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2023.08.01 Tuesday
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聖書の風から ヨハネの黙示録 聖書の希望の風 その3
2006年の新年からスタートした【聖書の風から】もいよいよ最終回である。開始するにあたり私は次のような前口上をした。 このカテゴリーは、聖書66巻全巻を1巻ごとに大きく見回し、ワンポイントで私見する、聖書エッセイです。【希望の風】発見の旅でもあります。 回数も57回を数えた。57回とはおかしいではないですか、聖書は新旧合わせて66巻とは子どもでも知っていますよ、と言われるだろう。66に満たないのは、1と2からなっているのは1回にしたり、小預言書はひとまとめにしたり、反対に詩篇などは一つを2回、3回に分けたりした結果である。おりしも最終日の今日は8月31日、月の終り、夏の終りで、区切りがいい。私の気分もいい。達成感というのだろうか。つまらない自己満足だけど、うれしく感謝なのである。 8か月間、バイブルロードをひた走りに走ったと言えば聞こえはいいが、道路規則もマナーも無視して自己流を通したにすぎない。威をただして粛々と歩む方々にはさぞご迷惑だったろう。次のチャンスにはもう少し内容を充実、品格ある聖書旅行をしたいと思っている。 さて、1,2,と書いてきたヨハネの黙示録を締めくくりたい。 全篇22章中、20章までは終わった。残るは最後の2章である。ここは大変分かりやすい。もちろん字面だけであるが。この地上の生を終えて後、導かれる場所、天国の様子が 説明されている。 天国とはどんなところであろうか。 21章3,4節 『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである』 23節 『都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである』 人はどうあっても必ず死ぬ。どんなに健康でも死を免れることはできない。そして人はなぜか死後の世界の有無について論じ続けている。死後が心配だからこそではないか。なぜなら、人に、永遠を思う思いを与えられたのは神だから。 天国の存在を信じることができて幸いだと思う。そこに入れる恵みをいただいていることを大いに喜ぶ。単なる現実逃避ではない。御国ほど慕わしいところはない。最大の理由は、愛する主イエス・キリストに直にお会いできるからである。主とともに永遠に生活できるからである。 主は言われる。22章12節〜14節 『見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。… 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである』 聖書には希望の風が軽やかに、涼やかに、絶え間なくそよいでいる。神の用意してくださった新天新地、天国では、もう希望の風はいらない。希望の風の実体であるイエス・キリストがおられるのだから。 この地上で生かされる限り、希望の風なるお方を慕い求め、風のそよぎを喜び楽しみ、天に帰る日を最大の望みとしたい。 2006.08.31 Thursday 16:48
季節の風から 母の車椅子デビュー
7月1日に体調を崩し、寝たきり状態が続いている母ですが、このところ持ち直しています。車椅子の用意もできたので誘ったら、すなおに承諾してくれました。初めての車椅子姿です。 2006.08.31 Thursday 13:17
季節の風から 夏を生きた草花たち
夏いっぱいミニ花壇を引き立てた草花もそろそろ舞台から去る時が近ずいています。元気なのを摘んで花瓶に移ってもらいました。 2006.08.31 Thursday 09:19
日々の風から 病からの回復を祈る
今朝は午前中から敬愛する恩師M先生の手術が行われます。 昨日は御茶ノ水へ出かけて、学院で有志たちが集まってお祈り会を持ちました。誕生日の健康診断で発見し、その後精密検査で病巣が確実になったとのこと。早期発見なので退院も速やかで、9月月末には学院に出られると、先だってご本人から伺いました。先生はいつもの変わらない穏和な表情に笑みを浮かべて、話してくださいました。それを信じています。それ以上のことを神さまがしてくださると信じていますから、いっそう、お祈りが必要です。 もう一人のS氏のためにも祈りました。彼は同窓生ですが、学院の理事として、よい働きをしてくださっています。学院にとってなくてならない方なのです。このところ急に体調を崩して入院になり、昨日、内臓をいくつか一度に手術なさいました。大きな危険な手術だったようです。 学院の2本の大黒柱に病の嵐が吹き付けています。ぜひぜひ速やかにお元気になり、またともに主を崇めたいと切望しいています。 神さま、どうか、お二人を一度に同じ力でお元気にしてください。それぞれの病床に、同時に癒しの力の満ち満ちた希望の風をそよがせてください。 2006.08.30 Wednesday 07:52
書林の風から ネット『カラマーゾフの兄弟』読破ツアー 旅日記その1
先日来、世界文学の最高峰『カラマーゾフの兄弟』をいっしょに読みませんかと、《読破ツアー》と命名して呼びかけたところ、8名の方が意思表示をなさり、15日にはそれぞれテキストを手に4ヶ月の旅に出発しました。 その成りゆきを観戦しようと思う方も、また、隠れ参加者もおられるのではないかと勝手に想像をたくましくして、折々に旅日記の一部をご紹介していこうと思います。全員が無事に読破できたときは、拍手などいただけたら幸いです。 文庫本4冊は一見するだけではたいした量に思えませんが、本書と好一対にあるトルストイの『戦争と平和』も4冊です。ついでに、『罪と罰』と『アンナ・カレーニナ』は3冊です。他の作家で言えばユーゴーの『レ・ミゼラブル』、ロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』が4冊です。これらが長編と言われる小説群なのでしょう。もっともショーロホフの『静かなドン』は8冊、デュマの『モンテ・クリスト伯』は7冊の超大作です。 さて、メンバーには個人個人に同じフォームの『旅日記』を配布しました(もちろん添付ファイルで)。そこにメモや感想をしたためて、返送してくることになっています。それをツアコンなる私が回覧用旅日記にひとまとめにして、それぞれに送ることにしました。 お互いに知らない同士ですが、書き込まれた文章を通して、なにかしら交流ができるでしょう。なによりも一つ書物を読んでいることが、親しみを生んでくれるでしょう。 最初の質問は、参加の動機と理由です。 若い日に読んだがよく分からなかった、熟年になってどんな読み方ができるか楽しみ。読み出したが途中で挫折した。一人ではとても読む気になれないが、仲間がいるならできそうだ、などなどでした。 ある方のピソードには驚きましたので、紹介します。 『数日前、本箱の中に8年前に買って読まずにしまってあった岩波文庫の「カラマーゾフの兄弟」を見つけました。そして一人じゃ4巻も読めないよなと思い、未練たらたら「燃えるゴミ」の袋に入れたところでした。 ところがブログを見てびっくり。捨てたはずの「カラマーゾフの兄弟」に足首を捕まれた感じでした。皆さんといっしょに読めるなんて、私はなんてラッキーなんでしょう。これがこのツアーに参加する私の動機です』 『旅日記』その1はこのへんで。 2006.08.29 Tuesday 09:36
聖書の風から ヨハネの黙示録 聖書の希望の風 その2
ヨハネは迫害されて地中海の孤島に流されたが、決して失望落胆したわけではなかった。同じように迫害されているアジアの諸教会を励まし、堅く信仰に立つようにと、この手紙を送ったからである。ヨハネの信仰はますます強まり、イエス・キリストへの愛はいっそう高まったのではないだろうか。1章から3章までは7つの教会宛てであるが、私たちの教会へ、いや、私個人に宛てて書かれたように鋭く心に食い込んでくる。説教にもよく引用される有名なみことばがたくさんある。 1章8節 『神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」 2章4,5節 『しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい』 2章10節 『死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう』 3章15節 『あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう』 3章20節 『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする』 ヨハネの黙示録は難しいのだけれど、みことばの一つ一つは旬の食材のように、みずみずしくておいしい。もりもり食べると、健康増進、体力増強まちがいなしである。 4章から20章までは、天上のことやサタンとの戦い、最後の審判など未来のことなので、十分には理解できないが信じて読み進むことにしている。神さまの完全勝利にはハレルヤと賛美の声をあげ、最後の審判では粛然として襟を正される。 21章、最後の22章はやがて導かれるであろう天国のことなので、楽しみつつもう1回書いてみたい。(続く) 2006.08.28 Monday 14:43
日々の風から 8月最後の主日礼拝
夏は暑さのために体力を消耗しますが、真冬の寒い時期より健康を害する人は少ないようです。風邪に冒されたり、インフルエンザに攻撃されたりする危険がないからでしょうか。教会も少しほっとしています。いまのところ重篤の人はなく、感謝です。 子どもたちは教会キャンプや外部のバイブルキャンプに参加して信仰も身体も鍛えられ 勢いづいています。その熱気が教会中に活気をもたらしています。 教会では毎年夏の終りの礼拝で、その体験や恵みを発表します。 今日は3人の中学生たちが長野県のキャンプ場に参加した様子を証してくれました。 家族と離れての3泊4日の団体生活はかなり刺激的です。勉強から解放されるのもうれしいでしょう。日焼けした顔をほころばせながら、しっかり準備した原稿を読み上げてくれました。神さまは彼らの中から明日の教会を背負う人材を育てておられるのだなあと、心強く思いました。 礼拝で開かれた聖書の箇所を掲げます。 ヨハネの福音書13章34〜35節 『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです』 今日もキリストの愛が説かれ、イエス・キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも受けれ合い、ゆるし合い、仕え合っていきましょう。そこに神の祝福あるのですと勧められました。 イエス様があの裏切りのユダの足も、公衆の中で3度もイエスを否定したペテロの足をも洗ったことを思うと、わずかなことにさえわだかまったりしこったりする自分自身が恥ずかしくなります。ぜひ、イエスさまから新しい愛をいただいて、新しくされなければと痛切に反省しました。 2006.08.27 Sunday 21:43
光(キッズたち)の風から 夏休みの子どもたち その6 小さなお客様
涼しい夜風も虫の音も当たり前になって、孫たちの夏休みは5日を残すだけとなりました。あっという間の40日とはよく言ったものです。 我が家の今日のイベントは小さなお客様の来訪です。それも宿泊者です。長女の教会のクリスチャンファミリーから、孫たちの仲良し、Tくんが来るのです。Tくんはこの夏休みを待って手術をしました。先週の教会キャンプには退院できませんでした。そこで我が家でのミニキャンプとなったわけです。まだ幼稚園児のそれも女の子である孫娘も二人の男の子に混じって互角に?遊んでいました。何をしているのかよく分かりませんが、家中に3人の楽しさが満ち満ちているのです。私まで顔がほころび、ウキウキしてくるから不思議です。 私の教会も今日は一日夏休みフェスティバルがあって、朝から午後いっぱい大盛況だったようです。明日の準備に出かけましたら、お泊まりする小学生と教師たちが手製のカレーを食べているところでした。これからお風呂に入って、駐車場で花火をして、ヨセフ物語のビデオをみて就寝とのこと。 我が家も夕食後花火大会となっていましたので、合流することになりました。私も仲間に入って、子どもたちから花火を分けてもらいました。小さくても今の花火は精巧に出来ていて、カラフルな火花を散らして楽しませてくれました。 明日は早くからTくんもいっしょに車に乗り込んで、教会です。そこでご家族と会うことになります。すっかり寝入ったのか物音一つしませんが、夢路では3人ともまださかんに遊んでいるにちがいありません。 ところで宿題は終わったのかしら?よしましょう、よけいな口出しは。そっと見守り、そっとお祈りするのがおばばの役目です。 2006.08.26 Saturday 23:21
聖書の風から ヨハネの黙示録 その1 聖書の希望の風
難解の一言に尽きる黙示録。人間にとっていちばん苦手な未来のことが大半を占めているからであろう。人間は未来を知ることに弱い。いちばんよく知っているはずの自分のことでさえ、明日のことはわからない。いや、今日一日の自分のことがわからない。どんなところで喜び、どんなところで怒り、何を言ってしまうか、何を考えてしまうか、予測が付かない。神さまは何でも与えてくださる気前のよいお方であるが、未来を知る力だけはくださらなかった。 黙示録に記されている未来の預言は、ただ受け入れ、信じればよいのだ。神さまを信頼すれば、ああ、そうですかと受諾できる。黙示録は神さまへの信頼度を養う最良のワークブックだと思う。今ごろようやくそのように思えるようになったのだが。 今は天に凱旋された偉大な伝道者がこう言われた。 「黙示録を読むと祝福されます。1章3節に『この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである』と書いてありますから」と。 その時から黙示録を読む態度が一変した。朗読すると言う一句から、時に黙読ではなく声を出して読んでみる。ゆっくり朗読してみると、天上の光景などの箇所では、自分なりにシーンを描くことができる。そこにこの世では見られない不思議な明るさと、この世では吹くことのない穏やかな希望の風を感じる。これが祝福の一つかと思う。 この書の著者ヨハネは、このときローマ皇帝の迫害に遭い、地中海にあるパトモスという小さな無人島に流されていた。この書は極度の危険と孤独のどん底で生まれた。 1章9節 『『私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた』 2006.08.26 Saturday 09:52
世相の風から 行かなくなった郵便局
海外の友人に書物を送るため、久しぶりで郵便局に行った。そうなのだ、久しぶりと言っていい。ひところは毎日だった。どうして行かなくなったのか、大きな理由がある。郵便物のほとんどをメール便にするようになったからである。ある伝道団体の事務局を引き受けている関係から、書類の発送はほとんど毎日である。書籍の発送もある。私自身の小さな活動も加えると発送は私の大きな日課である。 ひところは気に入った記念切手が出るとわざわざ買い置きしておいて、いざ発送の時は楽しみながら貼ったものだ。メール便を使い出したと き、切手が貼れないのが寂しかった。シールでは味気ないなあ、受け取る方がどう思うかしらと、それが唯一の気がかりだった。しかし安価と便利さには替えられない。B5サイズのニュースレターなどは、少しでも安くにするためには三つ折りにした。その手間もたいへんだった。今はそのままでサイズでしかも80円でいい。まとまれば自宅まで取りに来ていただける。宅配便のお兄さんたちは元気な声で受け答え、手際よく処理し、飛ぶように車へと走る。社員教育もしっかりしていると思える。 今では郵便局の代わりにメール便を扱うコンビニへ日参である。郵便振替で送金や支払いをしていたのもたいていコンビニでもできるようになった。日参の回数は増えるばかりである。 郵便局は閑散としていた。こんな事は今までなかったことだ。雰囲気が昔を感じさせた。なつかしいような気がしてきた。いまではハガキも記念切手もほとんど買わない。出さなくなった。eメールで、家に居ながらにして用を足してしまう。書をしたためるべきところまで、メールで失礼ですがと、断りを言ってすませてしまう。こんなことでいいのだろうかと時々反省するが、あらためて書こうとすると、どんどん時間が経ってしまって、それこそ失礼になる。私が怠惰になったのだろうが。 郵便事業は衰退の道を行っているように思う。これを時代の流れというのではないか。 かつてのような郵便局風景はもうみられないと思うのは私だけだろうか。 2006.08.25 Friday 20:03
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