歩かせます。私のくるぶしはよろけませんでした》
これも実にユニークな表現ではないか。才能で作った歌ではない。神の恵みの体験がダビデを天才的詩人にしたのだと思う。

聖書の風から comments(2) -
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