人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から まことの礼拝とは
4月は30日なのに日曜日が5回あり、第3日曜の16日にイースターもあって、教会はたいへん多忙な一月となりました。今日は礼拝後、教会総会が開かれました。

午前中はいつものとおり礼拝です。スイス人宣教師が今月の主題《礼拝》に沿って【毎日の礼拝】と題してメッセージなさいました。


まとめてみます。
礼拝は日曜日に教会へきてするだけのことではない。イエス・キリスト以前、旧約の時代は民族をあげて毎日毎日多大ないけにえを携えて礼拝をした。神は単にいけにえが欲しかったのではない。愛する民と交わり、いつもともにいることを願ったからである。

イエス・キリスト後の初代教会の時代、信者たちは日曜だけでなくできるだけ多く集まって飲食をともにしながら礼拝をささげた。現代の私たちはこれらの例から多くを学ぶ事ができる。毎日が礼拝であるということである。
イエス・キリストは『霊とまことを持って礼拝しなさい』とその根本姿勢を示された。

礼拝は形だけの問題ではない。そこに霊とまことがなければ神は喜ばれない。人はうわべを見るが神は心を見る、とあるように、イエス・キリストの十字架の贖いによって新生した人にふさわしく生活することである。それが毎日の礼拝である。


メッセージを聞きながらもう一つのみことばを思い出しました。
『あなたがたは食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい』

毎日の生活の中の取るに足りない小さな事が、神を喜ばす礼拝にもなれば、神を悲しませる罪にもなるのです。自分をごまかしたり、言訳をしたりしないで、心して、神さまの御前に真実を現して歩みたいと迫られました。


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日々の風から ブログちょうど5ヶ月
ブロブを初めてから5ヶ月が経ちました。2ヶ月が終わったときに感想を書きました。そのあとの3ヶ月はあっという間でした。怖いもの知らずで、ここまできてしまったなあと、ひそかに冷や汗の時もあります。

今、お二人の親しい友が開いています。娘たちもしています。皆さんのところを一巡するのが楽しい日課となっています。時にコメントを書き、場合によってはメールでのやりとりとなります。年齢のわりには時代に遅れない楽しみ方をしていると、ひそかに得意がっています。

時に、直接お声をかけられます。読んでますよ、毎日読んでますよ、よくやりますね、新しい活動がまたひとつ増えましたね。読んでいると、ほっとします。心が癒されます。キリストの香りが漂ってきます。教会でメッセージを聞いている気分です。事情があって礼拝に行けないので、説教のまとめがとても役に立ちます。などなどと、リアルな感想が聞こえてきて、まったく無駄ではないのだなあと、気をよくしています。

クリスチャンでない方や私の存じ上げない方もたくさん読んでおられます。毎日アクセス数が表示されるのですが、それを見ますとびっくりするほどの数字です。友人だけではこうはならないはずですから。それは、とてもありがたく、貴く、うれしいことです。どんな方が見てくださっているのかを想像すると、スリルとロマンを感じます。

ブログは本来は公開日記の意なのでしょうが、いまではそれに限定されず、手軽な発信手段として使われているようです。私も、それなり思い入れがあって数個のカテゴリーを作っていますが、まだ模索中です。

辛口の娘に言わせると、主題をひとつに絞った方がいいというのです。ごもっともと頷きつつも、欲張りな私は、あれもこれも書きたくて、雑然となっています。
今、もうひとつ発信したいことが出てきて、新しいカテゴリーを設けようかと、思案中です。


そんなわけで《日々新しい》いのちの源であるイエス・キリストの希望の風に押されながら、6ヶ月目のブログ街道に踏み出したいと思います。

『その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である』箴言3章17節
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日々の風から 光の子どもたち
からりと晴れた青空から強い陽射しがふんだんに差しこんで、今日は早くも五月晴れです。季節が初夏に向かってぐんぐんと大きな歩幅で進んでいくのがわかります。
うってつけの日和になって、遠足にいった孫たちもさぞかし楽しくしているだろう思うと顔がほころんで来ます。

人間稼業若葉マークの子どもたちはなんとまぶしいことでしょう。ほんとうに彼らを見ているとキラキラと光り輝いています。この光は一体どこから来るのでしょう。
子どもは邪気がないからとか、素直だからとか、よく言われますが、けっしてそうではありません。子どもだって悪さをしますし、悪知恵もあります。我を張ってけんかもします。親や先生に手を焼かせる子もいます。


それにもかかわらず、なんと子どもたちは美しいのでしょう。もう再び子どもには戻れない大人の郷愁がそう思わせるのでしょうか。そうでもなさそうです。

イエス・キリストの言葉が思い出されます。
『子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れません』
イエス・キリストは子どものどこを指してそう言われたのでしょう。

新緑に跳ね返る陽光の破片と、子どもたちを重ね合わせながら、しばし思いに浸りました。


新緑を渡る風はまさに希望の風、子どもたちがまき散らす風も希望の風です。
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季節の風から 遠足のお菓子
20060428_114518.jpg
まさに遠足日和!朝から爽やかです。
3年生の孫息子は大好物のチキンボールやカボチャの煮物などずっしりと重いお弁当と氷ぎっしりの麦茶の水筒を軽々ともって飛び出して行きました。
お菓子の袋を開けて撮影。これらが今人気のようです。しめて99円とか。
行き先は徒歩30分ほどの荒川べりの親水公園です。
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聖書の風から エゼキエル書 戦渦の中の真理の声 
この書は48章にも及ぶ大書で、エゼキエルはエルサレム陥落前、包囲中、陥落後の長期に渡って預言した。エゼキエルに託された神さまのことばは厳しかった。これらの惨劇の原因は、神を神とも思わず勝手気ままに生きたことへの裁きだと迫るのである。語るエゼキエルも苦しかったであろう。

神様の警告のとおり、バビロンによって都エルサレムは陥落した。生き残った民は遠くバビロンへ強制移住させられた。これが古代史に名高いバビロン捕囚である。祖国敗戦の悲劇に加えて、二重の悲劇ではないだろうか。預言者エゼキエルも捕囚民の一人であった。神さまはそこでも預言活動を命じた。

表面だけを見れば、外国の軍隊が攻めてきて国中が戦場となり、人民は生き死にの淵に追い込まれたわけである。その最中に、これはあなたがたが神様に背いたせいだと詰め寄られたらどうだろう。すなおに反省できる余裕はない。かえって反抗心を増すかもしれない。

しかし、神さまはエゼキエルだけに言わせたのではない。イザヤもエレミヤも悪に気づけよと語り続けた。神さまは救われるチャンスとありったけの愛を示された。逃れの道はあったのだ。

イスラエルの民の経験は即私たちの姿であり、私たちへのメッセージである。繁栄に酔うときも苦難に喘ぐときも、神様はいつも大切な教えを語り続けておられる。いまはどこで真理のメッセージが聞けるのだろう。聞きたいと願う人がどこにいるのだろうか。

やがて、神さまはイスラエルを回復し、新しい神殿が建てられ、まことの礼拝が行われる日が来ると結んでいる。
『主はここにおられる』最後の一節が希望の風の中で光り輝いている。








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日々の風から 母の腰痛
1月に米寿を祝った母は、厳しかった一冬を風邪気味にさえならず乗り越えました。しかし最近とみに、老いの速度とも言うべきものが、毎日毎日接している私にもありありとわかるのです。活動の質と思考力の範囲が急速に縮小しています。

この半月ほどの間に、浴槽への出入りが困難になりました。初めて、妹二人が介助しました。これからの大きな課題です。シルバーカーで近くのスーパーへ出かけるのですが、買い物の品数がめっきり少なくなりました。これが老いると言うことかと、その正体を見た気がしました。

とは言え、定期検診ではどこも異常なしです。血液検査も子どもの私が負けてしまうほどりっぱな数値です。母は神さまから質の高い生命力をいただいていると思います。内外に衰えはあっても、芯にあるいのちの力は強いものがあると、はっとするほど感じることがあります。

その母が腰が痛くてたまらない、病院へ行きたいと言い出しました。
ほんの5分足らずの駅前の医院なのですが、母にとっては長い長い道となりました。付き添って歩きながら、これから先、自分の足で何回行き来できるだろうかと、胸に迫るものがありました。


腰痛は一時的なことでしょうと、医師は軽く言って、痛み止めと貼り薬が処方されただけです。夕方には、少し楽になったと言っていましたから、これに関してはまもなく一件落着となるでしょう。しかし、老いのと戦いに停戦はないでしょう。自分自身の戦いもひっさげて参戦しようと気持ちを引き締めました。

地域の短歌会で長年詠んできた母の歌を整理しているところですが、掲げてみます。

みちすじに たんぽぽぴんと 立ち咲きて
   我も足腰 のばし歩まん   (82歳)

メキシコの 南瓜を食べて チリ産の
   鮭焼く朝よ 我日本人    (83歳)


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聖書の風から エレミヤ書&哀歌 神さまの涙
エレミヤは涙の預言者と呼ばれ、それだけで身近な人に思えてくる。が、彼の涙は個人的な問題から来る感傷ではない。外敵バビロンに滅ぼされる祖国と神の都エルサレムに対する哀悼の涙である。また、どんなに叫んでも訴えても神への反逆を止めない同胞への悲憤である。

エレミヤの涙はすなわち神さまの涙でもある。神さまはご自分の心をエレミヤに託した。エレミヤは神の口となって、神の愛と警告を民に語り続けた。神さまはご自分の民イスラエルがみすみす敵の手中に落ちて辛酸をなめるのを見るに忍びなかった。その行く末を思って涙を流しながら預言者たちに意中を伝えたのだ。

神さまの愛は親が子を思う情愛に似ている。非常に生々しい。熱くはげしい。燃えたぎる釜のような愛である。親の手を振り切って放蕩に走る我が子への涙の絶叫のようだ。

特に31章は神さまの切々たる神の愛の絶唱である。聞いて心の震えない人がいるだろうか。こんなに愛されていいのだろうかと、感激の涙が堰を切る。

『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた』
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日々の風から 同窓会には希望の風が吹く
毎年4月の第4月曜日はO聖書学院の同窓会が行われます。

学院のモットーは《主と教会に仕える》です。主とはイエス・キリスト、あるいは神さまを指します。学院生はたいていここから第二の人生を出発します。女性は子育てが一段落ついたころ、男性は定年を迎えてからです。おのずと学院生の年齢が忍ばれるでしょう。その同窓会ですから、これも年齢が推察できるでしょう。生徒の方が恩師より年上の場合もあります。

同窓生から牧師、宣教師になって第一戦に出て行く方もおられますが、ほとんどの方はそれぞれの所属教会で黙々と奉仕に励んでいます。それこそが学院の目指すところであり、こうして日本のキリスト教会は力強く成長していくのだと信じています。

今日はなつかしい方々と顔を合わせて、珍しいお話も聞いて、心はずむ一日となりました。
同窓生たちにとって、名誉や地位や富などは第二、第三なのですが、周囲が放ってはおかず、皆さんよい立場をいただいて大活躍です。


ある男性はこの春、某教団の信徒理事に選出されました。全国1万人からの教会員の中から推薦されたのです。主と教会に仕える真摯な姿勢が人を見る目のある方々の心を捕らえたのです。一同で喜び合ったことです。

また、一人の女性は、拉致問題で有名な横田めぐみさんの御母様である早紀江さんの親友です。早紀江さんといっしょに全国を講演して巡ったり、祈祷会のリーダー格で大きな働きをしています。マスコミには乗らない横田さんご夫妻の現状などを話されました。

その他の方々も生き生きと神さまと教会に仕えておられ、大いに刺激を受け、元気をいただきました。0学院と同窓の皆様を誇らしく思ったとき、幸せ感に満たされ、希望の風が美しく吹きゆくのを感じました。







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風の仲間たち 彼女はアダルトチルドレン その2
W子さんの話を、私はただじっと聞くだけですが、時に鋭い質問があり、答えなければなりません。その時はたいへんな緊張です。専門家ではないにしても、信頼して私の意見を求めているのがわかります。心ない一言でさらに傷を深くしてしまったらどうしようと思うと身の縮む思いです。もしもおざなりの決まり切った適当な意見だったら見抜かれてしまうでしょう。そして彼女は悲しく心の扉を閉めてしまうでしょう。

しかし未経験で知識もない私が、彼女の苦しみを共感し、共有して、彼女の心を満足させる話をするのは到底不可能です。祈りつつ、祈りつつ、必死で言葉を探すのです。

それでも、神様に助けられて、糸のような細い交わりが続いていきました。症状が落ちついて退院したかと思うとまた入院し、何年も過ぎていきました。

やがて、イエス・キリストの信仰に立って、自分を苦しめた父や母を赦すことができ、ようやく実家に帰り、老人施設のボランティアができるようになったと思ったら、身体に故障が出て、今度は一般病院に入院となってしまいました。そうなると心の方もまたまた悪化し連絡が取れなくなってしまいました。

半年ほど前から独立して一人暮らしを始め、自分の教会へ通うこともできるようになったと手紙が来ました。そして、再会となりました。

彼女の今の悩みは、思うように働けない自分のことでした。苦しみの中から見つけたことは、かつての自分のように病んでいる人の友となり、助けになりたい、そうして、神さまに仕えていきたいと願っているのです。

不思議なことに、すでに彼女の周りには不幸な経験をした方がちらほらと現れ、新しい働きが始まっているのです。そこで彼女は言います。身体的にも能力的にも自分は弱すぎる、たいした働きはできない、そこに葛藤があると

どこまでも真面目で、気を抜くことができないW子さんはけなげで可憐です。私はほほえましく眺めました。ここまで立ち直った彼女に安心し、かつての緊張を解いて、自然体の私で大いに語り合うことができました。

近い日の再会を願いつつ、別れました。背伸びしないで進んでほしい、むしろ弱さを誇って、キリストとともにゆっくりと歩んでほしいと祈ったことです。(終り)











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セレブレーション(祝賀会、式典)としての礼拝
今日の礼拝説教をまとめてみます。詩篇96篇

クリスチャンたちが毎週日曜日、いそいそと教会に行くのは、ちょうど大きな祝賀会、記念の式典に列席するようなものです。罪にまみれ、滅ぶほかなかった闇の中から、イエス・キリストの十字架の愛によって救われた現在を感謝して、その救い主を誉め讃えるために、同じ仲間が集まって祝賀会をすることです。聖なる光の中におられる神さまを、こちらも威をただして、心身に礼服を着て、出ることです。外見的な服装についてはまったく自由ですが、晴れ着ではないまでも、多少の気配りは欠かせません。
それよりももっと大切なのは心持ちです。心にも聖なる衣服を着込んで、光り輝く神の前にひれ伏すことです。

考えてみますと、祝賀会とか式典と聞きますとまず会場が浮かびます。
きらびやかなあるいは荘厳な場所、教会ならば西欧のカトリックの教会などです。ところがプロテスタントの教会は人の宗教心をかき立てるような装飾はあまり見られません。私たちの教会などは、かつて、軽作業の工場でした。ビルの一室を会堂としている教会もありますし、牧師家庭の一室を集会の場にしているところもあるほどです。

そんな状況下で光り輝く神を思い描いてひれ伏すためには、ひとえにこちら側の信仰が問われます。神への感謝を基調とした、こちら側の姿勢です。

いみじくもイエス様は『神は霊であるから、あなた方も霊とまことを持って礼拝すべきです』と、礼拝に対する巨大な指針を与えてくださいました

環境や状況がどうであろうとも、霊とまことをもって礼拝をささげたいと思いました。
病床が礼拝の場である人もおられるでしょう。その他、心ならずも不遇な場におられる方々はそこがセレブレーションです。心に聖なる衣をつけて主の前にひれ伏してください。

『人は顔かたちを見るが、主は心を見る』
『神の受け入れられるいけにえ(礼拝)は、悔いし砕かれた魂である』








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