人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の風から 年度末の一日
3月31日は12月31日大晦日ほどではありませんが、一年の中でも大きな節目の時ではないでしょうか。年度の最後の日とともに、2006年がすでに4分の1過ぎたことにも感慨があります。
 
おりしも、今日参加したキリスト教文章の書き手たちの集いで、会のリーダーである牧師が『数に惑わされるな』と題して短いメッセージをしてくださいました。

聖書には数を数えて神さまに叱られた人や、数えてみよと勧められるケースがあることを引用して、数の過多に捕らわれすぎてはいけないこと、数の多いのを誇ってはならないこと、数を支配する神さまの恵みに感謝すべきことが語られました。
 
 年度末にふさわしい詩篇を思い出しました。この詩は節目の時によく読まれますが、幸福感がダウンしたときや、おもわぬ逆風にたじろぐとき、希望と力を与えてくれる栄養剤のような効果を発揮してくれます。愛唱の詩篇です。

詩篇103篇から
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。


主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、わしのように、新しくなる。


主のよくしてくださったことをひとつひとつ数えて感謝し、新しい年度へと、希望の風に乗って前進したいと祈り求めます。

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季節の風から 咲いた!咲いた!チューリップのはなが!
20060331_99312.jpg
ついに咲きました!一番がこの白です。厳しい冬によくぞ耐えました。生命力に感動します。いのちを造られた神様に感謝します。
赤も咲きそうです。
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日々の風から 大江健三郎氏とすれ違った知人
桜が満開なのに今日の寒さは真冬並みです。
係わっている群れの会合に出席しました。

フリートークの時、尊敬するトップの師が私に向かって、道で大江健三郎さんとすれ違いました
大江氏は自転車を押して、光さんと並んで歩いておられました。

ちょうど昨日、レター『希望の風』が届いて、大江さんの記事を読んだばかりだったので、そのタイミングのよさにびっくりし、感動しました。光さんは大きな方ですね、大江さんはすばらしいお顔をしておられます、と話されました。

それからなお、レターの記事の感想などを述べられ、最後に大江さんがあんなに聖書を読んでおられるとは知りませんでしたと、とても感心しておられました。

お聞きして、胸の中に優しい春風が舞い込んできたようで、たいへんうれしくなりました。

作品の中では、大江さんがどんなに光さんを愛して、一心同体のように生きてこられたか、よくわかるけれど、実際もそうなのだと知って、本とはちがった新鮮な感動に包まれました。
私の中で大江さんが一回り大きくなりました。
事実の重みというのでしょうか。


大江氏の作品にもう少し近づいていこうと、思いを新たにしたことです。
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世相の風から  二極化に思う。経済のこと。
今、日本はあらゆる分野で二極化が進んでいると言われる。それを象徴するのが勝ち組、負け組と言う分け方だろう。

まずは経済格差が問題視されている。
お金持ちと貧しい人なんていつの時代にもいたはずだ、それを今更言うのはどうだろうかと単純に考えた。

ところが、さきごろ富裕層という耳慣れない言葉にびっくりした。従来のお金持ちもそうだが、バブル崩壊の瓦礫の下から生まれ出た新しいお金持ちらしい。それも層などと、早くも一階級をなしているらしい。その人たちをターゲットにした新しいビジネスもどしどし生まれているらしい。

そーか、それで銀座にあんなに世界のブランド店が目白押しなのか…。

そうしたお店にはうっかり入れない。ガードマンが入り口をふさぐようにいかめしく立っている。まるで入るなと言っているようだ。

あるとき、みんなで行けば怖くないと、数人の友人たちと近づいてみた。店員たちは一目で本気のお客ではないと看破したのか、冷ややかにほほえむだけ。年の甲で悠然と一通り見学?して回ったが、度々来るところではないと実感した。

私はデフレがなつかしい。まだまだ脱却してはいないらしいが。日常品が安いのは大助かりである。暮らしやすいはないか。しかし多くの方々がデフレのために苦しんでいるのなら、考えを変えないといけないのだろう。

二極化による格差については、他の現象についても考えてみたい。










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聖書の風から 箴言・良薬は心に苦し
このカテゴリーは、聖書66巻全巻を1巻ごとに大きく見回し、ワンポイントで私見する、聖書エッセイです。【希望の風】発見の旅でもあります。

箴言・知者の金言集

著者のソロモンはイスラエルきっての名君ダビデ王の愛息である。父親だけでなく神さまにも愛され、父の位を継いで王となった。世にも幸運な人である。富も名声もほしいままにした。そのうえ神さまは彼にたぐいまれな知恵を与えた。

その彼が、豊富な人生経験と知恵による悟りから、蜜のように練り上げたのが箴言である。ただし甘くはない。どこを取って読んでも心打たれ、心にしみるが、時に苦いのである。辛いのである。苦さと辛さが心を健康にする。毎日少しづつ摂取するべきなのだろう。

箴言は解説する書ではない。直接読むものである。詩篇と同じように。

読むたびに傍線を引きたくなる句を紹介します。

1章7節
主を恐れることは知識の初めである。
愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。


2章4節〜6節
神と人との前に好意を聡明を得よ。
心を尽くして主に拠り頼め。
自分の悟りに頼るな。
あなたの行くところどこにおいても主を認めよ。


15章17節
野菜を食べて愛し合うのは
肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。


16章18節
高ぶりは破滅に先立ち
心の高慢は倒れに先立つ。


16章24節
親切な言葉は蜂蜜、
たましいに甘く、骨を健やかにする。
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書林の風から 『数学者の休憩時間』 その2
藤原正彦氏はあの『流れる星は生きている』の、3歳の少年だったのである。

よくもまあ、無事に成長したものだ、しかも数学者とは…。
小さい頃をよく知っている甥っ子や友人の息子さんの晴れ姿をみるような気がした。実際は終戦の時3歳だから現在63,4歳の初老氏であるのだが

数学者が書くのだから、エッセイとは言っても難しい語彙や理屈が累々と並んでいるのではないかと思いきや、すべては杞憂だった
歯切れのよいセンテンス、やさしい語句、そうか、そうだと声に出して頷いてしまうほど、頭にも心にもすっと入る文章である。


非常に興味深く読んだ箇所を挙げてみる。

数学教育の大目標は、数学的処理技術と論理的思考(筋道を立てて物事を考える)の育成の2つである。しかし数学を勉強しても必ずしも論理的思考に長けることにはならない。その例がいくつか紹介されている。
また、数学の論理と世の中の論理はもともとなじまず、必ずしも結びつかない。だから、数学を学んでも論理的思考を育てるという目標通りにはならない。

その代わりに目指すものがある。
その1は、「数感覚の育成」である。四則計算は、小学校のうちに、有無を言わさず強制的にたたき込むのが最善と思う。数感覚は徹底した計算練習により自然に培われるもので、計算器のキーを叩くことでは望めない。
なるほど、なるほどと思う。
その2は、「考える喜び」を育てる。数学の問題を長い時間考え苦心惨憺の末やっと溶けたときの喜びはだれでも経験したことがあると思う。数学はこの喜びを教える格好の科目である。
そう言われれば思い出す、難問を解いたときの快感を。

その3は、「数学美への感受性」である。
数学は美しい。この美しさに感動するのは、音楽や絵画に美しさに感動するのと同じだと思う。数学の美しさは芸術的側面である。この感動を多くの人に味わってもらいたい。
これも納得である。1+1=2の美しさは私でも感動する。

氏の説は、数学者だからこ
その独自性があるかもしれないが、学問を小さな枠に閉じこめないで、日常の領域にまで引き寄せ、そこから広げ、発展、適用、応用させる自由自在さ、柔軟さが魅力的である。氏は生きた数学者であり、学問を生かしていると思う。


この正彦氏の近著『国家の品格』は今、ホットなベストセラーだそうだ。乗ついでと言っては申し訳ないが、読まないではいられない。今、机上にある。(終り)














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書林の風から 数学者の休憩時間           (藤原正彦 新潮文庫)その1 
ある時期、イギリスものを集中して読んでいた。それも日本人がものした一種の紀行文が楽しかった。

その道すがらで『はるかなるケンブリッジ』に惹かれた。タイトルにロマンを感じたのだ。

だが、著者が数学者だと知るとためらいがあった。数学がどうしても好きになれなかった若き日の苦い記憶のせいであろう。だがイギリスもの読みたさが偏見を押しのけた。
その結果、楽しく楽しく読んだ。続いておいしいものに手を伸ばすようにして『若き数学者のアメリカ』も読んだ。

この間、何よりも驚いたのは、著者があの『流れる星は生きている』の藤原ていさんのご次男だったことである。
正彦氏はさておき、『流れる…』くらい大きな衝撃を受けた本はない。


ていさんが5歳を頭に3歳と生後1ヶ月の赤ん坊の3人を連れて、満州から日本に引揚げてくるまでの死闘の体験記である。大きな波紋を呼んだ書物である。読後、よく人に勧めた。娘たちには再三勧めた。自分の現在地点を明確に認識させてくれる心の磁石のような書物だと思う。モットモット読まれていい本である。(続く)
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日々の風から 小さなお客さま
昨日から我が家には小さなお客様が滞在しています。といっても夕方には迎えに来られたご両親と帰っていきましたので、わずか1泊の逗留でしたが。

お客様は4月から5年生になる少年です。昨夕、教会の奉仕を終えて帰宅する長女ファミリーの車に同乗してきました。彼は、娘家族が通う教会で信仰生活に励むクリスチャンホームの師弟です。

ちょうど春休みなので、日頃教会を我が家のように、実のきょうだいのように親しくしているあそび仲間がくることになりました。

教会には親といっしょにくるたくさんの子どもたちがいます。親たちも親類以上の深いおつきあいをしていますが、子どもたちもそうです。教会は巨大な家族、家庭なのです。

小さなお客様はずっしりと重いリュックを背に、これ以上できないような笑顔で入ってきました。早速お風呂に入り、パジャマに着替えて、3年になる孫息子、5歳の孫娘とお団子のようにくっついて興じていました。

そして今日も一日中、一瞬も休みなく、せっせと、いそがしく、まめまめしく、つぎからつぎへと多種多様な活動を続けたようです。

お昼は近くの公園へお弁当を持って出かけていきました。所用で参加できなかったのは非常に残念でした。

子どもたちは確かにきらきらと光を放っています。大人がどこかに置き忘れた、いちばん大切な神の国の光を持っています

その光の間を、希望の風が行き来しています。子どもたちのそばで、光を見、風を感じるのは、最高にうれしいときです。
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日々の風から 賛美の練習
礼拝後はかねてから集中練習している賛美の特訓をしました。

私たちの教会では常設の聖歌隊はありませんが、特別行事のたびにそれを目がけて参加者を募って練習を重ねます。行事の最たるものはクリスマスとイースター。今回は4月16日のイースター礼拝でうたう予定です。

私は全くの素人ですが賛美は大好きですから、必ずメンバーに加わります。譜面を読んですぐを出せる技術はありませんので、高音はきれいに出せないのですがソプラノです。メロディーならじき覚えられるからです。今回もソプラノで挑戦です。4部合唱ですから他のパートの方々はかなりたいへんです。

今回の歌は『主のよみがえり』です。イエス・キリストが死からよみがえったことを喜び祝う歌です。

歌っていると体の芯から喜びが湧き上がってきます。豊かないのちの漲りを感じます。体の疲れも、心のもやもやも雲散霧消して、すきっとした心身になれるのは賛美の持つ効用でしょう。説教を聞いたのとおなじように、霊の躍動も体験します。

神さまは賛美の中にもおられると聖書は言っています。
讃美歌を漏れ聞いて、教会へ来るようになり、クリスチャンになった方は多いと聞きます。

通りがかりの人が心を揺さぶられるような、信仰にあふれた賛美ができたらと、そんな祈りもささげています。


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日々の風から 霊と体の飲食
ようやく春全開の3月最終の日曜日、何はともあれ、背筋を伸ばして教会へ向かいました。
説教題は『過ぎ越しの食事』。説教者はスイス人宣教師です。

説教をまとめます。
食べることはなんと言っても生活の中心を占める。男性は食べるために一生をかけ、女性は食事作りに多くの時間を費やす。
イエス・キリストは十字架にかかる前夜、地上最後の時を愛する弟子たちと食事をして過ごした。有名な最後の晩餐である。イエスは食事をしながら、弟子たちと深い交わりの中で、晩餐の持つ霊的な意味を教えた。

最後の晩餐はイスラエル民族にとって最大の祭り《過ぎ越し》の食事である。民がエジプトから救い出された日のしるしとして、厳粛に守り、祝われてきた。
イエス・キリストはこの食事が、新しい救いを意味するものであり、十字架にかかる自分こそ、食事の中心である小羊の肉であると話した。

人が、毎日の食事をとらなければ生きていけないように、イエス・キリストの流された血と裂かれた肉とを食べなければ霊的いのちは死んでしまう。
日々イエス・キリストの血と肉を食して、魂の渇きを癒し、永遠の命をいただいて生き生きと生きようではないか。

とかく真理は、物々しい雰囲気の場で、難しい言語を用いて威圧的に語られがちですが、イエス・キリストは、もっとも教えたい魂の救いについての難しい?真理を、その真理からいちばんかけ離れていると思われる飲み食いの席上で、飲み食いを例に挙げて教えました。これは並々ならぬことで、人間業でない知恵だと思います。

イエス・キリストは魂い救い主であることはもちろんですが、二人といない名教育者だと思います。

その彼が、極めつけの真理を「人が生きるのは、パンだけによるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる」と、飢えと空腹の極限の場で言い切ったのは、これまた忘れてはならない教えだと、思い出しました。

今週も、過ぎ越し(救い)の小羊となられたイエス・キリストを丸ごと飲み、食べて、霊肉ともに増強され、今ある小さな日常を全力で愛し感謝して送りたいと祈りました。
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